No one is looking at you

 現行の法制度では患者やその家族の同意なしに記憶を抽出することは禁じられている。しかしそれは何らかの有益な情報、例えば幸福な体験とか特殊な技能とか、そういったものを守るために定められた法だ。本来消去されるはずの精神異常者の妄想を抽出したところで誰にも咎められはしないだろう。万が一ばれたとしても、研究のためだとかいくらでも言い逃れはできる。とにかくこれで材料は揃ったわけだ。


 記憶の植え付け自体は難しい作業ではない。問題となるのは植え付ける記憶の質だ。これがちゃんとしていないと粗悪な電子ドラッグを使った時のように何らかの後遺症が残る恐れがある。私はまず、天使という存在について調べることから始めた。

 現代でも宗教というのは確かな影響力を持ち続けているが、天使などという非科学的な存在が実在していると考えている人間はほとんどいない。リアリティのある天使の記憶を創るためには神話やフィクションに頼らざるを得なかった。エセ天使の矛盾だらけのいい加減な記憶を元に、少しずつ丁寧に手直しを加えていく。清廉で、純真で、気品と慈愛に満ちた完璧な存在。それが私の求める理想の天使だった。

 その作業は今までのどの仕事よりもやりがいのあるもので、私は診察や治療の合間を縫って天使創りに没頭した。それは医師というよりは芸術家の領分に属する仕事だった。どうすればもっと美しくなるのか、それだけを考える日々が幾日も続き、そしてようやくある程度の原型が見えてきた。

 私の創る天使は聖書などの原典に忠実である必要はない。私は宗教家ではないし、そういった部分に正当性を求めるつもりはないからだ。またそういったものは現代とは価値観が違い過ぎて、かえってリアリティを損なう恐れがある。私が創りたいのは生きた天使なのだ。生きていくためには食事や排せつだって必要だし、ある程度は現実に適応してもらう必要がある。もう一つ重要なのは、女性としての性自認を持たせることだ。あの少女は美しく、それゆえに天使となるに相応しい。無性的な超越者ではなく、そっと人々に寄り添う女神としての側面も必要だった。その点ではエセ天使とは性自認が異なるので、修正にはかなりの労力を割かなくてはならなかった。

 大まかな方向性が定まった後は、作業の能率もかなり上がって来ていた。私の天使は確実に完成に近づきつつある。しかしそのためには乗り越えなければならない大きな課題が存在していた。それは記憶の量の問題だ。元となるエセ天使の記憶はせいぜい一年程度の長さしかない。いくらかごまかしはきくとしても、彼女のこれまでの生涯を全て補うには到底足りなかった。私の手でゼロから記憶を創ることも不可能ではないが、それには今までの作業の何倍もの時間がかかるため、現実的な解決策とは言えない。そこで私は「神」の力に頼ることにした。

 天使の聖性を支えているのはまさに神だ。それは原初にして至高の存在であり、決して揺るがぬアイデンティティの拠り所となる。そして人はしばしば「始まり」に対して神聖で不可侵な理想郷を見出す。彼女の記憶を全て捏造することはできない。だから私は彼女の「始まり」に神を創り、それを精神の骨格とすることで記憶の安定を図った。

 方法自体は今までと大差はない。過去の記録映像から神話を題材にした古い映画のワンシーンを切り取ってくる。そのデータを修正して「神の記憶」としてそれらしく加工したのち、彼女の記憶の一番古い場所、始まりの記憶として植え付ける。しかしこの説教めいた映画のなんとくだらないことか。数百年前の作品だから仕方がないとはいえ、まったくもって見るに堪えない。これなら自分で適当な映像を作った方がマシかもしれない、と思った時、画面の向こうから声が聞こえた。

「神は全てを見ている。いずれ裁きは下されるであろう」

 私は思わず吹き出してしまった。そのセリフはまさに誇大妄想患者の妄言としか思えなかったからだ。自分より優れた何かが、圧倒的な力によってこの世の悪を正してくれる。なんと無責任で都合のいい解釈だろう。馬鹿馬鹿しすぎて逆にその表現が気に入ってしまったので、そのシーンを彼女の記憶として採用することにした。あまり美しくはないかもしれないが、作品の中に一つくらいはこういう遊び心があってもいいだろう。こうして彼女を天使にするための偽りの記憶は完成した。


 記憶を失った少女は未だ眠り続けている。彼女はまっさらなキャンバスだ。そこに描かれるのはこの世で最も美しい天使の肖像でなければならない。作業を進めようとする手が震えているのがわかった。期待と興奮、そしてわずかな迷い。ここまで来てもまだ私は自分のしようとしていることを全肯定できないでいた。何を恐れているのかは自分でもよくわからない。

 だが今更後戻りする気にはなれなかった。例え私の行いが許されざる悪だったとしても、生み出されるのはまごうことなき本物の天使だ。それは彼女にとって不幸なことだろうか。それを望むのは人間として間違ったことだろうか。否、そんなはずはない。記憶すらもはや生きていくための道具にすぎない。不都合のあるもの、欠陥のあるものを捨てて、新しいものに取り換えるのは当たり前だ。そしてどうせ取り換えるのなら、最上の品質のものを望むのも至極当然のことだ。

 自我を殺された憐れな少女は、今まさに万物に遍く救いをもたらす天使として蘇るのだ。私は装置を起動し、彼女への処置を開始した。


  充足感と体の弾むような期待。こんな気分になったのはいったいいつぶりだろうか。だがまだ手放しで喜ぶわけにはいかない。今までにこれほど大規模な記憶の編集を行ったことはない。植え付けた記憶がうまく定着するか、それは目覚めた彼女と実際に話してみるまでわからない。そこでふと、あることに思い至る。

 彼女は全ての記憶を失っている。当然自分の名前だって憶えていないだろう。天使としての記憶を創ることに熱中するあまり、そういった小事にまで気が回っていなかった。さて、どんな名前がいいだろうか。あまり気取った名前にしてもしょうがない。あのエセ天使のように上辺だけ取り繕ったところで滑稽なだけだ。彼女はそんなものに頼らずとも、自らの揺るがぬ信仰によって充分に天使足り得る。

 ——イヴ。それにしよう。きっとシンプルな方がいい。自分が彼女にそう呼びかける瞬間を想像すると、自然と笑みがこぼれた。

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