Abide the desires no one can stop

  彼女への処置がひと段落して私はコーヒーを淹れなおす。そう、これで良かったのだ。彼女が再び人生を歩むことができるなら、誰も文句は言わないだろう。しかしかなり時間をかけてしまったためスケジュールが押している。コーヒーブレイクがすんだらすぐに次の患者を診なければならない。彼女のことはいったん後回しにして、私はその患者のカルテに目を通す。

 どうやら典型的な誇大妄想患者のようだった。直接会って話してみないと詳しいことはわからないが、自分のことを天界から現世に降臨した天使だと主張しているらしい。依頼者は患者の母親で、これ以上自分が老いる前にどうにか息子に真っ当に働いて欲しい、ということだった。まったくもって馬鹿げた話だ。この患者はあの少女とは違い、ただ現実から目を背けているに過ぎない。うちの患者の大半はこんな輩ばかりだ。しかしそのお陰で私が儲かっているのもまた事実ではある。とりあえず話だけは聞いてやって、後はさっさと記憶を書き換えてしまおう。私はコーヒーを飲み干して部屋を後にした。


「それではお名前をどうぞ」

「ガブリエルです」

「ガブリエルさん、ですね。おいくつですか?」

「一万二千百十八歳」

「なるほど。今日はどうしてここに来たか、わかりますか?」

「健康診断だと聞いています」

「そうですね。何かお体の不調などはありますか?」

 するとガブリエルは声を潜めて、私に囁きかける。

「実は最近、急に目まいがすることがあるんです」

「ほう、それはどういう時ですか?」

「大抵は食事の後です。いつも私の同居人の女性が作ってくれます。今日も同伴している、あの人です」

「ああ、あの方ですね。先ほどお会いしました」

 それはこの患者の母親である。既に彼女からは患者の記憶処理への承諾を得ている。

「実は……彼女が密かに私の食事に毒を盛っているのです」

「ほう、毒を」

「調べても検出はされないでしょう。天使を殺すための、魔女の血を使った特別な毒なのです」

「それは大変ですね」

「そう、大変なんです!」

 ガブリエルは気を良くしたのか、急に声を張り上げる。

「このままでは私はあの女に殺されてしまう! あいつは悪魔の僕なのです、私を憎んでいるのです! 先生、どうか助けてください!」

 それはあながち間違いではないかもしれないな、と私は心の中で苦笑する。実際、患者の行動を抑制するために睡眠薬くらいは食事に混ぜていてもおかしくはない。だが私にとっては関係のないことだ。

「では今から体内の毒を取り除く手術をします。こちらへどうぞ」

 ガブリエルは言われるがまま処置室へ入り、寝台に横になる。私は彼の額に素早くペンの先を当てスイッチを入れる。このペンには特殊な信号を発して脳に作用し人間を昏倒させる装置が内蔵してある。数秒で意識を失った彼を拘束し、頭部に装置を被せる。後はこのエセ天使の記憶を編集するだけだ。


 極度の自己陶酔と強い被害妄想、おそらく外的なストレスへの防衛反応だろう。そうであれば対処療法的な処置で問題はない。発症以降の記憶を消去して、適当に代わりの記憶を植え付ければいい。後は彼自身の脳が勝手に辻褄を合わせてくれる。再発の可能性はゼロではないが、その時はまた記憶を書き換えてやればいいだけの話だ。こういう時、患者に植え付ける代わりの記憶はだいたいが他人から抽出した記憶をいくらか修正したものを使う。原理としては電子ドラッグと同じだが、本来ならこれが正しい使い方なのだ。正常な人間から取り出した真っ当な人生の記憶が、彼らを狂気の世界から現実へと導いてくれる。

 先ほど記憶を消した彼女にも、後で同様の処置をしなければいけない。ゼロから全ての記憶を創り出すのは現実的に不可能だからだ。しかしいったいどんな記憶を植え付ければいいものか。この患者と違って彼女には人格の基盤となる記憶が一切ない。他人の記憶を移植すれば、その記憶の持ち主のコピーになってしまうだけだ。言語アーカイブと最低限の一般常識だけをインストールさせて、後は彼女の自主性に任せるという手もあるが、過去も身寄りも持たない人間が果たして真っ当に育ってくれるだろうか。人間が安定した精神状態を保つためには確固たるアイデンティティが必要だ。私にはそれを彼女に与える責任があった。

 決して揺らぐことのない強固な精神の柱。代表的なのは宗教や思想だ。そういう意味ではこの患者が天使を騙ったことにもいくらかの合理性が見いだせる。自らが本物の天使だと信じていれば、それに勝るアイデンティティはない。宗教と妄想は紙一重だ。その違いは多数の人間によって支持されているかどうか、つまり信奉者の数の差だけだ。そこまで考えて、ふと私はある仮定に思い至る。


 ——もし彼女に、自分が天使なのだと信じ込ませることができたら。


 それは技術的にも、そして状況的にも不可能ではない。彼女は全ての記憶を失っているし、今私の目の前には自分のことを天使だと信じている人間の記憶がある。このエセ天使の記憶を抽出して細部に修正を施していけば、架空の天使の記憶を創り出すことができる。普通の人間では既存の記憶との差異がありすぎて、例え移植したとしても精神の均衡が保てないだろう。だが彼女の場合は移植された偽の記憶を妨げるものは何もない。そうなれば彼女は本物の天使と呼べるのではないか?

 天使としての記憶を持ち、自らのことを天使だと信じて疑わない、天使のように美しい存在。それを天使ではないと否定することが誰にできるだろうか。信じることで妄想が宗教に変わるのであれば、完全な信仰を持った彼女は人から天使へと生まれ変わることができるはずだ。

 あくまで仮定にすぎない。だが私は今まで多くの人間がそうやって生まれ変わるのを目の当たりにしてきた。記憶はいとも容易く人間を支配する。あの儚く美しい少女に新たに与える人生として、これほど相応しいものはないように思えた。天使となった彼女は私にどんな風に語りかけるのだろう。どんな言葉を紡ぎ、どんな夢を描くのだろう。人間としての欲望と科学者としての野心が融和した時、私の中に確かな意志が芽生えた。


 私はエセ天使の記憶を抽出し、代わりに同年代の成人男性の記憶をベースに彼を勤勉な働き者へと書き換えることにした。

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