天使の告解

鍵崎佐吉

Just throw everything away

 その少女は酷い状態だった。年齢は十代後半ほど、華奢な体に色白の肌、短めに整えられた薄茶色の髪と水色の瞳がどこか儚げな雰囲気を醸し出している。まず美少女と言っていい容姿を持っていた。問題は彼女の精神面だ。

 こちらのあらゆる呼びかけに応じず、自分からは呼吸以外の動作を何一つしようとしなかった。まさに廃人と言って差し支えないだろう。今まで多くの患者を診てきたが、ここまで酷い症状は初めてだった。


 彼女は知り合いの医師が「自分では手に負えない」というので、うちで見ることになったのだが、確かに相当厄介な患者であることは確かだった。彼女は今から数か月前、ある反社会的勢力のアジトを摘発した際に保護されたらしい。構成員の一人ではなく、彼らの奴隷としてそこに囚われていたのだ。発見された時から既にこのような状態で、まともに会話もできないため身元もはっきりしない。通常のカウンセリングでは手の施しようがなかっただろう。だから私の元へ連れて来られた、ということだ。

 ここでは最先端科学を用いた先進的な精神治療を受けることができる。それは「記憶の編集と改竄かいざん」だ。記憶はすなわち精神の基盤であり、それを操作することはその人間の人格を書き換えることにもなる。倫理的な批判もないわけではないが、治療の見込みのない狂人をそのまま生かしておくよりはマシだろう、というのが世間の総意だ。人間の精神疾患のうち、器質的な要因によるものでない症状は全て完璧に治療することができる。その方法自体はかなり単純だ。

 患者の記憶の中で疾患の原因となったであろうものを消去し、代わりに患者にとって都合のいい記憶を現実との齟齬が出ない程度に植え付ける。こうすることで患者は別人として生まれ変わり、正常で健康な新たな人生を歩むことができる。私は記憶編集の専門家として幾人もの狂人を更生させてきたし、この仕事に誇りを持っていた。だからこの厄介な患者も受け入れることにしたのだ。


 寝台に寝かせた彼女の頭部にヘルメット型の装置を装着させる。一応体は拘束しているが彼女は身じろぎ一つせずただ虚空を見つめている。普通はまず患者とある程度コミュニケーションを取って疾患の原因を探るところから始めるのだが、今回はそういったアプローチは取れない。少々骨の折れる作業ではあるが、彼女の記憶を閲覧して発症の原因となった過去を特定しなければならない。私は別室に移動して装置を起動する。三十分ほどで彼女の記憶が様々な形のデータとしてデバイス上に表示されることだろう。私はお気に入りの曲を流し、コーヒーを飲みながらその時を待つことにする。だが記憶の解析には想定の倍の時間がかかった。そして私は表示された結果を見て愕然とした。

 彼女の記憶は混沌そのものだった。時系列もぐちゃぐちゃで、内容もほとんどが理解不能だ。思考の基盤と言える日常言語に関する記憶すら壊滅的に損傷している。これでは会話ができないどころか、他人の言葉の意味を理解することもできないだろう。これはもはや精神疾患というレベルを超えている。こんな風になってしまった原因は一つしか考えられなかった。

 彼女は犯罪者たちのアジトに監禁されていた。おそらくそいつらに違法な電子ドラッグを使われたのだろう。技術の進歩は常に光と闇、その両方の側面を持っている。電子ドラッグはまさに記憶編集技術の闇の側面だった。電子ドラッグにもいくつか種類があるが、最も強力で簡単に製造できるのが他者の記憶を抽出したものだ。薬物などを使って異常な興奮状態にした人間の快楽の記憶を取り出し、それをデータにして複製する。それを自分にインストールすれば肉体的な健康を害することなく、通常では味わうことのできない強烈な快楽を体験することができる。装置さえ使えれば専門的な知識も必要ないし、体に与えるダメージも少ないということで、これらは反社会的勢力の大きな収入源になっている。しかしもちろんそういったものにもリスクはある。

 一部とはいえ他人の記憶を自分の中に入れるというのは、自らの手で自我に穴を穿とうとするのと同じことだ。適切な処置の施されていない粗悪な電子ドラッグを使った場合は、記憶の混濁や自我の酩酊が起こり、最悪の場合インストールした記憶を自分のものだと錯覚してしまう。人間の記憶とは曖昧なもので、思い込みや勘違いによって簡単に形を変える。一度定着した記憶は確実に自我を蝕み、なんとか整合性を保とうとする脳との板挟みにあって、ついには理性が砕け散る。

 彼女の場合、複数の電子ドラッグを同時に使用した結果、脳の処理限界を超えて自我が崩壊してしまったようだ。それが意図的なものだったのかどうかはわからないが、犯罪者たちにとって彼女は使い捨ての玩具のような扱いだったのだろう。今まで患者に同情を抱いたことなどなかったが、この惨状を目の当たりにするとさすがに心が痛んだ。彼女は患者ではあったが、それ以前に哀れな犯罪被害者だった。


 私は冷めたコーヒーをゆっくりと啜る。どうにか彼女を救ってやりたい。だがどうすればいい? もはや彼女の記憶は完全に破壊されてしまって修復不可能だ。今の技術では元の人格を蘇らせることはできない。どうにか彼女が人並みの生活を送れるようにするには、壊れた記憶を全て消去して一から始めなおすしかない。

 記憶の全消去、それは人格の全否定であり、ほとんど殺人だ。しかし今の彼女は生きていると言えるのか? 彼女が生まれ変わるためには、古い記憶は捨てなければならない。もし彼女に家族がいればその意向に従うのだが、未だ彼女の身元は判明していない。全ての処置は私に判断が委ねられている。

 長い自問自答の末、私は結論を出した。規模が違うだけで今までとやっていることは同じだ。不都合な記憶を消して、人は新しい自分に生まれ変わる。「本当の私」とか「不変の自我」なんてものは幼稚な幻想だ。生物の体が遺伝子に支配されているように、人間の精神は記憶という情報に支配されている。そして情報とは常に更新されていくものだ。異常エラーがあるなら更新して再起動すればいい。当たり前のことだ。私はさっそくその作業に取り掛かることにした。

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