マッスル・スーツ

藤光

筋肉神話

「筋肉がほしい」


 そう言うと雪彦くんは、なにをいうんだこの人はといった目でわたしの顔を見つめた。


「やぶから棒になにを言い出すんだよ、義兄さん」


 そりゃそうだろう。わたし自身なにを言ってるんだという気持ちはある。以前なら、こんなこと考えもしなかったはずだ。筋肉がほしいだなんて、ちょっと……、いや、かなり変なセリフだ。


「薮でも林でも構わない。そのまんまの意味だ」


 義弟は、わたしの頭のてっぺんからつま先までなめまわすように見て言った。


「マッチョマンになりたいのかい」

「いや、そうじゃない」

「特に貧弱な身体には見えるわけじゃないんだし、そのままでいいよ」

「でも、このままじゃよくないんだ」

「なぜ」


 おおげさに肩をすくめてみせる雪彦くんに、わたしは筋肉が必要となったなわけを説明する。


 じつは中学一年生になる娘の体育大会で親子リレーに出場することになった。数組の親子がチームになって、親子同士のあいだでバトンを繋いで競走して親子の絆を確かめる……運動会の種目としてありがちな。親がむきになって頑張るようなものじゃないとはいえ、それなりに走れないと親子共々恥をかくことになる。


 学生時代は陸士競技部で十種競技の選手をしていたのだ。体力には自信があった。


 ――お父さんが出てやるよ。


 妻と娘が、どうしようと頭を突き合わせているところへそう言ってやった。こういうときこそ、父親としていいところを見せてやらないと。しかし、「あんた大丈夫なの」と不安そうな妻と、「えっ……お父さんと?」と不服そうな娘。


 ――大丈夫さ。見てろ。


 公園に家族を連れ出したおれは、ふたりの前で颯爽と走ってみせるはずだったのだが……。


「だめだったの?」

「長い間、運動していなかったものだから、足がもつれてだめなんだよ」

「あー」

「あげくの果てにカーブを曲がろうとしたら転んじゃって。足の筋肉が弱ってて身体を支えられないんだ」

「現代人は、普段歩かなくなってるからね。筋力が低下するんだ。――それで、『筋肉がほしい』ってこと?」


 そのとおりだ。このままでは体育大会の親子リレーが悲惨な結末となってしまう。中学に上がってから微妙な距離感が出てきた娘との関係に、更に大きなが入りかねない。


「で……。ぼくのところへ何しにきたのさ」

「雪彦くんは、ほら。いろいろやってるじゃない」


 義弟の雪彦くんは、大学の研究室の研究員。日夜、なにかよく分からない研究をしている自称・天才科学者にして発明家だ。彼の発明品は独創的すぎて、その原理はだれも理解できないものの、不思議な働き発揮して人を助けてくれるらしい。


「いくらぼくでも、義兄さんの筋肉を増やすことはできないよ。自分の肉体は自分で鍛えないと、だれにも代わってもらえない。いいんじゃない? 体育大会までトレーニングすれば」

「いや、それじゃ時間が足りないんだ」


 若いころの体力が取り戻せない。本来のわたしならもっと速く走ったり、遠くまで跳んだりできるはずなのだ。じっさい、学生時代は十種競技の選手として大きな大会にも出ていた。中学校の親子リレーごとき種目で、ほかの保護者に後れを取るなんてプライドが許さない。


「運動が苦手なぼくから見ると、それでも十分な体力だと思うけどね」


 よくわかんないなあと言いながら、雪彦君が研究室からもってきてくれたものは、陸上選手が身に着けるユニホームのようなスーツだった。これを着てトレーニングすると筋力が通常以上に強化されるらしい。


「腰のところ付けたダイヤルを回すと、筋肉に負荷をかけることができる。プラスに回すと負荷が強くなる。マイナスはその逆だ」


 実際に着てみると動きにくい。足を動かそうとすると、足を動かすまいという方向に力が加わるのだ。


「トレーニング効果は倍増だよ。普通の人なら扱いにくいけど、元々体力のある義兄さんなら耐えられるんじゃない?」


たしかにこのスーツを着てトレーニングすると短時間で効果が上がりそうだった。


「でも、約束してよ。まだこのスーツは試作段階なんだ。必ず毎日脱いで体調を確認すること。無理なトレーニングはしないこと」

「もちろんだ。もうわたしも若くないんだからね」 

「そのとおり」


 わたしは雪彦くんにお礼をいって家に引き返した。一日だってトレーニングの時間を無駄にはしたくなかったからだ。


 トレーニングスーツの効果はてきめんだった。これを着てトレーニングをすると筋肉に負荷がかかっているのがよく分かった。身に着けずにトレーニングをする数倍の効果があるだろう。しかし……。


「だるい……」


 筋肉に負荷をかける分、身体に疲れがたまるのだ。若いころならよかったのかもしれない。しかし、40歳を過ぎると疲れは一日で抜けてはくれないのだった。たしかにこのスーツは、わたしの筋力を上げてくれる。しかし、その効果が表れる頃には、肝心の体育大会は終わってしまっているだろう。それじゃあ意味がないんだよ!


「きっつ……」


 トレーニングスーツは手首から足首まで全身をくまなく覆い尽くすタイプ。ぎゅうぎゅう身体の筋肉を締め付けてくる。わたしは毎日トレーニングで訪れる公園の芝生の上に、大の字になって転がった。もうこの苦行から解放されたい。あるいは体育大会がずっと先に延期されないだろうか。


 芝生に横になった拍子に、スーツのダイヤルに手が触れた。雪彦くんには無理をするなと言われたが、トレーニングの効果を高めたかったのでダイヤルはMAXのプラス5に設定してある。だから無駄なんだよ、この機能。


 ぐりっ。手が触れた拍子に、スーツのダイヤルがプラス方向からマイナス方向へ回ってしまった。


 途端に全身を締め付けていたスーツの拘束力が抜け、身体が軽くなった。これは、楽だ。見るとダイヤルがマイナス5の位置にある。試しに走ってみると、いままでとは比べ物にならないくらい、軽く速く走れる。まるでスーツがわたしの筋肉をアシストしてくれているような感覚だ。


「これはいい!」


 走るのも、跳ぶのも、投げるのも軽々とできる。まるで学生時代に若返ったかのようだった。これならなまった身体を痛めつけることなく、効率的にトレーニングすることができるじゃないか。もちろん負荷が小さいので効果は落ちるんだけれど。 


 その日から、わたしはダイヤルをマイナス5に合わせたトレーニングスーツで身体を動かすようになった。身体が軽く、非常に快適だった。ただ、負荷が軽い分、トレーニング時間を長く取ろうと、通勤時間や仕事中もワイシャツ、ズボンの下にトレーニングスーツを身につけることにした。起きている間中がトレーニングだ。職場まで10キロの道のりを走って通勤した。


 親子リレーに向けて、十分にトレーニングは積んだ。しかし、体育大会当日、親子リレーのプログラムが近づいてくるとわたしの不安は大きくなってきた。トレーニングはこなしたものの、スーツを身につけないと身体が重く感じてしまうのだ。


 ――もし、リレーで結果が出なかったらどうしよう。


 不安に押し潰されそうになったわたしは、悪いこととは分かっていながら、レース前、スーツに身を包んだ。ぐりっ。ダイヤルをマイナス5に合わせると、背中に羽が生えたかのように身も心も軽くなるのを感じた。よし、いける。


 ついに、わたしと娘の出番になった。親子リレーに専門の陸上選手ばりのボディスーツに身を包んで現れたわたしは、かなり目立っていた。娘は顔を真っ青にして俯いてしまったし、そこかしこでくすくすと笑い声が聞こえる。


 ――わたしは負けられないんだ。


 まさに背水の陣をとった心境だった。親子リレーがスタートした。よっつのチームが争う親子リレーで、わたしと娘はアンカーペアだった。子どもから親へ、つぎつぎとバトンが手渡されてゆく。わたしたちのチームはじりじりと遅れはじめ、娘にバトンが渡ったときには最下位を走っていた。いいだろう、望むところだ。


 最終走者として、娘からバトンを受け取る。明らかにチームはビリを走っていて、先頭は10メートル近く先を走っていた。ぐっと、足に力を込めると、ぐんと加速する。いける! ぐんぐんぐんぐんとスピードに乗る。ひとり交わす、ふたりめも交わす、あとは先頭のひとりだけ――。先頭のランナーの背中がすぐそこに見えた時は、勝ったと思った。もう少し、1メートル……50センチ……。


 先頭のランナーを交わそうと、横に並んだ時だった。交わそうとしたランナーの手が、腰にあるスーツのダイヤルに触れた。


「あっ」


といったときには遅かった。マイナス5に合わせていたダイヤルがプラス5まで、ぐるりと回ってしまったのだ。途端に、悪魔に身体をわしづかみにされたような感覚。足をもつれさせたわたしは、その場にすっ転んでしまった。ひとり、ふたり……後続のランナーが、地面でもがいているわたしを抜き去って、親子リレーは終わった。わたしが転んだせいで、チームはビリになった。


 ☆


「残念だったね、義兄さん。だから試作段階だって言ったのになあ」


 体育大会を終えた日の夕方、わたしは大学の研究室に雪彦くんを訪ねていた。


「面目ない。自業自得だ」


 リレーの後は、近所の人たちから転んだことを心配されるやら、ボディスーツをからかわれるやら、とても恥ずかしい思いをした。


「高齢者の介助、リハビリ用スーツの試作機なんだよ。ダイヤルひとつで、介助機能とリハビリ機能を切り替えられる――いいアイデアだと思ったんだけどな。少なくともダイヤルの位置は変えた方が良さそうだね」

「……そうだね」


 リレーの後、娘はすっかり腹を立ててしまって、口をきいてくれない。まずい。親子リレーをきっかけに父親を見直してもらう計画が、逆転効果になってしまった。


「そうだ。この間、義兄さんが帰ったあと思い出したことがあって……」


 そう言って雪彦くんが取り出したのは、緑色の小さな錠剤。


「研究中の筋肉増強剤アナボリックステロイド。NASAで開発されたナノマシンが任意の筋繊維に作用させる優れものだよ。代謝されないからドーピング検査もパスできるし……」


 いやいや。ありがたいけれど、だ。娘からの信頼回復は別の方法を考えることにするよ。


(了)



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マッスル・スーツ 藤光 @gigan_280614

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