第19話 彼女は相模原で出刃包丁を買って来ると言う(僕 高校3年生)想いのままに・男子編)
遠くに見える能登島(のとじま)の北端(ほくたん)を眺(なが)めていた顔が仰(あお)ぎ、天辺(てっぺん)が薄紅(うすべに)に染(そ)まった入道雲(にゅうどうぐも)を見て、そしてまた渚(なぎさ)を見詰(みつ)める。
其(そ)の顎(あご)を引いた彼女の横顔は整(ととの)っていて、僕はとても綺麗(きれい)で可愛(かわい)いと思う。
そんな美(うつく)しい彼女がナーバスな思いを話した後(あと)、これからの自分の進路を話し出した。
「私は、相模原(さがみはら)の大学へ行くわ」
聞いたことの無い、初(はじ)めて聞く知らない名詞(めいし)だった。
「サガミ……? ハラ……?」
(それは、地名ですか? それとも、大学の名前? 日本の何処(どこ)?)
「神奈川県(かながわけん)の相模原市よ。出刃包丁(でばぼうちょう)で有名な所みたい。来月、下見(したみ)に行くから、お土産(みやげ)に買って来てあげようか?」
(出刃包丁って……? なぜ神奈川? なぜ相模原? 関東(かんとう)の刃物(はもの)の名産地なのか? そうか、其処(そこ)に在(あ)る大学に学(まな)びに行くのか……)
「いらない。買って来なくてもいいよ」
(サプライズで沈(しず)められた次は、ドッキリで刺(さ)されるかもだ! これは……堪(たま)ったもんじゃない。……でも、彼女に刺されるのなら、本望(ほんもう)で構(かま)わないかもな……。でも、でも、刺される理由(りゆう)だけは知りたいぞ! いきなりズブッと来(く)るのは嫌(いや)だ!)
土産の出刃包丁の受け取りを断(こと)わって刺されてしまう白昼夢(はくちゅうむ)を振(ふ)り払(はら)いながら黙(だま)っていると、彼女の指が動いて砂地(すなち)を平(たい)らに掃(はら)い、『相模原』、『医療工学科(いりょうこうがくか)』、『臨床工学技士(りんしょうこうがくぎし)』、『出刃包丁』と書いた。
(うっ! なになに、その最後に書いた出刃包丁は? すっげぇ不吉(ふきつ)で猟奇的(りょうきてき)じゃん! 意味深(いみしん)なわけぇ? お願いだから勘弁(かんべん)して下さい!)
「其処の医療工学科にいって、臨床工学技士になるの。ちょっとレベル高いから、もっと勉強しなくちゃね」
初めて聞く地名に続(つづ)いて難(むずか)しい医療専門用語を言ってくれるけれど、医学と工学が上手(うま)く関連(かんれん)付(づ)けれない。
(医療にも工学が有るのか? 技士…… 技術者(ぎじゅつしゃ)? エンジニアってこと?)
僕は質問する二(ふた)つの名称(めいしょう)を指で差してから、刺されるのと脇腹(わきばら)を圧迫(あっぱく)したサイドミラーのアームとは、比較(ひかく)にならないくらいの致命傷(ちめいしょう)を負(お)ってしまう凶兆(きょうちょう)の『出刃包丁』の砂文字を、ささっと掃(はら)いながら掻(か)き消(け)した。
「うう……、その学科と技師は……何するの?」
僕の問いに彼女は、ゆっくりと説明してくれた。
「人工臓器(ぞうき)や、生体(せいたい)材料や、生命維持(いじ)装置など。まあ、医療機器全般(ぜんぱん)の取り扱(あつか)いかな。国家試験を受けて、資格(しかく)を取らなくちゃならないの」
医学の知識が全(まった)く無い僕は、漠然(ばくぜん)とバス事故の時に乗せられた救急車(きゅうきゅうしゃ)の中や運(はこ)ばれた国立病院で見掛けた機器と処置室の案内プレートのネームを思い出した。
(医療の工学って、腎臓(じんぞう)の透析機(とうせきき)や、人工心肺(しんぱい)や、救急車の中に所狭(ところせま)しと並(なら)んだ機器などの事なんだろうな?)
「それって、人の生死(せいし)に関(かん)する事だろう? 責任重大(せきにんじゅうだい)じゃん! できるん?」
なんて責任の有る、素晴(すば)らしい事を学ぶのだろう。
また僕のリスペクトする凄(すご)い彼女が増(ふ)えた。
「さぁ……、ちゃんと理解(りかい)して上手(うま)くできるか、分かんないわ。きっと、責任は重いよね。それに、何の仕事を目指(めざ)しても責任が有るし。でね、地方公務員や国家公務員の試験も、受けるつもり。何かをする訳でもないんだけれど、取れそうな時に資格を取っておくの。まぁ、兎に角(とにかく)、其処へ行くわ」
まだ、当面の生業(なりわい)を見つけられない僕と違い、彼女はしっかりと将来を見据(みす)えて挑戦(ちょうせん)しようとしている。
「凄いね、君は。ちゃんと志(こころざし)が有って、自分にできる事を考えているんだ」
見据えた将来へ向かって進もうとする彼女の意志に、志とは成(な)し遂(と)げようとする思いや、揺るがない信念の事なのだと改(あらた)めて理解した。
やはり、彼女は僕のずっと先を進んでいる。
「君の志に、真心(まごころ)を感じるよ」
この目の前の彼女に、いつの日か僕は追いつけられるのだろうか?
「そうなると、一人(ひとり)で生活するのだろう? 近くに親戚(しんせき)でも住んでいるの?」
(それとも無難(ぶなん)に、学生寮(がくせいりょう)にでも入るつもりなのだろうか? まさか、いきなり間借(まが)りしての独(ひと)り暮(ぐ)らしをするつもりじゃないだろう)
人生を自分で決めて切り開いて行こうとしている彼女に僕は憧(あこが)れてしまう。
(この彼女もリスペクトだ! 凄いぞ! やっぱり、彼女はアクティブな僕の女神(めがみ)だ!)
これから先、彼女が大学を卒業するまで一人で暮らす相模原の街へ、頻繁(ひんぱん)に会いに行うと思った。
「相模原の近くに親戚はいないわ。寮には入りたくないから、たぶん、アパート暮(ぐ)らしね。学費や部屋代は親が払(はら)ってくれて、生活費も貰うけれど、一人で自炊(じすい)生活するの。アルバイトもするわ。今まで、一人で生活したことがないから、ちょっとドキドキかな。遊びに来てくれる?」
(おいおい、いきなりのアパート暮らしで自炊かよ。大丈夫(だいじょうぶ)かぁ?)
語尾(ごび)の『遊びに来てくれる?』が嬉(うれ)しい。
彼女の指が砂に書いた『相模原』をなぞり、その仕種(しぐさ)にいじらしさを感じてしまう。
(寂(さび)しいのか……?)
始(はじ)めから独り暮らしをすると言う、彼女の大胆(だいたん)さに驚(おどろ)きながら僕は頷(うなず)いた。
頷きながらも、『遊びに来てくれる?』に、初めて一人で生活する不安に心細(こころぼそ)い思いを隠(かく)せない彼女が此処(ここ)にいる。
僕が高校卒業後に県外に出ようと決めたのは、この時だった。
できるだけ彼女の近くで、似(に)たような間借りをして一人で生活してみたい。
「僕は就職(しゅうしょく)だ。進学でもいいんだけど、社会に出れば、自分のしたい事が、より早く見付かる気がするんだ」
独り暮らしをする彼女に、意思の強さも、生活力も、行動力も、僕は負(ま)けたくない。
せめて対等だと思えるようになって、いつの日か桜吹雪(さくらふぶき)の中を手を繋(つな)いで歩きたい。
「以前、知らせなかったかなぁ。親父が個人事業で会社経営をしててさ、僕は其処でアルバイトをしてるんだ。親父一人だけの金属加工の業務だけれど、それを生涯の仕事に出来るか、其の仕事を熟(こな)して行く才能が僕に有るのか、自信を持つ事が出来て深めて行けるのか、それを見極めたくて就職するんだ」
彼女と同じ不安や心細さや頼(たよ)りなさ、それに悩(なや)みを感じたいという思いが、見栄(みえ)で言い始めた言葉を確固(かっこ)たる決意に変えさせていく。
「そう……、就職なんだ」
木目細(きめこま)かい白砂に書いた文字を見詰めるながら彼女がボソっと言った。
僕は俄仕立(にわかじた)ての自分の決意をフォローする適当な言葉を急いで探す。
「モノ造りがしたい。終生(しゅうせい)貫(つらぬ)けれる生業を、見極(みきわ)めたいんだ」
親父の受け売りを言った。
でも、実際には漠然(ばくぜん)としてだけど、そう思っていた。
物を造り出す事に興味(きょうみ)が有って、無から有を生み出すような、世の中に全く無かった新しい物や事柄(ことがら)を、そう簡単(かんたん)には行かないだろうと考えつつも、いつか創(つく)ってみたい。
その為(ため)には、物を造(つく)り出す仕組(しく)みを学んで経験しなければならないと理解している。
「どんな物を作るの?」
指先で砂に書いた文字をなぞりながら、首を傾(かし)げて上目遣(うわめづか)いで訊(き)いて来る。
「まだ、良く考えていないんだ。漠然と、こうなればいいなってイメージだけで。でも、自分が強く興味が有る処(ところ)から始めたい。ノウハウを知って自分でもできるようになると、興味が失(う)せて嫌(きら)いになるかも知れないけど。それでも、ヒントが掴(つか)めれたらと思うよ」
以前から趣味(しゅみ)のプラスチックモデルの開発プロセスを知って、テクノロジーを理解したいと考えていた。
僕が好(この)んで買うメーカーの商品は、パーツの一(ひと)つ、一つが細部まで精密(せいみつ)で、部品の合わせや分割の良さで組み立て易(やす)く、完成品は縮小(しゅくしょう)された模型なのに、実物のようにリアルだった。
パッケージのデザイン、楽しく理解できる組立説明書、透明(とうめい)なビニール袋の中のパーツ群、貼(は)り付けるマーク類、完成に至(いた)るまで全(すべ)てが精(せい)緻(ち)な造りだ。
3Dの立体スキャンで人物やドラム缶(かん)サイズまでは形状と寸法を緻密(ちみつ)に計測して、縮小サイズのリアルなミニチュア化は可能だけれど、自動車のような大きなサイズならスキャンする設備が大きくなって、体育館ほどの空間が必要になってしまうし、レーザー光線での探針(たんしん)測定では影になる部分は分からない。
それに全形状が一体化(いったいか)して、出来上がりは置物やペーパーウェイトのようになってしまい、最早(もはや)それはミニチュアでも、組み立てや塗装(とそう)を楽しむプラスチックモデルではなくなる。
趣味の領域のプラスチックモデルにする為には、組み立て手順やパーツの合わせを考慮(こうりょ)しての実物の測定と写真や文献(ぶんけん)の資料も必要で、其のノウハウは試行錯誤(しこうさくご)の経験で得られたものだ。
プラスチックモデルメーカーとして創業(そうぎょう)当初(とうしょ)から貫(つらぬ)く其のモノ造りの姿勢に、僕は憧れている。
確(たし)か、メーカーの所在地は静岡市(しずおかし)だ。
「県外へ、……出るの?」
静岡市なら神奈川県の隣(となり)の県だ。
箱根(はこね)の山が県境(けんざか)いだったはず。
「それも、まだわからない」
静岡市のメーカーにリクルートを問い合わせて願書(がんしょ)を送り、入社試験を受けて合格採用(ごうかくさいよう)されないと彼女の近くへは行けない。
「県外に出るなら絶対(ぜったい)、近くに来てね。関東(かんとう)……、首都圏(しゅとけん)にね」
いっしょに渚(なぎさ)に座(すわ)り夕暮(ゆうぐ)れの海を眺(なが)めながら話す彼女の言葉の一(ひと)つ一つが、僕の中に奥深く入って行く。
それは、とても気持ちが良くて……、特に、『絶対、近くに』が、気が遠(とお)くなるほど嬉しい。
彼女が絶対と言えば、死に物狂(しにものぐる)いで努力(どりょく)して、近くと言えば、ゼロ距離(きょり)になるまで大接近すべきだろう。
(このまま永遠(えいえん)に、夕陽(ゆうひ)が沈(しず)まなければいいのに……)
夏の夕暮れが、ゆっくりと確実に辺(あた)りを暗くしている。
「ああ。そうなればね」
(来て良かった。彼女と話せて良かった)
褪(あ)せる光に朱色(しゅいろ)の映(は)えが紅(あか)く滲(にじ)み、だんだんと紫(むらさき)を帯(お)びていく入道雲を眺めながら思う、彼女の中に『自分の存在』を確認できた。
すべき事が有って、遣る気が湧(わ)いて来ている。
自分の存在を感じて、遣るべき事が自分に有る。
それは今の僕を、とても、満ち足りた幸(しあわ)せな気持ちにさせてくれた。
顔を真上(まうえ)に向けたまま、感慨(かんがい)深く彼女を愛(いと)おしく想(おも)っていると、ふと、彼女の肩が揺(ゆ)れるのを感じて、横目で彼女を見てみた。
砂に触れている指先が動いて、彼女は『寂(さび)』と『淋(さび)』の二文字(ふたもじ)をサラサラっと走り書きした。
書き終えた瞬間、眦(まなじり)が上がって黒い瞳(ひとみ)が僕を見る。
同時に書いた指で二文字(ふたもじ)を掻き消して、書いて有ったのが文字だったのか、絵だったのか、判読不能(はんどくふのう)にしてくれた。
視界の下隅(したすみ)へ向けていた視線を反射的に戻して、砂浜に尻(しり)と両手を着(つ)いて後へ反(そ)り返(かえ)る姿勢のままで、夕陽に赤く染まって行く雲を見ているフリを続(つづ)けた。
やはり、大都会の近くでも見知らぬ場所で女子の独り暮らしは、不安で寂しいのだろう。
『近くに……、ううん、いっしょに暮さない?』と、彼女に懇願(こんがん)されたとしたら、大いに揺れてしまう僕の気持ちは、きっと彼女の言葉に靡(なび)いてしまうかも知れないが、それ以上に二人(ふたり)の将来の為に、……そうなればの話だが……、彼女を不安にさせず、安心させて幸せにする為にも、僕は志を譲(ゆず)る事はできない。
彼女は腕時計(うでどけい)の時刻(じこく)も見ていた。
「暗くなって来たな。……もう帰るよ」
(何か用事が有って、彼女は雑貨屋(ざっかや)に戻らなければいけないのだろう)
そう思った僕は、もっと、もっと、いっしょにいたい最高の心地良(ここちよ)い時間に踏(ふ)ん切(ぎ)りをつけて立ち上がると、彼女の返答(へんとう)も待たずに浜の草地に停(と)めてあるホワイトダックスへと向かった。
(ずっとこのまま、素直で、親(した)しくて、そして、優(やさ)しい君でいてくれ! ドライも、コールドも、リバーサルも無い、今の君をインプリンティングさせてくれ!)
バス事故の日、近(ちか)しく感じた君はドライだった。
僕の想いを、君は冷(つめ)たく拒(こば)み続けていた。
正月(しょうがつ)の重(かさ)ね合わされた絵馬(えま)からの新たな進展(しんてん)は無かった。
そして今日、殆(ほとん)どゼロ距離まで君を接近させているのは、君のルーツを感じた此のノスタルジックなこの場所が開放(かいほう)させた君の気の迷(まよ)いじゃないかと、僕は疑(うたが)っている。
背後(はいご)にパタパタとワンピースについた砂を払(はら)い落(お)とす様子(ようす)が聞こえると、彼女は乾(かわ)いた白砂をキュッ、キュッと踏(ふ)み鳴(な)らしながら小走(こばし)りに駆(か)けて来て、肩が触れるくらいの間近に並んで歩く。
ホワイトダックスまで50メートルも無い距離だけど、寄り触れる肩に気の迷いでもいいから、指を絡めて手を繋(つな)いで来て欲(ほ)しいと心の中で願う。
愛車のホワイトダックスに近付きながら、涎(よだれ)を垂(た)らすほど爆睡(ばくすい)して見た夢(ゆめ)を思い出して、白いワンピースや水色(みずいろ)のビキニの彼女には良くマッチするだろうなと横目で彼女をチラ見していると、愛車の横にホワイトダックスより、ひと回り以上も大きなスクーターが並(なら)べて停めてあった。
(こっ、これは……)
「あっ、ジレラだ! すっげーじゃんか! こんなのに乗っているんだ!」
赤と白のツートンカラーで綺麗に塗装されたスポーティなスクーターは、125CCのイタリア製だった。
「そう、良く知ってるね。おじさんのだけれど、こっちに来たら私が使うの。そっちのはオシャレでキュートだね」
親父が勝手(かって)にグリーンベースのタータンチェック柄(がら)のシートにしたホワイトダックスを、彼女は『キュート』だと言ってくれた。
(親父ぃ、可愛(かわい)い女子高校生が『キュートね』と、誉(ほ)めてくれたぞ!)
僕が原付免許を取るまで『乗りもしないで邪魔(じゃま)』と、処分(しょぶん)好(ず)きなお袋(ふくろ)にダックスは捨(す)てられそうだったんだから、親父に伝(つた)えたらスッゲー喜ぶだろう。
(親父も、ホワイトダックスも、良かったじゃん)
「あっ、ああ。ダックテールじゃないのに、ダックスっていうんだ。なんでも、猟犬(りょうけん)のダックスフントをイメージしたネーミングみたいだよ」
確かにダックテールじゃないけれど、嘴(くちばし)を突き出して暴走(ぼうそう)するアニメのアヒルキャラに見えなくもない。
「そっか、径(けい)の小さな太(ふと)いタイヤだから、販売デビューした頃(ころ)は、そんな感じに思えたのかもね」
彼女の言葉に、親父が、『可愛らしさ、素直さ、お気軽(きがる)さみたいな、世間(せけん)ズレしていない思春期(ししゅんき)の人懐(ひとなっ)こいイメージが、ダックスに在るぞ』と、年々素直でなくなる僕を皮肉(ひにく)るように言っていた事を思い出した。
「そうなのかなぁ? 胴長短足(どうながたんそく)のフォルムとも違うっぽいし……。うーん、私には、わかんない」
外装品のレトロさは否(いな)めないけれど、全体のキュートなデザインは、今でも充分(じゅうぶん)に通用すると思う。
「親父が知り合いから貰って、レストアしたレトロな奴(やつ)だけど、可愛いだろ。いろいろチューンをしてあるから速(はや)いんだ。僕と親父のお気に入りさ。でも、ジレラには敵(かな)わないなぁ」
ジレラは、ジレラのみのレースがイタリアで開催(かいさい)されているくらい、高速スクーターの定評(ていひょう)が有った。
同じピアジオのクラシックなべスパと違い、スポーティーなデザインのスクーターだ。
簡単にウイリーができるほどパワフルなジレラは、僕が持つ原チャリの免許(めんきょ)じゃ乗れない。
(ふっ、ジレラの戦闘的(せんとうてき)なフォルムは、彼女に似合(にあ)っているな)
「これ……、ジレラって、原付免許じゃ乗れないよな?」
彼女は、きっと自動2輪の運転免許を持っているのだろう。
そう思うと、ジレラの横に立つ彼女が羨望(せんぼう)と憧れで眩しく見えた。
僕も乗りたいモンスターバイクがあって、社会人に成(な)るまでに取得したいと考えていた。
(よし、明日から即(そく)、行動だ。絶対、大型自動2輪の免許を卒業までに取ってやる!)
自動車教習所へ通い、普通自動2輪免許を持たなければ、大型自動2輪の教習が受け難(にく)い。免許証の取得(しゅとく)にはツーステップで挑(いど)むしかないだろうと思った。
「うん、無理! 乗れないよ。普通自動2輪のライセンスは去年の夏休みに、こっちで取ったわ。学校はバイクにうるさいでしょ。だから、金沢じゃバレちゃうから、住民票をこっちに移してあるの。もう少ししたら金沢に戻さなくちゃね」
彼女の用心深(ようじんぶか)さは、相変(あいかわ)わらず徹底(てってい)している。
金沢で自動車教習所へ通(かよ)ったり、運転免許を取得したりすると、大抵(たいてい)の高校では校則違反とされて停学に罰(ばっ)せられてしまう。
だけど、そんなに簡単に学校側に知られてしまうのだろうか?
たぶん、教習所で受講するために記入する用紙に個人情報を正直(しょうじき)に書き込んでしまうから、18歳以下の未成年で学生だと、どういう観念からなのか知らないけれど、自宅や在学する高校へ知らされるのだろう。
勿論(もちろん)、警察関係にも知らされて、記入した内容の裏付(うらづ)けを確認されるだろう。
まるで内通や密告みたいに公的機関に干渉(かんしょう)されて、個人の行動情報が拡散(かくさん)されているように感じてしまう。
だから家族の承認(しょうにん)と応援(おうえん)は必要だ。
運転免許証の取得後に交通違反の現行犯(げんこうはん)になるか、事故の当事者にならなければ、そして浅(あさ)ましくも小賢(こざか)しい密告(みっこく)をされない限り、学校側には知られないと思う。
僕も其の類(たぐい)で、堂々(どうどう)と運転免許センターで原付免許の試験を受けて取得している。
まして彼女は、住民票を移しているのなら運転免許証の記載住所が能登の御郷になり、高校へは行かずに家事手伝いとか、アルバイトと職業欄(しょくぎょうらん)に書けば、実際に住んでいるかの辻褄(つじつま)合わせだけだと思うし、軽度の交通違反や検問(けんもん)での免許証確認で金沢市内の高校生だとバレる事は無く、交通法規の違反者リストをチェックする先生からスルーされる。
それに彼女の性格や人間関係から、学校外での素行(そこう)を知られて密告される事も無いだろう。
(去年の夏休みにライセンスを取った⁉ という事は、彼女は4月から8月までに誕生日が有って、今は誕生月が3か月後の僕と違って、既に18歳のお姉さんなんだ! だったら此の夏は自動車の運転免許に挑戦(ちょうせん)しているのに違いないだろう!)
「うふ、穴水の町まで送ろうか?」
羨望と憧れで見る彼女は恥ずかしそうに俯(うつむ)き加減で、其の大胆(だいたん)な行動力を何気(なにげ)にアピールしてくれる。
いっしょにいられる時間が長くなるのを望(のぞ)んでいた僕の気持ちは、彼女の其の言葉で大きく揺れて、穴水の町外れで別(わか)れの抱擁(ほうよう)をする二人を想像してしまう。
(ええっ、そっ、それは本当ですか? 穴水まで……、こんな寂しいところを……、薄暗(うすぐら)いトワイライトアワーに……、いっしょに走ってくれるんですか?)
彼女の提案は、僕を嬉しい驚(おどろ)きで一杯(いっぱい)にさせた。
(いいぞ! 彼女といっしょにいる時間が、もう少し続きそうだ)
それは願ったり、叶(かな)ったりの提案だったけれど、やっぱりダメだ!
送って貰うと穴水からの彼女の帰りは暗くなってしまう。
それに、あの気味の悪い何かに憑(つ)き纏(まと)われた道を宵(よい)の口(くち)とはいえ、夜は通(とお)らせたくない。
それと、僕の幸せを使い切ってしまいそうで恐(こわ)くなった。
今日は、此処まででいい。
(幸せの回数に限りがあって、まだ、残っているのなら、それは次回に回してくれ)
「穴水まで送らなくていい。僕なら大丈夫(だいじょうぶ)だ。GPSが有るし、道に迷わない。一人で問題無いさ。穴水まで行ったら、君の帰り道が真っ暗(まっくら)になるだろう。そっちの方が心配だよ」
彼女は顔を上げ、僕を見て笑う。
「うふふふ。ありがとう。私は大丈夫よ。ううん、違うの、あなたが心配なの。アレに……、気に入られたみたいだから、攫(さら)われるかもね。神隠(かみかく)しになっちゃうかも。穴水の町に入るまで、途中で停まっちゃダメだよ。アハハハ。無事に着いたらメールちょうだい。無事じゃなくてもね」
ぞっとする事を重ねて言う。
「……『アレ』、……『気にいられる』……!」
顔が暗く曇って、不安顔になっていると思う。
「海岸沿いは、距離が有るから、けっこう時間掛かるよ。来た道を戻ってトヤン高原を抜(ぬ)けた方が、全然速いから」
悪寒(おかん)がして寒疣(さぶいぼ)が立ちそうだ。
「どっ、どうか、おっ、御願いです。頼むから、この浜で帰って下さい。本当に君が心配です……」
物の怪(もののけ)を『アレ』と、親しげに言う彼女が信じられない。
(トヤン高原を通って帰るのは、絶対に厭(いや)だ! きっと、あそこには時空(じくう)の狭間(はざま)が在って、次に迷い込んだら、戻って来れるか分からない……)
言霊(ことだま)どころか、あんなところのアレに取り憑かれでもしたら、堪(たま)ったものじゃない!
例(たと)え、隣接する世界だとしても、異世界で狭間を見付けて、また、この世界へ戻って来れる保障は何も無い!
やっとフレンドリーに彼女と話せたのに、これからの彼女との始まりが今日、此処からかも知れないのに……。
折角(せっかく)、辿(たど)り着いた彼女のいる僕の世界を失(うしな)うのが怖(おそ)ろしい。
「うん……、それじゃあ、ここで見送ってあげるね。気を付けて帰りなさいよ。夜道を飛(と)ばしちゃダメなんだからね。夏の夜の田舎道(いなかみち)は、本当に、いろんなのが跳(と)んで来て危(あぶ)ないから、ちゃんと家に着いたらメールちょうだいよ。じゃあ、バイバイ」
痞(つか)えながらも、丁寧(ていねい)言葉で切実に御願いする僕の気持ちを解(わか)かってくれたと思ったのに、彼女の見送りの言葉は不安を増(ま)してくれる。
「飛んで…… 来る……? それは、いろんな虫がダックスのライト目掛けて、前方からぶつかって来るってこと……?」
GPSの地図画像で確認した海岸沿いの幹線道路は、集落が多いから安心できると思っていたのに、左側は七尾湾(ななおわん)の海だけど、右側は国道へ抜(ぬ)けるまで、ずっとトヤン高原の際(きわ)だった。
「アハッ、そうかも、前からだけじゃなくて、真横とか、真後ろとか、真上とか、迫って来ているかもね。だから、気を付けてね」
物の怪が明千寺の集落近くに留(とど)まっているとは限らないし、それに、一体(いったい)だけとも限らない。
(昼間は少しずつ暗くなって、狭(せま)い溝(みぞ)のような道になって行ったけれど、黄昏時(たそがれどき)を過ぎれば、何処も辺りは真っ暗(まっくら)になるじゃん!)
笑顔の彼女はジレラの横に立ち、小さく胸の前で手を振(ふ)ってくれる。
そんな物の怪と仲良(なかよ)しかも知れない彼女の可愛い仕種(しぐさ)に、僕は幸せを感じてながらも、彼女流の脅(おど)かすジョークだと思うが、飛んで来る様々(さまざま)なモノの正体が凄く気になって非常に不安になった。
まだ陽が有る内に国道へ辿(たど)り着こうと、そそくさとホワイトダックスに跨(またが)り、エンジンを掛ける僕は、ビビる体の動きにキックスターターを、スコン、スコンと空踏(からふ)みのミスしてしまう。
「あっれぇー? おっかしいなぁー?」
アクセルを開き過ぎの単純ミスを、不思議そうに誤魔化(ごまか)す演出をする僕は、かなり格好(かっこう)悪(わる)くて超(ちょう)恥ずかしい。
キャブレターのチョーク弁(べん)を少し開いての3度目のキックで、ようやく掛かったエンジンのパシュン、パスッ、パシュンと不規則で頼り無いアイドリングのサウンドを、アクセルとチョークで微妙(びみょう)に調整しながら滑(なめ)らかに落ち着かせて行く。
アイドリングが安定したのを確認して、カッコンとローギアに踏み入れ、アクセルを開(あ)けながらクラッチレバーを放(はな)そうとしたところで、彼女が言った。
「あっ、言い忘れてた!」
スッと振っていた手を降ろして、真顔になった彼女が言った。
まだ得たいの知れない何かが有るのかと、再び僕の気持ちが構(かま)える。
「せっかく約束通り、薔薇(ばら)を持って来てくれたのに、退院しちゃってごめんね」
(違う、其処は謝(あやま)るんじゃなくて、普通に感謝(かんしゃ)の『ありがとう』でしょう)
「はっ、何を言っているん? 早く退院できて良かったじゃん」
(そうさ。僕が見舞(みま)いに行った事や、擦(す)れ違いだった事など、どうでもいいんだ。彼女が早く元気になるのに越した事はない)
「うん、そうだね」
ニコッと、また、彼女が笑顔になった。
「それに、花束(はなたば)は、受け取ってくれたんだろう?」
インフォメーションのお姉さんに言付けた花束も、折角(せっかく)の機会(きかい)だから、本人の声で感想を聞いてみたい。
「とても嬉しかったよ。凄く綺麗(きれい)で、好(い)い匂(にお)いだったわ……」
素直な感想が嬉しい。
才能の無い僕が、何事にも納得できる良い結果を得ようとするなら、成し遂(と)げる努力と勇気(ゆうき)が必要だと改(あらた)めて思う。
努力しても、必ず良い結果や高評価に繋がるとは限らないが、努力しなければ、納得や慰(なぐさ)めにも至らずに悔(く)やみだけが残るのを、僕は学んでいる。
つづく
桜の匂い 第2章 想いのままに 男子編(高校1年生~高校3年生) 遥乃陽 はるかのあきら @shannon-wakky
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