第2話 おれのために生きろ
「せんせい」
まただ。
うわごとのように、先生を呼ぶくせが治らない。あの人が恐ろしくて仕方ないのに、口はまるで恋しくて仕方ない人を呼ぶように声を出す。
現れるはずのない先生を呼び続ける自分を、天井から、もうひとりの自分が見ているような気がした。
わたしの心から先生が消えなくなってしまったのは、いつからだろう?
――二十二歳の夏のはじまりの頃、わたしは、何も考えられなくなっていた。
これから生きていく苦痛に比べれば、そこから逃げ出すための苦痛は大したことではないと思っていたほどに。
自分は死ぬべきであると考えれば、生きていく痛みが癒えるようだった。そう、だから、死のうと。身辺整理をしよう――そう思い立つと、散らかっていた部屋の、捨てるか捨てまいか悩んでいたようなものまで躊躇なくごみ袋に突っ込めた。当時住んでいた、三軒茶屋から十五分も歩く下馬のアパートだった。
部屋をすっかり片付けると、わたしは先生にメッセージを送った。死ぬ前の別れの言葉のつもりだった。
【わたしは先生の期待に応えられません。ごめんなさい】
すぐに既読がついた。
引き止めてほしい気持ちがなかったと言ったら嘘になる。だけど、引き止めさせるようなことも言えなくて、死ぬとは書かなかった。それなのに、先生は。
【死ぬつもりか、久倉】
気付いてくれた。涙が溢れた。死ぬと言わずとも、先生にはわたしの気持ちが通じたのだ。わたしたちの間では、通じるのだ、この時わたしはすぐにそう信じた。
【死ぬな】【うちに来い】
【死にます。でも、最後に会いに行きます】
先生の家まで、何を考えて行ったのだろう。家に首を括るために結いたロープを残して。
「死ぬなよ、久倉」
先生は、笑っていたのか、怒っていたのか。先生の胸で泣いたことは覚えている。
「死にたいんです、だって、――が叶わないなら――」
「それでも、死ぬな」
「先生……」
先生が、わたしの目をみていた。そのことも確かに覚えている。
「おれのために生きたらいい」
あれは、演出席で役者をじっと見つめる時のような、険しく、真剣な力のこもったまなざしだった。
「おれのために生きろ。お前は俺の女優だ」
わたしは、先生の。ふっと胸に息を吹き込まれたように、身体が軽くなった。
「……先生のために」
それが、二十二歳の夏のはじまりだった。わたしは一度死に、先生によって生き返った。先生――演出家は神さまで、わたし――女優は先生の使徒だった。
そのはずだった。
先生のために生きると決めて救われたはずの命は、先生を失った。
先生のために生きる前、わたしは何のために生きていたのだろう?
……どうして、わたしはあんなに死にたかったのだろう?
先生は、わたしに何をしたのだろう?
先生はペテンの神さま 演劇少女だったわたしがグルーミングに気付くまで 久倉 文香 @AyakaHisakura
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