先生はペテンの神さま 演劇少女だったわたしがグルーミングに気付くまで

久倉 文香

序文:先生はわたしに何をしたの?

第1話 悪夢

「わたしが悪かったんです、ごめんなさい、先生」

 声を絞り出そうとしてもかすれた息だけがこぼれた。先生のその瞳には、はっきりと蔑みの色が読み取れた。わたしが壊した。わたしが、わたしを壊したから、わたしの価値がなくなったから。だから先生は、もうわたしを見ない。


 いつもの悪夢から目を覚ますと、シーツに人の形が浮かぶほどの寝汗が染み付いていた。動悸で起き上がることもままならず、汗まみれのまましばらくじっと耐えた。


「……『先生』……」


 彼の事を思い出すたびに、居たたまれなくなる。ゆっくり起き上がると、座卓の上に放置してあったグラスを取り、注がれたままの安ワインを飲み干した。


 スマートフォンを手に、ネットニュースを流し見する。アメリカではハーヴェイ・ワインスタインに有罪判決がくだったらしい。


 わたしは先生と出会ったとき、未成年でもなかった。学校の教師と生徒でもなかった。無理に呼び出されたわけでもなかった。キャスティングを餌にされたわけでも、無理やりに性的関係を持たされたわけでもなかった。別の人には、無理やりにされたこともあったけれど。


 ただ、苦しい関係だった。


 だから、わたしの失敗を、友人たちは失恋だと言う。わたしの悔しさを、友人たちは未練だと言う。だから実際に、客観的に見ればそうなのだろうと思った。

 布団の中でカビていきそうなほど、ただじっとうずくまるしかできない。これが単なる失恋の後遺症ならば、世間の人たちはどうやって生きているんだろう。『恋愛』なんていうものにこんなにも心を打ち砕かれる自分は、世間で言う『メンヘラ』で、ダメな女で、ずっと愛していたつもりの演劇すら、本当は本気じゃなくて。


『恋愛脳のストーカー女』

 頭の中で声がする。頭の中の声だってわかってるから、幻聴じゃない。自己嫌悪にかられる時、いつもこの声がする。

『メンヘラストーカー。お前は一生幸せになれないよ』


 色素沈着したグラスに安ワインを注ぎ足す。これ以上思考の輪郭が浮き上がったら、窓から飛び降りてしまいそうで。


 ――先生が仕掛けたすべての罠の存在に気付くまで、わたしは何年もの間、こうして死んだように生きていた。

 わたしがなぜ罠の中に飛び込み、服従の糖衣錠を飲まされたのか。それに気付かないまま生きてきたのか。支配と暴力を『恋愛』と思い込んでいたのか。なぜそれに執着したのか。

 そして、どうやってそれらに気付き、回復の道程を歩み出すことになったのか。


 この回想録を、叶うことなら二十歳のわたしに読ませたいと願う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る