筋肉は裏切らない

異端者

『筋肉は裏切らない』本文

 よし! 今日も始めるか!

 私は目の前の筋トレ用の器具を見ながら思った。

 アームバー、エキスパンダー、腹筋台等……どれも自分を鍛えるために購入したものだ。

 私はまずは器具を使わずにスクワットから始めることとする。

 20回を5セット、計100回――昔は到底無理だったが、今では慣れたものだ。

 それから、腕立て伏せも軽100回――これは腕を使う筋トレ器具とのバランスを考えて、日によって変えている。

 次に角度の付いた腹筋台に横になる。今回は軽めに70回ぐらいにする。

 それから――私は次々とトレーニングをこなしていった。

 一通りこなすと、まだ肌寒い季節なのに額には汗がにじんできた。

 しかし、不快ではない。むしろ清々しい。

 今日もやり終えたという達成感、そして筋肉が付いてきているという実感。それらは筋トレでしか味わえないものだ。

 私がこうなった理由は、8年前にさかのぼる。


 8年前、私はしがないサラリーマンだった。

 毎日のように、眠いのをこらえつつ朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。

 だが、会社での実績は全くと言っていい程に評価されず、度々叱責された。

 しまいには、上司が毎日のように叱責してくるようになった。それもちょっとした細かいことばかりで、言いがかりもいいところだった。

 私は反論したいのを必死でこらえて聞いていた。すると調子に乗った上司の言いがかりはますますエスカレートした。

 明らかなパワハラ――周囲は誰も助けようとしなかった。何度も仕事を手伝った同僚も気まずそうに目を逸らすだけだった。

 こうして、私は会社を辞めた。誰一人、それを引き留めたりかばう人間は居なかった。


 それから、ニートとなった私は実家で暇を持て余していた。

 何の目標もなく、時間だけが過ぎていく日々。そんな中で見た通販番組が私を変えた。

 その番組では筋トレ用具セットが格安で手に入るとのことだった。

 私は暇つぶしにでもなればと思って注文したが、その結果筋トレにハマった。

 最初は辛いだけだったが、日に日に体が強くなり筋肉が付いてきたと分かると自信になった。鍛えれば鍛える程に成果が出る――当たり前のことかもしれないが、何の成果もない仕事をしていた私にとってはこの上なく嬉しかった。


 こうして、今に至る。

 筋トレで鍛えた体は力強く、以前とは別人のようだ。

 筋肉は、私を裏切らない――そう確信していた。

「……あの」

 ドアの向こうから、年老いた母が顔を出した。

「なんだ? 今筋トレを終えて一休みしているところなのに……」

「ねえ、そろそろ働く気はない?」

 母はおどおどした様子で言った。この体の私が暴れられたら止められないことを知っているからだろう。

「どうして?」

「どうしてって……もう、8年にもなるのよ。昔のことは忘れて……」

「うるさい! 働いたって、またいいように使われて裏切られるだけだ! そんな馬鹿げたことがしてられるか!?」

 私が怒鳴ると、母はびくりと体を震わせた。

「でも、父さんも……もうあなたのことは面倒を見切れないって……」

「そんなもの知るか! 文句があるなら出て行け!」

 私は部屋の片隅にあった鉄アレイを投げつけた。

 母は短い悲鳴を上げるとドアを閉めて去って行った。


 ある日、私がプロテインを買って帰ってくると、家には誰も居なかった。

 代わりに置き手紙があった。文面は「もうあなたのことは面倒を見られません。出て行きます――」そんな意味合いのことが書いてあった。

 私は笑った。

 結局、親だのなんだの言ってあいつらも裏切るのか。

 もう誰も信用できない。私は筋トレの準備を始めた。


 信じられるのは、自分の筋肉だけだ。

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