第3話 手の指

 二人で居酒屋に行ってから一週間後、仕事を終えたミズキはエノコの誘いで砂浜へとやって来た。

 電車で何駅かという距離の砂浜は夜間なのもあってオフィス街の喧騒とは正反対の環境である。

「ここね。昔よくお母さんに連れられて来たんだ。単純にお母さんと砂浜で遊ぶのが好きだったんだけど、学生になってからは一人で来たりもしたよ」

 エノコは小さく「やなこと忘れられるから」と漏らした。

 エノコは先週と同じ靴と靴下を脱ぐ。

 素足で感じる夜の砂浜は海風でほんのり涼しく、柔らかい砂が心地良い。

「キミも脱ぎなよ。気持ちいいよ」

 ミズキは言われるまま素足になって肌で砂浜を感じた。

「確かに気持ち――」

「それじゃあ競争だ。あそこのカーブが目印ね」

 言うが早いかエノコはすぐさま駆けだした。

「あ、ずるい!」

 つられてミズキも走り出した。

 距離自体は短いが、走り慣れていない砂浜は体力を消耗する。

 結局ミズキはエノコに追いつけないままゴールを迎えた。

「やったー」

 エノコは息を荒げたまま砂浜へと倒れ込む。

 寝転がって服も顔も髪も砂まみれにしたエノコはミズキを見て笑った。

「あはははっ、もおいでよっ」

「ずるいぞっ」

 ミズキもエノコの隣に身を投げ出した。

 二人で砂まみれになったまま寝転がって向かい合う。

「この前の靴、アタシが学生だった頃のサイズなんだ。アタシが家を出たの十代の頃なんだけど、お母さんの時間はそこで止まってるのかもね」

「お母さんに今のエノコを教えてあげなよ」

「なんて言うの?」

「俺と砂浜で寝転がってる写真でも送ってあげればいいんじゃないか?」

「バカ」

 エノコはミズキの鼻に人差し指で触れる。ミズキの視界にエノコの細長い手指と薬指にはめられた指輪が映り込む。

「本当は、先週会ったとき、居酒屋に行くんじゃなくて靴を買い替えに行くつもりだった。でも、キミに会っちゃったらなんだか靴を買い替えない言い訳ができるような気がして……」

 それでミズキと二人で居酒屋に入ることにしたのだ。

 エノコは「キミに興味があったのは嘘じゃないんだけどね」とこぼす。

「いつもそうなんだ。アタシ、いつも何かから逃げ出したいって思ってる。靴だってさっさと替えればいいのに、お母さんのことを思い出して替えられなかった。そんな生き方してたら、これだよ」

 今度ははっきりとミズキに婚約指輪を見せる。

「身を固めろって……こんな生き方をしてきたツケなのかな」

 ミズキはエノコに手を伸ばす。エノコはミズキの手を取ると、そのまま自分の方へと引き寄せようとした。

 けれども、ミズキはエノコの力を借りずに自分から寄り添う。

 指輪をはめたエノコからさせてはならないのだと、ミズキは思った。

 だから、彼の方からエノコを抱き締めた。エノコはミズキを抱きしめかえすと、彼にだけ聞こえる声で――

「ねえ。次はキミから誘ってよ。アタシ、いつだって行くから」

「わかった」

 次誘うときはミズキから。しかし、いつ誘うのかは約束しない。したら、それが最後の再会になってしまいそうだとミズキは思った。

 エノコもそれを感じたのか、ミズキと二人で抱き合ったまま動かず、何も言わずに過ごした。

 星空に覆われた砂浜は海風で肌寒い。

 二人は互いの体温で温め合うように身を寄せ合い、心臓の鼓動と波音だけを体の奥に刻み続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エノコの指 じゅき @chiaki-no-juki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ