第3話
私はぐったりと横たわるすずなを眺めながら水を飲み干した。
夜空が白み始め、窓の外から
陰影に沈む女のおくをさっきまで搔き乱していた指。洗い流してしまった指の匂いを嗅ぐ。少しだけ名残惜しく思った。
なにひとつ纏わないすずなの陰が静かに寝息を立てる。恐れるものなんてなにも無いと言わんばかりに曝けだしている女の魂の濃さを目の当たりにして、それを美しいと思った。
やがてすずなはふうっと大きく息を吸うと頭のあたりをまさぐり、眼鏡を掛けて身を起こした。
「おはよ。水飲みな」私はすずなに水の入ったグラスを差し出した。
「ん。ありがと」
今よりも若かったころと違って身体のあちこちが軋んでいるように見えた。それでも、水を飲んで大きく息を吐くと彼女はすっかり目が覚めたようだった。
「くくくっ」
「なした?」
「いや。ちょっとね」
「ん? なにさ、気になるしょや」
「いやぁ、ね?立てこもってたときのこと思い出しちゃってさぁ」
気のない素振りをしてすずなを流し見する。私はなにを言えばいいのか分からなかった。
「6日目くらいだったかなぁ。見回りをする番が来て、館内をもう一人の学生の子と回ってたんだ。最初の高揚感が落ち着いてきた辺りで、電気とインターネットが当局によって物理的に遮断されていて、中は懐中電灯くらいしか灯が無くて、情報は決死の覚悟で外に出た仲間から取るしかなかった」
「それは、さぞ不安だったでしょ」
「まあね。それで、作戦会議を行う本部の講堂へ戻るときだったんだけど、行きのときはまったく人の気配もなかったはずの角からなにか小さなものを打ち鳴らすような音が聞こえてきたんだ」
「学内の人間?」
「うぅん、たぶん。それで学生の子とこっそり近づいてみたの。もし、当局の内通者だったり、分派活動らしきものが見とめられたら運動の評議会で報告して会議にかけなくてはいけなかったから。たとえそれが同じ運動の学生であっても仏心を起こしてはいけなかったのね」すずなは目が据わっていた。
「それは会議にかけるような出来事だったのかい?」
「それがさぁ」すずなはまゆをくしゃっと歪めると口の端を大きく広げて、噴き出した。
「なにさ」
「それが、そこには壁に手突いてる女とその女の手を掴みながら腰をぶつけている男がいてさぁ」
「はぁあっ?」
「くくくっ」すずなは楽しそうに細めた目を指で拭った。「いやぁ、緊張した状態が続いてたとはいえさぁ。もう、困っちゃったよ。学生の子なんか評議会に報告するって息巻いてたんだけど、忍びないなぁって思いながら必死で止めてたんだ」
「結局、どうなったの?」
「しぶしぶ、なにも見なかったことにして戻ったよ」
「そ、そうかぁ」
「面白かったのがさぁ、その子。めちゃくちゃ真顔で怒ってたんだけど、一緒に帰ってる途中からほとんど話さなくなっちゃって。その代わりに耳がだんだん真っ赤になってやんの」
「性格悪っ」
「えぇぇ?だってあんなに人の耳って赤くなるのかってくらいだったんだよ。それこそ、今のこの部屋と同じくらいの明るさだったのに分かるほどだもん」
そういえばすずなは昔からよくこういう上品じゃない話を楽しそうにするんだった。私は彼女みたいになれるだろうか。彼女みたいに兵役のときのことを楽しく話せる日が来るのだろうか。
でも、もしすずなが再びどこか私の知らないところへ行ってしまうのだったらそれも叶わないだろう。
水を飲み干してしまうと、すずなは畳に放り投げたトレーナーをゆっくりと身に着けていった。彼女はテーブル越しに向き直ると、キキョウを頼まれてほしいと言った。
「虫のいい話だとは思うわ。戦争から戻ったばかりの幼馴染捕まえてこんなこと頼むなんて。父が長くないって聞いたの。親族ももうほとんどいないし、仲間はほとんど捕まったか手配されている。あなたにしかお願いできない」
「頭を上げてよ、すずな」床に頭を擦ろうとするすずなの両手を掴んだ。「私がキキョウちゃんを守る。すずなの子供を育てるよ」
具体的なことなどなに一つ考えてはいなかった。それでも、私は自分でも驚くくらいすずなの願いを聞き入れようとしていた。
「風連。ごめんなさい」
「すずな。その代わり条件がある」
「なに?」おそるおそる彼女は訊いた。
「必ずまたキキョウちゃんと私と会えるようにすること。一緒にご飯でも食べよう。そして、キキョウちゃんが二十歳になるまでは生きろ」
彼女は寂しそうに目を細める。
私は彼女の肩に軽く拳を当てて笑みを作った。
私はこのときの肩の感触が今でもときどきよみがえってくる。
あれから1年ほどがたった。
私は冬の終わりに生まれ育った町から南にある大都市に訪れていた。彼女の娘を連れてすずなに会いに行くのだ。彼女が当局に拘束され、収容されてから何回か手紙のやり取りをしていたけれど、すずなと会うのはあの夏以来だった。
「出る前に温かいものでも飲んでかない?」小綺麗なホテルの部屋を出る前、私はキキョウちゃんに訊いた。
「んん。じゃ、ココア飲みたい。砂糖少なめのやつ」
「分かった」
今年の春に進学する少女は折り目のしっかりついたアッシュグレーのスカートに、襟がパリッとしたネイビーのブレザーを身に纏う。首元の真っ赤なリボンは彼女が時間をかけて自分で結んだものだ。最初に身に着けたときは私が手を貸してあげたけれど、今日は自分でやると言って結んでいた。
1年前、キキョウちゃんの夏休みの終わりとともにすずなは自らの娘には長い出張へ出かけると告げて老父の元に預けた。しばらくは国内外を転々としていたようだったが、当局へ引き渡される直前には運動仲間の伝手で大陸のほうに潜伏していたらしい。
その年の暮れにすずなの父が亡くなり、私は彼女の願い通りキキョウちゃんを実家で引き取った。控えめに言って変化を好まない私の母はキキョウちゃんが来るまではくどくどと私に言っていたけれど、いざ家に小学生のみなしごがやって来ると想像以上に親身になって世話をしてくれた。良くも悪くも何事もすぐにあきらめる彼女に感謝した。もともと、私は家を出てキキョウちゃんと暮らすつもりだったからだ。それなりの額の恩給があったとはいえ、無職の女が子供と生きてゆく道は限られていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」ロビーの自販機で買ったココアをキキョウに渡す。
私はコーヒーをすぐに飲んでしまうと紙コップを折りたたんでくずかごに投げ入れた。キキョウちゃんは下ろしたての黒いローファーのつま先の片方を、穴を掘るようにもこもこした毛の絨毯にねじって押し付けていた。
「冷めちゃうよココア。それとも、やっぱ甘いほうがよかった」彼女の伏せた顔に現れたほんの少しの陰に気がつかないふりをして私は言った。
「ううん。おいしかったよ」彼女は目を細めるとココアを飲み干して紙コップをくずかごへ潰さないで捨てた。「行こう。まさみさん」
キキョウちゃんのココアはどんな味がしたのか私には知るよしもない。
私は真冬の北国で着ていた厚手のジャケットを羽織り、首元までジッパーを上げた。冬の終わりに来たのは初めてだったから知らなかったのだけれど、この街では強烈に吹き付ける風が想像をはるかに上回るくらい体温を奪うのだった。風の冷たさとは裏腹に日差しが強い。この分では昼には外套は要らなくなるかもしれない。
「うぅ、寒いねぇ」キキョウちゃんは肩をいからせながらコートのポケットに手を入れながら歩いた。
「手袋使うかい?」
「んん。大丈夫」
「んんって返事しないの」
「はぁい」
都市は、その巨大さのために隣接する都市との境目がほぼ消え去り、その集合そのものが一つの都市のようになっている。森や平原・山を抜けてゆくと道が集まって建物の数が増えてゆき、そこを過ぎれば再び森や平原になってゆく故郷の辺りの旅路とはなにもかもが異なっていた。
人と物資とエネルギーが絶え間なく送り続けられるネットワークの中枢は、私にはある種の終着点を感じさせる。耐用年数の迫るインフラや見えない鎖以外失うものを持たない人々、その膨大なエネルギーを瞬時に暴発させるときを地下でひっそり待つ地震、それにも関わらず整然とした街並みと綺麗に磨かれたビルのガラスがそう思わせるのかもしれない。
日常生活でまず目にすることのないおびただしい数の車両が行きかう。幹線道路の歩道から眺める切り取られた水色の空は埃っぽくて、それでいて私がよく知っている穏やかさでくすんでいた。
私たちは営団地下鉄に乗り込むと自動ドアの左右に分かれて立った。朝のラッシュが終わった電車は、席がまばらだったからキキョウちゃんに譲ろうとしとしたのだけれど、逆に勧められたので結局二人とも立つことになったのだ。
まばらな乗客の中に制服を着崩した女の子がいた。つむじの辺りに黒色を残した亜麻色の髪をツインテールにしている。
「こら、じろじろあちこち見ない」私はキキョウちゃんに顔を寄せて小声で注意した。
「ごめんなさい」悪戯がばれてばつが悪いみたいに笑った。「私も中学に上がったらあんな髪にしてみたいなぁ」
「学校のお休みのときにしなさいね」
「えぇ」
「分からないけど、たぶん校則で禁止でないか」
「ふぅん」
中学生のときに、すずなは髪を金色に染めてきたことがあった。とは言ってもブリーチのし過ぎでほぼ白髪だった。彼女は先生にこっぴどく叱られて半泣きで職員室から帰ってきたのだけれど、その日は一日中白髪の状態で授業や部活をしていた。
他愛のない思い出話を聞かせてやるとキキョウちゃんはとても楽しそうに笑った。
彼女は空港を降り立った直後から物珍しいものや気に入ったものを指差したり話題に上げたりしていた。そのくせ、面会日の前に観光地へ行こうとすると人ごみに酔ってしまったと言って、彼女の年に似合わない言葉でそれとなく拒むのだった。
話が途絶えてしまうと、眼鏡を掛けた色白の顔が自動ドアのガラスの向こうの闇に浮かんだ。この子は黙っているとまったく違った姿を私に見せてはっとさせる。
少女がすずなと重なって見える。かつての私やすずなとは違う制服を身に纏っているのに。昔のすずなのように薄い栗毛色の柔らかい髪を腰の上まで伸ばしているせいだろうか。氷細工のように繊細で指でつついてしまえば溶けて壊れてしまいそうだった。
やがて、電車が地上に出て高架を疾走する。車内が朝を迎えたように輪郭のない光に包まれた。
「あ、あそこ。でっかいタワー見える。ほら、見つけた?」
「お、ほんとだ」
「こっからでも見えるんだねぇ。すごい」
押し黙っていた女の子は口を開けばいろいろなものをまるで初めて見たかのように楽しく語り始めるのだった。
頑丈そうな拘置所の建物は想像していたよりもものものしくなかった。穏やかな春先の陽だまりがまんべんなく壁を白く照らしているからかもしれない。
中で所定の用紙に書き込むと、職員の人に待合室へ案内された。さすがにキキョウちゃんもこのときは借りてきた猫のようにおとなしくしていた。
再び職員に呼ばれるとき、キキョウちゃんは首のリボンをしきりに手鏡で確認しては引っ張っていた。
「行こう。30分しか時間が取れないから」
「分かった」やおら立ち上がると少女はまゆをくしゃっと曲げて笑みを作った。「行こう」
扉が軽い音を立てて開かれるとアクリルの向こうにもうすずなが座っていた。
「おう、思ったより元気そうでしょ」
伏せていた顔が明かりが灯るように笑みを浮かべる。彼女は最後に会ったときよりもいくぶん痩せていた。
「しばらくだったね! 風連。それに私の子豚ちゃん! 」と言って彼女は抱きしめることのできない両腕を広げた。
「子豚ちゃん?」
「はあぁ? 子豚じゃないし! 」
「すずな、子豚ちゃんって......」
「ほんとだよ! 母ちゃんったらいっつも変な名前で呼んでさ」
私は思いがけない形でこの母娘の他愛もない喧嘩に巻き込まれてしまった。
「風連。ここまで連れてきてくれてありがとう」と自分のたった一人の娘との言い争いが終わるとすずなは頭を下げた。「ううん、キキョウの面倒を見てくれて本当にありがとう」
「やめてよ。キキョウちゃんみたいなかわいい子がいると、三十越えの女と高齢者の二人暮らしが華やいでいいもんよ」
「かわいい? いや、まぁそれほどでも」その場でキキョウちゃんは首をすぼめた。
「ふふっ。なんとなくあの町での暮らしが目に浮かぶようだわ」と感慨深そうにすずなは言った。
「そういえばさ、キキョウちゃん今年から中学に上がるしょ」
「自分の娘の学年くらい忘れないわよ。あの町の中学? 」
「うん。私らの学校は廃校になっちゃったけど、本町のほうの中学校に入れるようになったからさ」
「あぁ。そういえばそうだったね」
「それでね。今日はキキョウちゃん、中学の制服を着てきてるんだなぁ」
「えぇ? うそっ。見たい見たい」
「キキョウちゃん、いつまでコート着てるの。お母さんに見せたげな」
キキョウはおずおずと立ち上がると背中を向け、ベージュのダッフルコートのボタンを取ってゆく。その場で
「キキョウ。大きくなって」口元をてのひらで押さえながらすずなは呟いた。
「どう? 変じゃない? 」
「とても素敵。大人になったみたい」すずなはまゆをくしゃくしゃにして、笑った。
キキョウちゃんはなにも言わずに口のはしを上げて目を満足そうに細めていた。
私はすずなと手紙のやり取りをこまめにしておいてよかったと心底思った。生々しい話のやり取りは真っ新なブラウスを纏った子供には聞かせるべきではない。すずなが逃亡していたときからこの国に戻ってくるまでの話や裁判の話、隣の独房の死刑囚が夜にすすり泣く話などを書きつけていた手紙―すずながキキョウちゃん宛に書いた手紙とは別の手紙だ―は彼女が大人になったときに渡そうと思う。
そのような話をなぜ楽しそうに書いているか私には理解ができなかったけれど、一方で彼女らしくて腑に落ちた。彼女は同じ手紙の中で必ずキキョウちゃんのことを尋ねていた。そして、本当は自分には母親の資格など無いのだと、キキョウに合わせる顔がないのだという文面を綴っていた。私はそれに対して慰めたり、ときには叱るような文を書いて返した。そして、彼女がキキョウちゃんに会えるようにわずかばかりながら力を注いだつもりだった。
拘置所を出ると風は穏やかになっていたので私とキキョウちゃんは外套を脱いで駅へ向かった。彼女の無数の細い髪が風にたゆたう。運命の歯車が変わっていれば彼女も都会の中学生になっていたのかもしれなかった。
「お昼食べたいものある? 」
少し間を開けてキキョウちゃんが呟いた。
「まさみさん。私、変じゃなかったかな」
「なによ、お母さんも制服見て喜んでたしょ」
「ううん。じゃなくて、母ちゃん。母と話してるとき、私変な気を使ってるように見えなかった? まさみさんと話してるときみたいに母は私と話してた? 」
「ぜんぜん変なことなかったと思うけどなぁ」
私は少し考えてから答えた。
「お母さんはね、というか人は誰だって他の人と会って話すときはそれぞれ違う顔を見せるけれど、わざとそうしてるんじゃなくて自然とそうなっちゃうことが多いと私は思うんだ」
「そう? 」
「そうだよ。だって、それぞれ違う人と顔を突き合わせるでしょ? 」
「たしかにそうだね」
「だからキキョウちゃんは私の知らないお母さんを知っているし、逆に私はキキョウちゃんの知らないお母さんのことを知っている。でもね、それはけしてお母さんがキキョウちゃんになにかを隠してるんでなくて、そのときその相手に一番ぴったり合う言葉を一生懸命選んでるからなんだ」
キキョウは髪を弄んでいた手を止めて私に向き直っている。
「もちろん、そんなことをしないで一方的に言葉を放り投げるような人もたくさんいるよ。けれど、すずなは私の知る限りそんなことをする人じゃなかった。どうかな。キキョウちゃんにとって、お母さんはどんな人だ? 一緒に暮らしていたころとお母さんは変わってしまったと思うかい? 思い出してごらん」
公園に植えられた桜の蕾が膨らんではち切れそうだった。きっと色が薄い種類なのだろう。
「ううん。一緒に暮らしてたころ、私が成績を伝えたときとか友達と遊んだこと話したときみたいに今日もお母さんは喜んで話を聞いてくれたし、話してくれた」
「そっか。よかった。私も最後に会ったときみたいにお母さんと話せたよ」
小さな建物が立ち並ぶ街を私たちは軽い足取りで歩いた。
「ねえ、まさみさん。さっき電車で見たタワーに行きたい」
「いいよ」
「そこでお昼にしない? 」
「そこはたぶんべらぼうに高いからなぁ。お昼の後のデザートでカフェに寄るのでもいいかい? 」
「分かったよ」
「んん。じゃ、お昼このあたりで探すか」
「天丼食べたい! 」
電車や人、都市の上を流れる風が運ぶ季節、それら無数の音が集まって作り出されるうなりが満ちている。乾いた風と空が灰色の街並みに再び彩をもたらしつつあったことを私は知った。
ガラスの殻 あじさし @matszawa
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