波間の生命
小西オサム
波間の生命
夜の海はよく冷える。桜のそろそろ咲く町の砂浜は波音ばかりが響いている。春はまだ遠い。海はなおさら冷えていることだろう。砂浜に立って海と向き合っている青年が一人いた。寝巻きのまま砂浜へ向かったのか疑うような格好で、まるでどうしてここにいるのか分からないとでも言うように青年からは戸惑いがうかがえた。
海の向こうのあちこちが突然光り出す。その奥から大勢の人の声が続き、その声と光は青年のいる陸へと近づいてくる。一つの光が足早に青年の方へと向かってきた。青年の顔からは恐怖が広がっていく。彼は震えた声で、だめだ、ここはだめだと言って、一歩、もう一歩と後ずさっていく。
その幾つもの海からの声は楽しそうな声ばかりであった。しかし青年はその声の明るさにもかかわらず、ひどく動揺した足取りで砂浜を踏みしめ、動揺で動けなくなっていく足を海から遠ざけようとする。一声、一声の言葉が彼の耳にも届き出していく。先頭からこちらへと来る一つの光が彼に向かって叫んでいた。
「逃げて。はやく逃げて」
青年は狼狽を顔一面に見せて、海に背を向けて走り出そうとした。しかし、砂に足を掴まれたのか、彼は右足を左足に引っ掛けてしまい、倒れ込んでしまった。彼はおそるおそる海の方へと視線を送る。もうすぐそこまで先頭の光がやって来てしまっていた。彼は光の後ろに女性が立っていることに気づいた。
「逃げられなかったのね。あなたは」
「誰、ですか」
「私のことを話している時間はない。あなたに一つだけ忠告しておく。これから来る人たちの食事は一切食べないで。何も飲まないで。そして敬意を忘れないで」
「あの」
「安心して。大丈夫だから」
その女性の服装は青年には判然としなかった。顔さえもよく見えなかった。胸元の光に照らされた彼女の首筋ばかりが彼の目についた。海からの笑い声が勢いを増していく。もうすぐそこに数多くの光の一団が迫っていた。一団の光が、一つ、また一つと海辺から陸へと上がっていく。
立ち上がった彼は、あの女性にここがどこかと問い詰めようとしたが、そのときには既にどの人物が先ほどの女性なのか判別することができなくなっていた。彼に気づいた幾人もの光の持ち主が、彼に声をかけてくる。彼は逃げ出す方法をあの女性から聞き出しに行きたかったが、敬意を忘れるなという忠告もあって返答をするしかなくなっていた。
ここがどこか知らないと会話の最中にこぼした彼に対して、中年の男の声が、やっぱりこの子は迷子だよと言い出す。周りの光の持ち主の中には同情する者や、少し皮肉まじりに誰も彼も分からなくなるんだと不思議な事を口走る者などがいた。彼はその一つ一つの光の持ち主の顔を暗がりもあってか見ることができなかった。
どこかの光の持ち主たちが宴会を始めたらしい。陽気に古ぼけた曲を歌い出す。やっぱり綺麗になったねえという光の持ち主の呟きが彼の耳元に留まり続けている。それは賑やかな宴であった。しかし何かがさびれていた。青年の彼は、その心もとない溌剌さに居心地のなさを感じずにはいられなかった。
帰りたいという言葉が思わず彼の口をついて出る。大丈夫、お前はすぐにここからいなくなると光の持ち主の誰かの声がする。それはひどく優しげな諦念のこもった声であった。ほらもう消えるじゃないかという声がして、手を見ればそれが次第に闇にまぎれていく。彼はよかったよかったと安堵する光の持ち主たちに問い詰めずにはいられない。
「あの。どうしてそんなに笑えるんですか。そんなに寂しそうなのに、どうしてそんなに」
「これは私の勝手な思い込みなのかもしれないけれどね。きっとこの先この島から大勢の人がいなくなる。それならそのときまでにこの地で生きていた誰かのことを思い出にすればいい。そして誰かの思い出の人になればいい。それが死んでも生きても支えになるから」
それが生きる、じゃないかねとその光の持ち主は青年に言った。その返答をするまでもなく、闇は彼に覆いかぶさった。波音が海岸へと広がっては、ゆっくりと海へと帰っていく。砂浜に散らばった幾つもの光が彼の目に残っていった。
波間の生命 小西オサム @osamu55
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