在りし日の修学旅行

氷雨ユータ

 今日は待ちに待った修学旅行だ!

 どれくらい待っていたかと言うと、半年前から楽しみにしていた。否、入学当初から楽しみにしていた。何を笑う事がある、関わる者全てを不幸にする『首狩り族』と言えども中学生だ。テンションが上がって悪いと言われる筋合いはない。俺にだってそれくらいの権利はある。では今から何故楽しみなのか。それを少しばかり語るとしよう。


 まず宿泊場所が旅館だという事。


 旅館と言えば温泉。そして浴衣だ。女子の浴衣姿を見られるというだけで一定の期待を持てるし、何より旅行前から男子共は女子と示し合わせて一緒の部屋で遊ぼう的な連絡を交わしていた。俺の『首狩り族』は飽くまで噂程度……半信半疑くらいだから、粘れば仲間にも入れてもらえる筈だ。

 次にグループ分け。修学旅行の随分前から散策班は決まるのだが、『首狩り族』の影響で、俺はものの見事に仲間外れにされた。

 半信半疑とは言ったが、要するに五割は疑われているという事であり、例えば五十パーセントの確率で爆発するけど五十パーセントで爆発しないから安全だよと言われて、じゃあそんな爆弾を抱えようと思うかという話だ。クラス全体ならまだ不幸が分配されるかもという根拠のない理屈にも縋れるが、散策班は五人が最低人数。仮に分散論が正しかったとして精々五分の一程度。死人が出る程の不運を五当分してどれだけ効果が薄れるだろうか。

 という訳で、俺は見事に一人ぼっち。普段仲間外れを喰らう人間がむしろ積極的に輪の中に入るという何とも無慈悲な結末に俺は涙を呑むしかなかった。

 しかし捨てる神あれば拾う神こと女神あり。俺のテンションが上がってる一番の要因はむしろそこにある。

「おはよう!」

 時刻は朝五時。学校下の駐車場に止まるバスに場違いなテンションを誇る声が響き渡る。座席を見ると殆どの男子はまだ眠気を覚えているらしく、出発まで窓に頭を預けて眠っている者まで居た。俺? 俺はあり得ない。眠気なんて感じない人間になったのだ。



「ハロー。狩也君」



 水鏡碧花。『首狩り族』と呼ばれる俺に寄り添い続けてそろそろ十年が経過する。校内一処か町一番の美人であり、俺のクラスで彼女を狙わなかった男子は居ない。仏頂面で淡白でとにかくとっつきにくいのが難点だが、そんな彼女と俺は友達だったりする。

 さて、前提を言い忘れたので補足すると、バスは二台ある。男子用と女子用だ。本来なら碧花も女子用バスに乗る筈だったのだが、これまた散策班とは別に席の位置を決める時、誰も俺の隣に座りたがらなかったのだ。

 普通、そういう時は先生の隣などの処置が必要になるだろうが、生徒の噂を知らぬ教師は居ない、まして俺のはとびきりの悪評だ。避けたかったのだろう、『じゃあ私が隣に座るよ』という碧花の案を採用せざるを得なかった理由はそれしか考えられない。

 今は盛り下がっているが、碧花だけが特例でこちらに乗ると決まった時の男子の盛り上がりっぷりと来たら他の女子に幻滅されるレベルだった。一人それが原因で破局した奴が居るらしいが真偽は定かではない。

「よう碧花。眠くないか?」

「全く。私としても修学旅行は楽しみだからね。眠る前の遠足みたいな物かな」

「もしかして興奮で眠れなかったのか?」

「まさか。夜更かしは美容に悪いよ。ちゃんと、きっちり、寝た。疑うなら確認する?」

 席に座ると、(荷物はバスの腹にある置き場だ)碧花がぐっと顔を近づけて強引に視線を合わせてきた。

 ……綺麗な顔だ。

 何処をどう切り取っても美少女そのもの。一見してスタイルは悪い様に見えるが、それは彼女の胸が中学生にしては規格外に大きい……グラビアアイドル顔負けだ……からで、実際のスタイルは良すぎて頻繁にプールで男子達の目の保養、女子の憧れみたいになっている。胸を強調するデザインのセーラー服などあり得ないが、それでも尚、彼女の胸の自己主張は抑えきれない。これがブラウスになると破壊力が倍増し、ボタンが悲鳴を上げて生地がパッツパツになっていたりする。

 ここまでスタイルが良いと、大人っぽさを持つ黒色の下着も十分すぎるくらい似合っていて、夏の透けブラは俺にとって風物詩とさえ言える。

 完全に変態の感想だが、残念ながら透けブラは何らかの対策を施しているせいで滅多な事が起きないと見れない。

 俺以外は。

『下着が透けてても、君に見られる分には別にどうでもいいよ』と本人が言っているので、俺は変態ではない。合法だ。

「……美人だ」

「君は何を確認してるんだい?」

「ああいや、ごめん。確かに目覚めてるな」

 碧花の希望で彼女は窓側に座っているが、これは都合が良かった。何でも彼女は『君以外に絡まれるなんてまっぴらごめんだから君さえ良ければ窓側に活かせてよ』との事で、利害が一致したのは奇跡に等しい。

 俺も碧花と沢山話したいから。

 彼女が居なければ俺は一人ぼっちだった。旅行中は彼女募集などと言わず、思う存分碧花と話そうと考えている。なんだかんだ言っているが、やはり俺は水鏡碧花という女性が大好きなのだ。出会ったあの瞬間から、きっと誰よりも。

 だから一番良いのは碧花が恋人になってくれる事だが、フラれたら確実に立ち直れないので告白はしない。卒業する時には言うつもりだが、小学校の頃もそう思って結局しなかったので信憑性は怪しい所がある。

「凄く今更なんだけどさ、お前は良かったのか?」

「何が?」

「女子って基本的には仲の良い人と喋りたいだろ。男子バスに乗ったら……それが出来ないからさ」

 碧花は呆れた様に小さくため息をついて、俺の膝に手を置いた。

「本当に今更じゃないか。まず私は君以外と懇意にしていないし、仲が良い人間と絡みたいのは殆どの人間がそうだろう。それで、私と一番仲が良いのは君だ。良いも何もこれしか選択肢がない」

「…………な、なんか恥ずかしいな。改めてそう言われると」

「そう? ふふ、でも事実だ。だからたくさん喋ろうよ、旅行中はずっと一緒なんだから」

 それは比喩でもなければ励ましでもない。目的地に辿り着いてからは宿泊するまで散策班というまた別のチームに入れられるのだが、そこでも仲間外れにされたお蔭で俺は碧花と組む事になった。最低五人と言ったが俺達は特例だ。

 そんな実質新婚旅行みたいな状態でテンションを上げるなという方が無理だ。少なくともこのクラスの男子は同じ状況になったら俺と同じ反応をするだろう。

「バスってまだ出発しないのか?」

「十分くらいしたら出発すると思うよ。それまで散策ルートの確認でもしておく?」

「おお、それいいなッ」

 


「おい……狩也の野郎調子乗ってるよ」

「碧花と話せるからって……なあ?」

「マジ揉みてーわあ」

「つーか至近距離であの胸見れるとか役得もいい所じゃんか」



 一部完全にセクハラだが、碧花は気にも留めていない。先程は微妙に笑っていたが、それも表情としては殆ど変化はない。自慢じゃないが分かるのは俺くらいなものだ。

 これは余談だが、男子で一番手が大きい奴でも碧花の胸は覆いきれない。

「まず駅についたらバスを降りて一部荷物を返却してもらって散策開始。そこから私達は―――」

 ここでも俺と碧花の意見は一致していて、誰とも会いたくなかった。会えば確実に碧花との時間を邪魔されるだろうし、彼女の方は心地よい空間が乱されるとの事。なのでメジャーな場所は避けて、誰も行かなそうでそれでいて風情がある場所を通るつもりだ。そんな無理難題が通るのか疑問だったが、通ってしまったものは仕方ない。

「―――っていう感じだね。質問は?」

「……ここにさ、神社あるだろ。恋愛成就っていう……効能、本当なのか?」

「さあそれは分からないな。でもまあ……大丈夫だよ。君は素敵な男性だから」

「素敵な男性なのに『首狩り族』なのか俺は」

 あまり占いなどは信じないのだが、俺に関わってきた奴等は碧花という例外を除いて不幸な目に遭い過ぎている。ここまで来るともうそういう星の下に生まれたと言われても俺は信じる。信じるしかない。

「あのねえ、だからそれは気のせいだと言ってるだろう。本当にそういう力があるなら私の首は今すぐ飛ぶさ、物理的にね。何度でも言うけれど気にしちゃ駄目だ。誰が何と言おうと君にそんな力は無い」

「碧花……」

 精神的に、彼女の言葉は俺をずっと助けてくれている。出会った時からずっと、水鏡碧花という女性は俺にとっての女神だ。恐怖され、のけ者にされる事さえある俺を、彼女だけが包み込んでくれる。全てを肯定してくれる。

 首藤狩也という人間がひねくれずに済んでいるのは紛れも無く彼女のお蔭だ。もし恋愛成就の効能が本当なら、俺は碧花と…………



「あー全員乗ったかー?」



 ピンク色の妄想に浸ろうとしたと同時に飛び込んできた担任の声に驚いて、俺は危うくその場で漏らしそうになった。いや、それは冗談なのだが、随分オーバーなリアクションを取ってしまった。

「つー訳で点呼取るぞー。一番、相上―――」

 何事も無く点呼は続いていく。俺も呼ばれて元気よく返事を返すと、担任が遠慮がちに尋ねてきた。

「碧花……その、嫌なら狩也の隣じゃなくて先生の隣でも良いんだぞ?」

「いえ、大丈夫です。私が決めた事ですから」

「ああ、そうか…………」

「狩也君だって同じクラスの一員。修学旅行で一人っきりなんて悲しい思い出を作らせたくありません」

 その模範的な理屈にケチを付けられる教師は居ない。まして担任だ、思いやりのある生徒以外のどんな評価を下せるだろうか。担任が点呼の続きを始めたのを見送ると、彼女は小さな声で『なんてね』と口元を緩ませた。

「善意でこんな真似が出来る程、私は聖人じゃないよ。君の傍だから了承したんだ」

「……まあ。お前も勘違いされたくないよな」

「勘違いって?」

「いやほら、俺となんかそういう関係みたいな……あれだよ」

「ああ、そういう。それは別にいいかな、気にしだしたらキリがないし、君の傍が心地よいのは事実だから」

 碧花が座席の手すりの下から俺の左手を優しく握りしめた。柔らかくて暖かくて張りがあってスベスベしていて……一生触れる。その感触だけで今すぐ昇天していまいそうだ。童貞特有の過剰反応と言われればそこまでだが、こんな美人に構ってもらえて嬉しくない奴はこのクラスに存在しない。俺の反応は断じて不自然なものじゃない。

「まあ、恋人と誤認させるならこれくらいはしないとね―――」


「点呼終了! 全員居るな! えー修学旅行って訳だが、修学だ。いいか? 何か学びを得る為の旅行だから羽目を外し過ぎるなよ……って言いたい所だが、俺の眼の届かない場所でやるなら瞑ってやる! でも夜更かしだけはやめておけよ、一応卒業生からのアドバイスだ、地獄を見るからな」

 


「「「「「いええええええええええええええい!」」」」」



 出発前まで眠っていたクラスメイトも点呼で叩き起こされ、まだ出発もしていないのに車内の興奮は最高潮に達していた。

 その中で碧花は仏頂面のままむしろ盛り下がってすらいたが、手を引っ込めようとしても一向に俺が手を離さない事に焦りを感じていた。

「……狩也君。そろそろ出発するよ。離さなくていいの?」

「…………離したくない、です」

 彼女が嫌だったら話は変わっていた。俺は束縛の強い男にはなりたくない。嫌がっているものを無理に続けさせるつもりは毛頭なく、むしろ嫌がってもらう為にわざと恋人繫ぎに組み方を変えたまである。

 碧花の手は麻薬だ。

 自主的にこの楽園を手放すなんて出来ない。果たして彼女の手にはこたつをも凌ぐ膨大な魔力が備わっていたのだ。だのに碧花の手からは、全く抵抗の意思を感じない。

「君だって勘違いされたくないんじゃないの? 『首狩り族』として忌避されているとはいえ、話し相手くらいにはなってくれるだろうし、話しかけてくる事もある。こんな瞬間をみられたらもう言い訳出来ないよ?」

 勘違いの次元が違うという事をどうか彼女には知ってもらいたい。仮に碧花から俺に矢印が向いていても何かが起きるという事はないが、それが逆転したとなると確実に後でタコ殴りにされる。男湯とか。

 メリットとデメリットが釣り合っていない。考え直すべきだ。俺は―――


「お前の手。好きだから、無理」

 突然のカタコト。猛烈に恥ずかしくなってしまい顔を背けると、向かい側のクラスメイトと目が合った。

「ん? どした?」

「い、いや…………何でも。最高の思い出にしたいよな! アハハハッ」

 


「……………そう。なら私も…………いい、かな」  

 

  

 

   

 














 バスは緩やかに進行をはじめ、同乗していたバスガイドが旅行先の解説を一足早く始める。と言っても触りくらいで、今は俺達のノリに上手く合わせて盛り上げ役になっている。目的地までまだまだだ。家で朝食を済ませなかった人達は今朝食の時間だ。

「そう言えば、君は食べて来たの?」

「いや、お前が食べてくるなって言ったんだろ」

 事の発端は旅行前日。碧花から「朝食をご馳走してあげるから抜いてきてね」と提案があったのだ。しかし俺も人間。生理的なサイクルには勝てず、当日になって食事を……摂らなかった。

 碧花には勝てなかったよ……。

「ふふッ、そうだったね。すっかり忘れていたよ」

「忘れてたって……ま、まさかお前、何も準備してないのか!? 俺、只の朝食抜き? 間違ったダイエット?」

「落ち着いて。忘れた訳じゃない。君との約束を忘れるもんか、もっと他のどうでもいい記憶を忘れるよ」

 碧花は手すりを一時的に後ろへ提げて、前の席の後ろに取り付けられた簡易テーブルを展開。鞄とはまた別の手提げ袋から弁当を取り出して、俺の前に準備する。

「……この水筒は?」

「ココアだよ。あまり長持ちしないから君に朝出す用だね。味のバランスは完璧に整えてあるから熱い内に召し上がってくれ」

 気持ち悪い事を言うようだが、束の間の新婚気分に俺は幸せ過ぎて昇天してしまいそうだ。他の席の男共は駄弁りながら食べているか、普通に寝ているか、こっそりゲームをしているかの三択だが、俺は違う。俺だけが碧花から弁当を貰って食べている。

 ゲームなんて持っていく意味が分からない。彼女と一緒に居られる以上に楽しい事はない。ココアが好きと言った覚えはないが、家に行く度にココアを要求したせいだろうか。

「なんか悪いな。お前って普段はココア飲まないんだろ。それなのに俺が欲しがるもんだから……なんつーか、甘えちまった」

「おやおや、君らしくもない弱音だ。別に気にする必要はないさ、君には甘えられる様な恋人なんて居ないからね、甘えたいなら存分に甘えるといい。確かに私が自発的にココアを飲む事はないけど、最近は君を見倣って同じ物を飲んでいるよ」

「え? 見倣う? 何でだ?」

「君と同じ世界を共有したいって思うのは、いけない事かな?」

 手すりという境界が無くなった故の錯覚だろうか。碧花との距離が近い気がする。手を繫いだままなのはともかく、セーラー服を重ねても尚ハッキリと大きく膨らんだ胸先が触れるくらい。こんな狭い空間で興奮している瞬間など見られたら幻滅間違いなしなので距離を取りたいが、むしろ近づいて直に感触を確かめたい俺が居る。何なら鷲掴みにしたいとすら思っている。そのまま揉みしだ―――


 やめよう。この話題は危ない。


 修学旅行でテンションが上がってるだけだ。理性の枷を何重にもかけて、堪えないと。そう、碧花の胸が大きいだけだ。だから体感の空間が狭く感じるだけ。何てことはない気のせいだ。

「い、いや。俺は別に……いいけどなッ」

 煩悩を誤魔化す様に俺は弁当にかぶりついた。男子しか存在しない空間に絶世の美女が一人。それも思春期には猛毒処ではない美女。意識するなというのは不可能だ。俺には出来ないししたくもない。


 ―――碧花の手って暖かいなあ。


 俺自身が冷え性という事実は無いものの、布団の中に包まっているかの様な素朴な温かさに包まれている感覚がたまらなく愛おしい。どさくさに紛れて太腿も触れたら良かったが、ストッキング越しに触るのは変態感が強すぎるのでやめておこう。

「お弁当、美味しい?」

「ああ、美味い! 毎日作ってもらいたいくらいだよ!」

「そう…………なら良かった。君の味の好みは把握しているつもりだけれど、実を言えば少し不安だったんだ。怒らせてしまうかも、なんて。君が滅多に怒らないのは知ってるけどね」

「まあその通りだな。本当に杞憂だぞそれは。せっかくお前が俺の為に作ってくれたのに喜ばない訳ないじゃんか」

「それは結果論に過ぎないよ。例えば私が料理下手でテロリズムを感じる殺人的な味を君に渡したらどう思うかな?」



「俺はたとえお前に猛毒を直接渡されても喜んで食べるぞ」



 長い付き合いで分かった事だが、碧花は時々皮肉に見せかけて自虐をする事がある。幾ら表情の変化が薄いからって賛同してしまうのはどうなのだろう。俺は……色々とコンプレックスの塊だった。でも彼女が全てを肯定し、受け入れてくれると分かってから自信がついた。依存していると言われれば返す言葉も無いが、俺の初恋はまだ終わっていない。可能性が限りなく低かろうとも、告白して振られない限り俺は碧花をいつまでも恋愛対象として見ている。

 そんな彼女には、自虐をして欲しくない。

 碧花は目を丸くして、時計の針みたいな段刻みで首を傾げた。

「それ、本気で言ってる?」

「冗談で言ったら本気で仕込みそうじゃないかお前は。本気も本気、大マジだよ。だって俺はお前の―――」

 事が。

 す。

 …………。

 ………………


「あー今のは模型自販機か!」

 俺は碧花を越して窓に顔を張り付けた。

「初めて見た……実在したのかッ」

「も、模型……初めて聞く趣味だね。最近始めたの?」

「いや、自販機って色々あるだろ? テレビでは色々見たけど実際に見た事あるのは単なる自販機だけだからさ。物珍しかったんだよ……あはは」

 好きと言ってしまいたい。

 何故言えないのだ、この馬鹿は。言えば今までの関係が崩れると知っているからだ、この馬鹿が。

 

 こんな狭い空間だ。窓に追いやって壁ドンの一つくらいすれば、了承の一つも貰えたのではないだろうか。

 あり得ない。碧花はそんじょそこらの女子と違って格別に冷静だ。「壁ドンの何が良いのかさっぱり分からない」とまで言い切ったその精神性は理解している。強引に話を切り替えたのは誰の眼からも明らかだった。

「い、いやあそれにしてもお前の弁当は美味いなッ」

「…………狩也君、何を言いかけたの?」

「え、何の事だか知らんな! 所でお前さ、俺にくれる物に一切手を付けないんだったよな? たまには自分の料理でも食べてみないか?」

「いいよ。君が食べる分が減る。それよりもさっきは―――」

「まあそう言うなって、ほら!」

 どうしても追及されたくない俺は強引に端でご飯とおかずをつまんで彼女の口元まで近づける。こう見えて箸の使い方には自信があるのだ。碧花が『食べ方が綺麗なのは良い事だよ』と言っていたので練習した。さしもの彼女と言えども食べ物を口に詰めながら喋るのは行儀や物理的な関係で出来まい。

 俺の作戦は効果覿面だった。碧花は食べ物をじっと見つめて固まっている。

「食べてみろよ、毒なんかじゃないから!」

「…………君って、大胆な事するよね。時々だけど」

「は?」

 首を傾げるよりも早く箸でつまんでいたご飯が消えた。碧花の口が内側でもぐもぐと動いている。口の動きによって口角は上がる事もあるが基本的には仏頂面で、美味しいのか不味いのかサッパリ分からない。俺の舌が今に至るまでイかれてなければ美味しい筈だ。

 視線だけがせわしないのは気になるが、食べている時に一体何を考えているのだろうか。

「……うん、美味しい」

「だろ? いやあ本当にうまいよ。お前を嫁に出来た人はこんな料理を毎日食べられるなんて幸せ者だなッ」

「……ふふ、気が早いよ狩也君。まず結婚出来るかどうかなんて分からないじゃないか」

「お前が結婚出来ないなんて事があるのかッ? いや、まあ結婚望んでないんだったらそうなるか」

「結婚願望はあるよ、勿論。君のお蔭でほら……色々あったろう? 君と出会えて前向きになれたんだ。ありがとね」

「今更お礼はいいよ。あの時は俺も色々必死だったというか……それに、お礼って言うなら友達になってくれたんだから俺がするべきだ。お前と友達になれて……凄く嬉しい」

「それこそ今更だよ。私は君とトモダチになりたかったからなったんだ。いいかい、勘違いしないで欲しいな」

 碧花は互いの吐息が掛かるくらいの近距離まで顔を近づけ、俺の太腿に手を置きながら言った。



「君だから、友達になったんだ」



 ど、どうしよう。

 物凄くキスしたい。隣り合った座席の中で押し倒して、そのまま唇を奪ってしまいたい。至近距離に彼女を長時間置くのはやはり危険だ。普段一緒に歩いてる時なんて警戒心が強すぎて背後から突然殴りかかってきた奴にも気づいたくらいなのに、今は無警戒も甚だしい。

 こんな雰囲気も脈絡もない時にキスなんて駄目だと分かっているのだが、彼女にまっすぐ見つめられているとどうにも恥ずかしく……不埒な事を考えないと直視に堪えられない。その純粋な瞳に、俺は苦しめられていた。

 背後からは男同士で駄弁るクラスメイトの声が聞こえる。明らかに只ならぬ雰囲気の俺達に気付いているなら野次を投げてくる筈なので、つまり……誰も見ていない……?

「……あ。碧花…………」

「ん? どうしたの? 顔が赤いよ?」

「い、嫌だったら嫌って言って欲しい。すぐやめる……んだけど…………」


「うん? きゃッ―――ん……!」


 叫びそうになったその口を胸で止めて、包み込む様に碧花を抱きしめた。抱き締めてしまった。遂に一線を越えたのだ俺は。なんてことをしてしまったのだと後悔した時にはもう遅し。碧花の身体は俺の胸の内側にある。

「…………き、君にこんな度胸があるとは思わなかった。まさかこんな場所でこんな破廉恥な真似を……」

「あ―――ああすまんッ。嫌だったよな。本当にごめん、調子に乗った。その……ごめ―――」

「謝らせないよ」

「え―――?」

「謝ったら君、手を離すだろ。…………嫌じゃないから、もう少しだけこのままで居たい、かな」

 上目遣いに俺の表情を窺う碧花。キュート、キューター。キューテスト。大人びた雰囲気からは想像もつかない破壊力が俺の心を全力で壊しに来た。それは抗える代物ではない。俺が出家とかしてない限り、勝負にすらならない。英語力もままならない。

「正直驚いたよ。まさか君が、突然隣の女の子を抱きしめる様な変態だったなんてね」

「へ、変態とか言うな! だってそれはお前が……あんまり可愛かったから、つい」

「魔が差したって? 君に褒められるのは嬉しいけど、その差した魔が人生を壊す事もある。隣が私で良かったねえ。他の女の子だったら君はこの旅行中変態扱いされてしまっていただろう」

「他の奴が俺の隣に座ろうと思わないだろ! だって俺は不運で―――」

「それは気のせいだと何度言えばいいんだか。まあ今は流しておくけど、私以外にこんな事しちゃ駄目だよ? 絶対」

「し、しねえってだからッ。俺は絶対にしないよ!」

「ふふふ。そんな焦らなくてもいいのに」

 碧花が離れると、俺は照れ隠しも兼ねて残りのお弁当をかきこんだ。成り行きであんな真似をしてしまったとはいえ食事が冷めては元も子もない。急いで食べたが、元々冷ましてあったので味に劣化は起きなかった。

「ご、ご馳走様でした……」

「お粗末様でした。ごめんね、食事中に変な事しちゃって」

「もう終わった事だからいいだろっ……座席、戻すぞ」

 簡易テーブルを収納して手すりを前へ戻す。下を跨いで再び彼女の手を握ると、直ぐに握り返してくれた。

 気のせいではないと思うのだが、さっきから興奮しっぱなしだ。修学旅行特有のテンションのせいだろうが、心なしか碧花も積極的というかご機嫌というか、俺みたいな童貞にやったら『好き』だと勘違いされるムーブを連発されている。実際俺の事は好きなのだろうが、それはきっと友達としての『好き』、ライクだ。これを勘違いしない様にしなければ、いよいよ嫌われてしまう。

 碧花が手の甲を優しく撫でてくるのが無性に気になる中、不意にクラスメイトの一人が全体に提案を向けた。



「そろそろカラオケしないか!?」



 俺達の修学旅行にカラオケは付き物だった。この中学校も例にもれず、バスにはカラオケのシステムがある。こっそりと携帯で女子バスのカノジョと通話している男子曰く、女子は既に盛り上がっているらしい。

「おーいいな! 歌のリストはここにあるとして、最初は誰が歌うんだ?」

 暇を持て余していたのだろう。担任も乗り気になった事でクラス全体の意思としてパーキングエリアまでカラオケをする事になった。

「出席番号ってのもあれだしなあ。うーん。なんかこうスパッと盛り上げてくれる様な―――ああそうだ! 碧花、お前歌ってくれよ!」

 それはこんな男子塗れのバスに乗ってしまったが故の必定。皆、碧花を気にしている。隣の俺なんぞよりもよっぽど気に掛けている。何せ水鏡碧花という女性は俺以外との交流がプライベートで存在しないと言っても過言ではない程に付き合いが悪いのだ。

 俺もカラオケに誘った事はない。勘違いされでもしたら袋叩きに遭うのは俺だから。

「…………狩也君は、私の歌聴きたい?」

「え、俺に聞くのッ?」

 何故俺に振ったのだろう。仮に俺がノーと言えばそれが断る動機になると思っているのだろうか。残念ながら今度ばかりは男子の味方をさせてもらう。まがりなりにも俺もこのクラスの一員だ。

「ああ、聞きたいッ! お前って結構何でも出来るけど、歌は下手なんじゃないかって疑惑があるからな!」

「まあ歌声を聴かせる機会は中々ないからね。良し、分かったよ。一曲だけ歌おうじゃないか。その代わり―――デュエットしようよ」

「は?」

 気が付けば、彼女の手には二つのマイクが握られていた。俺も参加する事に異議はないらしく(盛り上げられるなら別に何でもいいのかもしれない)、男子中から応援と揶揄いの声が飛び交う。



「頑張れー」

「採点やめてやろうか?」

「碧花の邪魔すんなよー!」

「胸でけえー」


「ああもう! うるせえ! 分かったよ、歌えばいいんだろ歌えば!」

 マイクを握って立ち上がる。

「言っておくが碧花、俺だって曲そんなに知らないからな! ましてデュエットとか!」

「大丈夫、私も知らない曲でやるから」

「何言ってんだお前!?」

「歌詞が出るならリズムさえ掴めば案外大丈夫なものだよ」

 碧花の手が俺の腰に回る。それに気づいた一部男子からは早速ブーイングが飛び始めた。

「では即興だ。下手でも笑わないよ?」

「俺は下手じゃない!」 

 

 





 

 












 最初のパーキングエリアに到着した頃には、俺は恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだった。

「碧花お前騙したな!」

「騙した? …………何が?」

「歌滅茶苦茶上手いじゃねえかッ。曲だってどう考えても慣れてたし! さてはお前一人カラオケ常連だろッ! なんかこう先週とか先々週辺りに練習してただろ!」

「先々週の月曜日は君と食べ歩き、火曜日と水曜と木曜と金曜は私の家で遊んだし、土日はボウリングと映画鑑賞。先週は月曜日に公園で遊んで、火曜日は私の家で勉強会、水曜日は山に探検しに行って、金曜日はショッピングモールで買い物、土日は君とオンラインゲーム。いつそんな隙があったのか教えてほしいね」

「お前記憶力良いな……! 日記でも書いてるのか?」

「そんなものは必要ないよ。楽しい記憶は自然と残る。それとも君は私と一緒に居て楽しくなかった?」

「そんな訳ないだろ! ただちょっと時系列の前後がごちゃごちゃになってるだけだ!」

「そう。まあいずれにせよ一人カラオケの時間なんて作れなかったし、作る気も起きない。大体そんな時間を割くくらいなら君と一緒に何かしてるよ。そっちの方が有意義だからね」

 早口で捲し立ててくる碧花に返す言葉もない。確かに一人カラオケは有意義とは言い難い。語弊があるので補足しておくと、歌う事が好きだったりすれば有意義だろう。しかし彼女は別にそうではないし、他人の目を気にする女性でもない。一人カラオケなんてやったとしても義務感しか残らないだろう。

 俺達のプライベートが垣間見える会話だが、クラスメイトの誰か一人でもこの会話を聞けば嫉妬の焔で焼死しかねない。しかし大丈夫だ、何せここはパーキングエリア。全員がトイレから戻るまでは出発しないし、トイレに用が無くても外には出ても良いので距離を取れば良い。俺達は駐車場の端っこでたむろして会話しているのだ。

「…………所で私はともかく、君は勘違いされたくないって言ってたのに良く二人きりになろうと思ったね」

「いや。あんましプライベートな話をしてるとそっちの方が怖そうだし。 一緒に居るくらいならまあ座席も隣だからなんか……いや…………迂闊だったか……?」

 もう良く分からない。そんな話をし出したら碧花と友達になった事自体が迂闊だったという結論に至るが、だからと言ってそこまで治す気にはなれない。彼女は俺の全てだ。

「…………ま、別にいいだろ。どうせ何しても後で恨まれるし」

「開き直ったね」

「考えるだけ無駄だって気付いたんだよ」

「そう? なら丁度いいタイミングだし、君に一つ尋ねてもいいかな?」

「何だ?」


「最近好きな人とか出来た?」


「ぶふぉッ!」

 飲み物を飲んでいた訳でもないのに吹き出してしまった。何を言っているのかサッパリ分からないが、俺も分からない。つまりそれだけ取り乱したという事だけ分かってくれれば良い。

「こ、こんな所で聞くか普通!? そういうのは旅館の中だろ! 寝る間際とかさ!」

「男子と女子は別部屋だよ。君がどうなるかは分からないが……寝る間際じゃタイミングが合わないと思うからさ」

「だからってそんな……………出来てねえよッ。カノジョ欲しいカノジョ欲しいって言うけど具体的なビジョンとか何も無くて……お前以外、みんなちょっと距離を置いてるだろ、何となく。そりゃ、お前以外にも可愛いなって思う女子は居るよ。でも仲良くなれないし……」

「そう……か。妥協はちゃんとしてる?」

「妥協?」

「君って結構理想が高いからね。アダルトな下着が好きとか紐のパンツが好きとか料理が出来て勉強が出来て優しくて胸が大きくて……とか色々。妥協しなきゃ誰も見つからなそうだ」

「いや、いつそれを理想って言ったんだよ! 下着の件はお前が執拗に聞いてくるから答えただけで……大体アダルトな下着とか紐パンはお前みたいにスタイルが良くないとかえって大変な事になるぞ! しかも中学生だし俺達……妥協以前に当てはまる奴がまず見つかるかすら怪しいだろうが!」

 碧花を除くという注釈が言外にあるのはどうか忘れないでいただきたい。

 ついでに弁解しておくが彼女の挙げた俺の理想とやらはイエスノーの二択で答えさせられた話だ。料理が出来るか否か、勉強が出来るか否か。優しい方が良いか否か。胸が大きい方が好きか小さい方が好きか。

 あれを理想にしたら本当に碧花しか居なくなる。告白しろとでも言うのか、彼女に。では尋ねるが、夫婦の前段階である恋人もまた対等が常の筈だ。完璧な彼女に、俺は何を差し出せるだろう。それを考えたら告白する気なんて、今はまだとてもとても。

「ぶっちゃけ八割くらい諦めてるって本音を吐き出しても良いか?」

「期待が持てないって?」

「高校に賭ける。高校なら俺を知らない奴も居るだろうからな」

「………………そう」

 一言も碧花には言及しなかった。万が一にも傷つけたという事はあり得ない筈なのに、彼女の声が不満そうに響いた。


 

 



  












 不満というのは、多分気のせいだった。パーキングエリアを過ぎてからも彼女は普通に話しかけてきた。気のせいだったのだろうか。気のせいだったのだろう。女心なんて何も分からない。仕方ない、友達は碧花だけだ。

 またカラオケが始まったが、碧花は「私は寝る」と言って、そのままカラオケから離脱した。俺も

「碧花の寝顔を見るのに忙しい」と謎の理由を付けて断った。断れた。何故断れたのかは俺にも分からない。仮に他の男子がここに座っても同じ理由で断ると思ったのだろうか。

 巧拙入り混じる歌声の最中、碧花がちょんちょんと俺の腕をつついた。

「何、その言い訳」

「特に上手くもないカラオケやるよりお前の顔見てた方が色々眼福かなって」

「有難う。でも寝るなんて嘘なんだ。面倒だから一抜けしただけ」

「でも隣にも居るからな、形だけでも寝ないと参加させられるぞ」

「じゃあ君の膝を貸してよ」

「え」

 碧花は手すりを上げると、当たり前の様に俺の膝に身体を下ろした。零れ落ちるかの様に大きく揺れた胸を思わず鷲掴みしそうになった。彼女は少しだけ体勢を変えて、真下から俺の顔を窺う。

「さて、私は寝たという事で暫く目を瞑るから、君も好きなだけ寝顔を見なよ」

「……お前ってさ。彼氏とかそういう話を一向に聞かない割には警戒心が薄いというか、男慣れしてないか? 普通の女子は……こんな事しないぞ」

「男慣れしているとすれば君で慣れたんだろう。警戒心が薄いのも君だから。君の思う普通の女子がしない事をするのも君だから。分かる?」

「…………そういう事言うと、俺が本気にしちゃうぞ」

「本気? 何を考えているか知らないけれど、君に対して嘘は吐かない様にしてるつもりだよ……基本的にはね」

 そうして寝たふりをする碧花と喋り続ける事……一時間以上経っただろうか。幾らでも手を出せたのに結局俺はそれをしなかった。実を言えば横乳をちょんと触ったのだが、彼女の頬に一瞬だけ朱が差したのでビビッてやめた。その時はもう焦りで頭がどうにかなって、バスガイドの話など何一つ聞こえなかった。



 ―――これ、どう考えても俺の事好きだよな?



 童貞特有の勘違いではないと思いたいのだが、その瞬間は思ってもみないから勘違いな訳で。やはり告白する気は起きないのだった。  

 バスが駐車場に到着した。バックで駐車場に入れている間に碧花がパチリと目を覚まして起き上がった。

「ふあー、良く寝た」

「また随分と大根芝居だな…………俺と喋ってたのに」

「ん? さあそんな話は知らないな。君は私の寝言と話していたんじゃないのかい? 私は眠ってたから何も分からないな」

 クラスメイトから「おはよう!」とかけられた声に力なく返しつつ、彼女は窓を見遣った。その先には女子たちの乗るバスが見える。どうやらここは神社近くの駐車場らしく、計画によればこの駐車場でバスを出た時点から班行動が始まる。因みに開始地点はここだが、集合場所はまた別の場所……

地図的には中央からやや下にある神社の駐車場がそうなる。どうして場所を変えなければいけないのかは永遠の謎だが、何度でも言おう。俺はこの別行動を何より待ち望んでいた。

 バスから降りたクラスメイトが男女で騒ぎ合っていると、担任が声を荒げた。流石にこの時は碧花も女子陣の中に居る。

「えー。まあ色々とイレギュラーのあるバスだったけど、どうだ。楽しかったか?」



「「「楽しかったでええええす!」」」

「「「「碧花居るからサイコー」」」」



 女子会的な盛り上がりの窺える女子勢と比較して男子は何と不埒な事か。でも碧花が要るんだから仕方ない。誰だってこうなる。彼女を膝で寝かせていた俺が一番そうなりたいくらいだ。鼻血が出ても不思議ではない。

「あーここからは班に分かれて行動します。各班長には携帯電話をと言いたいですが、そんな事しなくても皆さんは携帯を持っていますね? 道に迷ったりしたら先生に連絡してください。それとあんまり勝手な所へは行かないでください。去年の旅行生は勝手に県外に出て大騒ぎになりました。皆さんはそんな事のないようにお願いします。それと……狩也ッ」

「え? あ、はいッ」

「お前はその…………碧花に引っ張ってもらえ」

「あ…………はい」

 クラスの何処からかクスクスと笑い声が漏れる。話のテンポが悪くなるので担任は知らぬ存ぜぬを貫き通して続けた。

「それじゃ各自バッグ取って班の人間と合流して勝手に解散! もし座席に忘れ物あったら今の内に取りに行けな! ずっとここに居る訳じゃないから!」




「「「「「「はーい!」」」」」」




 班の人間と合流と言っても、俺達は特別だ。何故か他の人間が合流にもたついて挙手制を採用する中、彼女はスタスタと小走りで近寄ってきた。

「引っ張ってと言われたから要望が無ければ引っ張るけどどうする?」

「え、マジで引っ張るのかよ! お、俺はお前と一緒に歩きたいんだけど……」

「へえ、私達気が合うね。でも今は引っ張らせて。一刻も早く君と二人き…………」

「…………何だよ。急に止まって」

「……いや、何でもない。君と二人きりというのも、まあいつもの事だが、こういう場所だと中々新鮮な気分になる、的な?」

「大丈夫か、しっかりしろ!」

 ここにきて全く関係のない事柄が心配の種になり、俺も楽しむ処ではない。有り体に言って碧花がバグった。

「理由なんて何でもいいんだよ、早く行こう。どっちみち長居は歓迎されないよ」

「―――まあ。モタモタしてたら他の男子にお前を無理やり取られそうだし。そういうのは嫌だな。行くか」

 いざ歩き出さんと俺達が第一歩を踏みしめた瞬間、出鼻をくじく様に碧花の動きが止まった。

「忘れ物か?」

「…………いや、違う。所で君、今何て言った?」

「は? お前を取られたら嫌だなっていう……だって、せっかくお前と二人で色々な所回れるのに嫌じゃないかそういうの。俺はお前と二人で歩けるっていうから盛り上がってたのにこれじゃ修学旅行が何も楽しくない。お前だってそうだろ?」

 特に悪意もなければ下心もない発言に、彼女は耐えかねたと言わんばかりに吹き出した。碧花が明らかに笑顔を見せたのは実に珍しい事だった。何となく彼女も修学旅行でテンションが高いとは思っていたが、ここまでとは。

「フフッ。そうだね。私も君とじゃなければ来た意味がない。せっかくだからこうしよっか」

 具体的な情報を何も出さずに俺の手を取って好き放題する様子にただ呆気に取られていた。



 暫くすると、彼女の爆乳……下手なグラビアアイドルよりも胸がある……に腕を当てながら恋人さながらに片腕同士を組ませる二人組が誕生した。

「……あの、碧花さん? これ、完全に腕が当たって―――その、当たっていらっしゃるんですけど? 肘が。はい」

「君は実に馬鹿だな、狩也君。二人きりなら誰も見てないよ?」

「いや、そういう事じゃないんですけど…………あのう、ええと。そういう事をされると内なる感情に秘められた激情が昂ってリビドーが核融合反応を起こしてフラスコの悪魔が」

「君が一旦落ち着けよ。君の腕なら私は一向に気にしないよ。それにこれくらい密着してた方が君の『首狩り族』とやらは嘘だって証明出来る。違う?」

「そうかもしれませんけどぉ……」

「それと何で敬語なの? 嫌だったらやめるけど」

「え。それは―――」

 男としての煩悩。そして初恋という名の活力がそうさせたのだろう。組まれた手がほどけた一瞬、俺は彼女の腰を抱き寄せた。そしてまた腕を組み直して。

「………………」

 恥ずかしくて言えない。もっと胸に当てて欲しいなんて完全に変態の戯言だ。しかしそれでもちゃっかり胸に手を当てている辺り、俺は度し難い変態だ。碧花は何も言わずに、無言で歩き出した。

 時間帯もあるだろうが、まだまだ周囲の人間はまばらで、小声での会話は聞こえなさそうである。

「君、バス中でどれだけ私の胸に視線を送ったか知ってる?」

「え、いやそんな真似は―――何回だ?」

「八十一回。救いようがない数だ。きっと君は他の女の子と話している時も胸ばかり見ているんだろうね」

「そ、そんな訳ないだろ。 誰が好きこのんでJCの胸なんか見るんだッ。見てない、全然見てないぞッ?」 

「必死に否定してくれてる所悪いんだけど、私もJCなんだよね」

「お前は………………えっと」

 上手い言い訳が思いつかない。そもそものチョイスを間違えた。例えば俺が三十代なら言い訳として成立したかもしれないが、同年代だ。せめて言い訳として成立させるにしても、同年代。それも一番スタイルが良い彼女を見てしまうというのは無理からぬ。

 待て。言い訳の時点でそもそも詰んでいる。

「…………すまん」

「ん? 何で謝るの?」

「え。だって言及してくるって事は嫌なんだろ? 見られるの」

「嫌じゃないよ、君に見られる分には別に構わない。だから私、時々階段を先に上がってるだろ?」

「――――――あ! お前まさか、わざとだったのかッ!」

 碧花の下は多くの場合ショートパンツなのだが、制服はそうもいかない。移動教室の帰りなんかに時々彼女が先に上がってくれるのだが、俺はいつも中を覗き込んでいた。碧花に嫌われるリスクを考慮しても、煩悩には抗えなかったのである(体操ズボンとか履いて普通は隠すので覗くメリットはあまりなかったり)

 まさかそれが意図的なものとは知らず、顔から火が出る程恥ずかしい。実際に発火して死にたい。パイロキネシスは何処だ。

「フフフッ。良い反応してくれるじゃないか。期待通りの反応をしてくれるから君は素晴らしいね。話が脱線しそうだから戻すけど、君にどんなエッチな事されても私は訴えたりしないし嫌ったりもしない。長い付き合いだからね、君の事は手に取る様に良く分かる」

「おまおまおまおま…………! そんなの俺がまるで変態みたいじゃないか」

「私は好きだよ」



「……え」

  


 きっとそれは、常軌を逸したライク。そう考えたくても、脳が許容出来ない。やはり碧花は俺の事が好きなのでは? 俺だけを揶揄って、俺にだけ笑顔を見せて、俺とだけ行動したがるのだから間違いないのでは?


 ……でももし失敗したら、善意で下着を見せてもらっていただけの勘違い男に。


 しかし碧花だって世間知らずなのか分からないが妙だ。幾ら普通の女子でも好きな人相手にわざとスカートを覗かせたり、胸を当てたりするだろうか。元々人とは違う価値観の中で生きてるとは思っていたが、ここまでとは。

 行動表に沿って歩いていると、ふと碧花が進路を変えて路地に俺を連れ込んだ。時刻が昼に近づくにつれて人は増えていく。途中から小声での会話は難しかったし、何か話したい事があるのだろう。

「狩也君。私は君に幸せになって欲しいんだ。心の底からそう思ってる。君は『あの日』から―――ずっと運が悪い。今日は暫く神社を巡るけど、厄払いを重点においたのは君の為だ」

「お、おう。ありがとう……?」

「それでね、変態の君も私は好きだけど、他の人がそうとは限らない。もし恋人がほしいなら、君のそういうエッチな所は隠した方がいいと思う」

「き、気を付けます……」

 碧花はスカーフを緩めて真ん中のボタンを何個か外すと、目の前で広げて見せた。その奥には当然、俺が気になって仕方なかった彼女の胸の谷間があった。

「…………他の子に同じ真似をしたら確実に嫌われる。だからそういう事は私に言って。君の気が済むまで叶えてあげるから」

 

 





















 一悶着が過ぎて三十分。

 俺は碧花と腕を組みながら、歴史的背景を感じさせる建物に魅入っていた。

「へー…………なんか同じ国って感じがしないな」

 碧花には何でもお見通し。改めてその事に気付かされた俺は多少理性を緩めた。あんなサービスは例によって「君にしかしない」そうだからどう考えても俺の事が好きだと思うのだが、碧花は出会いからして普通の女子と違うので多分そういう尺度ではかるのがそもそも間違いだ。


 なので告白はしません。


「バスで向かう様な長距離だからね、別の国という感覚も無理はないんじゃないかな。特にこういう場所は観光地としても需要があるし」

 本当にどんなエッチな要求でも聞いてくれるなら俺は今すぐにでも彼女と……でも、それは駄目だ。流石に嫌われてしまう。あれは言葉の綾的な何かだと、そう納得しなければ俺の頭はどうにかなってしまいそうだ。ただでさえ現在進行形で柔らかく張りのある胸が腕に触れているのだから。


 目を瞑って、思考を整える。瞑想だ。世界とは空虚なのだ。


 …………落ち着いた。

「今度二人で来ようよ。きっと今度も新しい発見がある」

 余談だが俺は怖くて碧花をデートに誘った事がない。いつも彼女からの誘いに乗っかる形で行っている。なんて情けない男だろうか。

「―――ああ……ん? でも俺達子供だぞ。なんか色々と不味くないか?」

「まあその辺りはどうにかしておくよ」

「どうにか出来る問題じゃないと思うんだがなあ」

 行くとしたら日帰り旅行か。それはそれで味がありそうだ。期待に胸が膨らむ。さて、俺達が最初に入る予定の場所は『恋愛成就』に定評がある―――


「厄払いは!?」


「ん?」

「厄払いないじゃん。恋愛成就じゃんかこれ」

「君の不運は単に事件に巻き込まれるのもそうだけど、女の子と縁がないというのもまた不運というか。悲しい話だけど、これで少しは払えるかもしれない」

「悲しいのはほっとけよ。縁については多分、ほら、あれだよ。お前と出会うのに全部使ったから全部来ないんだよ」

 碧花の双眸がゆらりとこちらを向いた。脊髄で喋っていた俺は何に怒っているのか全く理解出来ず慌てて漠然としたフォローを入れる。

「変な意味じゃないからな!」

「…………フフフッ。ああ、分かってるよ勿論」

 また彼女は正面を向いてしまったが、体の密着具合から震えているのが感じ取れる。あまりにも発想が幼稚過ぎて笑いを堪えているのだろう。笑いたければ笑うがいい。何せその自覚がある。

「私達が向かう神社だが、具体的な内容を書けば書く程叶うらしい。真偽はともかく、『彼女が欲しいです』だけじゃいずれにせよ効果が見込めないから、誰か明確に人物を設定した方がいいよ」

「明確に…………か。なあ、本当に当たるのか?」

「それは神のみぞ知るだね。君の不運だってこの手の神社の効力と本質は何も変わらないんだから信じてみるのもいいんじゃないかな。だって君は自分が『首狩り族』であると信じて疑わないんだから」

 そう言われると返す言葉もない。自分に都合の悪いものは信じて良い物は疑う。ネガティブ思考もといヘタレの悪い癖だ。時にそれはダブルスタンダードという。『首狩り族』などというオカルトな話を信じるならそこの効力も信じないと駄目だ。

 特に何事も無く神社には到着した。どうやって入手したかは不明だが彼女は全ての班のルートを把握した上でルートを作っている。何か問題が起きて足止めされない限りは誰とも遭遇しない。

「誰にするか決めた?」

「ああ。最初から決まってる」

 定評がある割にここは神社として随分と小さく、鳥居を抜けた直ぐ先にもう本堂がある。お守りの販売店に巫女さんの類はおらず、先客を除けば伽藍洞だ。

「本当に効力あるか?」

「見た目に惑わされる人が多いからこそ、なのかもしれないよ。大きな箱より小さな箱にたくさん詰まってるなんてよくある話さ」

「良くはねえだろ梱包詐欺じゃねえか」

「そういう意味じゃないよ」

 馬鹿話をしながら本堂の前へ。手水舎も無いとかもしかしなくてもここは神社ではないかもしれない。半信半疑ながらお賽銭を投げて、俺は手を合わせた。




 ―――水鏡碧花と結婚して、ずっとずっと幸せに暮らせますよーに!





 彼女の事はあまりフルネームでは呼ばないが、具体性が必要と言われたので言った。水鏡という名字は好きだ。響きが綺麗で碧花自身も絶世の美女でなんかこう色々と非の打ちどころがない。改めてそう思った。

「君はもうお願い出来た?」

 横目で碧花が尋ねてくる。

「おう。勿論」

「教えて……はくれないだろうね」

「当たり前だろッ。ていうかお前も祈ったんだな。お前が誰と結ばれたいかってのを教えてくれたら、俺も吝かじゃないな教えるのは」

「君もずるい事考えるようになったね……教えても良いけど、教えてしまったら君には別の責任を取ってもらわなければ困るから今はやめておこうか」

 何だその断り方は!

 願い事は神に書き記して隣の木に縛り付けておくと効果があるらしい。 お守りの販売店と思っていた場所は紙を手に入れる為の置き場であり、強いて言えば無人の販売店だった。貨幣を入れると蓋が開いて一枚紙を取れる仕組みだ。

「これに書くのか」

「そう」

「絶対見るなよ」

「見ないって」

 そこから始まった駆け引き―――などはなく、至って普通に描き終えた。普段は適当な字を書く俺だが、今度ばかりは神様が読める様に丁寧に。ヘタレなのは認める。碧花の好意に甘えているだけなのも認める。でも世界で一番彼女を愛しているのは俺だ。

 どんな存在が相手でも、彼女の為なら俺は戦う。今の今までずっと守られてきた事実がある以上説得力はあまりないのだが―――

「さて、じゃあ縛りにいこうか」

 碧花に促され俺達は縁結びの木へ向かう。先客の中には明らかに夫婦ないしは恋人と見られる男女も見受けられ、二人は紙そのものを交差させながら縛るという奇妙なやり方をしていた。

「なあ碧花。これって縛り方にルールとかあるのか?」

「ん。聞いた事ないな。普通に縛ればいいんじゃない?」

 

 ―――碧花も知らない?


 悪戯の仕返しに丁度良いかもしれない。

「なあー碧花。お前の背じゃ木の枝に届かないんじゃないか?」

「君、私の身長が幾つあると思ってるんだい。ほんの少し背伸びすれば……んッ、ほら。届いた」

 俺だけかもしれないが、女子が背伸びなんかした時にセーラー服が持ち上がるとスカートとの隙間が出来て、お腹や腰がチラと視える瞬間がたまらなく好きだ。元々碧花は胸に生地が引っ張られて微妙に持ち上がっているので、その破壊力は倍以上だ。

「でもなあ、一番低い枝じゃないか。どうせなら高い枝に掛けた方が効果があるんじゃないか?」

「……それもそうだね。じゃあ君にお願いしようかな。ああ、紙は開かないでくれよ」

「分かってるって、ほら貸せよ」

 彼女から髪を受け取ると、俺は二番目に高い枝に手を伸ばして何とか碧花のを結び、続いて交差させる様に俺の紙を結んだ。木登りをすれば一番高い場所にも掛けられるが、ご利益のあるらしい木にそんな無礼な真似は出来ない。

「有難う。背が高いっていうのは得だね。しかし妙な結び方をしてくれたもんだ。何のつもり?」

「さっきここ使ってたカップルがこんな感じで縛ってたから……あ、ほら。あれ。だから真似してみた」


「………………は、え、えッ」


 露骨に動揺するなんて久しぶりに見た。出来れば今すぐにでも解こうと慌ててくれると嬉しかった(身長の関係で絶対に届かないから)のだが、予想に反して碧花は挙動不審になってその場をぐるぐると回り始めた。

「あ、えッ。ちょ、ちょっとそれは不味い。不味いよ君。そこの二人がそんな縛り方をしたのは二人の願いが同じだった場合……えっと。君、何て書いた?」

「は? 今教える理由ないだろ。叶ったら教えるよ」

「私も教えるから教えて。大丈夫、どんな願いでも文句は言わないよ。願うのは自由だからね」

「…………良し分かった。じゃあせーので言おう。せーの!」





「碧花と結婚してずっと一緒に暮らせますように」

「狩也君が永遠に幸せになれますように」





 気まずい沈黙が下りる。俺は本人に実質的なプロポーズしてしまった事で恥ずかしいとかそういう次元ではない羞恥心に駆られてまともな思考が出来なくなっていた。一方の彼女も俺がそんな踏み込んだ願いを書いてるとは思いもよらなかったのか、瞬きだけを繰り返す地蔵となってしまった。

「…………………………狩也君、一つ提案がある」

「な、何だ?」

「今のはお互い、聞かなかった事にしよう」

「賛成だ。お前は特に忘れてくれ」

「―――ああ」

 碧花はそっぽを向いて過呼吸を始めた。口に手を覆っている辺り気分が悪いのかもしれない。心配から彼女の表情を窺おうとするも、逃げる様に旋回して顔を見せてくれない。

「おい、大丈夫かッ?」

「……あ、ああ。大丈夫さ。気にしないでくれ。記憶処理に時間が掛かったんだ」

「そ、そうか。本当に消してくれたならどうもありがとう。それじゃあ気を取り直して次の場所に―――うおッ!」

 碧花がようやく顔を見せたと思った次の瞬間、抱き付かれていた。至福に違わぬ柔らかさを全身が感じ取り、過度に硬直する。見ただけでカップ数を割り出せる程知識は無いが、一体どれだけの大きさなのだろうか。取り敢えず俺の手では覆い隠せない。

「…………どんなお願いを書いたか知らないけど、叶うと良いね」

「お、お前もな?」



「…………ああ。心からそう願うよ」



 碧花は抱き付くのをやめると、また俺の腕を取って足早に神社を離れた。恋人や夫婦が訪れる場所でもあるとはいえ、流石にあれだけじゃれていたら勘違いされてしまう。俺と彼女はまだ恋人ではなく、『友達』なのだ。

「さて、次の場所はここから少し遠いね」

「切り替え早いなお前。ま、俺もボチボチ切り替えるよ……良し。次はでっかいお寺だったよな」

「雑な覚え方をするね君は。このペースで歩いていけば他の班とは出くわさないだろう。しかしあまり長居すると後ろの時間帯に来る班と衝突するから手短にね。三〇分分くらいかな」

「それだけあれば見て回れるだろうな。でも待ってくれ、他の奴らが本当に計画通りに動くのか? 俺からお前を引き離したくてわざとぐちゃぐちゃに動いてる可能性とか無いか?」

「あり得なくはないけどそういう時は先生に密告するよ。ああそれとこれは聞き忘れたんだけど、昼食はどうする? 計画のままで行く?」

 計画では昼食は一難近い喫茶店で済ませる予定だが、何故碧花まで計画を崩して行動するのか。しかし昼食なんて極論を言えばコンビニでパンを買って食えばそれで済む話で、わざわざ計画通りに動く必要はないのか。

 散策ルートでは先生が先回りして様子を確認しているという噂もあるが、昼食までは流石に監視する意味がないからしないだろうし。

「先にバスに帰るってのはどうだ」

「君は何しに来たんだよ……風情が無いなあ」

「冗談だって。まあコーヒーは嫌いじゃないし、そのままでいいと思うけどな」

 今度の寺でも更に一悶着あればいい加減疲れたが、あれは俺の悪戯が完全に悪い方向に暴走しただけの話なので、何もしなければ何も起きない。



「ちょっと待って」



 寺はすぐそこだが、碧花の制止がかかり足を止めた。

「何だよ」

「待ち伏せされてる」

「は? 他の班にか?」

 恥ずかしくなって思わず碧花から離れようとしたが、彼女の腕は石化したみたいに動かなかった。離したくない気持ちもあり、離れようとしたのは飽くまで羞恥から来る脊髄反射だったので「離せ」とも言えず、凄く複雑な気分だ。

「……碧花が来たら狩也を買収して連れて行こう。アイツ金欠なの知ってるから……」

「お前どんな距離から読唇術してんだよッ」

 百メートル以上離れた距離から読唇術は最早マインドハックではないか。普通に的中している辺りそれは出鱈目な技能ではない。常人離れという意味では出鱈目だが。彼女の視力は一体幾つあるのだろう。何処かの部族の血でも引いているのか。

「君、金欠なの?」

「え。いや金欠……流石に修学旅行で自由にするくらいのお金はあるけど。まあ金欠と言えば金欠だな」

「それで君は、三万円くらいで私を売れる?」

「論外だ。国家予算積まれても首を振らないぞ俺は」

「そういう人間程、実際にお金を見ると頷いちゃうらしいけどね」

「お金よりお前の方が好きだし」

 これは純然たる事実なので恥ずかしがる事ではない。お金より大事なものは確かにある。もしお金で誰かと人生を交換出来たとしても碧花に出会えないなら何の意味もない。それくらい俺は彼女の事が好きだ。

「君のそういう言い切る所、素敵だと思うよ。もし彼女さんが出来たらとても頼りにするんじゃないかな? 少なくとも私は頼りにする」

「だからって今頼りにしてくれるなよッ? 買収には応じないってだけで力ずくとかはどうしようもないからな!」

「分かってるよ。でもそんな事にはならない。私達も行動を変えてしまえば良いんだから」

 碧花はバッグから地図を取り出すと。ルートの一部に斜線を加えた。

「あっちが妨害してくるんだからやむを得ないよね。このまま昼食に行こう。朝から結構時間が経ってるから、小腹くらいは空いてるよね」

「おう。まああんまり食べたら旅館の料理が食べられなそうな気もするけど」

「軽食くらいに済ませようか。コンビニなんて風情が無さ過ぎるし、アドリブで探す事になるけど」

 微笑んでいる時も口元が緩んでいるだけなくらい仏頂面がデフォルトの碧花だが、不機嫌な時は意外にも結構表情が変わる。いや、仏頂面には違いないのだが、気配というか殺意というか―――対峙しないと分からないかもしれない。本気で怒った時なんて口調から変わるから怖すぎる。

 俺に言わせれば今はやや不機嫌といった所か。きっと俺に対する数々の揶揄いはストレス発散に違いない。どうも俺は反応が面白いらしいから。

 補足しておくが、別に気にしていない。好きな人からの悪戯はぶっちゃけ満更でもない。

「私と同じくらい目が見える人対策で、回り道するよ」

「いねえよそんな奴。男子の中なら俺がトップ層だわ」

「成程。だからいつも屋上で女子を品定めしてるんだ」

「いつしたんだよ!?」

 碧花との交流を捨て置いてまで品定めをするメリットはない。空しいだけだ。通りを変えて待ち伏せを潜り抜けたのを家屋越しに確認。正面に向き直ると、何処か別の学校の旅行生の男子達(多分高校生)とすれ違った。全員、碧花に見惚れていた。

「危なかった。君が居なければナンパされていた所だ」

「えッ…………ああ、そう言えば去年はそうだったな。でも断るんだろ?」

「勿論。でもしつこい人もたまにはいるからね。私にとっては君の存在そのものが厄除けな訳だ」

「ははあ…………誰もうまい事言えなんて言ってねえ」

「ふふふッ。頼りにしてるよ、私の神様?」

「そこまで言うからには何かご利益を授けねばなッ…………おっと金欠じゃった。ふぉっふぉっふぉ。お賽銭をよろしく頼むぞ!」

「何か混じってない?」

「ごめんサンタが混じった」

 くだらない話をしながらそれとなく適当な店を見つけたかったが、中々心の琴線に触れない。



「あれとかいいんじゃない?」



 八十メートル先に碧花が見つけた―――もう突っ込むまい―――のは、団子屋だった。時代劇とかで良く見る甘味処だ。流石にアレよりは発展している。お腹を満たすには足りないが、軽食というならこれ以上は無いだろう。

「お前って本当に目が良いな。あれ、お前って甘い物好きだったか?」

「君と一緒に食べるお菓子は全部好きだよ」

「何だお前結構甘党だったんだな。じゃああそこで決まりか。人は混んで……なさそうだな」

 アドリブで選んだお店に待ち伏せは居ない。二人で入店した俺達を店員は快く案内してくれた。

「抹茶アイスで」


「「え?」」


 まだメニュー表を渡されても無いのに始まる注文。俺と店員が困惑の表情を浮かべた。

「君は?」

「は? …………えーと、じゃあ、同じ物で」

「は、はあ。畏まりました」

 こんな客は初めてだったのだろう。迷惑行為ではないが、即断即決も度が過ぎると困りものだ。そそくさと店員が帰っていったのを見計らって俺は彼女に話しかけた。因みに席の位置は対面だ。

「お前ここ行き着けだったのかよ」

「え? ……ああ、違うよ。店の前に一押しって書いてあったから」

「…………」

 そんなもの、あったっけ?

 振り返って確認しようとするが内部からは見えない。つい同じ物を頼んでしまったのを後悔してないと言えば嘘になるが、一押しと言うからには相当な美味しさなのだろう。どうか損をした気分を覆してもらいたい所だ。

「甘い物は別腹とも言われるけど、実際はどうなんだろうね」

「別腹……うーん。気分転換にはなるだろうけどそればっかり食ってたら満腹以前に飽きると思うな」

「同感だね。どんな上等な料理でも飽きたら単なる残飯……は極論としても、高級さなんて関係なくなるから」

「でも甘い物なら食った気がしないって事もないだろ。確か……えーと、舌が一番感じやすいのが甘さとか……甘さだったかな……? やめとくわ。知ったかぶるのは良くない」

「賢明な判断だね。後で恥を掻くのは君だから」

 



「お待たせいたしました~。抹茶アイスお二つになります」


 



 雑談をしている内にアイスが運ばれてきた。銅色の更に葉っぱを添えて出てきた抹茶アイスは丸々と太っていてとても可愛らしい。或は少々物足りないのではという不安は杞憂に過ぎなかった。掌にギリギリ収まるくらいの大きさもあれば十分だ。

「意外とシンプルだね。もっと妙なトッピングが入ってゴテゴテしてると思ってた」

「要望があれば入れてくれるんじゃないか?」

「いや、こういうシンプルな方が私は好きだよ。それに君を差し置いてトッピングしたら同じ物を食べているとは言えない感じに…………何でもない」

 遠慮する事はないのに、何を躊躇ったのだろう。怪訝な顔を浮かべつつ真上からスプーンを刺してアイスを掘削。一口掬って放り込む。

「……おお、美味いな」

「成程。美味しいね」

 甘すぎるという事もなく、抹茶の芳ばしい香りとアイスの甘さが何とも言えない……食レポは苦手だ。でも美味しい。損をしたという事は全く無い。碧花と束の間のおしどり夫婦気分を味わえて幸せまである。

「旅館ではどんな料理が出るんだろうな」

「うーんどうだろう。調べてみる?」

「やめとけやめとけ。ああいう料理はサプライズみたいなもんだからいいんだよ。なんか凄い料理がたくさん出るくらいで止めとけば幸せになれる」

「それもそうだね。恐らく君と隣同士でない事が悔やまれるけど、まあ我慢しよう」

 そうそう。それでいい。

 俺は料理の他にも期待しているものがある。それさえ見られれば隣がどうとかこうとかは気にしない。





 碧花の浴衣姿は、さぞ艶やかで美しいのだろう。


  

   

















 




 一泊二日。それは長いようで短いようでやっぱり長くて短い時間。単に俺の精神が老化した可能性も否めないが、幸せな時間は風の様に疾く去ってしまった。待ち伏せしていた班の奴等だが、その後も何度か待ち伏せしたをしてきた。全部失敗したが。

 このクラスの何人が彼女の視力を把握しているのだろうか。

「おーここが今日の宿泊場所かー!」

 俺を含めた男子全員のテンションが最高潮に達している。女子の浴衣姿が見られるからだ。普段意識しないクラスメイトもこういう状況では嫌でも異性として意識してしまう。地味だと思っていたクラスメイトがめちゃめちゃ和服美人だったという話は……よくはないが、極々々稀にある話だ。

「よお狩也。一つ相談なんだが、頑張ったら碧花の胸とか揉めねーかな」

「お前……そういうのは本人が見てない所で言えよ」

「え…………あッ!」

 俺が指を使って丁寧に方向を教えてやると、その方向には冷ややかな視線を送る碧花が居た。彼女は校内一番の美人と評判だが、実は校内トップスリーレベルで睨みが怖い。口は固く閉ざしていても向けられた人間には分かる。目は口程に物を言うのだ。

「あははは……じゃ、じゃあな!」

 下衆なクラスメイトと入れ替わりで碧花が隣に寄ってきた。男子列と女子列の狭間なのでギリギリ問題はない。

「最低な男だね」

「擁護はしないけど……その。何だ。分かってくれ。うん」

 エントランスを抜けて階段手前の広場で担任の先生および引率の先生が足を止めた。

「部屋分けだが、喧嘩しないなら自由に決めてもいい。ただ、男子は二階、女子は三階で―――狩也。お前は俺についてこい」

「え?」

 まさか担任との二人部屋!?

 それは最悪を通り越してあってはならない話ではないか。余程先生好きな人間でもないと教師と二人きりなんて嫌だ。男性とか女性とかそういう話じゃない。今にも課題を出されそうで嫌なのだ。幾つもの最悪な想像が脳裏を過り、その度に頭上で消え去る。まるで俺を揶揄っているみたいだ。どれもこれも違うなら一体何なのだ。

 先生に付いて行って通されたのは角部屋。一足先に部屋の内装を見られたのは嬉しいがそれ処じゃない。



「お前はここに一人な」



「ああやっぱりそうな……えッ? こ、ここ?」

「おう。悪いな。お前が絡むと絶対揉めるが、流石に碧花を同伴させる訳にはいかねえだろ。ここまで引き離したのはクラスが使う八部屋から一番離れてるからだ」

「ひ、一人ぼっち? え、ずっとですか?」

「流石の俺も鬼じゃない。見回りには来ないし余程うるさくしなきゃ夜更かしも認めよう。だから、な? よろしく頼んだ」

 先生は分かってない。見回りに来てほしくないのも夜更かしをしたいのも友達がいるからだ。友達が居ないのにそれらの特権を認められても何も楽しくない。テレビでもみればいいのか 何だその修学旅行は。自宅か。

 布団に入りながら好きな女子について語り合う会にも参加出来ない。枕投げも出来ない。ゲームも持って来てないし色々ない。


 面白くない。


 俺は玄関の前で膝を抱えながら蹲った。この際碧花じゃなくてもいい。誰か一人俺の悪ふざけに付き合ってくれるくらい付き合いの良い人が欲しい。やはり『首狩り族』は真実だったのだ。遂に本人に牙を剥いてきた。俺もいずれ首を取られる運命にあるのか。

 コンコンと扉が叩かれる。先生だろうか。来ないのを心配したのかもしれない。鉛みたいに重い腰を持ち上げて、やっとの思いでドアノブを回すと、


「やあ、狩也君」


「うわあ!? 出た!」

 碧花が困った様に目を細める。

「何が出たんだよ」

「あ、いやつい……女子は三階だろ?」

「そうだけど、夜食まで時間があるから自由行動だ。一足先に案内されたのに聞いてなかったの?」

「言われてねえ……」

 悪意はなく単純に忘れていたのだと思うが、ネガティブになっている俺にそのうっかりは効果覿面だ。自分の存在なんてどうでもいいのではないかと……口に出したら碧花に怒られてしまいそうだ。「案の定、同じ部屋じゃなかったね」

「まあ、だろうな。何か間違いがあったら困るもんな」

「でも他の女子たちは間違いする気満々みたいだけど?」

 そう言って彼女は俺の横に座り、携帯の画面を見せる。クラス女子専用グループでは、恋人持ちと名高い女子が彼氏を筆頭に何人か男子を連れてきて騒ぐ計画を企てていた。想定していた間違いと方向性は違ったが……いや。

「女子って結構エグイ下ネタ使うな……」

「まあまあ。気にしないでよ」

 グループでも碧花は地蔵らしく、彼女のアイコンが見当たらない。発言を遡っていくと一部女子はこの計画を機に気になる男子とお近づきになりたいと考えているようで、計画者は更にもう一歩関係を進ませようと企んでいる。

 俺が地蔵というより死体になっていた男子のグループを見てみると、もう募集を掛けている。しかも男子は乗り込む側なので参加したくない奴は一か所に集まれという気遣いまで出していた。乗り込まれる側の女子にそんな用意はあるのだろうか(男子の大多数は碧花目当てみたいだ)

 あまり交流が無いので分からなかったが、グループを見る限りうちのクラスの女子は結構陽キャな奴が多いのでその辺りは考えなくていいのかもしれない。

「……で。これを俺に見せてどうしろと? チクって恩を売れってか」

「いや、当然だけど私は参加したくない。親しくもないクラスメイトと夜を明かさなければいけないのか甚だ意味が分からないね。そこでどうだろう、狩也君。私と一緒に過ごさない?」


「する! するする! する!」


 食い気味の回答に碧花は若干引いた様子で俺をなだめる。

「お……落ち着いて。まさかそこまで食いつかれるとは思ってなかった。そんなに嬉しいんだ?」

「嬉しいに決まってるだろ! だってお前と一緒で―――一人ぼっちで……ありがとおおおお!」

「だから落ち着いてよ何言って……ひゃんッ!?」

 碧花らしからぬ可愛らしい悲鳴が上がる。感極まった俺が不意に抱き付いたからなのだが、彼女から誘われるなんてどんなクラスメイトにもあり得ない特権だ。嬉しくないなんて馬鹿だ。勢い余って正面の扉に碧花を押し付けてしまい、扉が閉まる。

 カチャン、と。何故か鍵が閉まった。

「き、君……と、突然だよ。そういうのはもっと、事前に通告してくれないと……」

「いやも嬉しくて! ……ああ、そうだ。先生見回りに来ないんだってよこの部屋」

「―――え、そうなの?」

「ああ、だから―――うおおおおお!?」

 押し込んでいた筈が何故か碧花に押し込まれて靴脱ぎ場の段差で転倒。もろとも倒れ込み、魔の悪い事に誰かが見れば明らかに不味い光景がそこには広がって―――

 

 鍵が閉まっている!


「じゃあさ、もし私がこういう事をしても……誰も来ないんだね?」

 碧花が上体を起こして接近。適当な所で再び身体を俺に預けると、そこは丁度彼女の胸が俺の顔とぶち当たる場所だった。

「え、あのあお―――!」

 セーラー服越しに彼女の胸が押し当てられ、細やかな疑問と抵抗は完璧に封殺された。

「むふ……ぐふッ! ふむ……んん~!」

 呼吸が出来ない。苦しい。でも気持ちいい。どんな大きさだこれは。中学生相手に爆乳なんて表現を使えるのは後にも先にも碧花だけだろう。何を食って育ったらこんな事になるのだ。しかも締まるべき所は締まっているなんて、そりゃあ女子も健康的な身体を作るコツを聞きたがる。

 碧花が身体を起こした。地獄と言うなの天国から解放された俺の顔には不満が残っていた。

「お、お前なあ……! お、女の子が気軽にそういう事するもんじゃないぞ!」

「気軽? 気軽じゃないよ。君以外にこんな事しない。するもんか」

 しかし彼女の言う通り、誰も来ないなら中でどんな事をしても認知されない。この場で彼女を押し倒して胸を揉みしだこうが、下着を剥いでセーラー服の中に顔を突っ込むとか、それよりも更に一歩進んで性行為に及ぼうが誰もそれに気づかない。

 くどいようだが全て妄想だ。実際にはしない。そういうのは恋人になってからするべき……選択肢にいれるべきで、まだ彼女とは『友達』だと何度行ったら分かる。

 もし彼女が俺を恋愛的に好きじゃなかったら誰が責任を取ってくれるのだ。

「……あ、そうだ碧花。夜食まで時間あるし、なんかしようぜ!」

「なんかって? 君ゲームとか持って来てるの?」

 口を噤む。碧花はやれやれと言いながら何処からともなくボードゲームを取り出した。

「対人だ。チェスとか将棋みたいなものだと思ってくれればいい。ルールは口頭で説明するけど、やる?」

「すまん。やらせていただく」

  

  

  













 





 この旅館に来てから驚かされてばかりだ。

 俺が足を運んだ事がないからなのだが、宴会場に並んだ机に所せましと用意された料理の数々は遠巻きから見ても壮観だった。俺一人ではとても食べきれないのは当然として、クラス全員でかかっても片付けられるのかどうか。

 流石に席順は決まっていて、出席番号順だ。しかし例によって俺は特別配慮で机の端っこに離された。先程から厄介払いされている気がするが、まあいい。これからの事を考えればこの程度は不幸ではない。

 碧花の様子を遠目に見遣ると、彼女はクラスメイトの絡みに大して最低限の反応を返して何事も無く交流していた。

 事情を知らない旅館の従業員は不思議そうに俺を見ていた。


 ―――これ新手のイジメだよなあ。


 等とは思いつつも、被害相談なんて出来ない。『首狩り族』の被害は紛れも無く存在する。碧花は『偶然』だと言うが、三度以上続く偶然はもう必然だ。確実に引く十パーセントを確率通りとする人間はいない。


 ―――思い返してみると、碧花だけだよなあ、俺に優しくしてくれるの。


 『首狩り族』は半信半疑だが、一パーセントでも何か良からぬ疑いがあると距離を取りたがるのが人間だ。だから恨んだりとかそういうつもりはない。この状態で恋人探しというのが無理過ぎるというだけだ。碧花は一番可能性がある様に見えて多分無い。根拠は無いが確信はある。

 やはり中学は希望を捨てよう。碧花と遊んですごそう。高校だ、俺もきっと人なみの青春を味わえる筈だ。『まほろば駅』とか『ひとりかくれんぼ』とか御免だ。

 たまに個別メッセージが来たかと思えば男子達からの煽りばかリ。


『碧花と離れ離れでボッチとかお前運ないな!』

『こっちの部屋くんなよ! 後企画に参加すんなよ! チクんなよ!?』

『ザマア』


 そう言えば浴衣に着替えられるのは風呂に入った後だったか。そうだ、もうすぐお風呂だ。流石に浴場には入れてくれるだろう。それも駄目となったらもう……感染症か何かと間違われている。



「あー! この後大浴場が開くが、就寝時間までには入れよ! それと部屋に備え付けの風呂は使うなよ!」 


 ああ、この食事は美味しいが楽しくない。さっさと風呂に入ろう。


 悪意的に食事を遺すのはポリシーに反するのでちゃんと食べるが、そうすると三十分はかかるか。煽りがうざいので携帯の電源を消そうとすると、またメッセージが入った。


『首藤狩也。お前に大役を言い渡すぞ』


 俗なクラスメイトらしからぬ神妙な言い回しに、俺は思わず話を聞いてしまうのだった。











 





 無事に食事を終えた俺は真っ先に風呂へ行った。厄介払い対策ではなく、クラスメイトから言い渡された任務を遂行する為だ。食事前に偵察へ向かったクラスメイト曰く大浴場は中と外に分かれていて、側面に高い壁があるらしい。建物の構造的にその壁さえ超えられればそこは女子風呂らしいので、まず登れるかどうか、本当に女子風呂かどうかを確かめて来てほしいというもの。

 この作戦には女子が露天風呂を使わなければ意味がないという致命的な欠陥があるが、何でも女子は露天風呂を使いたがるらいい。偏見過ぎる。

 俺がこの作戦に乗ったのは煩悩に正直というのもあるが、俺が風呂で一番嫌いな絡みをしなくて済むからなのが一番大きい。皆まで言うな、つまり局部についてだ。あれはもう男子の宿命というか……何だ。どうして皆は恥ずかしげも無く晒せるのだろう。俺は恥ずかしい。大きくても小さくても弄られる。毛があっても無くても弄られる。あのノリは嫌いだ。明確に、正直に言って嫌いだ。大体大きいからなんだというのだ。それで地位が社会的に保障されるのか。碧花みたいにスキンシップを頻繁にしてくる女子と触れ合っているとかなりの確率で興奮に気付かれるという致命的弱点がある事にクラスメイトは目を瞑っている。

 だから買って出た。先に風呂へ入ればあんな弄られ方はされないし、部屋では一人ぼっちだからやはり誰も弄りに来ない。完璧じゃないか。


 ―――この壁、無理だろ


 壁が低ければ覗きをされるから、高くする。当たり前だ。表面もつるつるしているから足をかけるのも難しいか。ここで脱衣所に戻って携帯で連絡(男子達は俺の連絡待ちで遊びながら待機している)しても良いが、何故こういう時に限って俺の知恵は回るのだろう。上る方法を思いついた。

 まず扉を開いてシャンプーやリンスの容器を差し込んで閉まらないように工夫する。次にドアノブに足を乗せて上り、そこから壁の縁に手を伸ばせば良い

「んんん~! おおおっぶねえ…………っしょッ!」

 どうにか壁の縁まで体を乗せられた。先にはまるで鏡合わせの様にもう一つ露天風呂が水を張っており、丁度一人の女子がこちらに入ろうとしている所だった。


 ―――あれ?


 重力に拮抗する巨乳。

 それに反した圧倒的な腰の細さ。

 そこからお尻、太腿と肉付きの良い部分に目が移ろっていくが、俺はその女性に一人しか心当たりが無い。

 まさか。

 そのまさかだ。

 視線に勘付いた女性が振り返ろうとした瞬間、俺の心臓は殆ど動きを止めていた。『彼女』の全裸なんて真正面から見てしまった日には死んでしまう。でも身体が―――見たいと言っている!






「きゃああああああああああああああああああああああ!」






 変態的な覚悟を固めた次の瞬間、俺の理性を現実に戻したのは中から外を窺っていたクラスメイトの一人だった。



「変態! 先生に言わなきゃッ! せんせーい! 狩也君が覗きしてます―――!」

 


 そこからは早かった。

 女子全員に(流れで)告発され、俺は担任の先生と引率と女子全員からシバかれた。具体的にはビンタを十発くらい貰った。 

「マジアイツ最低だな」


 男子の掌返しが早い。

 

 先生からは『やりたい気持ちは分かるが思うまでにしておかないからこうなる』と言われ、女子からは『ド変態』とまで罵られた。悪いのは俺なので何も言えない。先兵として使い捨てられた可能性も否めないが、全ては闇の中だ。

「まあ、別にいいんじゃないんですか?」

 そんな俺に唯一助け舟を出してくれたのは明確に覗いた自覚のある碧花だった。他の女子を実は覗いていない。興味が無かったと言えば嘘になるが、叫び声に驚いて落ちてしまったから。

「私は覗かれるくらい気にしませんよ。覗かれて恥ずかしい物は何もありませんから」

 お前が許す許さないの話ではない、と担任は言おうとしたが、まさか碧花の方から証言が出るなんて誰が予想しただろう。

 覗けたのは自分だけで、他の女子は覗けていない。

 そもそも露天風呂に出ていたのがあの瞬間は自分一人だった。

 叫んだ瞬間に狩也君は落ちていた。

 当事者でもないのにあれこれと償いを求めるのは間違っていると何故か俺に味方をしてくれたお蔭で、何とか死刑は免れた。ただし問題は問題なので、改めて碧花と話す事になった。


「君は、自分が何をしたか分かってるのかい?」


「はい。承知しております」

 穏便に済ませたいが、そうはいかない。先兵の罪は何よりも重いのである。具体的には、碧花の裸を見たのは先兵たる俺だけなのだから。

「庇ったけど、普通なら犯罪だよ。数少ない癒しの時間を、君が覗きで台無しにしたんだ」

「はい……どんな処分でも受ける所存です」

「因みに、さっきまでの状況を把握してないんだけど先生達には何をされたの?」

「むちゃくちゃ怒られました。女子には軽蔑の視線を向けられました」 

 因みに碧花を除けば平均バストサイズはA~Bのクラスだとおっぱいマイスターが言っていた事もあり、クラス唯一の巨乳である彼女の裸を見た俺は男子からも恨まれている。掌返しをした奴に恨まれる覚えはない。

「……当然だよ。後々君を好いてくれた人だって居るかもしれないのに、君は自分でチャンスを無駄にしたんだ……まあ覗けたのが私だけで良かったね。他の女子まで見ていたら、今頃君は只では済まなかった」

「……はい」

「…………どうやら反省しているみたいだし、もう行っていいよ」

「え? もう行っていいの?」

「しつこいよ。私の気分が変わらない内に早く行きなよ……許してあげるから」

「ん。分かった。じゃあな。本当にすまんかった」

 




  

 















 男子から大量のメッセージが届いている。碧花に嫌われた事を祝うメッセージばかリだ。大浴場から秒でつまみ出されたので入浴が済んでいない。かと言ってもう一回行くと弄られる未来が視えている。

 仕方がないと思うので、備え付けのシャワーを使う事にした。今頃男子達は俺を話のネタに大浴場で盛り上がっているのだろう。クソ、やられた。

 理性なき本能は身を亡ぼすと今日身に染みて良く分かった。元々友達が居なかったのに今日更に居なくなってしまった。男子はともかく女子は絶望的だ。碧花にも……多分、本当に嫌われた。

 ああ駄目だ。気分が優れない。今日の俺は最悪だ。手っ取り早くシャワーを済ませて浴衣に着替えると、尋問の最中に用意されたであろう敷布団が目に付いて、寝ようと決意した。テレビなんて見ている気分じゃない。寝て忘れよう。




「やあ狩也君」




 ………………。

 …………。

 ……。


「えッ碧花ッ!」

 状況が呑みこめない。何故か碧花が部屋の中に居た。鍵は掛けた筈……というか外れていない。

「どっから入って来たんだよ」

「ベランダから降りてきた」

「はあ!?」

 だから少し乱れているのか。

 その、浴衣が。

 彼女に対する諸々の動揺は全て鎮まってしまった。それくらい碧花の浴衣姿は、素晴らしい。これでもかと主張する胸が生地を突っ張らせて、しかもここに来るまでに要した苦労から若干乱れているのがまた何とも言えぬエロさを……って。

 この男、全く学習していない。

「女子の方で参加したくない人が集まる部屋に行って、そこからベランダ伝いに移動してこっちに来た。胸が邪魔でね、苦労したよ」

「まあお前くらい大きかったら苦労するだろうな。それでも来る辺りヤバいけど……って違う違う! 冷静に分析してる場合じゃなかった! お前、怒ってないのか?」

「怒る? ……覗きの事ならもう済んだ話だよ。それに私は覗かれても気にしないって言ったじゃないか」

 君がそんなに見たいなら見せるよと言わんばかりに浴衣を脱がんとする碧花を俺は全力で止めた。勢い余ってベッドに押し倒してしまった。


 肩まで開けた浴衣の女子を押し倒す男子。


 この光景。誰かが見たらどう思うだろうか。ここには誰も来ないのだが。

「他の人にやったら嫌われるって言っただろ? 君がそんなに私の裸を見たいなら……少し恥ずかしいけど、脱いでも良いよ」

「やめろ! それは……辛い! 俺の、俺の理性がぶっ壊れるッ」

「でも覗いたんだ」

「あれは……! いや、ごめん」

 追い詰められているのは碧花なのに追い詰めているのは俺。何とも不思議な構図だ。重力に逆らって天を突く彼女の胸はきっとボーダーラインだ。ここを超えて密着したが最後、俺は戻れない。

「ふふふっ。いいんだよ狩也君。しかしどうしても君が償いをしたいというのなら、やはり私と一緒に夜を過ごしてよ」

「そ、それは…………でも俺、寝ようとして」

「じゃあ寝ようよ。みんなの事なんか放っておいてさ」

 碧花はマウントの体勢から逃れると素早く布団の中に潜り込んでポンポンと自分の隣を叩いた。

「ほら、寝よ?」

「え…………あう、いや」

「狩也君。君は自分で言ったんだろ。『ここには誰も来ない』って。だから君が何をしていても気付く人はいない。それとも私が胸を曝け出したら来る?」

「わーやめろやめろやめろッ」

 彼女の厄介な所は、悪戯の癖に本気でやろうとする……やる所だ。俺は慌てて布団の中に潜り込み、浴衣を脱がんとする彼女の身体を止める。

「うふふッ♪ 君は本当に反応が面白いね」

「……わざとやってんだろ。いい加減にしないとクレームつけるからな」

「消費者庁に?」

「消費者庁何するんだよッ」

 止めたまでは良かったが、その後の事を全く考えていなかった。胸を見た回数を数えているくらいだ、下着もなく無防備に曝け出された谷間に釘付けな事くらいお見通しなのだろう。そうとでも考えなければ説明がつかない。

 足を絡ませて行動を縛った上で、俺の顔を谷間に押し付けるなんて。

「むふッ…………!」

「悪い思い出を忘れる為には、それと同じくらい良い思い出が必要なんだ。分かる? だからこれが、私からの思い出だ。胸が好きな君にはぴったりだろう……ふふっ」

「む……………あお、ふむぅッ」

「分かってほしい。分かってくれなくても何度でも言うよ。気軽じゃない。気軽な訳が無い。私は君だからこういう事をするんだ。君じゃなきゃダメなんだ、狩也君。だから自分に自信をもって。君が変態でも『首狩り族』でも、私はずっと傍に居る。ずっと、ずっと。ずっと、ずっと。私が守る。君の幸せを守る……から」

 

「今は…………お休み」

 

   



      

 





















 ふと目を覚ました時、私は自分が車内に居る事に気が付いた。

 

 ―――帰りのバスか。


 さっきまでの出来事を再体験するなんて、得な夢だった。隣では私の大好きな男の子が学ランを掛け布団に眠っている。彼だけじゃない。みんな。

 みんな、疲れている。二日目の自由散策。第二回バスカラオケ。全力で楽しんだ。狩也君も楽しんだ。起きている人間は極少数。多数が眠っているのを良い事にゲームをやっている。

 私は隣の彼から学ランを奪うと、手すりを上にあげて繫いだ手の上に掛ける。わざと身体を寄せて、彼にしなだれかかった。

「……君との結婚生活は。私の夢でもあるんだ」

 小声で零す。今度はそんな夢が見れたらいいな。




「願いが、叶うと良いね―――」

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在りし日の修学旅行 氷雨ユータ @misajack

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