小さな恋のうた

葉月いつ日

第1話

「大丈夫……全部、僕に任せて。茉莉ちゃんは何も考えなくていいから」

 ――サトルお兄ちゃん……


 突然の嵐で飛び込んだ小さな小屋。バチバチと打ち付ける雨と、ビュウビュウと吹き付ける強風。ときおり爆発音に似た雷鳴を聞きつつ、私はサトルお兄ちゃんにキツく……


 キツくキツくキツく――キツく抱きしめられていた。



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 私の名前は畦地茉莉あぜちまつり、12歳。


 唐突だけど、私には大好きな人がいる。……って、本当に唐突すぎて訳が分からないと思うから、ちょっと説明。


 実は今、私は一学期の終業式を終えて幼なじみ三人組で下校中。こんな話で盛り上がりながら、田んぼに挟まれた小道を歩いていた。


「ねぇねぇユウちゃん、A君からのラブレター。お返事、した?」

「だからラブレターじゃないんだってば。宿題を写させてくれって、毎年のことなんだから。それよりなっちゃんだって、B君のこと、気になるって……」


「わぁわぁわぁわぁわぁっ! 違うからっ! あれ、ノリで言っただけだからっ!」

「えぇぇぇぇっ、どうだかなぁ?」


「もうっ! そんなことより茉莉ちゃん! 茉莉ちゃんは好きな人、いないの?」

「そうだよ茉莉ちゃん! いっつも恋愛の話になるとはぐらかすんだから」

「えっと……そんなことは……」


「今日こそちゃんと教えてもらうんだから!」

「そうよそうよ。でないと、旅行のお土産買ってきてやんないんだから」

 ――えぇぇぇっ……


「「さあ! さあっ!!!」


 そう言いながら迫ってくるユウちゃんとなっちゃん。お土産のことは冗談だろうけど、今はとっても目が怖い。


「えっとね……」

「「何? 何っ??」」


「その……ね?」

「「うん! うんっ!!」」


「親戚の……お兄ちゃん……二十四歳の社会人だけ……ど……」

「「…………はぁ??」」


 ――言ってしまった。誰にも言わなかったのに……ずっと秘密にしてたのに……



 そしてここからが本題。



 私は小さい頃から親戚のお兄ちゃん、サトルお兄ちゃんのことが大好き。


 サトルお兄ちゃんは、私のお父さんの弟の子供でひとりっ子。ちなみに私もひとりっ子。


 しかも、私よりも十二歳も上。


 昔は家が隣どうしだったから、よく遊んでもらってたし一緒に寝たこともあった。もちろん、お風呂も一緒に入ったこともある。


 だから、家族以外で私の裸を知っているのはサトルお兄ちゃんだけ……と、思うけど。


 でも、サトルお兄ちゃんが高校生になる頃に県外に引っ越ししちゃって。でもでも、夏休みには一週間くらい遊びに来てくれてた。


 大学生になってからは、一度も来てくれてないけど。


「変……かな?」

「「う〜〜〜ん……」」


 私の決死の告白に、何かを考えるように腕組みをしたまま唸るだけの二人。突っ込むなら早くしてくれればいいのに、何も言われないのが逆に辛い。


 そんな時間が続くこと暫し。難しい顔だったなっちゃんが、今度は目を輝かせながら声を出す。


「いい! すっっっっっっごくいいと思う! ねっ! ユウちゃん!」

「うんっ! 私もいいと思うよ、茉莉ちゃん! 相手が十二歳も上なんて、大人の恋! 素敵っ!」

 ――あはははっ……私まだ、小学生なんだけど。




 それからは、色んな話で盛り上がりながらの帰り道。


 なっちゃんやユウちゃん家の家族旅行。夏休み中のプールや宿題の約束。ついでにクラスの男子の悪口。


 などなど。


「じゃあね、茉莉ちゃん! 旅行から帰ったら電話するからっ!」

「私も直ぐに電話するね。じゃ、またね」

「うん。二人とも、楽しんできてね」


 いつもの家への分かれ道。なっちゃんとユウちゃんは左の道で、私ひとりが右の道に。手を振り合いながら歩いてく。


 私たちの学校の六年生は、男子が十人で女子が三人。だから、あの二人が旅行に行ってしまえば、遊ぶ友達はひとりもいなくなってしまう。


 昔は十万人を超える林業の盛んな所だったみたいだけど、今では全盛期の一割も居ない過疎の町。決まった数の木の伐採と、田畑だけがお仕事で。



 ――だから、サトルお兄ちゃん家も出ていっちゃったんだ。



 昔はサトルお兄ちゃんと手を繋いで歩いたこの道だけど、最後に歩いたのはもう六年前。ただの一度も、サトルお兄ちゃんの手の大きさと温もりを忘れたことがない。


 左手に疼きを感じつつ、家への坂道に差し掛かる。すると、家の前に見たことの無い真っ白な、不審な自動車が止まっていたのが見えた。


 この近くにはトラックやトラクターはあっても、普通の車はほとんど無いから特に目立つ。しかも、私の家の前に止まっているからなおのこと。


 ――お客……さん?


 我が家に帰るだけなのに、恐る恐る車に近づく私。ナンバープレートは、ここから電車を乗り継いで何時間もかかる県のもの。


 背中を塀に向け、慎重に。大きく避けるよう警戒しながらゆっくりと移動するさまは、こっちが不審者のようで。


 たまに車内を覗きつつ、いよいよ後ろ向きに敷地内入ろうとした時だった。不意に後ろから、お父さんに声をかけられたのだ。


「茉莉……お前、何やってんだ?」

 ――何って、それは……何だろう?


 自分でも何をやってるのか分からない。ただ、何となく日常と違う光景があったから、意味なく警戒しただけかもしれない。


 それに、ちょっとした変化だったから。ただただそれを、楽しんでただけかもしれないけど。


 お父さんの声に背筋を伸ばし、ゆっくり反転。そこにはお父さんとお母さん、それにおじいちゃんがいて、揃って眉間に皺を寄せて私を見ていた。


 そして、おじいちゃんの横には背の高い男の人が立っている。他の三人とは違って笑顔を向けていたのが不思議で……


「やぁ、茉莉ちゃん。久しぶり、元気だったかい?」



 その瞬間、私の時が止まった。



 この辺りでは見ることのない背広姿。髪の毛はきちんと切り揃えられ、ネクタイの形がきれいでカッコいい。


 ただ、その人の顔に見覚えが……面影があって、少しこもった声には聞き覚えがあって……


「サトルお兄ちゃ……ん?」

「あぁ、覚えててくれたみたいで安心したよ」


 その瞬間、心臓が爆発した。


 って思うくらいの衝撃がおこる。視界はかすみ、呼吸がしずらい。膝がカクカクと震え出し、気づけばランドセルの肩紐を強く握りすぎて両手が痛い。


 それでも……そんな状態でも勝手に身体が動き出す。


 一歩……二歩……三歩……


 ついには駆け出した私。サトルお兄ちゃんに会えたことが嬉しくて、早くサトルお兄ちゃんを間近で見たくって。


 もっとサトルお兄ちゃんの声を聞きたくて。


 ただ……


 ただ、サトルお兄ちゃんに近づくにつれ、勢いを無くしていく。


 ――なんて……なんて話しかけたらいいんだろう……


 久しぶりにサトルお兄ちゃんに会えて、とっても嬉しい。ただ、最後に見たサトルお兄ちゃんとは全く違う雰囲気に不安が押し寄せてくる。


 最初の勢いを完全に失った私は結局、歩きながらサトルお兄ちゃんの前に。それでも、視線は外せなかった。


 ・・・・・・。


 見上げながら言葉を出すことが出来ない私に対し、サトルお兄ちゃんがゆっくりと右手を挙げてくる。


「大きくなったね、茉莉ちゃん。それに、すっごく可愛くなってる」


 私の頭を撫でながら、そんなことを言ってくるサトルお兄ちゃん。


 ――!?!?


 頭を撫でられた瞬間に昔の温もりを思い出す。サトルお兄ちゃんの大きな手。何にも変わってなくって安心で。



 ――とっても嬉しい。



 でも……


 でも、私はもう小学六年生。来年は中学一年生。サトルお兄ちゃんがいた頃よりも色んなことを知ったし、去年は女性の身体の授業も受けた。


「もうっ! 私はもう、サトルお兄ちゃんが思うほどの子供じゃないんだからっ!」


 とは言っても、乱雑にサトルお兄ちゃんの手を振り払うことができない私。言葉と身体が反比例だ。


「あぁ、ごめんごめん。そっかそっか、茉莉ちゃんはもう十二歳になったんだったね」


 そう言って、私の頭から手を引いた。


 ――むぅぅぅっ……そこはまだ撫でたままでもいいのに……乙女心、分かってないなぁ。


 口を尖らせて無言の抗議。でもサトルお兄ちゃんには伝わらないようで、私のことをニコニコと見つめるばかり。


 そんな時間を打ち破って来たのが、お母さんの一言だった。


「サトル君ね、中学校の同窓会があるからってこっちに来たみたいなのよ。それでね、ウチに泊まるって。嬉しいでしょ? 茉莉」

「うそっ! ホントっ!?」


 不機嫌だったのはどこへやら、サトルお兄ちゃんが我が家に泊まるって聞いて嬉しくないなんて絶対にない。


「それで!? サトルお兄ちゃん、どれだけ居られるの!?」

「うん、四泊させてもらうようになってね。その間よろしく頼むね、茉莉ちゃん」


 本来なら町にある旅館に泊まる予定だったらしく、ここには挨拶に来ただけだったサトルお兄ちゃん。それを聞いたおじいちゃんとお父さんが、お金がもったいないから泊まれと言ったらしい。


 ――おじいちゃん、お父さん、最高だよ! 今度入念にマッサージ、してあげるからね。



 旅館に置いてある荷物を取りに行くサトルお兄ちゃんに、買い物があると言って着いて行くおじいちゃんとお父さん。


 私も行きたいって言ったけど、サトルお兄ちゃんのおもてなしの料理を作るから手伝ってと言われ断念。


 意気揚々と助手席と後部座席におさまる二人を睨みつけ、笑顔で手を振るサトルお兄ちゃんには満面の笑みで送り出す。


 ――マッサージ、やっぱやぁめた。





 サトルお兄ちゃんたちを見送って家の中へ。自分の部屋に近づくにつれ、身体の中に異変を感じ始める。


 なんかこう……胸の奥底からゾワゾワとワクワク、ソワソワとドキドキがグチャグチャになって溢れ出てきそうになってきて……とても抑えきれそうにない。


 お尻辺りに力込めてないと、なんか色々出てきそうで。


 はやる気持ちを部屋で解放。扉を閉めてランドセルを放り出すと、すぐさまベッドに飛び込んで枕に顔を強く……強く強く、強く押さえつけ……叫ぶっ!!!


『あ"っ"っ"っ"っ"っ"っ"っ"っ"っ"!!!!!!』


 嬉しいっ! 嬉しすぎるっ!!!


 久しぶりに会ったサトルお兄ちゃん。六年ぶり。しかも大人になってて、前以上にカッコいい。絶対、私のタイプ。


 そんなサトルお兄ちゃんと、ひとつ屋根の下で過ごせるなんて思ってもみなかった。いや、会えるなんて考えもしなかった。


 さっきの気持ちが胸の奥からどんどん……どんどんどんどん湧き出してくる。もう、抑えきれなくなってきた。


 掛布団を乱雑に丸めて抱きつく。――足りない。


 枕を追加。キツくキツく……キツくキツくキツくキツく抱きしめる。


 それでも溢れ出てきそうな気持ちは止まらない。止められない。さらにしがみつく。


 サトルお兄ちゃんがウチに泊まるのは、そんなに珍しくない。昔は互いの家で一緒にお風呂に入ってたし、一緒に寝たこともある。


 さすがにもう一緒にお風呂に入ったり寝たりはしないと思うけど……あるいは……ひょっとして……


 そんなことを考えると、ますます胸の奥の訳の分からない気持ちが膨らみ、とても堪えきれなくなってきた。抱きしめてる布団をさらにキツく、ついでに太ももに挟んでギュッと締める。


 それでも抑えきれない気持ちを鎮めるため、ベッドの上でのたうち回る。そしてまた、布団に顔を押し付けて叫んだ。


『き"ゃ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"っ"!!!』


 もう、変質者を超えて変態だ。


 その後、お母さんに声をかけられるまで私はベッドの上で謎の悶絶を繰り返すのだった。





 そんな奇人変人行為で始まったサトルお兄ちゃんのお泊まりは、蓋を開けると私にとって不満でしかないものとなってしまった。


 初日の晩御飯の時こそいっぱいお話をすることが出来た。それこそ、持ち上げたお茶碗のご飯が減らずに冷たくなるほどに。


 お風呂に入り、それからお話を再会しようと戻ってくれば、いつの間にやら酒盛りが始まってて。おじいちゃんやお父さんがお酒をついで、苦笑いのサトルお兄ちゃんが飲み干すの繰り返し。


 お話するチャンスを伺うも、結局は日付が変わりそうになっても終わりそうもなく。お母さんは諦めろって言うだけで、楽しそうにお酒のアテを作り始めるしまつ。


 ――家にあるお酒、全部捨てやりたい。


 腹いせにと、きんぴらごぼうに唐辛子をいっぱいふりかけてやった。だけど、サトルお兄ちゃんは辛いのが好きならしくって、美味しい美味しいと言って食べてくれた。


「ビックリしたよ、茉莉ちゃんって料理が上手なんだね」

「う……ん……」


 ――なんか複雑。





 次の日は朝ごはんの僅かな時間だけのお話。お友達と町までお出かけするのだとか。行き際にドライブの約束をし、サトルお兄ちゃんは出かけて行った。


 日付が変わる前まで待ってたけど、睡魔に負けて寝てしまう私は根性なし。


 ――明日こそ絶対に独り占め、ガンバる。ふんすっ!





 って鼻息を荒く決意した翌日、サトルお兄ちゃんは朝ごはんを食べたら直ぐに出かけてしまった。


 今晩の同窓会に出席するために、帰郷してくる同級生を駅まで迎えにいくみたいで。車を持っている友達数台で何往復もするのだとか。


 ――むぅぅ、車があるからっていいよう利用して……許せない。


 夕方に一度、お風呂に入るために戻ってきたサトルお兄ちゃん。我慢できなくてお風呂のドア越しに話をしていたら、お母さんに叱られてしまった。


 結局、お話が出来たのはその時だけで。


 その日も日付が変わるまで起きて待ってたけど、ノックアウト。睡魔はなかなか強敵だった。


 ――私の想いをくじくとは……やるわね。





 なんて余裕を出した翌日の衝撃。サトルお兄ちゃんは帰郷していた同級生を、今度は駅に送りにいくのだとかで。朝ごはんの後、すぐに出かけて行ったのだ。


 早く戻ると言っていたけど、昨日戻ってきたのが夕方だっただけに、とてもそうなるとは思えない。


 明日には帰ってしまうし、ドライブの約束もしているし。さすがにこれは頭にきたけど、サトルお兄ちゃんに嫌われたくないからグッと我慢。



 ――私って、そんなにいい子だったかな?



 割り切ったつもりだったけど、やっぱりちょっぴり寂しい。せっかく泊まりに来てくれたのに、満足に話すらできないなんて。


 そりゃあね、最初は旅館に泊まるはずだったのが、我が家に泊まるようになって悶絶するほど嬉しかった。私のために来てくれたんじゃないかって思ったくらい。


 でも、サトルお兄ちゃんが久しぶりに帰ってきたのは中学校の同窓会が目的で、私に会いに来たわけじゃない。たまたまウチに挨拶に来て、お泊まりするようになっただけで。


 ――分かってる……それは分かってるんけど、ちょっと……ね。


 それでも、気持ちを落ち着けれることがある。乾いた洗濯物を畳んでいる一時だ。


 普段からお手伝いで洗濯物を畳んだりはしてる。でも、この数日はサトルお兄ちゃんの物も混じってる。


 おじいちゃんやお父さんのと違ってヨレのないシャツ。少し派手めなトランクス。こんな田舎では売ってなさそうなカラフルな靴下。それを手にした高揚感は格別で、他の物よりも綺麗に丁寧に畳んでしまった。


 ・・・・・・。


 挙動不審に周りを伺う。誰もいない。サトルお兄ちゃんのパンツに顔を埋めてみる。


 ――――うん、ウチの洗濯洗剤の香りがする。


 当たり前ではあるんだけど、自分の物と同じ香りがするのが何となく嬉しい。サトルお兄ちゃんの特別な存在になれた気がして。


 将来、こうしてサトルお兄ちゃんの洗濯物を畳んでいるところを想像するだけで、幸せな気持ちが溢れてくる。


 だから何となく、ドライブの約束が先送りにされても許せちゃう。


「茉莉ぃ! ちょっと来てぇ!」


 せっかく幸せを噛み締めているのに、玄関の方からお母さんの甲高い声が私の妄想をかき消してきた。


「今、お洗濯物たたんでるぅ!」

「それはいいから早くきなさぁい!」


 ――むぅぅっ……


 幸せ一転、モヤモヤ気分で立ち上がって移動。不機嫌を露わにして玄関にたどり着くと、そこには含み笑顔のお母さんと、意外な人物が私を迎えてくれた。


「サトル……お兄ちゃ……ん?」

「ただいま、茉莉ちゃん。これから時間、あるかな?」


 時間は午後二時をちょっと過ぎたところ。予定では夕方に帰ってくるはずのサトルお兄ちゃんが、優し笑顔を向けてくれている。


「どうして……遅くなるって……」

「うん、その予定だったんだけど茉莉ちゃんとの約束があったから……ね?」

 ――――約束……私の……ため?


 突然のことで戸惑ったまま立ちつくしていると、お母さんが呆れたように行ってきた。


「ほら、ドライブの約束してたんでしょ? 雲行きが怪しいから早くしないと、雨が降り出しちゃうわよ」


 次の瞬間、反射的に身体が動いた。慌てて部屋に駆け込み、着ているものを乱雑に脱ぎ捨て、タンスからお気に入りのワンピースを引っ張り出す。


 急いで頭から被り、お出かけ用のポーチを掴む。部屋を飛び出し移動しながらワンピースを整え、息を弾ませながら玄関に舞い戻った私。所要時間、僅か二分。


「よく似合ってるね、茉莉ちゃん。とっても可愛いよ。じゃ、行こっか」


 そう言って背中を向けたサトルお兄ちゃんが、玄関を出た瞬間に軽くガッツポーズ。すぐさま玄関に降りて、靴を履こうとした瞬間だった。


「茉莉!」

 ――えっ?


 お母さんに顔だけを向けると、私の腰辺りに指を指して呆れ顔。ため息を吐いて呟いた。


「後ろ……噛まれてるわよ」

 ――――――――っ!!!


 サトルお兄ちゃんに気づかれないよう、玄関扉に隠れて整える。チラリとお母さんを見ると、笑顔で親指を立ててきた。


「ドライブついでに小屋でお父さんのシャツを持ってきてちょうだいね」


 小屋とは伐採の仕事で山に入った時、休憩をするために立てられた場所。昔よく、サトルお兄ちゃんと遊んだところ。


「お父さん、山に行ってたの?」

「うん、昨日ね。山にクマが出たから撃ちに行って、忘れて帰ってきたみたい」



 玄関を出ると、サトルお兄ちゃんは車の前で笑顔で待っている。急ぎ足で向かうと、助手席の扉を開けて迎えてくれた。


 座席に腰を下ろしワンピースを整えると、静かに扉を閉めたサトルお兄ちゃんが回り込んで運転席に。こうして二人っきりドライブが始まったのだった。





 山から市街地に降り、駅前のでデパートに。そこで、今まで会えなかった分の誕生日プレゼントとして、幅の広い帽子を買ってもらった。


 黄色いリボン付きでワンピースの色と合っている、とっても可愛いいこの帽子。きっと、私の一生の宝物になるだろう。



 その後、おやつとジュースを買ってからドライブ再開。駅から四十分程でたどり着く山小屋だけど、サトルお兄ちゃんはわざわざ遠回りをしてくれる。


 その間、私はいっぱいいっぱい。いっぱいいっぱいいっぱいしゃべり続ける。話したいことがいっぱいありすぎて、ひとりでしゃべり続けた。


 サトルお兄ちゃんは微笑みながら相づちをうつだけ。たまに声を出すけど、その声が嬉しくって私はまたしゃべり続けた。


 そこで、ちょっぴり気になったことも聞いてみる。


「でも、良かったの? サトルお兄ちゃん? お友達を送らなくって」

「気にしなくても大丈夫だよ。それより茉莉ちゃんとの約束の方が大事だからね。【兎年同盟】は約束を破らない、だろ?」



 兎年同盟。



 小さい頃、近所の男の子にからかわれて嫌な思いをしている時、サトルお兄ちゃんが言ってくれた言葉。もちろん、二人とも兎年なのが由来。


 男の子たちよりもずっと年上のサトルお兄ちゃんが味方になってくれたおかげで、その日以降かわれることはなくなった。


 その時に作った約束事のひとつが『絶対に嘘をつかないこと』。


 ――覚えててくれたんだ。


 その事が嬉しくって。それに、あれから六年も経ってるから、ちょっぴり恥ずかしくなって黙り込んでしまう。サトルお兄ちゃんは笑顔のままだ。


 いつしかフロントガラスには雨粒が落ちてきて、それをワイパーが払っていた。



 それから暫く、山道を走っていた車はスピードを緩め、山道前の空き地に停車。サトルお兄ちゃんはエンジンを切ると、外の様子を伺い始める。


「思ったよりも小雨だけど、雲行きはかなり怪しいね。小屋には僕がひとりで行って、おじさんのシャツを持ってくるよ」

「えっ? でも、サトルお兄ちゃんが濡れちゃう」


 そう言ってドアを開けようとしたサトルお兄ちゃんを引き止める。たとえ慣れてる場所でも、車の中にひとりでいるのは不安になるし。


「僕なら大丈夫だよ。走っていけば、十分で戻って来れるだろうしね」

「やっぱりダメ! 『同盟でいる時は一緒に行動する』って決まりだよ!」


 私の言葉に目を丸くしたサトルお兄ちゃん。だけど、すぐに優しい笑顔に戻って頷いてくれた。


「じゃあ、行くよ」


 その言葉を合図に私たち、兎年同盟は車から飛び出す。サトルお兄ちゃんは車の鍵をかける為に少し遅れ、私は山道入口で待機。


 揃って山道に入り込み、濡れながらも小走りで移動して行くことに。


 長梅雨のせいでぬかるんでいる所があり、そこをヒョイヒョイと飛び越えながらサトルお兄ちゃんを追いかけるように進んで行く。


 少し段のある所は手を引いてくれるのが昔と変わらずで、とっても嬉しい。でも、私はもう十二歳。サトルお兄ちゃんの大きな手のひらに、ちょっぴり異性を感じて恥ずかしくなってしまった。



 そんな移動が続く中、正面から突然の突風が私たちを襲ってきた。


 その瞬間、サトルお兄ちゃんに買ってもらった帽子が風に煽られて飛んでいってしまったのだ。


「!!! 帽子っ!!!」

「危ないっ!!!」


 飛んでいく帽子に向かい、一歩を踏み出す私の腕を掴んで引き戻すサトルお兄ちゃん。その大きな胸にスッポリと収まり、一瞬ほうけてしまった。


 けど……


「だって、サトルお兄ちゃんが買ってくれた帽子が……帽子がっ!」

「だめだっ! そっちは急勾配になってるっ! 怪我をしたらどうするんだっ!」


 サトルお兄ちゃんを見上げ、そう言っても厳しい表情で掴んでる腕を離してくれない。それでも振り解こうとするけど、力を緩めてくれることはなかった。


「帽子……私の……サトルお兄ちゃんの帽子……」


 雨粒を感じる頬に、それ以上の涙を零して見上げる私。それでもサトルお兄ちゃんは厳しい表情を崩さない。


 せっかく買ってもらったのに、絶対に諦めたくないのに。一生懸命もがいているのに、握る手を緩めてはくれない。


 気がつくと、見上げる顔に当たる雨粒が大きく多くなっていた。いつしか抵抗する力を緩めた私に対し、サトルお兄ちゃんがとった行動は驚くべきもので。


 両手で私の肩を掴み、さらに厳しい表情で声を出してきた。


「いいかい、茉莉ちゃん。絶対にここを動くんじゃないよ、分かった!?」

 ――――えっ?


 そう言って念を押してきたサトルお兄ちゃんはその場で反転、斜面に飛び込んで行く。よく見れば、飛ばされた帽子は斜面下の木の枝に引っかかっていた。


 そこを目指し滑り降りるサトルお兄ちゃん。あっという間に辿り着き、すぐさま木によじ登っていく。雨で濡れているせいか、時々手を滑らせながらも帽子を目指す。


 ――――サトルお兄ちゃん!!!


 声を出したいのに何も言えず、心の中での叫び声が、頭の中で大きく響く。打ち付けてくる雨は、勢いを増してきた。サトルお兄ちゃんが霞んで見えるほどに。


 そんな中、大きな枝に足をかけたサトルお兄ちゃんが大きく手を伸ばした。じわじわと……じわじわと延びる右手が、枝に引っ掛かる帽子に届いた瞬間。


 濃い雨雲で薄暗くなっていた辺りが一瞬、パッと明るくなる。その三秒後、今度はゴロゴロと雷鳴が轟いてきた。


 ――遠い……


 冷静にそんなことを考えた直後だった。再び空がパッと瞬く。そして、今度は一秒程で雷鳴が響いた。


 さっきよりも大きい。それに、空気が少し震えた気もする。


 田舎育ちで山育ち。学校とか、おじいちゃんやお父さんからも山での雷の危険性を教えられてる。


 だから慌てて視線を下に向けると、何故かサトルお兄ちゃんは上空よりも逆に斜面下の河原の方に視線を向けていた。その手には飛ばされた帽子が握られてる。


「サトルお兄ちゃ……」


 そこまで言った瞬間。サトルお兄ちゃんは滑り落ちるように木から降りてくる。着地に失敗し、派手に尻餅いを付くも、素早く立ち上がってこちらに向かってきた。


 その表情はさっきよりもさらに厳しく、その様子に言葉を失ってしまう。何だかちょっと怖く感じた。


 何度も足を滑らせながらもドロドロになって戻ってきたサトルお兄ちゃんは、今度は私の手首を握って小屋に向かって駆け出した。


 わけも分からず、ただただ腕を引っ張られる。つんのめりながらも必死に足を動かし、何とかついて行った。


 豪雨に変わった山道を、ずぶ濡れになりながら小屋に到達すると、サトルお兄ちゃんは私に厳しい顔つきのまま叫ぶように声を出す。


「鍵をっ! 早くっ!」

 ――――!?!?


 サトルお兄ちゃんの勢いに押され、戸惑う私。雷だけでこんな表情になるのはおかしい。わけも分からず、焦るようにポーチを開いて鍵を取り出した。


 その間、サトルお兄ちゃんは私の真後ろに立つ。まるで、何かから私を守るかのように。


 二度ほど差込に失敗し、三度目で南京錠を開いて鍵ごと抜き取り扉を引いた。


「空いたよ! サトルお兄ちゃん!!!」

「……くっ!!!」


 次の瞬間、後ろにいたサトルお兄ちゃんが乱雑に私を小屋に押し込む。荒々しく扉を閉めると私を抱え小屋の奥、一段高い畳敷の隅に飛び込んだ。


 この小屋は山仕事の合間に休憩するだけの所だから、ほとんど物が置かれていない。六・七人も入ればいっぱいになるほどの狭さ。


 そんな小屋の、入り口から対角線上である場所に押し込まれ……抱きつかれた。


 それはキツく……キツくキツく。


 キツくキツくキツく。抗えないほどキツく抱きしめられた。息がしずらくなるほどに。


「サトルお兄ちゃん……苦しい……苦し……いよ……」


 掠れる声でそこまで言ったその時、サトルお兄ちゃんの胸に顔を押し付けられてても分かるほど小屋の中が光り、すぐに雷鳴が轟く。


 今までで一番大きな音……いや、爆発音って言ってもいい。


 耳をつんざく雷鳴。小屋全体がガタガタと揺れる音も聞こえる。それに何故か足元に風も感じた。


 それが落ち着いた今は小屋に叩きつける雨音と、小屋を駆け回る風音。だけど……それ以上にうるさく聞こえるのは、サトルお兄ちゃんの胸元から聞こえてくる心臓の音。荒い息遣い。


 何が起きてるのか分からず、様子を伺おうと抵抗を試みる。だけど、サトルお兄ちゃんは両腕に力を込めて私を動けないようにしてくる。


「サトルお兄ちゃん……苦しい……息が……」


 そう言って少し経った頃だった。サトルお兄ちゃんはちょっとだけ力を緩め、私の顔を壁側に向けてくれる。そして再び、キツく抱きしめてきた。


 ――はぁはぁ……はぁ……


 呼吸が少し楽になったその時、耳元にサトルお兄ちゃんの声が聞こえてきた。


「大丈夫……全部、僕に任せて。茉莉ちゃんは何も考えなくていいから」

 ――サトルお兄ちゃん……


 その声は何かに怯えるようで。でも、何かを決意したようにも感じる。


 薄暗い小屋の中。外は嵐。抱き合う二人。


 そう考えた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。同時に身体が火照り出す。


 目が、頬が、耳が……指先やつま先が。身体全体が自分でも信じられないくらいに熱くなる。


 そして……




 ――――――怖い。




 小さい頃からよく遊んでくれたサトルお兄ちゃんに。私のために送迎を投げ出して戻って来てくれた、大好きなサトルお兄ちゃんに。私は恐怖を感じてしまった。


 ――――――――違う、そうじゃない!


 サトルお兄ちゃんが怖いんじゃない。この先に何があるのか……何が起こるのか……


 私がどうなってしまうのか……



 サトルお兄ちゃんとそうなってしまうのか……が、怖い。



 去年、女子だけ理科室に集められて女性の身体の仕組みの授業を受けた。その頃からサトルお兄ちゃんとそうなるといいなとは思っていた。


 でも、こんな時に……この訳のわからない状況でそんなことを……


 何より、まだ小学生の私がそんなことをするのは物凄く悪いことをするようで……怖い。


 サトルお兄ちゃんとの子供が出来たら、おじいちゃんやお父さんやお母さんに何て言って怒られるかと思ったら……



 ――――怖いよ……サトルお兄ちゃん……怖いっ!



 やめてと言いたくても怖くて声を出せない。もとよりキツく抱きつかれてるから、息はできても声を出すことが出来ない。今はもう自分の心臓の激しい音しか聞こえず、身体が信じられないほど火照る。


 頭も、ぼぉっとし始めた。


 ついにはもう、何も考えられなくなってきたその時。


「……茉莉ちゃん……僕は、茉莉ちゃんの……」


 サトルお兄ちゃんの遠く小さな声が、そこまで聞こえたと同時に小屋の中がパッと光る。同時に爆音が鳴り響く。その瞬間、さらにキツく抱き寄せられた。




 ――――あっ……



 ………………………………

 ……………………

 …………



「……茉莉……サトル……大丈夫か……」

「……もういい……追うな……」

「……茉莉ちゃん……茉莉ちゃん……」


 遠くでおじいちゃんとお父さんとサトルお兄ちゃんの声が聞こえる。全身が焼けるように熱く、感覚すらない。声も出ない。


 それでも頑張って目を開けると、そこには掠れて見えるサトルお兄ちゃんの顔が………



「茉莉ちゃんっ!」



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 その後、私は三日間も高熱を出して寝込んでしまうことに。もちろんサトルお兄ちゃんに会えず、いつ帰って行ったのかも分からない。


 熱が引いて動けるようになった時、おじいちゃんとお父さんがあの日あったことを教えてくれた。


 実はドライブの前日に山に熊が出没し、村の人たちで駆除をしたと。小熊だったらしいけど、畑を荒らされると困るから仕留めたらしい。


 それがあの、帽子が引っ掛かった場所の下にある河原だったのだとか。


 次の日に親熊がそこにいたらしく、運悪くサトルお兄ちゃんが見つかってしまい、追いかけてきたらしいと。だからあの時、慌てて戻ってきて私の手首を引き、小屋に避難したのだ。


 そしてキツく抱きしめられ、最初の雷鳴の時に親熊が小屋の扉を壊して侵入しようとしていたらしい。だからあの時、サトルお兄ちゃんは扉の方を見せないように抱きしめていたのだろう。



『大丈夫。全部、俺に任せて。茉莉ちゃんは何も考えなくていいから』



 きっとあれは、サトルお兄ちゃんが私を安心させるために言った言葉なんだと気づく。


 その後すぐの雷鳴の時、小屋に侵入しようとしてた親熊に向かっておじいちゃんたちが猟銃を撃った。その弾は熊の目に当たったみたいだけど致命傷にならず、熊はその場から逃げ出したらしい。


 それから熊は追わずに小屋に入り、私に声をかけたけど、すぐに気を失ったしまったとのことだった。


 結局、サトルお兄ちゃんは自分を犠牲にしてでも私を守るつもりだったのに、私は変な誤解をしてしまったのだ。



 それから一週間後。


 サトルお兄ちゃんから手紙と、ボロボロになったあの帽子と似た帽子が送られてきた。その手紙には、お詫びの言葉がびっしりと書かれている。


 ただ……


 私はその手紙を机の奥に押し込み、ボロボロの帽子と新しい帽子を使うことなく押し入れの奥にし舞い込んだ。



 そして……その日からサトルお兄ちゃんを想うことをやめた。



 心残りがあるとするなら、あの時に言ったサトルお兄ちゃんの言葉。


『……茉莉ちゃん……僕は、茉莉ちゃんの……』


 その後の言葉を聞けなかったことくらいだろう。


 それから数年後、サトルお兄ちゃんは結婚をし、さらに遠い都会に行ったと風の便りに聞いたのを最後に、疎遠となってしまった。



 ✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜



 六十年後


 2018年7月



「えぇっ! ちょっと! 何それ、おばあちゃん! 萌えるっ!」

「へぇ、お母さんにもそんな可愛い思い出があったんだぁ」


 昨今の異常気象の影響か、長雨だった七月も半ば過ぎでようやく梅雨が明け、真夏の喧騒がやってきた月の後半のお昼すぎのことだった。


 買い物ついでだと言う娘が孫娘を連れてやってきた。今日が一学期の終業式だったらしく、孫はまだ制服のままで。


 首元のボタンを外し、織り込んだスカートは膝上。少しハレンチな気もするけど、今どきの子はそれが常識なのだと主張される。


 時代は変わったものだ。



 私は今、心臓を患って都会の大きな病院で闘病生活を送っている。とは言っても、患っているのは心臓だけじゃない。


 主治医も家族も何も言ってはくれないけど、この歳になればそれくらいは分かる。入院もこれが初めてではないのだから。


「ふふっ、一学期の終業式って聞いたら話したくなってね」

「でもさ、おばあちゃん可愛い! 赤ちゃんなんてそうそう出来るわけないのにさ」


「あんたね、なんて事いってんの!」

「あはははっ! ちなみにアタシはまだだからねっ」


 そう言ってニカッと笑う孫娘に、怒っていいのか笑っていいのか反応に困る。これもまた時代というものだろうか。


「そうね、結局あれからちょっとしてお月様がやってきたから、妊娠なんてしないのにね」

「もう、お母さんまでそんなこと言って」


 プリプリとたしなめてくる娘に対し、クスりとする私に舌をペロっと出す孫娘。何となく若返った気がしないでも無い。


「ねぇ、おばあちゃん。その手紙とか帽子、どうしちゃったの?」

「さぁ、どうしたかしら。覚えてないわねぇ。結婚して家を出た時に処分されたかもね」


 もったいないなぁと呟く孫娘の横で、何か言いたげな我が娘。ふと視線を向けると我慢が出来なかったのか、嬉しそうに聞いてくる。


「ねぇねぇ! それってお父さん、知ってた?」

「言いませんよそんなこと。あの人に会うずっと前の出来事なんだから」


 そりゃそうだと、少し残念そうにする娘。何を期待していたのやら。


 それから暫く親子三代の恋愛話で盛り上がる。娘の初恋相手は知っていた。孫娘の方は、違う場所に住んでいたために新鮮だった。



 そんな穏やかな時間が少し落ち着いた時だった。



「そう言えばお母さん、今日はよく笑うわね」

「ホント、ちょっと前に来た時は辛そうだったのに。ひょっとして、良くなってきてるんじゃないの?」


 確かに今日は身体が楽だった。いつもは話をしているとすぐに息が切れるし、節々が何本も針を刺されたように痛む。その度に痛み止めの注射を受ける日々。


 ただ、不思議と今日は息も切れないし節々も痛くない。この子たちが来る前に飲んでおいた薬が効いているのかもしれないけど。


 それでもそろそろ、その効果も切れておかしくない。だけど今は、まだ何ともない。


「そうだねぇ……そうだといいねぇ……」

「まだ死んじゃやだよ、おばあちゃん。アタシの成人式の晴れ着とか、ウエディングドレス姿を見せたいんだからね」

「ちょっとあんた、そんなこと言わないのっ! 縁起でもない」


 軽い気持ちでそう言ったであろう孫娘に、眉を吊り上げ軽くゲンコツを当てる愛娘。その光景に、思わず頬が緩む祖母の私。



 こんな穏やかな時間、本当に久しぶり。



 ――――二人とも、ありがとうね。

「えっ? おばあちゃん、なんか言った?」


 微笑みながらも無言で首をユルユル振ると、娘も孫も不思議そうに顔を見合わせる。その様子がおかしくて、さらに頬を緩めてしまった。


「でも、兎年同盟かぁ。いいなぁ、アタシもそんな恋がしたいなぁ」

「ホントねぇ、私もやってみたいわねぇ」


「いやいや、お母さんがそれやったらもうアウトだし。ねっ、おばあちゃん」

「そうね、後が面倒になるだけだよ」

「ですよねぇ」


 そして、病室は私たちの笑い声に満たされたのだった。


 今日は本当に調子がいい。



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 ピッーーーーピッーーーーピッーーーーピッーーーー


「うっ……はぁ……はぁ……くっ! ……」

 ――痛い……身体が……全身が痛い……


 ピッーーーーピッーーーーピッーーーーピッーーーー


「はぁ……いっ! ……はぁ……はぁ……」

 ――胸が……苦しい……息が……しにくい……


 ピッーーーーピッーーーーピッーーーーピッーーーー


 突然の身体の痛みに目が覚め、同時に呼吸のしずらさにも気づく。就寝するまでは何事もなかったのに、今はたまらなく辛い。


 あまりの痛みに思わず身体を少しズラす。ただ、それだけでも全身に激痛が走る。枕元にあるナースコールのボタンを押すことも出来ない。


 ピッーーーーーピッーーーーーピッーーーーー


「はぁ……はぁ……」

 ――誰か……痛い……助けて……看護師さん……


 声を出そうにも口を動かそうとしただけで激痛に襲われ、その痛みに耐えようと目を強く瞑ればまた、痛みが駆け巡る。


 これまで感じなかった激痛に抗うことも出来ず、ただただ心の中で助けを求めるのみ。



 ただ……ただ、それももう……おっくうになってくる。



 ピッーーーーーピッーーーーーピッーーーーー


「はぁ…………はぁ…………はぁ…………」

 ――もぅ……もぅいい……早く……早く楽に……なりたい……


 痛みに耐え、絶望感に苛まれ、そして――――全てを諦めた。


 頭がぼうとする。目を瞑っているにもかかわらず、目の前が少しづつ白くなっていく。そして、身体の痛みが和らいできた。


 ピッーーーーーーピッーーーーーーピッーーーーーー


「はぁ………………はぁ………………はぁ………………」

 ――やっと……やっと楽に……なれる……のね……


 あれだけ苦しかった呼吸も全身の痛みも薄れ、少しずつ気持ちよくなってきた。全てが真っ白な世界に浮かび上がる感覚が心地いい。


 そう思った瞬間だった。


 カチャリ……と何故か鮮明に、病室の扉の開く音が聞こえた。


 娘たちが心配してやってきたのだろうか。看護師さんが私の異変に気づいて駆けつけてくれたのだろうか。


 ふわふわとした浮遊感が心地よく、そちらに意識を持っていくのも面倒くさい。それに、何となく眠くなってきた。


 ――――誰?


 せっかく身体の痛みや息のしずらさが無くなり、久しぶりに高揚感に包まれ、穏やかに眠れそうな時なのに。扉を開けた誰かが近づいてくる感覚がある。


 仕方なく……本当に仕方なく目を開けようとする。せっかく来ていただいたのだから、返事だけはしないとと思い。


 ただ、目を開けた感覚はないのに、徐々に広がっていく真っ白な世界の奥から真っ黒な人影がやってくる。不思議な事に、私はいつしか立ち上がっていて、それを見ていた。


「……誰? 誰なの?」


 返事は無い。ただ、その影はゆっくりと、確実に近づいてくる。少し、恐怖を感じる。


 そんな不安を抱いたその時、近づいてくる影が色を持ち始めた。若い……若い男性? 知っている人? もしかして……あな……た?


 三年前に先に逝ってしまったあの人を呼ぼうとした瞬間。目の前に立ったその人は、はっきりと姿を表し、笑顔を向けていた。


 懐かしく優しい、昔のままの大好きだったあの笑顔を、私に向けてくれていた。



「サトル……お兄……ちゃん?」



 その瞬間、私は悟った。


 ――そう……お迎えなのね。


 お昼に娘と孫と、あんな話をしたからだろうか。長く連れ添ったあの人じゃなく、初恋の相手がお迎えに来るなんて。


 ――ふふふっ……私って、なんてはしたないんだろう。


 目の前のサトルお兄ちゃんは私が子供の頃の、あの日にドライブに連れて行ってくれた時の格好で立っていた。


 真っ白なカッターシャツに肌着。ジーパンに太めのベルト。クリーム色のスニーカー。


 全てが……その全部が記憶にあるままの姿だった。


 孫娘に見せればファッションチェックをされそうな格好だけど、私から見ればとても懐かしい。大人の男性感じさせる、その服装がとても眩しく見えた。


 だけど、目の前のサトルお兄ちゃんは私が最後に見たまんま、二十四歳の頃の姿。今の私は七十二歳の年寄り。


 潤いも張りもなく、露出した肌はシワだらけで、とても見せられたものじゃない。



 ――――恥ずかしいよ、サトルお兄ちゃん。



 それでも目の前のサトルお兄ちゃんは、微笑みを崩さない。何もかもがあの時のままで。


 その姿を見つめていると、いつしか恥ずかしさも消えいたことに気づく。そして、一歩近づく私。無性にある衝動に駆られてしまう。


 あの時、私が気を失う前にサトルお兄ちゃんが言った言葉。最後まで聞くことができなかった言葉。


 サトルお兄ちゃんを忘れようと決めた時、心残りになったあの言葉が聞きたくて。勝手に口が開いてしまった。



「サトルお兄ちゃん。あの時、何て言ったの? 私が気を失う前に何て言ったくれたの?」



 本当は聞くつもりがなかった。それを聞きたくなくてサトルお兄ちゃんを忘れようと決めた。


 自分の思ってることと違う言葉だったらと思うと……



 怖かった。



 だから私はサトルお兄ちゃんから逃げたのだ。


 でも……


 それでも……


 それでも今は知りたい。サトルお兄ちゃんの口からあの時の言葉を聞きたい。



 ――私の、最後のわがまま。聞いてくれる?



 期待と恐怖の入り混じる胸中、別の意味で胸が痛い。それでもサトルお兄ちゃんを見つめ、私は答えを待った。


 ――例えそれが私の思う答えではなくても。


 すると、一度目を閉じたサトルお兄ちゃんがゆっくりと目を開き、そして口を開き……唇が動く。



『……茉莉ちゃん……僕は、茉莉ちゃんの……』



 あの時の言葉。私が聞きたかった言葉。怖くて聞きけなかった、本当の言葉を言ってくれた。



 ――――なぁんだ、やっぱりそうだったんだ。



 兎年同盟は嘘をつかない。だからこれは正真正銘、サトルお兄ちゃんの本物の気持ち。もっと早くに聞いていればと、ちょっぴり後悔してしまう。


 サトルお兄ちゃんは、やっぱりサトルお兄ちゃんだった。


 背が高くてカッコよく、とっても優しくて、いつでもそばにいてくれた大好きな人。


 本当は、忘れたくても忘れることができなかった大切な人。


 やっと聞けた。


 サトルお兄ちゃんの口から聞くことができた。


 怖くて逃げた自分が、今ではとても恥ずかしい。


 そしてこれが……これが私の、小さな恋のうた。長い長い初恋の物語。


 ――――ようやく……ようやく終わらせることができたのね。


 少しはにかむ私。優しく微笑むサトルお兄ちゃん。真っ白な空間が、故郷の空気に包まれる。そんな柔らかな錯覚を全身に感じたその時だった。


 目の前のサトルお兄ちゃんがゆっくりと……ゆっくりと右手をあげてくる。そしてその手が私に差し出された。



 ――そっか……もう、行かなきゃならないのね。



 その手をじっと見つめ、それから視線を持ち上げサトルお兄ちゃんを見る。そこにあるのは、いつも私に向けていたあの笑顔。あの時のままの笑顔。


『大丈夫。全部、俺に任せて。茉莉ちゃんは何も考えなくていいから』


 そんな、昔聞いた言葉で安心感に包まれる。いつでも私に寄り添ってくれたサトルお兄ちゃんを、私は信頼しなかったことはなかった。


 ――嘘をついていたのは私。


 自分の気持ちを誤魔化して、これまでサトルお兄ちゃんを避けて生きてきた。


 兎年同盟失格だ。


 だから……だから私は右手を持ち上げ、ゆっくりと伸ばす。そして、サトルお兄ちゃんの手に重ねた。


「今までごめんね、サトルお兄ちゃん。そして、迎えに来てくれてありが………」


 ツ――――――――――――――――――――――ッ




 ✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜✤〜



 一年後


 希望ヶ丘霊園。



「ねぇ、お母さん。おばぁちゃん、ホントは寂しかったんじゃないかなぁ」

「んん? どういうこと?」


「だってさ、ひとりぼっちで亡くなっちゃったじゃん。きっと不安でたまらなかったんじゃないかなぁって」

「ん〜〜〜っ、どうだろぅ? 案外嬉しいことがあったんじゃない?」


「へっ? どういうこと?」

「だって、お医者さんも言ってたじゃない。こんな幸せそうな顔で眠る人なんて、そうそう見られないって」


「確かにねぇ。ホント、寝てるだけって思ったもんなぁ」

「きっと、いい夢でも見てたのよ。それか、死んだおじいちゃんがお迎えに来たんじゃない」


「ひょっとしてさ、お迎えに来たのは例の、兎年同盟の人だったりして」

「え〜〜〜っ。でも……それが本当だったら、ロマンチックかも」


「だよねぇ! あはははっ」

「あははははっ!」

『……ふふふっ』


「えっ!?!?」

「どうしたの? そんなにビックリしちゃって?」


「うん……今さ、おばぁちゃんの笑い声が聞こえた気がする」

「はぁ? ……まぁでも、意外と近くで見てるかもね。おばぁちゃん……お母さん、心配性だったから」


「うん! おばぁちゃん、これからもアタシのこと、ちゃんと見ててね。じゃ、またね!」

「それじゃお母さん、また来るね。私たちのこと見守ってね」



『…………えぇ、またね』



 ―――――――――――――――――――fin――

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小さな恋のうた 葉月いつ日 @maoh29

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