指先に宿る筋肉

しらす

年月の積み重なった手は

 その人に会ったのは、私が大学2年くらいの頃だったと思います。

 自転車で街じゅうどこでも行っていた私は、頻繁に県立美術館を訪れていました。

 この頃私は、入学2年目にして、早々に学業に行き詰っていました。

 元々は勉強が好きだったと思うし、入った学部も行きたかったところだったのに、どうしても大学に行けない。行きたくない。すぐに体調が悪くなる。そんな日々でした。


 それでも引き籠るということはなく、むしろ家にいるのも嫌で毎日出歩いていました。特に何を買うでもないけれど商店街に行ったり、友達に教えてもらって史跡を巡ったり、ただ神社でぼーっとしたり。

 なかでも好きなのが美術館で、気になる企画展があれば必ず行っていました。


 そんな展示会の一つが、幼いころから見知っていた切り絵作家さんの展示会でした。


 切り絵と言うと、ぱっと思い付くのは大きくてもA3サイズくらいのものだと思います。ですが、その作家さんの切り絵は絵画サイズのとても大きなもの。しかも当時81歳にして、展示会に合わせてその町の風景を描いた、壁画サイズの切り絵を作っていました。


 このエネルギーだけでも尊敬するしかない、と思っていましたが、さらに深くその人の存在感を心に刻んだのは、たまたま開かれていたサイン会での出来事でした。


 特別展でサイン会が行われることは時々ありましたが、実際に行くのは初めてです。

 折角だからサインしてもらおう、とわくわくしたのもつかの間、広いホールの真ん中に座る作家さんの、体から滲み出るような年輪とオーラのようなのもに、私は委縮してしまいました。


 どっしりと座り、とてもゆっくりと動く体は、ぱっと見は祖父よりもずっと年上の「お爺ちゃん」そのもの。なのにとにかく大きく見えるのです。まとう雰囲気が仙人かなにかのようなのです。

 学業に行き詰まり、自分に自信がなくなっていた私には、眩しすぎる人でした。

 しかもいざ順番が回って来ると、サインをしたら握手をするので手を出してください、とスタッフに言われて、どうしたらいいのかとおろおろしました。


 大丈夫、一回きりの握手だ。しかも全然知らない人なんだし、軽く握って終わりだろう。


 そんな風に腹を括って手を出した私は、次の瞬間、天地がひっくり返るような気分になりました。


 まず驚いたのが、その手の大きさ。

 10代の頃からずっと切り絵を生業にしてきたその人の手は、指の太さが私の4倍はあろうかというくらい、分厚く固い筋肉に覆われていました。それでいて皮膚はしなやかで、熱いほどの手のぬくもりが伝わってきます。


 びっくりして咄嗟に手を引っ込めようとしましたが、その人は私の顔をじっと見ていて、決して手を放しませんでした。

 握手した手の甲に反対の手を重ね、ぐっと力強く握りながら、その人は一度そっと目を閉じました。それから微笑んで、安心しなさいというように私の目を見ていました。


 私は泣き出しそうになりました。

 行き詰っていた私にとって、人生はなんとなくこれ以上良くはならないし、自信だってもうつくことはない、そんな気がしていました。

 けれどこの人の人生だって、いつも順風満帆だったわけではないのだろう、挫折しそうになりながらも、ひたすら稼業として切り絵を続けて来た結果、こうしてこの場にいるのだろうと、そんな事が一気に頭を駆け巡りました。


 その人がどこまで私の事を見抜いたのかは分からないけれど、きっと自信を無くしている私の気持ちに、気付いていたのだと思います。

 泣きそうになりながら、もう一度目を見て微笑み返すと、ゆっくりと手を放してくれました。


 この時の大きな手は、今も忘れられません。

 たぶん初めて、人の体を見て衝撃を受けた記憶なのだと思います。


 いつかあの時のお礼が言えたらいいな、と思いつつ、自信を無くしそうなときには、よくあの分厚い手のひらを思い出すのです。


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