筋肉と迷宮
永庵呂季
筋肉と迷宮
「登山嫌いな人が山登りをすることになり、険しい山道を登った。だが、その人には本当にやりたいことがある。それはなんだと思うかね?」
「……知らない」
「答えは、下山すること、だよ」
屈強な山岳騎士、ダリオンはそう言うと豪快に笑った。
寒風に負けないその
「……あはは……」
私には、もはや愛想笑いに付き合う気力さえなかった。
詳しい標高を調べる術はない。
……頂上が見えないってだけで、察しろって感じよね。
冥府峰に分け入った時点で、すでにそこは魔物たちの領域。人間界の理の外である。
信じられないことだが、魔物を統べている『混沌の王』と呼ばれる存在が、この山脈全体に強力な幻惑の魔法を掛けているのだとか。
なので、その山道は常に変化し、同じ道へ戻ることは二度と無い。魔物のレベルも相当高い。空から、土壁や茂みの中から、なんの前触れもなく襲ってくる。
フィールドをのこのこ歩いているような間抜けな魔物はいない。もしいたとしたら、とっくに他の魔物の餌食となっていることだろう。
「しかしまあ、この
「……好きで登ってるんじゃないんですけど」
体感で現在、山の八合目付近。すでに現状は山登りではなく、
年頃の女子が蛙のように岩壁へしがみつき、大股広げて岩のくぼみにつま先を強引にねじこんでいる姿は、なかなかセクシーだと自分でも思っている。
「……なんてね、へへ……えへへ」
いけない……。あまりの疲労に思考回路が破綻している。いつものクール・ビューティーなな自分はどこへ行った? いや、そもそもこんなこと思ってる時点でヤバイ。
「……限界……もう筋肉的に、もう限界……」
「諦めるなよ、英雄殿! あともう少しだ! 自分の筋肉を信じるんだ! それが山登りの鉄則だ!」
……うるさい、黙れ、この筋肉バカ。
髭面の、筋骨隆々なおっさん騎士。ただの脳筋のようにみえて、れっきとした山脈の国エルモントの
由緒正しいおっさん。
人間界の側から、この山脈を守護している。
……さしずめ戦うワンダーフォーゲル部ってところね。
もうとっくに、標高的には富士山を越えているはずだ。横殴りの突風には、たまに氷の
霧と雲によって視界は二メートルもない。ホワイトアウト寸前だ。
エルモントを出立する際、宮廷魔術師から受けた
壁に張り付いたまま、突風が収まるのをひたすら耐えて待つ。
……なんでこんなことになっているのか。
『英雄』って、もっと周りにチヤホヤされて、ウハウハな豪邸に住んで、たまにドラゴンとかをチャチャッと倒すだけでいいんじゃないの?
だが、異世界はそれほど甘くはなかった。
大体いつも、チヤホヤされるのには理由……というか裏がある。
いつだったか、魔女の塔に送り込まれたときもそうだった。町人総出の大歓待。そのまま魔女探索をお願いされて塔の中へ入ってみれば、危うく石化して人生詰んでたかもしれないというデンジャラス・トラップ。
……ああ、私ってもしかして電卓より記憶力がないのかしら。
思い出してため息が出る。
この世界へ転生してきて、成り行き的に冒険や
そして訪れた山脈の国エルモント。
貴族の息子が箔を付けるために入団するような軟弱な騎士団とは違い、全員がガチムチなガチ勢で構成されている男の中の男たちの園。それが
その物珍しい登山トレーニングを見物していたのがそもそもの運の尽き。
私に声を掛け、手合わせをしたいと挑戦してきたのが、筋肉バカこと筆頭騎士のダリオンだった。
攻撃力は申し分ない。だが、素早さが犠牲になっている戦闘スタイル。
一緒に登山してみれば、そのスタイルの有用性はよく分かる。細い崖の道で飛び跳ねるわけにもいかない。敵は奇襲が前提。ならば、まず受けること、そして防ぎきることが重要になる。
でもまあ、それはたっぷりと戦う土俵を用意できる平場においてはネックとなる。特に私のようなスピード重視の戦士にしてみれば、隙きを突くのは
というわけで軍配は私に上がる。うら若き少女に負けたダリオンは、悔しがるどころか「英雄の到来だ!」と大げさに騒ぎ立て、国王へ謁見させ、その強さを我が事のように報告した。
これでフラグは立った。あとはお決まりの大歓待。友情を育む騎士団と私。
「じつはな……英雄殿」と木製のジョッキを持ったダリオンが神妙な顔つきになる。
……ほらきた。
そして、寒風の中、玉のお肌を氷の礫でガサガサにされている。
いま、ここ。
突風が過ぎる。
だけど、指先に力が入らない。次の窪みを目指して彷徨う自分の指先。朦朧とする意識と連動するように視界に白い
……この手を離して、落下するに身を任せたらどんなに気持ちがいいだろう。
そんな破滅的な欲求が身をもたげる。
「気をしっかり持つんだユカ!」
脳筋の濁声は、意外に脳へ突き刺さる。
痙攣する全身の筋肉を無理やり動かして、声のする方へ顔を上げる。
そこにはロープにぶら下がるようにして、こちらへ手を差し伸べているダリオンの姿があった。
「掴まれ! あと数センチ手を伸ばすんだ!」
……その数センチが、東京・大阪間よりしんどいって言ってるのよ。
口に出して憎まれ口を叩く余裕すらない。
「自分を信じるんだ!」
……信じれば救われるなら、今すぐ全能の筋肉を授けなさいよ。
「自分だけじゃ足りないなら俺を信じろ! お前の筋肉を信じている、俺を信じるんだ!」
……このバカ、山にきてからずっと筋肉の話しかしてないじゃない。
善意なのは間違いないが、必死に呼びかけている内容がひどい。
思わず笑ってしまった。そうか、私はまだ笑う元気があるんだ。
なら――あと少しだけ、信じてやるか。
軋む肩甲骨。その悲鳴を無視するように歯を食いしばって上腕二頭筋と前腕筋群を限界まで引き伸ばす。
ゴツゴツした岩肌のような手が、強引に私の手首を掴む。
心地の良い浮遊感と上昇感。ドラゴンのような咆哮を上げるダリオン。
――地面だ。
垂直じゃない。水平の地面。
この数時間、焦がれていた地面。重力に身を委ねても落下しない場所。
全身の筋肉が一気に弛緩していく。
頬に当たるざらざらの土埃すら愛おしく思える。
私が無様に倒れ込んでいる横で、ダリオンは
熟練の山岳騎士でも、さすがに人間を引っ張り上げるのは大変なのだろう。
しかも、この限界の状況で。よく助けてくれたと思う。
……まあ、強引に連れてきたのはコイツなんだが、それでも感謝はしておこう。心の中で。
「ところでさ」
私はようやく口を開く程度に回復した。
「お目当ての『均衡の魔鏡』は手に入れたのに、どうしてさらに登っているのかしら?」
当初の目的。
山の麓に魔物が溢れ出したことによる治安の悪化を懸念したダリオンは、冥府峰の洞窟に安置されていると語り継がれている伝説の魔道具『均衡の魔鏡』を探す手伝いをしてほしい、と宴の席で言ってきた。
『均衡の魔鏡』があれば、魔物が山から出てくることがなくなるのだそうだ。
どうしてそうのなるのか? それは知らない。
ダリオンに聞いても知らないという。
「宮廷魔術師に渡せば、あとはアイツらがなんとかするってよ。魔法のことは俺にはよくわからん。だが、それで魔物に怯える麓の村がひとつでも減るなら、騎士として手に入れないわけにはいかんだろう」
非常に脳筋らしい、マッチョな意見だ。だが、それは『英雄』候補生である私も同じこと。
困っている人がいるなら、助けなければいけない。それが
つまり、飯の種。
で、さすがは山岳騎士。その道程に問題はまったくなかった。
なぜ登山初心者――というか、現実世界でもしたことのないズブの素人――とバディを組んで登頂に挑んだかというと、魔物との戦闘において連携がしやすいからだった。
防御のダリオン。その間隙をついて敵に致命傷を与える素早い攻撃を得意とする身軽な私。
ダリオンが私をヨイショしてその気にさせたのにも、やはりしっかりとした裏があったわけだ。
「登ってはいるが、これでもきっちりと下山の途中なのだ」
息を整えたダリオンがこちらを向く。彼の差し出す手には革袋の水筒。
どうにか上体だけ起こして水筒の中身を遠慮なく飲み干す。ダリオンが担いでいる、私より重いリュックサックの中には、まだ予備の水筒が幾つか入っているのを知っている。
「最初に言っただろう。この
「……信じていいのね? この迷宮のような山脈を抜けられると」
「目的は達成しているだろ? 帰り道の心配なんてするな。山岳騎士が山で迷うわけがなかろう」
「心配しているのは私の体力よ」と私がげんなりして言った。「これ以上歩ける気がしない」
「歩けるさ」とダリオンがゆっくりと立ち上がる。「山登りは肉体的な挑戦だけではない。自分自身についても、これまで知らなかった自分の側面ついて気付かせてくれることがある」
「へぇー、そうなんだ」と私は辟易して言う。「……たとえば?」
「英雄殿は、とにかく自分の筋肉の限界について知ることができただろう」
……腹立つわぁ。
周囲に立ち込めていた霧が晴れていく。眼下の景色が一望できた。
青々とした森林が広がり、その先には滑らかな曲線を描く川が流れている。その川に沿って、小さな村々が点在している。赤い屋根と白い壁が美しく調和し、まるで絵本の中のような素敵な風景。
空は深い青色で無限に広がり、白く綿菓子のような雲が流れていく。太陽はこれまでの寒さを帳消しにしようと輝いていた。
「この素晴らしい景色だって、知らないままでは勿体ないとは思わないかね?」
……悔しいけど、その通りだ。
「自分について、知らないことも気付かせてくれるってのは、確かにいいことかもしれないけど」と私も立ち上がる。「確実に知っている事もあるって気付かせてくれたわ」
「なんだね? その知っている事とは?」
「明日、確実に筋肉痛になるってことよ」
眼下に広がる美しい景色を見ながら、私の太ももはすでに痙攣をはじめていた。
筋肉と迷宮 永庵呂季 @eian_roki
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