第四章 喜劇 3
ヨハンへ。
この文書を君が読んでいるということは私の命はもうこの世界には無いのだろう、などといったくだらない前置きはさておいて、まずは手紙が無事に君に渡ったことにまずは感謝をしなければならない。
これは、いまアルガンティアという国で政権を握っている友愛党という政治組織の悪事を君に伝えるための文書だ。私は仲間とともに彼らの独善的な支配から逃れるために日々抗い、戦っている。だが、情けないことに少々よくない事態に追い込まれているみたいだ。私の命が奴らの手によって奪われるのも、そう遠くないかもしれない。そこで君に少しでも遺せるものがあればと思い、こうして筆を取っている。
まず何よりも伝えなければいけないのは、友愛党の真実だ。彼らは人類の歴史を歪曲し、自分たちの都合の良いように改変しようとしている。突然こんなことを言われて、受け入れるのは難しいかもしれない。しかしこれは紛れもない真実だ。ヨハンたちが学校などで学んでいる歴史も、彼らの手によって解釈されたものだ。当然ながら我々は、過去を前提として存在している。歴史を持たない人間などありえず、歴史は私たちを構成する遺伝物質の一つであるといっても過言ではない。友愛党の目論見の邪悪はそこにある。彼らは神のような視座に立ち、私たちの生を遺伝子ごと改変しようとしている。私はそれが許せないのだ。
遺伝子を後世に伝えようとするのと同じく、歴史を紡いでいく運動は人間の本能に根差している。自分の生きた痕跡を過去に遺したいと思うのは、当然の欲望だ。友愛党の歴史改編も、ひょっとしたらそんな願いの表れなのかもしれない。すなわち、自分たちの作り出した歴史を受け継いでいってもらいたい、その歴史をもとにして人々の生の一部分として存在していたい、という願いだ。
そういった願望には共感できなくはない。しかし許容できるかどうかはまた別の問題だ。彼らのやり方は歴史的多様性を奪い取ってしまう。見たくないものを見ないようにしてしまう。そうやって出来上がるのは無菌室のように清潔な、汚濁の消去された物語だ。先人たちが血にまみれて築き上げてきたものを無化してしまう。それは何としてでも避けなければならない。
この手紙と一緒に、小瓶と注射器を同封しておく。小瓶の中には、西暦二〇二〇年前後に世界的大流行したウィルスを少々改変した検体が入っている。そのウィルスは先人の努力のおかげで人に害を与えるものではなくなっていたが、それでも変わらずヒトに寄生して生きつづけていた。それを体内から取り出し、改変を加えたものが、その小瓶に入っている。具体的に言えば、感染力を爆発的に高め、かつそのウィルスが猛威を振るった当時に、実際に呈した症状をヒトに発現するようにしてある。
このウィルスは人間の歴史の比喩だ。話し言葉とともに他人に伝わっていく。ウィルスの脅威を乗り越えるためには、そのウィルスを見て見ぬふりをするのではなく、人類で手をつなぎ、立ち向かっていかなければならないのだ。自分自身の中に、恐ろしい何かが眠っていようと、それを直視しなければならない。
使いどころは難しいと思う。もし、友愛党の支配がどうしようもなくなった時、ヨハンの手でこれを自らに打ち込み、そして人々の間に広めてほしい。それが友愛党の極端な歴史的潔癖症にダメージを与えられるはずだから。
この手紙は信頼のおける私の後輩に預けておく。彼も党の打倒を目指す仲間であり、かつ私の共同研究者でもある。詳しいことは彼から聞くといい。きっと頼りになってくれるはずだ。
最後に、私は父親としてはあまり良い人間ではなかった。君をどこかへ連れて行くことも、授業参観に行くこともあまりなかった。それでも、こうして何かを遺せることができたのは、父として、うれしく思う。
ダドリー・ハーバート
ヨハンは父からの手紙を読み終えて、机の上に置いてため息をついた。おぼろげながらも、彼の面影がこの文書を通じて蘇ってくる。その輪郭や声はすでに曖昧だが、触れ合うことで生じた温かみは、確かに記憶の底に残っていた。
時刻は午前五時を過ぎた。アンドレ・グーゼンスを殺害してから、大体三時間が経過している。今頃彼の屋敷では、警察が調べに入っているだろう。そして奇妙な傷跡に首をしかめているに違いない。
いまヨハンは一人で拠点にいる。レジスタンスに加入した最初の日、ナスターシャとフロンメルトに連れられて移動した拠点だ。ここでノルダルと行った過酷な訓練で味わった痛みは、今でもありありと思い出せる。
ナスターシャは本を持ってほかの拠点に帰っていった。おそらくほかの仲間と一緒に、内容をあらためて簡単にまとめるのだろう。彼女にはまだ、大仕事が残っている。すなわち、午前十時から行われる予定の演説会を乗っ取って、大衆の前で全てを打ち明けるという役割が。
アンドレ・グーゼンスはもういない。指揮系統を失って混乱の真っ只中にいる友愛党の演説会に乱入するのはおそらく簡単だ。そしてナスターシャは正しい歴史を語る。彼女の話法によって届けられた歴史は、さざ波が打ち寄せるように人々に浸透していって、やがて世界を覆うだろう。かくして、レジスタンスの目論見は達せられる。
ヨハンは天井を見上げた。ナスターシャの言葉は特別だ。何回も何回もリフレインして頭を犯す。
「……もう、何も考えなくていい」
彼女のその言葉を、ヨハンは一人反芻した。ナスターシャはヨハンの弱さを受け入れた。少しずつ壊れていったヨハンの心を受け入れた。その安心感は何にも勝る心地がした。
しかし、今、考えなければならない。全ては終わろうとしている。その前に、すでに終わってしまったものの意味を考え直さなければいけなかった。
クラウス・ムンク。反友愛党組織の裏切り者。
父がこの手紙と、かつて大流行したというウィルスの入った封筒を預けたのは、この男だったのではないだろうか。父の部下であり、党を打倒する同志、共同研究者といった、手紙に記された人物像もクラウス・ムンクと一致する。
そしてこの手紙がグーゼンスの元にあったという事実は、彼が裏切り者であるという仮説をよりいっそう堅固にする証拠のように思われた。ムンクは、先輩の研究者であるダドリー・ハーバートが息子に送るための手紙を預かり、それをグーゼンスに渡し、仲間の命を売って自分一人だけ生き延びた。そしていなくなった父のポストを受け継いで、自分は研究者としてのうのうと生きてきたのだ。つい先日までは。
ムンクが殺されたのはどうしてか?
その答えは、ヴェルナーが指し示した。
友愛党に寝返ったムンクが、友愛党に殺されるなんてことはありえない。彼の命を狙う理由があるのは、その逆、裏切られた反友愛党組織のほうだ。
ムンクが属していた組織は十年前にすでに壊滅している。が、彼らの意志を継ぐ組織は、まだ生き残っている。
突然、ノックの音が鳴った。一定のリズムを伴ったノックの音は、レジスタンスのメンバーが訪ねてきたことを表している。手紙をポケットにしまってから、立ち上がり、鍵を開ける。中に入ってきたのはフロンメルトだった。
「よお、ヨハン」彼は含みのある笑みを浮かべて片手を挙げた。「相変わらず、ひどい顔だな。今度は青あざができている」
ヨハンはヴェルナーの拳に殴打された部分をさすった。不快な痛みがにじみ出る。「フロンメルト、君もあの場所にいたのか?」
「あの場所、というとグーゼンス邸の周辺か?いいや、俺は行かなかった。ほかの場所でお前たちの武運を祈っていたよ」
行っても、足手まといになるだけだしな、と彼は付け加えた。
ヨハンは扉近くの椅子の向きを変えて腰を下ろす。フロンメルトは腰を落ち着けるつもりはないらしい。
「それより、ノルダルがお前に助けられたことをえらく感謝していたよ。借りを返すことができて良かったな」
「……彼女は無事なのか?」
「無事だ。特に大きなケガも負っていない。強いて言うなら、左目がだいぶ痛んでいた。が、まあ幸い、視力はもとに戻るだろう」
「そうか、よかった……」心の底から、そう思った。「それで、ここに何をしに来たんだ?わざわざ仲間の無事を伝えに来てくれたのか?」
「ナスターシャから命令されたんだよ。お前の顔面の傷を治療してやれだってさ。あの女、大仕事をやってのけた直後だってのに、他人の心配をしてやがる。その上、寝ずにこのあと一席ぶつ予定のスピーチの準備をしてるんだ。まったく、つくづく化物だよ、あの女は」
フロンメルトは二階に上がって医療キットを持って階下に戻ってくる。ヨハンの向かいに腰を下ろした。
「大した傷じゃあねえな、これは。青くなってはいるが、骨が折れているわけでもなさそうだ」
フロンメルトは、ヨハンの顔の擦り傷になっているところを軽く消毒し、青くなっている部分に軟膏を塗ってその上に被覆材を張った。
「さて、これで俺の役割は終わりだ」膝に手をついて、フロンメルトは立ち上がる。
「私はこれから、どうすればいい?」
「あー……」腰に手を当てて首を捻る。「特に何か指示をもらってはいないんだが、そうだな、もし余裕があるなら、ナスターシャの演説でも見に来ればいいんじゃねえの。彼女としては、お前には休んでもらいたいみたいだけどな」
口には出さないが、彼はナスターシャからヨハンへの過剰な保護を疑問に思っているようだ。ナスターシャはフロンメルトに、ヴェルナーとのやり取りを教えていないのだろう。
背中を向けるフロンメルトに、ヨハンは声をかける。
「なあ、トラッカーが機能していないこと、お前は知っていたか」
真顔で、フロンメルトは振り返る。「……何?」
ヨハンは、淡々とエンデルとの話を説明する。一連の話を聞き終えたフロンメルトは、ため息をつき小さく、そうか、と言った。
「いいや、知らなかった……それで?」
「話を聞いた時には気が付かなかったが、トラッカーが意味をなさないならつじつまの合わない事実がある。火災の起こった次の日の朝、どうして警察は私がいる家までやって来たんだ?」
あの時、ナスターシャはやって来た警察を見て、小さくトラッカーの名を口にした。しかし、トラッカーは居場所を発信していない。であれば、敵はどうやってあの場所を突き止めたのか。
「……お前が通報したんじゃないのか。行方不明のヨハン・ハーバートがあの場所にいる、と」
「その、エンデルという監督が嘘をついているんじゃないか。トラッカーが正常に動いているのに、俺たちの組織の動揺を狙って逆のことを言った」
「いいや、それはありえない」
根拠はほかにもあった。昨日、ヴェルナーは、あの現場に赴いたのは、通報を受けた警察だと言っていた。つまり、あの時ナスターシャと二人で殺した三人の警察は、トラッカーによって居場所を特定したのではなく、通報で駆け付けたのだ。
フロンメルトはヨハンの目をじっと見る。敵意はない。ただ少し、悲しみが籠っていた。
「何のためにそうしたのか?」ヨハンは自ら問いを投げかける。「私を組織に引き入れるためだ。警察から追われていると錯覚させ、戦うしか道は残っていないと思い込ませるためだ」
どこでこの道に引き込まれたのか。それは、あの警察官を殺した時だ。あの時点で、引き返せない場所に立っていた。
戦闘の後、フロンメルトが帰還した時、ナスターシャの顔を見てひどい怪我だと言った。加えてそのあと、ノルダルは彼女の怪我の具合を見て驚き、そこまで傷を負わせた相手を評価した。彼女はそれほどまでに強いのだ。だとしたらナスターシャはもしや、わざと攻撃を受けて、追い詰められたのではないか?その場にいたヨハンに、否応なしにナイフを握らせるために。
人を殺させて、逃げ道を断つために。
ふっ、と息を吐いて、フロンメルトは曖昧な笑みを浮かべ、ぱちぱち、と両手を叩いた。
「お見事、ヨハン。お前の言っていることはおおむね当たっている」
「……認めるのか?」
「だが、おおむね、だ」彼は人差し指をヨハンに突き付けた。「百点満点じゃない。お前の推理には、最も大切なものが抜けている。本当に、ほかの全てを差し置いて大切なものだ」
最も、大切なもの。ヨハンは口をつぐむ。まあでも、とフロンメルトは続けた。
「お前ほどの聡明な人間なら、結論にたどり着いているのかもしれない。それを口に出すのは無粋だものな」彼は医療キッドを手に、背を向けた。「俺は、個人的にお前のことを気に入っている。お前がどんな選択を選んでも、俺は文句を言わない。幸運を祈っているぜ、ヨハン」
そういって、彼は飄々とした空気を残し、拠点から出て行った。
演説が行われる予定の広場には、曇り空の下、大勢の人間が詰め寄せている。彼らはまだ、アンドレ・グーゼンスが殺害されたことを知らない。党は彼の死を認知しながらも、まだそれを国民に知らせ損ねていた。
鉄の足場が組まれたすぐ横、友愛党員が詰めている場所をレジスタンスは占拠した。抵抗をする人間はいない。中心人物を失った彼らは、誰も彼も骨が抜けたように意志薄弱だった。
時刻は午前十時を迎える少し前。ナスターシャはほかの仲間と作成した原稿を手に、呼吸を落ち着かせていた。彼女とて、緊張しないわけではない。今日は学校で壇上に立つのとは規模も段違いだ。睡眠不足も相まって、心臓が不規則に跳ね回っている気がする。
行きかう人の間に、じっとこちらを見ている男と眼があった。
「……ヨハン」
彼女は小走りで彼の元に駆け寄り、微笑みかけた。「来てくれたのか、ヨハン。もう大丈夫なのか」
「ああ、まあ」ヨハンは曖昧に頷いた。「こうして君が頑張っている最中に、休んでいるわけにもいかない」
じんわりとこみあげてくるものを感じる。こうやって人の上に立ち、人々に真実を伝えるのは、自分の責任と選択の行き着いた結末だ。それでもこうして、寄り添ってくれる仲間がいることをナスターシャは喜ばしく思った。
「……少し、良いだろうか」
彼女の返答を聞く前に、ヨハンは歩き出す。奇妙に思いながらも、ナスターシャはそのあとを追った。
「どうした?」人気がなくなった、塀と木の間で彼女は問う。
ヨハンは振り向いて、彼女の目をじっと見つめる、
「ヨハ」
ン、の音はヨハンが唇を合わせたために不完全なものになった。
彼は手をナスターシャの頭と身体に回し、深く、深く唇を重ねる。
大衆のざわめきが遠のいた。
「…………っは」
唇を離し、両手で軽く身体を押して距離を取る。
「あ、あの、ヨハン。気持ちはうれしいんだが、いまは、そういう状況じゃ……」
「……申し訳ない」とヨハンは伏し目がちになる。
思考が混乱する。今まで考えてきたスピーチの計画が、全部吹き飛んでしまいそうだった。
「ナスターシャ」軽い微笑みを浮かべ、ヨハンは言う。「これが終わったら、今後のことについて話したい。いいか?」
「……ああ、うん。わかった」ナスターシャはこくりと頷く。「全てが終わるのを、そこから見ていてくれ」
彼女は口元を腕で覆いながら踵を返し、演説の場に歩を進めていった。ヨハンはその背中を、突き刺すような痺れの残る左腕を押さえながらぼんやりと見つめていた。
レジスタンスがクラウス・ムンクを殺害したのは間違いがない。だが、彼らのヨハンを引き入れようとする動きを鑑みると、あの放火には別の見方もできる。
あの放火の真の狙いは、ムンクを殺害することではなくシャルロッテを殺すために実行されたものではないか?
ムンクをあの家で焼き殺すことには、裏切り者を始末することに加え、ヨハンの死体のダミーを用意できるという利点がある。そうすれば世間の目を欺き暗躍する、ヨハン・ハーバートという幽霊を生み出せる。たまたまムンクという裏切り者がいたが、彼がいなければそこら辺の誰かを焼き殺していただろう。男性の遺体は、誰のものでもよかったのだ。
ムンクを拉致し、家に押し入ってシャルロッテとともに寝室に押し込め、火をつける。家が燃えているのを見てショックを受けたヨハンにフロンメルトが接近し、妻が死んだこと、そして寝室で彼女と一緒に死んでいる男がいることを教える。そうして心を折り、組織という居場所を提供する。そこまでして、ヨハンを組織に引き入れようとする理由はなんだ?
フロンメルトの言う最も大切なことはそこにあった。その答えが、先ほどのナスターシャとのやり取りだ。
彼女は何よりも他人からの支えを必要としていた。心の底から通じ合える仲間を探していた。そこで、ヨハンを探し出して、仲間に引き入れようと画策した。
「……シャルロッテ」
ヨハンは一人、愛すべき妻の名前を呼ぶ。今でも彼女への想いは変わらず胸の中にある。
ナスターシャが悲劇の元凶であるという物的証拠はどこにもない。だが、そんなことはどうでもよかった。シャルロッテを殺すためにあの火災が起き、ムンクは死体偽装のために連れてこられただけならば、シャルロッテは浮気などしていなかったことになる。彼女は結婚記念日のあの日、ヨハンの帰りを一人けなげに待っていたことになる。
その現実を守るためには、誰を悪者にしようがかまわない。シャルロッテの愛が、それで自分に戻ってくるならば。
やがて、ナスターシャの声が聞こえてくる。強く美しい、凛とした声だ。聞くものの心を震わせ、強い感動を与える音楽に似た音色を持っている。
ヨハンはここへ来る前、父が遺したウィルスの検体を自分に打ち込んだ。改良によりより強い感染力を持つそれは、唾液を通しナスターシャにも伝わった。その伝達は、シャルロッテを死に追いやった彼女へのささやかな復讐だった。
彼女が伝える歴史は、人々の口から口へ少しずつ伝わっていく。正しい歴史が伝達されるのと同時に、ウィルスも彼らの間を蔓延していくだろう。
いつまでも自分勝手だった、父の言葉を思い出す。このウィルスは、人間の歴史の比喩だ。
ヨハンはナスターシャの心地の良い言葉に耳を傾けながら、知覚もできないくらい小さな現象がどこまでも、どこまでも広がっていく景色を一人想像していた。
Historical Amnesia 青桐鳳梨 @rainyruin
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