第四章 喜劇 2

 十一月半ばの深夜の空気は凍り付きそうなほどに冷たい。呼吸をするたびに身体の内側から体温が奪われていくような、そんな冷たさを感じた。

 日付を跨いだあたりの森林公園には誰もいない。風もないので、冬枯れをし始めた木々も身じろぎをせずに佇んでいる。点々と立つ街灯の羽音みたいなかすかな音だけが、時間が無事に動いていることを示していた。

 公園の敷地の中心にある、明かりの灯るガーデンハウス。白い骨組みで建てられているその小屋のベンチに、誰か座っているのが見えた。

「こんばんは、ヨハンさん」

 黒いマントに身を包んで、ノルダルが軽く頭を下げながらフードを取った。ヨハンも合わせてフードを脱ぎ、挨拶を返す。

「先日は申し訳ないことをした。あの後、無事に帰れたのか?」立ったまま、ヨハンは訊いた。

「ええ、特に怪我もなく、あの場は切り抜けられました。こう見えても私、強いですから」

 強いことは身をもって知っていた。が、怪我すらもなかったとは、感心を通り越して呆れすら覚える。

 だが問題は別のところにあった。誰かを傷つけるという心理的な負担を彼女だけに押し付けてしまったことだ。彼女のフィジカルの強さに依存していては駄目だ。

「ご心配なさらなくとも、出て行けと言ったのは私のほうです」思い詰めた表情を浮かべるヨハンに、ノルダルは穏やかな調子で言葉をかける。「二人とも生きていた。それで十分ですよ」

「……そうか」今は目の前のことに集中するのが肝要だった。そうしなければ、またノルダルに苦労をかけてしまう。

 アンドレ・グーゼンス暗殺。うまくいけば数時間後には、彼の命はもうこの世に存在しない。

 ノルダルはマントの内側から折りたたまれた紙を取り出し、ヨハンに渡した。

「アンドレ・グーゼンスの屋敷の大まかなマップです。さしあたり、あなたには私と行動を共にしてもらいます」

 地図に眼を落とす。周囲は堀が張り巡らされている上、敷地は塀で囲まれている。出入口は東西南北に一つずつで、それらから中に入る場合には橋を渡らなければならなかった。

「周囲には何人もの歩哨が立っています。戦闘はおそらく、避けられそうにないかと」

「となると、正面突破が有効だろうか。どうせ避けられないのならば、できるだけ戦闘の回数を減らしたほうがいい」

「いえ、帰還のことを考えると、奇襲をかけて着実に一人ずつ戦力を減らしていったほうがいいでしょう。幸いなことに、増援を呼ばれる心配もないですし」

「それは、なぜ?」

「レジスタンスのエンジニア部隊が、屋敷に引かれている通信ケーブルに工作を施したそうです。外部と連絡を取ろうと思っても、強制的にレジスタンスメンバーがいるところに繋がってしまうとか」

 なるほど、それで相手の増援を呼ぶのを防げるというわけだ。だが屋敷の通信線に細工をしたということは、外にある公衆電話を利用すれば応援を呼ばれてしまうかもしれない。警備の人間が細工に気が付かないよう、祈るしかない。

「それと、ヨハンさん。例の武器を持ってきていますよね」

「……ああ」

 ヨハンはハーネスの胸部左側のポケットに収まっている《平和を創るもの》に触れた。腹部に巻かれたポーチには、弾が収納されている。

《平和を創るもの》には、三発だけ弾が込めてあった。この武器は単純な操作で絶大な威力を発揮できると同時に、何かの拍子に意図せず暴れ出す可能性がある。六つ開いたシリンダーの全てに弾を込めたなら、その可能性も増す。しかし戦闘の場において、穴に一つ一つ弾を収める隙を敵は与えてくれないだろう。ゆえに、六つあるうちの半分の三つだけ、ヨハンは弾を入れておいた。安全性と実用性の間の、せめてもの妥協である。

「それはなるべく使わないでください」

「え?」

「音が出ますので」

 当然のことだった。深夜にあれほどの破裂音が鳴り響いたら、よっぽど怠惰で愚鈍な警備員でなければ、様子を見に来るに決まっている。

「あくまで、最終手段として用いてください。ナイフは持ってきていますか?」

「あ、ああ」ハーネスにはナイフポーチも取り付けられていた。問題なく使うこともできる。

「ではそちらをメインに扱ってください」

 ヨハンは一度胸元からナイフを抜き、軽く手首を回して動きを確認してから、再びナイフを収めた。「わかった」

 二人は屋敷が一望できる高台に移動し、これから襲撃する場所を見下ろした。塀の内側には木々が生い茂っていて、グーゼンスが眠りについているだろう建物を見ることはできない。

「……やはり、いますね」

 点々と、マッチ棒みたいな影が一定の間をおいて立っている。

「計画では、もうじき合図があります。合図がされたら作戦開始です」

「合図?」

「ええ。うまくいけば、警備の多くを北に誘導できます」

 いまいち解せない発言だったが、その意味はすぐに理解ができた。

 北西のほうで、細い尾を引いて赤い光が上昇していく。流れ星のようなスピードで光は上がっていき……やがて音を立て破裂。薄く広がる乳白色の雲を明るく照らし出した。

 誰の仕業か、考えなくともわかる。ウェストリンの爆薬だ。

「……行きましょう」

 フードをかぶりつつ、ノルダルは小走りで、通路を下って行った。同様にヨハンもフードで顔を隠しながら、そのあとを追う。

 坂を下っている最中、警備隊が動揺しているのが見て取れた。間隔をあけて見張りについていたのが、今は数人で集まって話し込んでいるようだった。

 下りきったところで足を止める。数十メートル先に、警備の人間が三人、街灯の下に集まって会話を交わしていた。彼らからはこちらを視認できていない。暗い場所から明るい場所は見通すことができるが、その逆は難しい。

 幸い、あたりにはその三人以外の警備員はいなかった。

「絶好のチャンスです。行きますよ」

 ヨハンの返答を聞く間もなく、ノルダルはマントを翻して闇に飛び込んだ。

「さっきの光はいったい……」

 そう話し込んでいる三人の集団にノルダルは突進し、そのうちの二人に渾身の力を込めて体当たりをした。

 街灯の光の中にいた彼らは、突然、外側の闇が牙をむいたと思ったかもしれない。

 二人の身体が傾いた先は地面が落ち込んでいて、その底には水が溜まっている。

 悲鳴を上げることもできず、彼らは暗闇に転げ落ちていき、冬の堀に着水した。

「…………」

 残ったもう一人の男は、何が起こったのか認識できなかった。目の前の二人が突然消えて、代わりにマントを纏った長身の女がさながら怨霊のごとく立ち現れた。彼は、何も考えずに、とりあえず、といった様子で腰に刺さっていた警棒を抜いた。

 その男の脇腹を、ヨハンは全身のバネを利用し両手で押し出す。

 まるで吸い込まれるみたいに、彼も光から追い出されて、堀へ落ちて行った。握りが甘かったのか、警棒は踊るような影を落としながら空中で回転し、同じく落下していった。

 下方で男たちが話し合う声がかすかに水音に混ざって聞こえてくる。今頃、ようやく自分たちが攻撃されたことに気が付いたのだろう。上がってきて態勢を立て直すのにも時間がかかりそうだ。

 二人は今、屋敷の南西の角の位置にいる。侵入するのならば、そのまま北上して西の門を目指すか、それとも東へ進んで南門を目指すかの二つの選択肢がある。

「西門を目指そう」ヨハンは短く言った。「俯瞰したところ、南のゲートのほうが大きかった。そちらよりも西の入り口のほうが、おそらく警備は手薄だ」

「わかりました」

 二人は再び闇に紛れて移動を始める。右に堀が、左側には道を挟んで住宅が立ち並んでいた。明かりがついている窓は一つもない。

 堀に沿って立つ直近の街灯の投げかける光の中に、警備が一人立って周囲を見回しているのが目に入る。

 闇にうごめく人影をかろうじて視認したのか、彼はこちらを見て薄く目を細めた。

 ノルダルは勢いを保ったまま、先ほどと同様に彼に向って突進する。

「……うおっ!」

 しかし、彼は倒れない。不意を突かれた先ほどの警備と違い、彼は不確かだが敵を事前に認識できていた。その違いが警備の人間に、衝撃に耐える姿勢を瞬時に取らせたのだ。

 男はノルダルの身体を退けながら、はじかれるようにして後方に距離を取って、刀の柄に手を置いた。

「だ――」

 れか、という声はヨハンの体当たりにより堀の底に遠ざかっていった。

 水音が聞こえ、やがてあたりに静寂が戻る。

「大丈夫か」呼吸を調えながら、ヨハンはノルダルに向きなおる。

「……ええ」そう言って身体を起こした彼女は、片手で右目を押さえていた。

「どうかしたか?」

 彼の質問に、ノルダルは無言で手をおろす。右の白目の部分が赤黒く変色していた。薄いまぶたの淵には血涙が溜まっている。

「……おい、それ」

「もつれあった時に、敵の指が刺さったようです。しかし問題はありません。それよりも」

 彼女は再び右目を押さえて、あたりを見渡した。北の離れたところに人の姿が見えた。

「先ほどの声が聴かれてしまったかもしれません。早く移動しましょう」

「わかった」

 返事をして、ヨハンは歩き出しながら北側を向く。治療用の道具は持っていない。なるべく早く作戦を終わらせて、医者に見せなければいけないという思いが胸の中にあった。

 その時、後方から咳が聞こえた。

 ノルダルのものではなかった。

 振り向くと、彼女と自分との間に、しゃがみこんでいる黒衣の人間の姿があった。

 彼は右手で、抜身の刀を地面に突き立てている。

 そして音もなく立ち上がりながら、ノルダルのほうへ身体を傾けた。

 いつもの彼女ならば、問題なく反応できただろう。しかし右目を押さえていたノルダルは、堀から這い上がってきた警察の男を視認するのにわずかな遅延が生じた。

 その認識の遅延は、命のやり取りにおいて致命的な時間だった。

 駆け寄るようにしながら、男は両手で刀を構えた。

 考える間もなかった。

 ヨハンは胸元に手を入れて、《平和を創るもの》を取り出しながら、親指で金具を下げた。

 そして、人差し指を折る。

 破裂音。

 空間が揺れ、

 瞬間、男の身体に赤い穴が開いた。

 男は右の脇腹のところから血をまき散らしながら、回転するようにして、地面に倒れた。

「…………はっ……はっ」

 仰向けに倒れた男は、刀を手放さないまま、電灯のまばゆい光に目を細めることもせず、混乱と恐怖の伴った目で上空を見つめていた。

「なに……なん、だ?これ」

 ヨハンは歩いて近づいて、倒れている男の心臓をめがけて、ナイフを突き立てた。

 男は悲鳴も上げずに二、三度強く痙攣し、やがて体から力みが失われた。

 ナイフを抜いて、両手で押してその濡れた身体を再び堀の中へと入れた。それから手から落ちた刀を続けて投げ入れた。

「ヨハン、さん……」ノルダルは彼の横顔を見て、少し間を空けてから頭を下げた。「申し訳ありません。私がもう少し早く反応できていたら」

「いや、いい……」

 ふっ、とヨハンは強く息を吐いた。軽くマントの端でナイフを拭き、元の位置にしまってから、《平和を創るもの》から、火薬の入っていた金属を抜き出し、武器をホルダーに入れた。

 その動作の間、ノルダルは男が投げ込まれた暗闇を静かに見つめていた。

「……あの男は、助からなかった」

「え?」

「肝臓に当たっていたんだ。遅かれ早かれ命を落とす。だったら、苦しませずにとどめをさしてやったほうがいい」

 二、三秒の間を空けて、ノルダルは深く深く、頭を下げた。「あなたのおかげで、私の命は助かりました。本当に、感謝してもしきれないくらいです」

 それは本心からでた言葉だった。ヨハンにもそれは十分伝わった。

 人殺しはしょせん人殺し以外の何物でもない。ノルダルは、ヨハン以上にその事実を理解している。その彼女が、こうして肯定的な言葉をかけてくれたことに、ヨハンは倫理的にどうしようもなく間違っていることを自覚しながらも、安心感を覚えた。

 そして同時に、自分自身に対する処理しようのない嫌悪感も覚えるのだった。

「音を聞かれてしまった」

 深夜に鳴り響いた音は遠くまで届いた感触がした。作戦開始時に上がった破裂音のこともある。そろそろ眠りについていた住民が目を覚ましてきてもおかしくはない。事実、先ほどまで灯っていなかった窓明かりが、今は一つ点いているのが目に入った。

「ここからは二手に分かれましょう」ノルダルは今まで来た方向に手を伸ばした。「私はこちらに戻って、音を聞いて駆けつけてくる警備を相手にします。ヨハンさんはそのまま進んで、暗殺を実行してください」

「君は大丈夫なのか?その眼で……戦えるのか?」

「心配しないでください」ノルダルは街灯の下で微笑を浮かべる。「大丈夫ですから。また、生きて会いましょう」

 彼女は背中を向けて歩き始めた。強い人だ、とヨハンは改めて実感する。その類まれな身体能力を支えているのは、強靭な精神力だ。彼女は決して、弱い人間ではない。

 ヨハンも再び歩き出す。もう冬の夜の寒さは感じなかった。

 先ほどの争いの音を聞いていたのだろう。正面から、人影がこちらにまっすぐ向かってくるのが見えた。距離は三十メートルほど。相手は一人。先ほどまで光の中に立っていたこちらを、敵はすでに認識しているだろう。戦いはもう、避けられない。

 再び、胸元に手を入れる。《平和を創るもの》を使おうかどうか、迷う。この距離では当てるのは難しいだろう。外したら相手は警戒するはず。そうなったらなおのこと、当てるのは困難になる。さっきだって、ヒットしたのは奇跡みたいなものだった。

 二十メートルほど離れたところで、相手は立ち止まる。ヨハンも胸元に手を入れたまま、その場に佇んだ。

「こんばんは」

 その男はそう言った。

 殺人者にかける言葉としてはいささか暢気だが、その声色には触れただけで暴れ出しそうな緊張が籠ってい。

「君、さっき警備の人間を堀に突き落としたよね」

 金属のこすれる音を立てながら、彼は刀を抜いた。

「警察への暴行は重罪だ。おとなしく捕まってくれればいいんだけど……そんなわけもないよな」

 その声に、ヨハンは聞き覚えがあった。ヨハンの貴重な思い出の、ほとんどの全てのシーンで聞こえてくる、深く深く心に刻まれた声だった。

 思わず息を吸って、吐く。

 その吐息に混ざった、かすかな声帯の振動は冬の夜の空気を通して、相手に伝わった。

「…………え」

 短く、相手がそうこぼす。

「お前……ヨハン?」

「……久しぶりだな、ヴェルナー」

 相対する男が、警察の帽子を外した。ヨハンもフードを取って、真正面を向く。

 そこに立っていたのは、親友の一人、ヴェルナー・マルクその人だった。暗闇に包まれていようが、尊い青春の日々を共に過ごした友人の顔を見間違えるはずがなかった。

 できれば、見間違えであってほしかった、のだが。

「……やっぱり、生きていたのか!」彼は両手を広げた。その顔には感激の笑みが浮かんでいた。ヴェルナーは本気で、ヨハンの生存を喜んでいるようだった。

「お前、どうしてここにいるんだ?お前は単なる巡査だっただろう。こんな夜中に警備することも巡査の仕事のうちなのか?」

「配属が変わったんだ。ほら言っただろ?最後に会ったとき、もう二度と病室には来ないって」

 確かに、言っていた。あれは配属先が変わり、もう昼休みに顔を見せることができなくなることを暗に言っていたのか。一か月前のことなのに、はるか昔のことのみたいに思える。むしろ、学生時代の思い出のほうが比較的最近の出来事のように思えた。

「……やっぱり、とお前は言ったな」やっぱり、生きていた。彼は間違いなくそう言った。「どういう意味だ。世間的に見れば、私は死んでいるはずだ」

「いま生きているお前が、それを言うなよ」笑いを含ませながらヴェルナーは言う。「新聞でお前が死んだと聞いた時は、ものすごくショックだった。本当に……ショックだったよ。それから数日は何もできなかった。ヨハンが死んだと同時に、僕の本質的なものも失われてしまった気がした。でも、あるとき噂を聞いたんだ」

「噂?」

「お前がまだ生きている、という噂だ。火災があった翌日、ヨハン・ハーバートがまだ生きていると通報を受けた警察が数人、報告のあった場所に赴いた先で不審な死を遂げた。このヨハンという男の死にはどこか不可解なところがある。奴は世間的に殺されたことを利用して、暗躍し、社会に復讐しようとしているんじゃないか、という噂さ。

 もちろん、噂は噂……警察数名が実際に何らかの事件に巻き込まれたことは真実みたいだったが……まさかこうして本当にお前が生きているとはな」

「私も、どうして自分が生きているのか、不思議に思うことがあるよ」ヨハンは自嘲的な笑みを浮かべる。「死にぞこなったんだ」

 ヴェルナーは乾いた笑みを浮かべながらため息をついて、手をだらんと下ろした。右の手に収まっている刀の先が地面に触れる。「それで……噂はどこまで本当なのかな。お前は、本気で社会に復讐するつもりで、こうやって公務員を殺して回っているのか?」

「違う。私は……シャルロッテを殺した友愛党が憎いだけだ。私たちの幸せを奪い取ったやつらを、許すことはできない」

「友愛党?」ヴェルナーは小さく首を傾ける。「ああ、そっか……お前も気が付いたのか。いや、気が付いた、という言い方は正確ではないな……知ってしまったんだな」

「ヴェルナー、君は、知っていたのか?友愛党が、私たちの生活をむしばんでいたことに」

 ヨハンはいまどのような状況に置かれているかを忘れて、ヴェルナーを強く問いただした。深みのある暗闇に、打ち付けるような声が吸い込まれていく。

「……警察に入ったあたりから、そういう話は聞いていた。友愛党の命令でどんなことでもやる秘密の部署が警察内部にあるらしい、って。彼らのやったことは何があっても公表されない。たとえ何も知らない記者や警察官が明るみに出そうと奮闘しても、途中で事実は捻じ曲げられ真実は闇に葬られる」

「私たちの父親も、彼らによって殺された」

「は?」その言葉には少なからず衝撃を受けたみたいで、彼は両目を見開いた。「……十年前のあの列車事故のことを言っているのか」

「知らなかったのか?」ヨハンは鼻を鳴らした。返答を聞くまでもない。父を殺したのが党だと知っていたら、警察には入らなかっただろう。「彼らは反友愛党組織を結成していた。だから私の父も、ヴェルナーの父も事故に見せかけて殺された。かろうじて助かったナスターシャの父も、殺されたんだ」

 ヨハンはまっすぐ、言葉を叩きつけた。口には出さなかったが、父親を殺した組織に属していてお前は恥ずかしくはないのか、と暗に責めたてた。

「……ナスターシャ」

 久しぶりに耳にした、もう一人の親友の名前をヴェルナーは小さく反復する。

「ああ、そうか」吐息交じりの声を出しつつ、ヴェルナーはグーゼンスの屋敷に目を向ける。「だからお前はここに来たのか。ここに住む、友愛党の要人を殺しに来たんだ」

 ヨハンは頷く。「通してくれ」

「断る」ヴェルナーは左手の人差し指をヨハンに向けた。

「お前の話は荒唐無稽だ。何一つ、根拠がない」

 ヨハンは口をつぐむ。ヴェルナーの言っていることは、瑕疵一つない正論だった。今ここでヴェルナーに提示できるような証拠はない。

「お前の理屈だと、あの火災は秘密警察が起こしたらしいが、どうして君が狙われなくちゃいけない?特に党を害する言動を取っていたわけじゃないだろ?」

「……そんなこと、私のほうが知りたい」

「それに、秘密警察があんな大規模な火事を起こすとも思えない!彼らは警察組織内部でも、存在しているかどうかさえ不確かな部隊だ。そんな秘匿されていた連中が、あんな人目を引く方法で他人を殺したりするか?君の言っていることは、何一つ、整合性が取れていない!」

「…………」

 何も言い返すことはできなかった。ヨハンでさえ、自分自身がこうなってしまった原因がわかっていないのだ。直面している現実に対して、ヨハンはあまりにも無力で無知だった。どうして友愛党がヨハンの命を狙ったのかも、放火という手段を取って二人の人間を焼き殺したのかも、何一つわからないままだ。

 ヨハンは胸元に入れたままの右手で《平和を創るもの》を握った。ヴェルナーの父が現代に遺したこの武器を使うべき時は、まさしく今であるように思われた。

 やるしか、ないのだ。真実を訊くためには、アンドレ・グーゼンスに会って、奴に問いただすしかない。

「……通してくれ」ヨハンはもう一度、低い声で言った。

「断る」

 ヴェルナーがそう言うのはわかっていた。

 胸元から《平和を創るもの》を取り出す。

 ヴェルナーがわずかに姿勢を低くした。

 刀を右手に持ちながら、こちらへ向かってくる。

 親指で金具を下げる。

 両手で握りしめて、こちらへ突っ込んでくるヴェルナーにまっすぐ向ける。

「ヨハン!」

 ヴェルナーが叫んだ。

 渾身の力を込めて、人差し指で金具を引く。

 衝撃。

 煙が視界を覆う。

「うおおあああ!」

 ヴェルナーの勢いは止まらず、彼のめいっぱいの力のこもった左の拳が《平和を創るもの》の先からなびく白煙を切り裂いて、ヨハンの顔面を捉えた。

 その衝撃は、今まで受けたどの力よりも身体の芯に強く響いた。

 ヨハンは遥か後方に吹き飛ばされ、地面に背中から打ち付けた。呼吸が一瞬止まり、視界が白くかすむ。

「……う、うう……」

 全身がしびれるように痛い。何が起こったのか、わからなかった。

「はあ、はあ……」ヴェルナーが倒れているヨハンに近づいてくる。「何なんだ、あの機械は?派手な音がしたけど……さっき聞いた破裂するような音は、君がやったのか?」

 ヨハンは右手を動かす。先ほどまで握られていた《平和を創るもの》はどこにもない。わずかに上体を起こして視線を動かすも、それは見つからなかった。

「ヨハンが持っていたものは、堀に落ちてったよ」

 ヴェルナーは友人の失敗に呆れるような、軽い調子でそう言った。

 確かに《平和を創るもの》は正常に動いた。火薬のはじける衝撃が手のひらに伝わった。

 しかしヴェルナーの身体は、どこも出血していない。痛みをこらえている風でもない。

 当たらなかったのだ。

 金具を引いた時点で、ヴェルナーとの距離は三メートルもなかった。いや、彼はかなりの速さで近づいてきていたのだから、実際の距離はもっと小さかったはずだ。

 それなのに、当てられなかった。

「学生時代は一度も勝てなかったのにな」

 ヴェルナーの口調には、過去を懐かしむ響きがあった。

「ようやっと僕は僕の青春に一つの区切りをつけられた気がする……最悪な形ではあるけど」

「……まだ、終わらせるには、早いだろう」

 ヨハンは立ち上がる。膝は震え、視界はぐらついていた。が、動けないほどではない。ノルダルとトレーニングした時よりかは、はるかにマシな状態だ。懐に手を入れて、ナイフを取り出してヴェルナーに向ける。

「死ぬまでやる気かよ。勘弁してくれ。お前を殺したくはない」

 寒さはもう感じない。口をわずかに開けて、閉じる。この期に及んで呪いの言葉を吐いても無駄だろう。殺してくれ、などと甘えた言葉も言わない。そんなことを言っても、彼は殺さない。ヴェルナーは一度こうと決めたことは突きとおす人間だ。

「……ふっ!」

 刀を逆手に持ったかと思うと、ヴェルナーは突然、振りかぶって、それをヨハンに向かって投げつけた。

 それはまっすぐヨハンに飛んでくる。反射的に、左へ避けた。

 武器が手を離れた瞬間に距離を詰めてきたヴェルナーめがけて、ヨハンはナイフを突き刺す。

 しかし、刃はかすりもしなかった。

 伸び切ったヨハンの右手をヴェルナーは掴んで捻じ曲げる。同時に不安定になった足元をすくって、ヨハンをうつぶせに倒した。

 顎を地面に強打し、口の中に血の味がにじむ。

「僕だって、訓練しているのさ。民間人に遅れは取らないよ」

 ヴェルナーの体重が、胸部を圧迫する。右手は背部に捩じ上げられ、地面に接している左手も膝で固められている。歯を食いしばって身体を起こそうとしても、顔面から汗がにじむのみで動かせない。

「……ぐ、ちくしょう……」

「なあ、ヨハン」ヴェルナーは組み敷いているヨハンに声をかける。「どうしてこんなことになっちまったんだろうな。ナスターシャがいなくなって、お前までおかしくなってしまった」

「……私だって、私だってなあ!」

 幸せでありたかった。シャルロッテと生まれてくる子どもと一緒に、楽園のような生活を築き上げていきたかった。困難を経験しても、それでも余りある幸福を分かち合っていたかった。

「シャルロッテが死んで、その上、彼女はほかの男と浮気をしていた!私は、その苦しみに耐えられるほど、強くはないんだ……」

「……お前には同情するよ、ヨハン。お前の悲しみを分かち合えたらいいと思うけど、どうやらそれも難しいようだ。お前の苦しみは、想像を絶する」

 ヴェルナーはより強く、ヨハンの右手を握りしめる。

「だからこそ、こんな結末になってしまったことが悲しい。お前がすべてを投げ出して、自分自身をより一層不幸にして、傷ついてしまったことが残念でならない。もっと、違った生き方があったんじゃないか?火事で燃えたのは、ヨハンではなかったのだから」

 ヴェルナーの言葉を聞いて、ヨハンは身体の力を抜いた。もうすべて、どうしようもないことなのだ。

「……ところで、いまお前がここに生きているのは間違いないとして、代わりにあの家で発見された遺体は誰のものなんだ?」

「シャルロッテの……浮気相手だ」

「そういうことを訊いているんじゃない」ヴェルナーはやや呆れながら言う。「具体的な素性を訊いているんだ。あの火災は秘密警察が原因だとかお前は言っていたが、どうも消化できない点があってね」

「……何?」ヨハンは首を横に捻った。

「ヨハンを狙っておいて、ほかの人間を焼き殺すなんて間抜けな真似、するかなと思って。党の直属の組織なんだとしたら、集められているのは口の堅くて優秀な警察官たちだと思う。その秘密組織像と、さっき言った派手な放火事件を起こしたこととか、ターゲットを間違えたこととか、どうにも合わないような気がしてね」

「……焼け死んだのは、私たちの父と同じ、反友愛党の組織に入っていた。だからもしかしたら、奴らは最初から私ではなくて、その男を狙っていたのかもしれない」

「反友愛党組織?お前、さっきもそう言っていたけど、本当なのか?それ」

「本当だ。あの、音の鳴る武器は、君の父親が遺した設計図から作り出されたんだ」

 それで、息子であるヴェルナーの命を奪おうとした。セシル・マルクも、自分が遺した武器によって自分の子どもの命が脅かされることになるとは、思いもしなかっただろう。

 結局、それはかなわなかったが。

 数秒の沈黙の後、ヴェルナーは再び口を開く。

「わかった。お前の言うことを信じよう。それを前提として、まだわからない点がある。焼け死んだ男はどうして今になって殺されたんだ?僕たちの親父が死んだのはもっと前だ。同じ組織に属していたのならどうして彼だけ今まで生き残っていたんだ?隠れていたのか?」

「……いや、隠れてはなかったらしい。その男は私の父の後輩だった。それで父が死んだあと、父が就いていたポストに収まって研究職を続けていた」

「ああ、なるほど、なるほどね」合点がいったみたいに、ヴェルナーは数回、軽く頷いた。

「なるほど?何が、なるほどなんだ」口早にヨハンは問いただす。

「簡単なことだよ、ヨハン。非常にシンプルなことだ」

「何がだ、おい!何のことを言っている?」

「その男の人は父たちを裏切って、友愛党に組織のことを密告したんじゃないだろうか」

「…………ああ」

 思わず、声が漏れる。

「わかった?お前は頭がいいからな。答えを提示すれば、論理は自力で組み立てられる」

「彼は、出世するのに邪魔だった父を排除するために、彼らを友愛党に密告した。そう言いたいんだな?組織を裏切ったから、友愛党にも殺されることはなかった」

 確かにその理屈だと、クラウス・ムンクが十年前に殺されなかったことの説明にはなる。この十年、生きていたことの説明にも。

「だが、その彼が今になってどうして党に殺されたのかが説明できていない」

「友愛党に殺されたのではないのだとしたら?」

「……は?」

「その男は反友愛党組織を裏切ったんだ。友愛党に狙われる道理は、どこにもないだろう」

 ヴェルナーの声が耳に入ってくる。その声はヨハンの脳を強く揺さぶった。

「命を狙われるとしたら、誰に狙われる?逆に考えるんだ、ヨハン!彼を殺したいと思うのは、むしろ――」

 ヴェルナーの声は、だんだん小さくなって途中で途切れる。

 地面を眺める視界に、誰かの足が入ってきた。

 顔を上げる。

「……ナ、ナスターシャ……」

 震える声で、ヴェルナーはその名前を呼んだ。

 マントに身を包んだナスターシャが、目の前に立っていた。

 無機質な黒い物体――《平和を創るもの》をその片手にぶら下げて。

「やあ、ヴェルナー」微笑を作って、ナスターシャは親友の名を呼ぶ。「会えてうれしいよ」

「ナスタ」

 名前を呼び切る間もなかった。

 流れるような動作で、ナスターシャは《平和を創るもの》の虚無を湛えた穴をヴェルナーの頭に突き付けて、鉛玉を発射した。

 轟音が耳の奥を突き刺す。

 背中にのっていた重みが後方へ移動していき、やがて完全に失われる。

 耳鳴りがするなか、人の身体が地面に倒れ伏す乾いた音がかすかに聞こえた。

「……ナスターシャ」

 彼女はしゃがみこみながら武器をしまって、再会した時と同じように、ヨハンの顔を両手で包み込んだ。長い間、外気にさらされていたのだろう。その手から体温はほとんど感じない。

「ひどい顔だ、青あざになっている」

「そんなことより……」絞り出すように言いながら、ヨハンは身体を起こす。

 ナスターシャはヨハンを、力いっぱいに抱きしめた。

 衣服越しに相手の鼓動が感じられるほどに、限りなく、二人は接近した。

「すまない」右の耳元で、ナスターシャがささやいた。吐息が冷え切った耳を温める。

「もう君は何も考えなくていい、誰も殺さなくていい。君はもう、十分すぎるほどに傷ついた。死んでもおかしくないほどに血を流した。涙も枯れるくらいに痛みを味わった……心が壊れても不思議ではないほどに、もがいてあがいて苦しんだ」

 彼女の手が、背中と頭を柔らかくなでる。痛みを和らげるように、優しく、優しく。

「私が守るから。敵になる者は私がみんな殺すから。だから君は、もう何も考えないでいい。静かに生きていてくれればそれでいい、何とも戦わなくていい。私のために、生きていてくれ。私のためだけに、生きていてくれ」

「…………」

 絶対的な肯定の言葉が耳に入ってくる。彼女の体温と相まって、それはとても心地が良かった。脳が緩やかに、思考を停止していく。

 ヨハンはナスターシャの背中を、右の手のひらで数回叩く。それを合図にナスターシャは抱きしめる手を緩めた。二人の間を冷たい夜の空気が埋める。

「……行こう」ヨハンは立ち上がった。「まだ、やるべきことが残っている。最後まで手伝おう」

 ナスターシャも立ち上がった。

「本当に、君は強いな」そう言って弱々しい微笑を浮かべるナスターシャを前に、ヨハンは遠くを見つめて、いつかのノルダルとの会話を思い出していた。

 いつか、地獄がすべてを救ってくれる……。


 アンドレ・グーゼンスは自身の寝室で、低い座高の椅子に腰をかけてウイスキーを飲んでいた。部屋にいるのは彼一人。外から聞こえてくる騒音によつ中途半端な目覚めと、来たる政治的なイベントの緊張感のために、寝付けずにいた。

 酒気を帯びた熱い吐息を漏らし、彼はグラスを丸テーブルに置いてから格子の入った木製の天井を見上げた。時刻は午前二時前。日が昇るまでまだ四時間以上かかるが、グーゼンスは再び眠りにつくことを諦めていた。どうせ、休養を取らなくとも大した問題はない。演説会の壇上に立つのは、彼ではないからだ。

 千人近く集まった人の前で演説をぶつのは、党首を務める四十代の男だ。グーゼンスはその原稿を書いた。彼の書いた原稿は効果的に人の心を打つよう設計されている。どの言葉がどのような順序で配置されたら最もよく伝わるのか、どの音がほかのどの音と組み合わさったときによりよく響くのか。そういった細かな技術の集積で紡がれた原稿の言葉は、大衆の感情を揺さぶる一組の音楽を創り出す。

 党首の男は、別に政治的手腕に秀でているわけではない。彼がいまの地位に就けたのは、かつて大学で政治学を専攻していて友愛党の支持者だったことと、何より、声楽隊に所属していたことが大きな理由だ。彼の声はよく通る。グーゼンスが作成した文を遠くへ届けるスピーカーとしてふさわしい。それが、グーゼンスが彼を抜擢した理由だった。

 グーゼンスの記した言葉は、その党首の男とラジオ放送の電波に乗って各地に運ばれ、友愛党の選挙の勝利を約束するだろう。いま飲んでいるのは、一足早い勝利の美酒といったところだろうか。

 再びグラスに手を伸ばそうとしたところで、部屋に左側、厚手のカーテンがかけられた窓ガラスが割れる甲高い音がする。

 動きを止めて、そちらを見る。二人の人間の足が、カーテンの下から覗いていた。

「こんばんは、アンドレ・グーゼンス」

 カーテンをなびかせて、マントを羽織った女性が現れる。その後ろには、同じくマントを羽織った男がいた。

 女性の右手には、不気味な黒い金属の物体が握られている。

 瞬間、グーゼンスは自分の運命を悟った。

「私の名前はナスターシャ・オリヴァー」女性が左手を胸に置いて、挨拶をする。「オリヴァー、という名前に聞き覚えはないかな」

「……オリヴァー。十年ほど前に排除した、反政府組織に属していた男の名前だ。あなたは……その娘か」

「よく覚えていたものだ」ナスターシャは面白くなさそうな表情を浮かべる。「齢六十を過ぎても、その脳は耄碌していないらしい」

「褒めていただき、どうもありがとう。ただ、そんなに難しいことではない。そんな物騒なものを創り出す組織など記憶には一つしかないからな。そちらの男は、ひょっとしてヨハン・ハーバートかな」

 これにはヨハンも少なからず驚いた。無言で、グーゼンスを見返す。

「どうやら当たっているようだ」彼はにやりと口を曲げる。嫌味のない笑みだった。

「……どうして、名前を」

「簡単なことだよ」グーゼンスは少し顎を上げて、窓の向かいにある壁際のチェストに目を向けて、ヨハンに戻した。「僕は党の支配の邪魔になる人、殺してしまった人、これから殺す予定の人全員の名前を憶えている。それが僕なりの責任なのだ」

 支配を妨害し、これから殺すつもりだった人のリストに、名前が入っているのだろう。だがそのリストに載った人間が処理されることは、今後一切ない。

「死ぬのはお前のほうだ、アンドレ・グーゼンス」ナスターシャは静かに言った。そこには恨みも憎しみもない。ただこれから死ぬ。その事実を伝えたまでだった。

「そのようだな」両手を天に向かって掲げる。それはヨハンには祈りのポーズに見えた。「降参だ。他人を殺してきた以上、自分が殺されるのが嫌だとは言えない。おとなしく君たちに命を奪われるとしよう。何より……」

 彼はナスターシャの《平和を創るもの》に目を遣った。

「そんなものが生み出されてしまったら、どうせ長生きもできやしない」

 ナスターシャは自分の武器に目を落とした。

「《平和を創るもの》を知っているのか」訊ねたのはヨハンだ。

「平和を創るもの、か。アイロニカルな名前だ。その武器は、何億という人間を殺してきた。そんなものはただの人殺しを促進する機械に過ぎない」

「多くの人間を殺してきたあんたが言えたことじゃない。あんたは歴史を歪曲させ、人類史を構成してきた人々をなかったものにした。その傲慢な営みで、どれほどの人が消し去られた?それこそ、数十億は下らないだろう」

「……なるほど」グーゼンスは愉快そうに笑って、顎の下に手をそえた。「なるほど。君の憤りは人類史の憤りか。認めよう、僕たちは確かに傲慢だった。歴史を忘却させても、抑圧された記憶はこのように回帰して僕を殺しに来る。結局、全てが無駄だったんだって、今になってわかった」

「お前は」ヨハンは、ずっと前から訊きたかったことを尋ねる。「どうして他人を殺してまで、この国を支配しようとする?歴史もそうだ。お前は過去も現在も、全てを手中に収めている。そこまでして他人を締め付ける理由はなんだ?」

「そんなもの、決まっている。人を守るためだ」グーゼンスは右手を持ち上げて、壁際にあるチェストを指さした。「左列の上から二つ目、そこに人類史をまとめた本がある。便宜上、多少の編集はされているけど、比較的事実に基づいているものだ。あれを読めば、人類が今までどんな歴史を歩んできたのかがわかる」

 ヨハンとナスターシャはそちらへ目を向けた。何の変哲もない、黒い木でできたチェスト。あの中に、長い歴史の折り重なったものが入っているのだ。

「君らほどの人間なら、少し目を通しただけで理解するはずだ。人類の歴史がいかに悪意と血にまみれた猥雑なものであったのかが。小さな難癖をつけて大量殺人を正当化し、鉛玉一つの報復に血の雨を降らせる。人をどれだけ効率的に殺すことができるのかの研究に大勢の尊い命を犠牲にして、記録にも記憶にも残らぬ死を量産した。人間の本質には暴力があり、歴史はそれによって駆動してきた。誰かが御してやらなければ、人間は憎しみを増幅させ続ける」

「……自分が、その器だと?」ナスターシャは声に多少の怒気を含ませて訊ねた。

 グーゼンスは何のためらいもなく、その問いに頷く。

「はるか昔、ある政治家が言ったそうだ。民主主義は、それ以外の政治方法を除けば、最悪の政治形態だと。大衆は自分たちが正しいと信じて疑わない。自分たちが正しいことを無根拠に肯定し続けてしまうシステムこそが、民主主義なのだ。だから、間違えても誰も責任を取らないし、間違えたことすら気が付けない」

 衆愚をあざ笑うような彼の言いに、ヨハンは工場でのやり取りを連想していた。あの工場は、集団をうまく労働に縛り付けて管理するためにあるのだと、エンデルは言っていた。そのシステムの根本には大衆の愚かさに辟易する、グーゼンスの思想があるのだろう。

「だから僕は、人々をうまく管理する努力をした。与える情報を最小限に抑え、目先のことしか考えられないようにした……もっとも彼らの多くは、そんなことをしなくても大したことは考えられない。悲しいことに正しいと悪いの二分法でしかものを考えられないんだ。どうしようもなく複雑で流動的で曖昧な世界に、人間は耐えられない。仕方がないことなんだ」

 ヨハンはいつか、ナスターシャに発した言葉を思い出す。世界は、理解するにはいささか複雑すぎる。心の底にくすぶっていた弱音を、グーゼンスはこの場で引き出した。

 そんなグーゼンスの人間に対する諦念にも似た言葉に対して、ナスターシャは鼻で一笑に付した。

「黙れ」

 打ち付けるように、彼女はそう言った。その顔には不快感も怒気も表れていない。自分自身が絶対的に正しいという意志がみなぎっていた。

「あんたのそれは、単なる潔癖症だ。他人の間違いが許容できないだけだ。だから間違えたことの痕跡すら、世界から消してしまった」

「僕だけがそれをやったわけじゃない。もっと長い時間のスパンで、世代が変わるのに合わせて、人々の記憶から争いを生みそうなものを少しずつ消していったんだ。君がいま手にしているそれも、僕たちが頑張って失くそうとしたものの一つだ。全く、どこから受け継がれたんだか……」

「子供でもわかる。間違いは排斥するためにあるのではない。見つめなおして、なぜそうなったのかを考え抜いて、反省するためにある。失敗を根絶することなど不可能だ。しかし、その失敗から成功を生み出すことは、いつだって可能だ」

 グーゼンスはナスターシャの強い言葉を聞き終えてから、グラスに残った酒をあおり、天井を仰いで、ああ、そうか、とつぶやいた。

「僕の存在も、長い歴史の失敗の一部分でしかないのか。いや、それどころか……歴史的忘却ですら、うごめく大いなる流れの一部分なのか?」

 ナスターシャは眉を顰める。「何を言って……」

「……いや、何でもない」グーゼンスは重々しく、首を横に振った。「君の思想が、僕の愛する人類を破滅に導かぬよう、心から祈っているよ」

 そう言うと、彼は静かに目を、その口を閉じた。それが合図であるかのように、ナスターシャは両腕を持ち上げて、グーゼンスの頭部に狙を定めた。

 部屋中に、破裂音が鳴り響く。椅子に座ったままのグーゼンスの両手はだらりと床に向かって垂れ下がった。

 何かの儀式めいた一連の動作が終わると、ナスターシャは長い息を吐いた。表情には喜びはなく、ただ疲労だけが浮かんでいる。外套の内側に《平和を創るもの》をしまうと、そこにいることにようやく気が付いたみたいに、ヨハンを見て瞬きをした。

 何かを言われる前に、ヨハンは移動して、左列の上から二つ目にある引き出しを開けた。

 それは、ただの日記帳のようにそこにあった。縦が十センチほどで、横がそれよりも小さい長方形。深緑色の表紙には何も記されていない。辞書のような立派な厚みがあった。数枚めくってみると、少し黄ばんだ薄い紙に細かい字がびっしりと書かれていた。長い時間、そこにあったのだろう。紙の隙間から濃縮された薬品とインクのにおいが漂ってくる。

 そこには間違いなく、歴史があった。

「ナスターシャ、これを」ヨハンは片手でそれを持った。《平和を創るもの》よりも重たい。ナスターシャはそれを受け取ると、すかさず開いて中身をあらためた。

「……ああ」かすかに声が漏れる。口の端には、思わず出た笑みが浮かんでいた。「ありがとう、君のおかげだ。ヨハン」

 彼は何も返さない。ヨハンの視線は、いまだ歴史の書が収められていた引き出しの中に注がれていた。

 重みのある本の下に隠れていた、ふくらみのある一つの茶封筒。

 その表面に、「ヨハンへ」という文字が記されていた。

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