第四章 喜劇 1

 一階のソファの上で朝を迎え、ノルダルが帰っていないとわかると、どうにもできない無力感に苛まれた。

 あの拠点に戻って、様子を見たほうがいいのではないか。そんな考えが浮かんだり沈んだりする。しかし、警察が周辺を固めているかもしれない。もしも彼らに捕らえられたら、逃がしてくれた彼女の行動を台無しにしてしまうことになる。彼女の意志を裏切ってしまうのは、一番望ましくないことだった。だが、本当はそういった理屈をつけて、戦いに赴くのを拒む言い訳にしているのではないか、とも考える自分もいた。

 翌日の早朝、覚醒とまどろみの間に漂っていたヨハンの意識を、現実の側に引き戻したのは、硬いノックの音だった。ヨハンははじかれたようにソファから起き上がる。中途半端な眠りのせいで頭が痛む。ノックの音は彼の頭をより一層痛めつけた。

 奇妙なリズムのノックの音。

「俺だ、フロンメルトだ」くぐもった声は、そこに立っているのが知り合いであることを示している。ヨハンはすっかり重たくなった身体を引きずって、玄関の鍵を開けた。

「よう、また会えたな」

 まだ朝日の昇らない青い空気の中に、依然と変わらない顔のフロンメルトがたたずんでいた。

「……フロンメルト」

「ひどい顔だぞ、まあ、朝の五時だし、寝起きだとしても無理はない時間帯だが……顔を洗ってこい」

 言われた通り、ヨハンは洗面台に行って顔を洗った。頭はまだ締め付けられるような痛みを持っている。

 フロンメルトはマントも脱がずに応接間のソファに腰を下ろしていた。

「コーヒーでも飲んで久闊を叙したいのもやまやまなんだが、残念ながらあまり時間が無い。手短に、用件だけ話すぜ」

「ノルダルは……彼女は無事なのか?」

「無事だ」端的に、フロンメルトは言った。温かい空気がヨハンの口から漏れだす。言いようのない安堵感が胸のあたりに広がった。

「事情は彼女から聞いた。あいつはヨハン、お前が無事でいることをまだ知らない。あんたの安否を伝えたら、人殺しへの罪悪感は多少なりとも軽減されるだろうよ」

 フロンメルトは落ち着いた調子でそう言った。落ち着いた、というよりも、冷たい、という表現がふさわしいような、そんな声色だった。

 ヨハンはノルダルとの会話を思い出す。彼女は、人を殺す前には食事なんてとてもとっていられない、と話していた。警察官を殺した彼女は、今もそんな心理状態にあるのだろう。

 どうするべきだったのだろう。ヨハンは痛む頭で懊悩する。やはりあの時、逃げるべきではなかったのではないだろうか。ノルダルの傍にいて、彼女の悩みを分かち合うべきだったのではないだろうか。たとえそれが道徳的ではないにせよ、殺人に対する罪悪を軽くしてあげるべきだったのではないか?

「おい、どうした」フロンメルトの声で、ヨハンは思考の海から引き上げられる。「ひどい顔をしてるぞ。妊婦が集団リンチにかけられてるのを見てしまった、みたいな顔だ」

「ああ……」ヨハンは頭を押さえ、深いため息をつく。「どうも、調子が良くないらしい。あの日から……日に日に気が狂っているようだ。嫌になる」

「今更かよ」フロンメルトはつまらなそうに鼻を鳴らす。「悩むのは俺が帰ってからにしてくれ。励ますのは得意じゃないんだ」

 ポケットから折りたたまれた新聞を取り出してローテーブルに置いた。

「今日の新聞だ。あとで目を通しておいてくれ。見てほしいのは、数日前、あんたが銀行に侵入した時に戦闘した男の意識が戻った、という記事だ」

「……あの男が」

 クーベルタン、と名乗った芝居がかった男。銀行を襲撃した日から、二週間が経過しようとしていた。

「銀行強盗の捜査が進んだんだろう。俺らみたいな国家転覆を狙う集団が暗躍していることに、友愛党は気が付いている。お前らが襲われたのは、奴らの危機感の表れだ。奴らはより一層、警戒を強めて俺たちと戦う姿勢を固めるつもりなんだ」

 危機感の表れ?そんな生やさしいものではなかった。工事の人間を装って、鍵を開けるなり突入してきた奴らは、確実にこちら側の命に危険を及ぼす意思を持った男たちだった。危機などという受け身の感覚ではない、純然たる敵愾心を感じた。

「と、いうわけだから気を付けておいてくれ。アンドレ・グーゼンスの命を狙う作戦を実行する日も近い。あちらさんも演説会が刻一刻と近づいていてピリピリしている。作戦実行までここで待機して調節しておけよ」

「……調節?」

「人を殺す覚悟を決めろ、ってことだ」フロンメルトは立ち上がって、ヨハンに無感動な視線を送る。「いつまでも守ってられているようじゃ、不公平だろ。説教するつもりじゃねえが……あんたをかばって仲間が死ぬことだってありえるんだ。自分のためにも、仲間のためにも、敵を殺す覚悟を決めろよ。ナイフを相手の心臓に突き立てる機械になれ」

「不可能に決まっているだろう、そんなこと」ヨハンは吐き捨てるように言った。「なあ、ナスターシャはともかく、どうしてあんたはそんな殺意をやすやすと他人に向けられるんだ。人の命を奪うってことは、そんな簡単なことなのか?」

「姉が友愛党に殺された」低い声で、フロンメルトは言う。「ジャーナリストだったんだが、詳しいことは言いたくない。同情も、共感も、されたくないんだ」彼はヨハンをまっすぐ見た。黒々と濁ったその眼に、感情は宿っていなかった。あるいは、必死なって感情を隠匿しているようにも見えた。「俺は奴らを憎んでいる。姉の死は法律によって、よくある自殺として処理された。何も知らない世間は周囲の人間関係を叩いた。世間もクソだ、いつだって自分の側が正義だって疑わない」

 深いため息をついて、頭を軽く揺らすフロンメルト。くすんだ負の感情が口からこぼれだす。

「だから、俺はナスターシャの考えは受け入れられない。大衆の正義などどうでもいいし、歴史も興味がない。ただ、友愛党をぶち壊せるなら、それでいい。あいつらだけは、どうしても……どうしても、どうしても許せないんだ。なあ、ヨハン。家族を失った悲しみ、お前にもわかるだろ。その原因を作ったのは、誰だ?シャルロッテを殺したのは、誰だ?」

 よく考えろよ、と呪いの混じった言葉を部屋に残して、フロンメルトは出て行った。

 一人残されたヨハンは、絞り出すように妻の名前を口にした。

 不思議と、フロンメルトが感じているほどの友愛党に対する憎しみは持っていない自分に、ヨハンは気が付く。時間の経過とともに感情に何らかの処理が施されたのか、それとも防衛機制が働いて、無いものとして憎しみが偽装されているのか。

 静寂に包まれた部屋が、ひどく冷え切っていることにヨハンは今更ながら気が付いた。備え付けの暖炉に火を入れると、生木の燃えるにおいが部屋を覆った。

 炎を見ながら、今なら、敵を殺せるのではないかとヨハンは思った。

 殺人に真に必要なのは、フロンメルトが抱えるような激情などではなくて、どこまでも透徹した、ガラスのような心理状態なのだと彼は悟った。


 ある時、ナスターシャが来訪した。フロンメルトが訪れてから、三日目の夜のことだ。

「こんばんは、ヨハン。また生きて会うことができて、これほどうれしいことはないよ」

 再会を果たしてすぐに、ナスターシャはヨハンの右手を包み込んだ。まるでその体温をしっかりと確かめるように。部屋に入った彼女は懐から、黄金色の液体が入った瓶を取り出した。

「ウイスキーを持って来たんだ。付き合ってくれ」

「いいのか、こんなことをして」

 ヨハンは戸棚からウイスキーグラスを取り出して、テーブルの上に置いた。

「フロンメルトから聞いたぞ。いまは警戒を強めるべき時期にある、と。組織の長がこんなところで酒を飲んでいる場合ではないと思うが」

「まあそんなことを言うなよ、ヨハン。君は昔から変に生真面目だ……こんな時、だからこそ飲みたいんだ。決戦の日も近い、再びこうして顔を合わせることができるとも限らない」

 ナスターシャはショットグラスにウイスキーの瓶を傾ける。七割ほど注いだ後、ヨハンのグラスにも同じようにして酒を入れた。

「それでは、我らの輝かしき未来に……なんて、大げさすぎるか。私たちの再会に、乾杯」

 乾杯、とヨハンも小さく言って、二人はグラスをくっつけた。場の流れのままに、グラスに入った酒を少量、口に流し込んだ。吐く息が火のように熱くなった。

「お酒はよく飲むのか」ナスターシャが訊いた。そのグラスの中身はヨハンのより減っている。

「いや、あまり。休日にたまに飲んでいた程度だ。そっちは?」

「私も全然飲まないんだ。こんな生き方をしていたら、飲酒なんてしている暇はないからな。今も、ほかの仲間に秘密にしてここに来ている。こうして、いま君と向かい合って杯を交わしているのは、完全に私のわがままだよ」

 ナスターシャは吐息を漏らし、少し間を空けて、話を続ける。

「そういえば、君とノルダルの働きのおかげで、無事に武器を作れそうだ。今、ウェストリンをはじめとする工学に秀でた人間が形にしようと頑張ってくれている」

「役に立てて良かった」ウェストリンが協力しているということは、やはり警察の持つ刀のような、単純な武器ではないのだろうと、ヨハンは想像する。原材料からは、どんなものが出来上がるのか推測できなかった。おそらく、薬品を反応させて有毒な気体を発生させる類のものなのではないかと思うのだが、それだと敵味方関係なく被害が出てしまう。

「完成はいつごろになる?」

「わからない。が、演説の日には絶対に間に合う。そうでないと困るしな」

 今日は十一月の八日だ。友愛党の選挙演説会が開かれるのが、二十日。あと十二日しかない。本当に間に合うのだろうか。

「おそらく、問題はないはずだ」ナスターシャは心配を払拭するように言う。「エンジニアの一人が言うには、セシル・マルク氏の遺した設計図は明晰で、他人が参照することを意識して描画されているらしい。未来の人間に伝達できるようにという、彼の気遣いの表れだろう。マルク氏の手ほどき通りに進めていけば、きっとうまくいくはずだ」

 ナスターシャは静かにそう言って、右手に持ったグラスを回した。光を浴びて黄金色に輝く液体が波打った。

「ヨハン、君にその武器を持ってもらいたいんだ」

「は?」

「エンジニアの手にも限りがある。悲しいことに、我々の組織力ではとても量産なんてできない。出来上がったものの一つを、君に託したい」

「……酔っているのか?」

「まさか」少々声を震わせながら否定する。「そんなわけないだろう。私は結構強いんだ」

「貴重なものなのだろう。どういう武器かは知らないが、もっと、持つにふさわしい人間がいるはずだ。それこそ……君とか」

「いいや、適正で言うなら、私よりもヨハンのほうがあるだろう。武器というのは一番上に立つ人間が持つべきものではない。その近くにいる人間が持つべきなんだ。上の人間が間違っていると感じたら、その力を以て抑え込めるように、ね」

「君が間違えることなんてあるのか?」

 ヨハンの軽い質問に、ナスターシャは口元に微笑を浮かべたまま首を小さくひねった。

「……間違いたくない、正しくありたい、とは常に思っているよ」

 彼女はグラスをあおった。空になったグラスに、ためらいなくウイスキーを注ぐ。

「私の目から見たら、ヨハン、君のほうが間違いのない人生を送っているように見える」

「本気か?本気で言っているなら、それこそ間違いだ」ヨハンは親指でグラスのふちをなぞった。「間違ってばかりの人生だったよ。仕事でも、プライベートでもな。まあそれらの間違いも、数週間前に起こったあの出来事に比べれば、全て些細な逸脱なのだが」

 全ては、炎に包まれた家を見た瞬間から変わってしまった。あの炎は幸せな生活を焼き切ると同時に正気をもダメにしてしまったような気がする。

 以前のヨハンは、正気と狂気は表裏一体の存在で、それらは薄い境界を隔てて隣り合っているというイメージを持っていた。しかし実際は違う。それらは互いに混交し合って、正気とも狂気とも取れない場を作り出す。そこは上と下、右と左という対立を無化してしまうような曖昧な場だ。ヨハンは世間において死ぬとともに、自分を固定できない空間に放り出されてしまった気がした。

「大丈夫か?少し揺れているようだが」ナスターシャがヨハンを見てそう言った。「水を持ってこようか」

「いや、いい。大丈夫だ」

 事実、それほど飲んでいない。揺れているのは自分ではなく、ナスターシャのほうではないかと思った。が、それは口に出さない。酩酊した人間は往々にして、酔いを指摘されるとムキになる傾向がある。ナスターシャはそんな人間ではないと思うが、念のため黙っておく。

「そうか」彼女は優しい笑みを浮かべて頷いた。「学生時代の頃は、こうして一緒にお酒を飲むことになるなんて、想像していなかったよ。君は?」

 ヨハンは静かに首を横に振った。「あの頃は、目の前のことをこなすのに精いっぱいで未来に目を向ける暇なんてなかった」

「そんな風には見えなかった。君はいつも、全てにおいて完璧で、物事をすべて理解しているみたいだった。その在り方に嫉妬をしたのも一度や二度じゃない。どうしたらヨハンのような人間になれるのだろうと、事あるごとに考えていたよ」

 そのような視線には一切、ヨハンは気が付かなかった。自分のことに夢中になっていたことの証左だろう。周りが見えていなかった。

「あの頃は、楽しかった」吐息交じりの声でヨハンは言う。「君とヴェルナーと一緒にいて、狭い世界で全てが完結していたが、今思えばそれが幸せだった。この世界は、理解するにはいささか複雑すぎる」

「……ヴェルナーか」

 ナスターシャは頬杖をつき、やや視線を遠くへ投げてつぶやいた。

 まずかったかもしれない、と後になって気が付く。ヴェルナーの名前を出すべきではなかった。昔の友とはいえ、今の彼は紛れもなく敵だった。

 取り繕ったことを言おうかと逡巡しているヨハンを見て、ナスターシャは言う。

「いや、いいんだ。気持ちはわかる。私も同じ気持ちだよ、ヨハン」彼女はテーブルの上で両腕を組んだ。「今ここにヴェルナーがいたら、どんなに楽しいだろう、どんなに心落ち着くだろうと、ふと考えてしまう。政府と対立する組織のリーダーとして、こんな感傷は捨てるべきだとわかっている。だが、どうしてもな……」

 ナスターシャはややうつむきがちになって、テーブルに濃い影を落とした。ヴェルナーは、学生時代の三人の関係を完成された楽園と表現した。ナスターシャも、あの空間について同じように思っていたに違いない。

「なあ、よければなんだが、私と別れた後のことを聞かせてくれないか」

 ヨハンはナスターシャを見る。彼の視線に、ナスターシャは言葉を詰まらせて、あ、いや、と続ける。

「嫌ならいいんだ。君がつらい体験を多く経験してきたのは知っている。それこそ、思い出すだけで不快になるようなこともあるだろう。無思慮な発言だったかもしれない、申し訳ない」

「……気にしないでくれ」ヨハンはグラスに入っている液体を三分の一ほど飲んだ。

 ヨハンは頼まれた通りに、ナスターシャがいなくなってからのことを話した。進学して、シャルロッテと交際関係を始めたこと、その後、結婚したこと、近いうちに、子供が生まれる予定だったこと。彼女と生きた日々がどれほど幸せだったのか、ヨハンは新聞記事を読み上げるように淡々と、それらのことを伝えた。ナスターシャは黙って彼の顔を見つめてそれを聞いていた。その間にウイスキーのグラスを二杯空にした。酒に強いというのはあながち間違いではなさそうだが、かなりのハイペースではある。大丈夫なのだろうか。

「ヴェルナーとは、その間も交流を続けていた。週に一回くらいのペースで、昼食を共にした。患者が怯えるから仕事場に来るなと言っても、聞かないんだ」

「ヴェルナーらしい」しみじみと、ナスターシャは言う。「あいつは柔らかい物腰を装っているが、本当は誰よりも強い芯を持っている。決して自分を曲げない。その点で君ら二人は似ているのかもな」

「そうだろうか?」

「ああ……ヴェルナーもそうだった。いつも君の背中を追いかけまわしていたような気がする。本人はそんな態度、表に出さなかったがな」

 ナスターシャの目には、自分たちはそう映っていたのかと、ヨハンは新たな知見を得た気分になる。もう十年の月日が経っているのに、違った視点を知ることができるとは、思ってもいなかった。当然のことながら、ナスターシャもヴェルナーも、想いや考えを全て仲間に伝えていたのではない。大切な自分の部分は、常に秘匿して保持していたはずだ。

 ヴェルナーから、ナスターシャへの想いも、その一つだったのだろう。ヨハンは目の前に座っているナスターシャをじっと見る。彼女は、ヴェルナーの気持ちを知っていたのだろうか。

「少し違えば、私にも君が歩んできたような幸福な十年間があったのかな」

 少し間を空けて、答える。「どうかな。どちらにせよ、その幸福は失われてしまった」

「それでも私は、その幸福が羨ましい。どんなわずかな期間でも、愛する人間と心を通わせられたのは、尊いことだと思う」

 ヨハンは何も言わない。その愛情も、真実なのか、わからなくなってしまった。ちょっと前までは、確かに愛があると感じられていた。しかしあの火災の記事を目にしてから全ては変わった。過去の事実は変えられなくとも、過去の持つ意味合いは簡単に変わってしまう。

「……ナスターシャ、君は後悔しているか?これまでの十年間を」

「後悔する資格なんて、私にはない」彼女はゆるゆると首を振る。「多くの人間を殺してきた。殺すように指示もした。私のために、人を殺めた仲間が大勢いるのに、どうして後悔しているなんて言える?父が殺されて以来……私の人生は歪んでばかりだ」

 友愛党への恨み節が続くこともなく、ナスターシャの口からは単純な悲しみがこぼれ出た。

「私は、幸せにはなれない。全てがうまくいって、何もかも無事に終えることができても、記憶は残り続ける。だからこそ……愛しさが過去にあるのが、うらやましい」

 ヨハンは黙って、グラスに口をつけた。彼女が歴史にこだわる理由が、ほんの少しだけわかったような気がする。おそらく、歴史を肯定することで、自分自身の生をも肯定したいのではないか。人間の一生は人類史と同じく、時間の積み重ねで構成されている。失われた人類史を無条件の肯定は、ひいては無条件の生の肯定にも繋がる。単純な話だった。誰もが持つ欲望だ。

 ヨハンは立ち上がる。ナスターシャは不思議そうな目を向けた。

「ヨハン?どこへ行くんだ」

「少し酔いが回ってきたかもしれない」そのせいか、確証もないことをつらつらと考えてしまう。「水を取ってくる」

 それほど飲んでもないのに、これほど思考が発散してしまうのは、久しく酒を飲んでいなかったせいだろうとヨハンは分析した。思えば、シャルロッテが妊娠してから、飲酒はいっさい辞めてしまった。酒が好きな彼女の前で一人たしなむのは、あまりに酷というものだろう。

 ナスターシャは、どんなわずかな期間でも愛し合った時間があるという事実を、尊いものだと思うと言っていた。ヨハンから見たら、本当にそんな時間があったのか曖昧に思うことでも、部外者であるナスターシャが事実として語っているのが不思議だった。

 蛇口をひねると冷たい水が流れ出る。そこに手をさらすと、そこから体温が逃げていくのが感じられた。

 ほかの誰でもない、自分こそが、シャルロッテと心が通じ合う瞬間が少しでもあったと信じるべきなのだとヨハンは直感する。それが、シャルロッテと共有した時間に対する倫理というものではないのか?

 小さなコップに水を入れて席に戻ると、疲れていたのだろう、ナスターシャは座ったまま、眠りに落ちていた。


 翌朝、ナスターシャは再び拠点を発った。

「昨日は迷惑をかけたな」

 起きてきたナスターシャが頭を押さえながらそう言った。

「いいや、気にしないでくれ。君も疲れていたんだろう」

「……何か変なことを言わなかったか。恥ずかしいことに、昨夜の記憶があまり残っていない」

 ヨハンは首を横に振った。それを見た彼女は、少量の吐息を漏らす。

 二人は向かい合って朝食を食べた。ナスターシャは炭水化物を取らず、サラダだけで朝食を済ませた。

「名残惜しいが……また会えるのを楽しみにしている」

 別れ際に、ナスターシャはヨハンに右手を差し出した。ヨハンはそれを握り返す。五秒ほど経ってから、ナスターシャは手を放す。そして、朝もやの垂れこめる路地を歩いて行った。

 家の中に入ってから、結局、彼女がここに何をしに来たのかを考える。過去の遺産ともいえる武器を、ヨハンに持たせる旨を伝えたこと以外は、酒を飲んで昔話に花を咲かせたのみだ。

 ナスターシャは仲間にも秘密にしてこの場所に来ていると言っていた。そこまでする価値はあったのだろうか。トップとしての苦悩を、少しでも和らげられたのだろうか。ヨハンはキッチンに置いてある、二つのグラスとウイスキーの瓶を眺めて、そうであることを祈った。

 それからしばらくは、再び何もない日々が続いた。警察がドアを叩くこともなければ、レジスタンスの構成員がやってくることもなかった。

 その間、世間は来る選挙に向けて着々と準備を進めていった。選挙が行われるのは十二月五日の日曜日。友愛党の演説会が行われる十一月二十日の二週間後のことだった。よりいっそう力が入った、友愛党員の選挙演説をヨハンは路地裏から眺めた。警備員の数が増えているのも、気のせいではなかった。

 彼らの演説は、しゃべり方から違っている印象を受ける。言葉の一つ一つは選び抜かれており、呼吸の入れ方や喋る速さもどこか音楽的だった。ナスターシャの人前での喋り方にも通ずるところがあるかもしれない。

  懸念すべきなのは、友愛党が敵勢力から攻撃を受けていることを公表し、国民の同情を得ることだったが、彼らはその戦略を取らなかった。党はクリーンな印象を前面に押し出し、まるで敵でもいないかのようにふるまっていた。このような姿勢が、友愛党の圧勝劇を演出するのに役に立つのかもしれない。ひいてはその勝利は、国民に常識レベルで友愛党の支配を刷り込むのにもつながる。

 友愛党のトップは党首ではなく、アンドレ・グーゼンスという広報局の局長だとナスターシャは言っていた。街頭演説の原稿も、彼が手掛けているのならトップであるという評価も間違いではないのだろう。

 グーゼンスは、およそ四十年にわたって、広報局局長という役職に就いている。それだけ長い期間、党に貢献してきたのならもっと良いポストに就けそうなものだが、彼は決して広報局の局長という立場から下りなかった。そこには何かしらの理由があるはずだ、というのがレジスタンスの見立てだった。

 表に立つことが少ないグーゼンスの肖像は、党の広報誌にある各部局長の集合写真で確認できた。六十という年齢にそぐわず、彼は背筋をまっすぐに伸ばし、正面を向いている。その表情は衰えとは無縁な激しい自信がみなぎっているように見えた。唯一年齢と一致しているのは、グレイの髪の毛くらいだろう。

 フロンメルトが再びやって来たのは、演説会の三日前、十一月十七日の夜のことだった。

「よう」玄関口で彼は右手を上げる。もう片方の手には、黒いハードケースの取っ手が握られていた。「この前出した宿題はうまくこなせたかい」

「どうかな」人を殺す覚悟について言っているのだと、ヨハンは解釈する。「あの時よりかは、いくらか冷静な気分で敵と相まみえることができると思うが、実際にその時になってみないとわからない」

 フロンメルトは鼻を鳴らした。「まあ、殺せると即答するよりかはまともな返答だな。及第点と言ったところか。ところで……」

 彼は部屋に入ってくるなり、あたりを見渡した。

「少し前にナスターシャがここに来なかったか」

「いいや。彼女がどうかしたのか?」

 フロンメルトは、細い目でヨハンの目をじっと見た。ヨハンはその視線に気が付かないふりをして、自然な流れで視線を逃す。

「……いや、来ていないならいい」

「そうか、何か問題でも起こったのか?」

 訊いたのは、何も質問しないのは不自然だと考えたからだ。フロンメルトは怪しむ様子を示すことなく、ただ首を振って、

「気にしないでくれ」

 と言った。

 フロンメルトは部屋に入ると、ハードケースをローテーブルの上に置いた。それほど大きくはない。ヨハンがかつて使っていたビジネスバッグと同じくらいの大きさだ。

「それが、例の武器か」ヨハンはつぶやいた。

「ああ」フロンメルトはマントを脱ぎ、左側のソファの背もたれにかけて腰を下ろした。「あんたに持たせろとのお達しだ。まったく、うちのリーダーはとうとう頭がイカれちまったらしい。この貴重な武器を、あんたに預けろと言うんだものな」

 口調こそいつもと変わらぬ淡々としたものだったが、彼は不満と呆れを隠そうとしなかった。ヨハンの目をまっすぐに見て、フロンメルトは言う。

「あんたはこれから、人を殺すための道具を手に入れる。手にしてから、人を殺すことができませんなんて言うことはできない」

「わかっている」ヨハンはフロンメルトの目を同じように見返した。

 視線を交わして沈黙が流れる。先に視線を落としたのは、フロンメルトのほうだった。

「……これが、その武器だ」

 彼は自分の側にあったケースの二つの留め具を外した。それから箱を回転させて、右手で蓋を開けた。

「……何だ、これは」

 ヨハンはこれまでの人生で、一度の見たことのない歪な物体と直面した。

 黒いスポンジに包まれたそれは、濃灰色に光る金属でできていた。三十センチほどの長さで、杖のように途中で折れ曲がっている。その右下には別に、紙でできた直方体の箱が入っていた。

「火薬を用いて、鉛の弾を遠くへ飛ばすもの、らしい。弾の速度は音速を超える」

 ヨハンはおそるおそる、その金属の塊に手を触れた。冷たさは感じない。持つと、鈍器のような重たさが手のひらに伝わる。円柱形の部分を手に持って振れば、それだけで相手にダメージを与えられそうな重量感だった。

「持つのはそこじゃあない」フロンメルトはヨハンの手から金属塊を奪った。「こっちの、輪になっているところに人差し指を入れて、手のひら全体で握るんだ」

 彼は実際にやってみせて、ヨハンに先を突き付ける。暗い穴が、ヨハンをまっすぐ見据えた。

「その穴から、弾が飛び出る。音速で、だ。そして敵は死ぬ。単純だろ?」

 フロンメルトは、その物体をヨハンの前に置いた。

「この武器の名前は?」

「《平和を創るもの》。設計図にはそう書いてあった」

 ヨハンはその名前を反芻する。「平和を、創るもの……」

「弾はこれだ」

 フロンメルトは右下に入っていた箱を取り出して机の上に置いた。金属が触れ合う音がした。

 箱の中には指のような形をした金属が整然と並べられていた。縦に四列、横に九列、計三十六個が収められている。フロンメルトは右手で一つを引き抜き、人差し指と親指で持った。天井の光を浴びて、鈍い光を放っている。

「切れ目が入っているのが見えるか」手をヨハンの顔に近づけ、もう片方の手で表面をなぞった。「実際に相手に当たるのは、この先の部分だけだ。残りには火薬がこれでもかというくらい詰まっている。この部分は《平和を創るもの》の内部に残るから、出してやらなきゃいけない」

 ヨハンも箱から一つ抜き出して観察する。片側は山みたいに盛り上がっている一方で、その反対部分は平らだ。そちらの部分は、中心だけ色が違っていた。

 フロンメルトは再び《平和を創るもの》に手を伸ばした。

「弾はここに挿入する」

 膨らんだ部分の側面にある蓋のような部分をずらすと、弾を入れるための穴が現れる。

「ここに収めた弾丸の背面を、ここにある金具がぶっ叩く」

 彼は親指で、武器のカーブした部分に生えている金具をいじった。軽い音を立てて金具が反らされる。

「人差し指でここを引くと」フロンメルトは人差し指を曲げて、曲がった部分の内側にある金具を引いた。軽い音がして、親指で反らせた金具が瞬時に元の状態へと引き戻される。

「こいつが起き上がって、収められた弾に衝撃を与えて火薬に火が付く、というわけだ。どうだ、理解できたか」

「なんとなくは」

 フロンメルトは《平和を創るもの》の持ち手の部分をヨハンに向けた。

「実際に使ってみろ」

 ヨハンはそれを受け取る。おもむろに、先ほどフロンメルトが実演したように、円筒部分の蓋を開けた。

「待て待て待て」フロンメルトは弾を入れようとするヨハンの手を反対側から掴んだ。「ここでやらないでくれ。危険だ」

「使ってみろと言ったのはお前だろう」

「確かに言ったがな」彼はため息をついた。「こいつは、刀の数倍危険だ。人殺しの歴史を変えると言っても過言じゃない。取り扱いには、細心の注意を払え。とりあえずは、ここで弾を込めるな。込めた後は、味方に向けるな」

 いつも飄々としているフロンメルトがここまでうろたえているのを見るのは初めてだった。冗談を言っているようでもない。それほど危険な代物なのだろう、この《平和を創るもの》は。

「地下に行こう。そこなら、ここよりかは安全だ」

 二人は地下へ降りる。そこでヨハンは、フロンメルトの指示通り、一つだけ、弾を円筒に入れた。弾の分だけ重みが加わる。

「弾を入れたら、先は絶対に味方に向けるな。絶対に、だ。向けるのは的だけにしろ」

 ヨハンは武器の先を、十メートルほど離れた、廊下の奥の木製のスタンドに鎮座しているガラスの花瓶に向けた。

「両手で持つんだ……そう。思っている十倍は反動が来ると思え」

 重厚な緊張感が漂う。花瓶を睨み、大きく息を吸って…………吐いた。

 呼吸を止め、人差し指に力を籠めた。

 つんざく轟音とともに、雷に打たれたような衝撃が両腕に走る。

 しばらく、耳の奥に残響が留まる。《平和を創るもの》の先からは静かに煙が上がっている。ヨハンは重力に任せて、鉄塊を下ろした。再び、息を吐く。首の裏側が汗ばんでいた。

「当たってないぜ」

 フロンメルトが後ろでつぶやいた。花瓶は変わらぬ姿で、そこに佇んでいた。

 弾は花瓶の右斜め側を通過したようで、後方の壁にひびが入っている。その中央には鉛玉が焦げ付きのようにめり込んでいた。

 金具を動かして、火薬を収めていた金属片を取り出した。先の部分は無くなって、先ほど感じられていた重みは失われてしまっている。

「ここにもう一発あるが、どうする?」

 フロンメルトが真新しい弾を差し出した。ヨハンはそれを無言で手に取り、先ほどまで弾が入っていたところに火薬の詰まった金属を挿入した。

 後ずさりながら腕を持ち上げる。再び、ガラスの花瓶を見据えた。

 先ほどの弾は花瓶の右斜め上に逸れてしまった。上にずれたのは武器が跳ねてしまったからだろう。握りしめる手により一層の力を籠め、肘を軽く曲げ、脇を締めて肩を固定する。気持ち、狙いを左に定めた。

 右手人差し指を内側に折る。

 瞬間、破裂音とともに、重たい衝撃が身体中を駆け巡る。同時に、花瓶は粉々に砕けちって甲高い音を廊下いっぱいに鳴り響かせた。

「……おお、おみごと」

 フロンメルトが感心したその声は、少し籠って聞こえた。衝撃で痺れが残る手を操作して、金属片を排出する。わずかに、武器全体が熱を持っているのが感じられた。

「何人かが試しに使ったんだが、今まで見てきた中ではあんたの扱いが一番うまいよ。まさか、ナスターシャはそれを見越して、あんたに武器を託したのか?」

「……偶然だろう」

 二人はリビングルームへ戻った。どっと、身体に疲労が蓄積したような気がする。ヨハンは失われた水分を補うためにグラス一杯の水道水を飲んだ。

「弾はあと三十四発。これだけあれば、少なくとも一ダースの人間を殺せるだろう。そうそう、ウェストリンから試し打ちの感触を聞いてくるよう言われたんだが、使ってみた感触はどうだ」

「敵の向こうに味方がいる場合は使用しないほうがいいかもしれない。同士討ちする可能性もある。距離も十メートル以上離れた相手を狙うのはおそらく難しいだろう」

「そうらしいな。見ていた限り、反動もヤバそうだ。弾は何百メートルも飛んでいくらしいんだが、それほど遠くの的を狙うのは現実的ではないようだ。訓練を積めば、あるいはいけるか?」

「止まっている的を狙うのだったら、相当な鍛錬を積めばできなくはないかもしれない。ただ、百メートル離れた動きのある人間を当てるのは不可能だ。断言してもいい」

 手元の数ミリのズレが百メートル先では大きなズレになってしまう。加えて、実践では人間の命を奪う緊張感が、そこに加わる。今回ねらったのはただの花瓶だが、十メートル先に敵意を備えた人間が立っていることを考えると、どうなるかさらにわからない。

「弾と本体はそろえてお前が持っていろ。使用する日までな」

「……アンドレ・グーゼンス暗殺」ヨハンはキッチンにもたれてつぶやいた。「私は何をすればいい?」

 三日後の演説会。それまでに、アンドレ・グ―ゼンスを殺さなければならない。

「計画は大方決まっている。演説が行われる日の明朝、アンドレ・グーゼンスの屋敷を襲撃する。前に銀行強盗やっただろ。あれと同じような要領だ」

 つまり、十九日から二十日に日付が変わったあたりのタイミングで彼の屋敷に忍び込む、ということだった。

「奴は郊外に馬鹿でかい屋敷を構えている。使用人も十人以上仕えているそうだ。妻は数年前に他界、今その家に住んでいるのは、アンドレ・グーゼンス本人と実子が三人、加えてそいつらのパートナーといったところだ」

「また、私が単独で潜入するのか?」

「いいや、今回はあんたのほかにも何人か実際に現場に赴く予定ではある。というのも、奴の屋敷は警備が徹底しているんだ。警察が夜通し、塀の周囲を巡回しているし、出入口は警備員が見張っている。場合によっては、激しい戦闘に発展するかもしれない」

「個人の家に、そんなに公権力が投入されていていいのか?」

「長男が民間の警備会社を運営しているんだ」

 フロンメルトがその会社の名前を言った。聞いたことのない名前だったが、社交界ではそこそこ有名な会社らしい。

「辞めた警察官の再就職先の定番候補になっているそうだ。だから表には出さないが、警察との結びつきも強い。ちなみに言っておくと、お前が侵入したあの銀行の提携している警備会社がここだった」

 ヨハンはクーベルタンの顔をおぼろげながら想起する。あの男はこの会社の人間だったらしい。あのレベルの人員が警備に当たっているのなら、侵入も容易かもしれない。

「選挙も近いし、俺たちが起こした爆破騒ぎのこともある。奴らのほうからみたら、いくら警戒しても、したりないといった感じだろう。俺たちは、警察と警備員、二つの組織を相手取らなければいけないんだ」

 ヨハンはソファに腰を下ろして、テーブルに横たわっていた《平和を創るもの》をケースに収めた。この武器が人の命を奪うかもしれないし、同時に誰かを救うかもしれない。

「……話は変わるんだが」向かいにフロンメルトが腰を下ろす。「クラウス・ムンクについてだ」

 一秒ほどの遅延の後に、その名前の意味するところを認識する。

「……シャルロッテについてか」

 彼女と一緒に死んでいた・クラウス・ムンク。彼が一体どのような人間だったのかを調べてくれるようにフロンメルトに頼んだのは、銀行での任務が終わった後のことだった。

「調べてくれたのか」

 フロンメルトは数秒黙ってから、やがてため息をついた。

「……俺は、あんたには申し訳なく思っているよ」

「え?」

 ヨハンは正面に座っているフロンメルトの顔を見た。申し訳なさそうな様子はみじんもなく、そこには感情の読み取れない表情が浮かんでいた。

「あんたの不幸の源泉には、多かれ少なかれ俺の行動がある。極端に言えば、あんたの転落の原因は俺にある」

「急に何だ?」突然の後悔の吐露に、不信感を抱く。

「奥さんが亡くなっていることを伝えずに誘導したのは俺だ。あの時、素直に真実を伝えてナスターシャと引き合わせなかったら、お前は違った形の幸せを見つけられたのかもしれない」

「……いや、何を後ろめたく思っているのかはわからないが、全てはあの家が燃えているのを見た時から始まっていた。フロンメルトが私を騙そうが、騙さまいが、結局は同じことだ。シャルロッテを失った事実は変わりようがない」

 ナスターシャと出会わなければ、違った幸福があった?それは間違っている。あったのはせいぜい、違った形の不幸だけだろう。

 フロンメルトは、またため息をついた。

「お前には、自分の幸福を取り戻す権利がある。この前は調べないと言ったが……こうして情報を仕入れてきたのは、お前に対する贖罪みたいなものだ。言ってしまえば、自己満足なんだよ」

 それでも十分だった。彼がどのような動機で働いてくれたのかはさしたる問題ではない。重要なのは、その調べてきた内容だった。

「以前、お前はこの男と」フロンメルトは前に見せたクラウス・ムンクのバストアップ写真をテーブルに出した。「奥さんがいつから関係を持っていたのか調べてくれと言ったな」

「わかったのか」ヨハンはやや、身体を前に乗り出した。

「わからなかった」その一言でヨハンの動きを制す。「俺が調べたのは、この男のさらなる個人的な情報だ。このクラウス・ムンクは、あんたの親父が死んだ後に、その後任の研究者になったと伝えたよな」

 ヨハンは頷く。フロンメルトは、やや視線をさまよわせてから、続きを話す。

「実は……このクラウス・ムンクは、あんたやナスターシャの親父が組織していた反友愛党グループの、一員だった」

「……この男が?」

 クラウス・ムンクの写真に視線を落とす。彼はやたらはっきりとした目つきで、ヨハンたちがいる部屋の天井を見つめていた。

「この男は、党の手によって反対勢力が一掃された十年前の抗争の生き残りだ」

「どうして、クラウス・ムンクだけ、最近まで生きて……いや」ヨハンは顎に手を当てた。「あの火災は、もしかして、私を狙ったのではなくてこの男を殺すためだった?」

 そう考えると、ある疑問が氷解する。それは友愛党に明確な敵意を抱かないヨハンが、どうして命を狙われなければならなかったのか、という疑問だ。反友愛党組織に所属していたクラウス・ムンクならば、標的になってもおかしくはない。その場合、シャルロッテが死んだのは、彼と一緒にいたからだ、ということになる。クラウス・ムンクが別の場所で命を狙われたのなら、彼女が巻き込まれて死ぬこともなかった。

 だが狙われていたのがクラウス・ムンクだったとしたら、まったく別の謎も生じる。友愛党はなぜ、十年越しにこの男を殺害したのか。ナスターシャの父のソビエスキは、列車事故の起こった数日後に命を落とした。彼の命は奪っておいて、ムンクは放っておいたのはどうしてか。逃げも隠れもせずに研究職に就いていたのなら、殺すタイミングはいくらでもあっただろう。

「……俺が調べたのは、それだけだ」フロンメルトは立ち上がる。「そろそろ行く。次に会うのは、おそらく、全てが終わった後だ」

「あ、ああ」

 思考を中断し、ヨハンも立ち上がった。今は目の前に待ち受けている試練に焦点を合わせなければならない。余計な思考は戦闘の際に命取りとなる。ノルダルから何回も言われたことだ。

「作戦決行は十九日の二十五時。グーゼンス邸の南西にある森林公園のガーデンハウスに集まってくれ。もちろん、全ての準備を整えてからな」

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