第三章 攻撃 3

 次の日、工場に出勤しても、幸いなことながら嫌がらせを受けることはなかった。いつものように、ほかの作業員はヨハンに対して不干渉だ。ノルダルが敵視されているのは、監督に肩入れする行動を明確に取ったからであって、敵とも味方とも取れない曖昧な姿勢を取っているヨハンに対しては、あまり攻撃的な態度を取れないのだろう。

 ノルダルの提案した作戦は昼休みに入ったことを合図に決行される。彼女と直接コミュニケーションをとることができない今、できることは、ノルダルがうまくやることを信じて作戦に従うことだけだった。

 ノルダルは今も、何らかの嫌がらせを受けているかもしれない。むしろ、作戦を円滑に進めるためには、嫌がらせを受けていなければならないのだ。そんな前提が必要である作戦を、自分から提案したノルダルの強さは敬意に値する。

 時計が十三時を回り、昼休みに入る。腹をすかせた作業員たちは一斉に食堂のほうへ流れて行った。ヨハンはその流れとは別の方向へ歩みを進めた。

 濃硝酸などを収納している保管室は、ノルダルが働いている部署と同じ建物にあるらしい。五分ほど歩いて連絡橋を渡り、その建物に到着する。作業員はまばらにあたりを歩いていた。

 今頃、彼女は行動を起こしてしまっているはずだ。速やかに自分の役割を全うしなければならない。

 建物に入ってすぐの階段を上がる。その途中、二人の作業員が小走りで下ってきた。

「おい、なんか下で喧嘩が起こってるそうだぜ」作業員の一人が言う。

「喧嘩?珍しいな」

「何でも、ものすごく強い女が暴れまわっているらしい」

 興奮気味の作業員二人は階段をさらに下っていった。

 どうやら、ノルダルの作戦はうまく機能しているらしい。

「私がおとりになります」昨夜、ポトフの鍋を挟んだ向こうでノルダルは言った。「私がほかの作業員をひきつけますから、ヨハンさんは周囲に誰もいなくなった瞬間に薬品を入手してください」

「ひきつけるって言ったって……具体的にはどうする」

「嫌がらせに耐えかねたふりをして、こうです」

 彼女は右腕を前に突き出した。

 要約せずともいわんとすることは明確だ。暴力である。

「危ないだろう。万が一、ヒートアップして工具で頭でも殴られたら……」

「危ないことは百も承知です」彼女はヨハンの目をまっすぐに見据えた。「ですが、周囲の作業員に警戒されている私にできることはそれくらいしかないのです。ですからせめて、私にできることをやらせてもらいます」

「しかし……」

「まあ、でも」彼女は口元に微笑みを作って言葉を続ける。「おとり作戦を抜きにしても、私、嫌がらせに腹が立ってやり返してしまうかもしれません。どうでしょうか、たまたまリヴ・ストリガという作業員が騒ぎを起こし、ヨハンさんはその隙に乗じて薬品室に忍び込む、という体で作戦を行うというのは」

「体裁の問題ではないだろう」

 ヨハンはため息をついた。どうやら、騒動を起こすのはノルダルの中で決定事項であるらしい。たとえヨハンが今ここで、騒ぎに乗じて盗みに入ることなどしないと誓っても、彼女は作業員に対して報復行動を起こすだろう。

 最悪だった。しかし何よりも最悪なのは、おとりというある種の献身的行為を台無しにしてしまうことだ。その献身は個人的な復讐願望が含まれているため歪んでいなくもないが、そうであっても献身は献身だ。ヨハンにその行為を無駄にしないよう、暗に強要する力を持っている。

 結局、作戦に従って昼休みに薬品室に潜入せざるを得なくなっていた。

 その部屋の扉の前にヨハンは立った。作戦が功を奏しているのか、廊下には誰もいない。

 ドアノブに手をかける。当然のごとく、鍵がかかっていた。

 息を吐く。わずかな逡巡ののち、ヨハンはドアノブに向けて、蹴りを放った。破裂音が廊下に誰もいない廊下に満ちる。

 三度目の蹴りで、扉は内側に開いた。ヨハンは倒れこむようにして部屋の中に入り、扉を内側から閉じる。緊張感と身体の急激な運動の反動で、心臓は激しく脈打っていた。扉にもたれかかって深呼吸をすると、ノックするような自身の血流の音が頭の内側から聞こえてきた。

 部屋は小さく薄暗い。左右の壁に沿って設置されている白い棚には、薬品の瓶が整然と並んでいた。棚の扉を開けようとしても無駄だった。この棚の扉にも、鍵がかかっている。

 ヨハンは左右の棚のガラスの内側に収められた、各種の瓶のラベルを見て目的のものを捜す。

 それは簡単に見つかった。右側の、手前から四つ目の棚、その最上段に濃硫酸が、その一つ下の段に濃硝酸の瓶が保管されていた。同じ棚に二つとも収納されていたのは幸運だった。

 ヨハンは軽く右腕を回してから、肘を地面に対して水平方向に曲げてガラスに押し当てる。右手を軽く握り、左手を覆いかぶせる。深呼吸をして、ガラスに、右の肘を突き刺した。

 耳を聾する甲高い音とともに、ガラスは内側に割れる。飛び散った破片が、ヨハンの右の頬を少しだけひっかいた。

 大きく息を吸って、吐く。ガラスの割れる清潔な音が、耳の奥でこだましていた。

 ゴム手袋をガラスの破片に引っ掛けないよう、慎重に硝酸の瓶を取り出す。それを床に置き、塩酸の瓶を取り出した。

 それらの瓶を抱えるように持って、出口に向かった。ドアを少し開けて、左右を見る。廊下には誰もいなかった。素早く部屋を出て扉を閉め、下へ降りる。

 焦らないように地上階に降りて、作業員の群れに紛れた。誰も、ヨハンが薬品室に強引な方法で侵入し、劇薬を盗んだことに気が付かない。あとは適当な物陰に薬品を隠し、帰る際に回収すれば万事完了だった。

 外に出ると人だかりができていた。作業員たちは円を作り、騒ぎ立てている。

 揺れ動く人の隙間から、ノルダルの姿が見えた。彼女に相対するように、同等の背丈の、屈強な男が立っている。男の顔には青あざが浮かび、満身創痍の様相だった。一方のノルダルはいつも通りの冷たい無表情を保っている。戦況は火を見るより明らかだった。

「あの」ヨハンは近づいて、円を成している作業員たちの男の一人に話しかける。「いったい、何をやってるんだ?」

「ああ、何でも、口論が喧嘩に発展したらしいぜ」

 男は必要最小限の説明だけすると、「そこだ!いけっ」と声を荒げた。周囲の人間も止めるそぶりは見せず、むしろ闘いをあおっている。

 傷だらけの男が、突如、叫び声を上げながら突進する。

 決着は一瞬だった。ノルダルの力強くも流麗な回し蹴りが、男の右側頭部に穿たれた。

 男の体躯は回転するようにして、人だかりのフェンスに突っ込んだ。彼はそのまま、失神してしまう。

「これで五連勝だ!」

 戦いを見守っていた観客が湧いた。どうやらこれまでも五人の人間を蹴散らしているらしい。見たところ、ノルダルが疲弊している様子はなかった。まさに、一騎当千の勢いである。

 ヨハンはうまく人垣の間から顔を出して、ノルダルに作戦が完了したことを伝えようとした。薬品の瓶を見せれば簡単に伝わるだろうが、さすがにこの人ごみの中で、劇薬を見せびらかせるわけにもいかなかった。

「次は誰だ?次は誰だ?」

「おい!誰かあの女に挑もうというヤツはいないのか?」

 そうこうしているうちに、観客はますますヒートアップしていく。奇妙な熱がノルダルを中心にして醸成されていた。そんな時だった。

「おい!」

 突如、熱狂に冷水を叩きつけるような声が聞こえた。作業員が一斉に、そちらへ目を向ける。

 副監督のミュラーが、騒ぎを聞いてやって来たのだった。

「お前たち、何をやってるんだ!」

 険しい顔をしたミュラーの気迫に、観客たちは気圧されるようになる。熱狂的な空間が一気に盛り下がるのを、ヨハンは肌で感じ取った。

 潮が引いていくみたいに、人垣はミュラーの道を開けた。その先に立っていたのは、熱の中心にいたノルダルだった。

「おい!お前、何をしている!誰の許可をもらって、こんな決闘まがいの真似をしているんだ」

 ノルダルは何も言わない。激高しているミュラーを、静かに見下ろしている。

 彼女は大きく、深呼吸をした。身体の膨張と収縮が、灰色の作業服の上からでも見て取れた。

「……なるほど、あなたが次の挑戦者、というわけですか」

「あ?」

 群衆がざわめきだした。副監督によって失われてしまった熱気が、にわかによみがえってくるのが感じられる。

「いや、ちょっと待て」ミュラーは少し後ずさりをする。

「上司を攻撃するのは気が引けなくもないですが……こうなっては仕方がありません、受けて立ちましょう!」

 芯の通った声でそう宣言し、彼女は軽く構えを取る。副監督の声は、周囲の声によってかき消されてしまう。予想だにしなかった事態に、作業員たちも盛り上がりを取り戻した。

「副監督、あの女をぶっ倒してくれ!」

「リーダーの威厳を見せてくれ!」

 ミュラーは焦りの表情を浮かべて左右に目を向ける。それからうつむいたかと思うと、両手を胸の前に組み、関節を鳴らした。その動作に観衆はより一層色めき立つ。もう、引き返すことができないのは誰の目にも明らかだった。彼は腹をくくるしかなかったのだ。

 やれ、殺せ。そんな大声が飛び交う中、ミュラーは左手を前に構えた。

 ミュラーは叫びながら前進し、副監督の威厳を込めた右手をうならせる。

 彼の腕が相手に届く前に、ノルダルの右の拳がミュラーの顔面に炸裂した。


「先ほど、話し合いの結果、ストリガさんには職を辞してもらうことになりました」

 昼休みが終わって午後の業務が開始したすぐあと、ヨハンはエンデルに呼び出された。事務所にはいま、彼ら二人しかいなかった。

 ノルダルがミュラーに会心の一撃を食らわせたあと、すぐに監督が来てその場を収めた。観衆はエンデルをも闘いの舞台に上がらせようと煽ったが、当のノルダルがエンデルの指示に従ったため、その場はお開きになった。さらなる熱狂を望んでいた人々の間に不完全燃焼の空気が漂っていたのは否めない。ノルダルに倒されて怪我を負った者たちは、医務室送りになった。

「あの人は自分から、騒動を起こした責任を取って、仕事を辞めることを提案しました。まだ数日しか働いていないのに、残念なことです」

 エンデルはうつむきがちで首を横に振った。工場に入ってきて四日目だというのに、彼はリヴ・ストリガという人間に対して謝意を持っているようだった。ただ、明日にも彼女は仕事をやめようとしていた。問題を起こしたせいでそれが一日早まっただけのことである。

「……はあ、そうですか」そんな事件もヘンリック・ヴェッセルという人格には関係のないことだった。「それで、どうして私は呼ばれたんです?」

 エンデルは小さくため息をつく。初めて会った時の人好きのする笑顔は消え去って、いまの彼の表情は悲壮と疲労の痕跡しか残っていなかった。

「先ほど、薬品室の鍵が破壊されて、二種類の薬品が盗まれているとの報告がありました」

「え、そうなんですか?」

「はい、すでに通報も済ませてあります」

 その言葉に心臓が跳ねる。

「……それなら安心ですね」

 ヨハンはかろうじて平静を保ちつつ、そう言った。

 エンデルは微笑を口元に浮かべ、言葉を放った。

「あなたがやったんでしょう?」

「…………え」

 単純なことです、と言って彼は作業服の胸ポケットに手を入れる。

 そこから取り出されたのは、一辺に赤が着色された、ガラスの一かけらだった。

「あなたのその頬の傷は、薬品棚のガラスを打ち破った際についたんじゃありませんか」

 ガラスを見た瞬間、ヨハンの脳細胞はこの生命の危機から脱する最善策を導き出そうとする。

 この男を、殺すか?いや、そうしたところで警察が来ることは変わらない……。

 ヨハンは勢いよく身をひるがえし、外に続く扉のドアノブに手をかけようとする。

「わあ!待って、待ってください!」後方から、声が飛んでくる。「嘘、嘘です!警察は呼んでいません!全部ハッタリなんです!」

「は?」ヨハンはドアノブに手をかけたまま固まる。

「こうでもしないと、あなたはボロを出さないと思ったんです」エンデルは安心させるような、柔らかい笑みを浮かべる。「だから、ちょっとペテンにかけさせてもらいました。逃げないでいただけるとありがたいのですが」

 ヨハンは振り向いてドアにもたれかかり、エンデルと向かい合った。そこには卓越した知恵を持つ、一人の工場監督の姿があった。

 今、ここに留まる利点は全く存在しない。彼に泥棒であることが知られてしまった以上、もはや労働者の振りをしても無駄だった。したがって、もし本当にエンデルが通報していなくても、彼の言うことを聞いて、ここに留まる必要は少しもなかった。加えて、通報していないというのが嘘である可能性もある。通報してようがいまいが、ここから離れるのが最善だった。

「もしあなたが逃げ出すのなら、僕は今度こそ、警察に通報します」

 エンデルは言い放った。その一言は効果的にヨハンの首を絞めた。

 最悪なのは、もうすでに通報されていて、ここに留まった結果、警察に捕まることだ。それに比べて最も良いのは、警察を呼ばれないことだ。彼の口ぶりから察するに、逃げれば必ず警察に通報される。逃げ出すことは、たとえ警察を呼ばれていても、ある程度の安全を確保できる折衷案だ。逃げるか、留まるか、どちらを選ぶべきか。

「……あんたにとって、私をこの場所に留まらせるメリットは何だ?」

「話をしたいんです。それだけだ」エンデルは真剣な面持ちだった。

「話?何を話すんだ」

「僕はあなたのことを知りたいんです。上司が部下のことを知りたいと思うのは、普通のことでしょう?」

 彼は軽やかな笑みを顔に浮かべる。妙に明るい笑顔だった。

「信用できませんか?なら……」エンデルは、デスクの上にあった青い表紙の分厚いリングファイルを開く。そこから、二枚の紙を抜き取った。

「これをどうぞ」

 ヨハンは恐る恐る近づいて、紙を受け取った。それはヘンリック・ヴェッセルとリヴ・ストリガの個人情報が書かれた雇用書類だった。

「切るなり燃やすなり、お好きになさってください。警察に渡すことはしません」

「……本気か?」

 これは警察の捜査妨害に当たる行為だ。明らかに犯罪者の逃走を幇助している。

「もちろん、今ここであなたが逃走すれば容赦なく通報しますけどね。強引に事務所の中に乗り込んできて雇用契約書を奪われたって、警察に伝えてやります」

 ヨハンはため息をついた。ここまで言われたら仕方がなかった。

「わかった、わかったよ」ヨハンは観念したように、両手を挙げた。

「賢明な判断です」エンデルは部屋の奥を指さした。「向こうに来客者用の応接間があります。よければコーヒーでも飲みながら、ゆっくりお話ししませんか?」

「いや、何かあったときすぐ逃げられるようにここに立っていたい」

「そうですか」彼はデスクの椅子を引き出して腰かけた。「まず、気になっていると思われることからお話ししましょう。どうして、薬品を盗んだ犯人があなたであることを僕が推理できたか?わかりますか」

「血の付いたガラス……だけではないのだろうな」ヨハンは扉にもたれかかって腕を組む。「あなたが私の顔に傷があることを確認したのは、事務所に呼び出して実際に顔を合わせた時のことだ。だからその前にはすでに、私が犯人だとある程度目星をつけていたことになる。でないとそもそも、呼び出そうとは思わないわけだから」

 いったい何が、ヘンリック・ヴェッセルを犯人だと断じる材料になった?ヨハンは顔に手を当てて思考する。うまく立ち回れていたはずだった。

「あなたはうまくやっていたと思いますよ。怪しかったのはあなたのパートナーである、リヴ・ストリガさんのほうです」

「……彼女か」

 少しだけ納得する。初日、監督に呼ばれた偽名に数秒、反応できなかったことを思えば、ヨハンの知らないところでボロを出していても不思議ではない。

「彼女のヒントからあなたへとたどり着いた思考の流れにそって説明しましょう。まず、最初におかしいなと思ったのは、ほんの少し前の、ストリガさんを聴取のために事務所へ呼び出した時のことです。殴った理由を尋ねると、彼女は同僚の嫌がらせに耐えかねたのだと言いました。一方で、ミュラーさんを殴った理由を訊くと、彼女は押し黙ってしまうのです。そのあとは、責任を取って辞めますの一点張りでした。そこで何か得も言われぬ事情がストリガさんにあるのではないか、と思い始めました」

 不自然な沈黙。実直なノルダルが取りそうな行動だと、ヨハンは思った。中途半端な嘘をつくこともできず、かといって部下を信頼しているエンデルに、ミュラーの裏切りを伝えることもできない。そこで選んだのが、沈黙だった。それが彼女なりの誠意だったのだろう。

「ほかにも不審な点はありました。そもそも、入ってきて一週間にも満たない彼女が、どうして他の作業員に目をつけられているのか?そうなってしまった原因に、心当たりがありました」

「昨日、彼女が倉庫に閉じ込められていたあなたを助けたことだ」

「ええ、そうです。さすがに話が早いですね。彼女が僕を助けたことで、僕を嫌う労働者から嫌悪の対象になってしまった。申し訳ないことだと思っています」

 嫌がらせについては、彼女は特に気にしていなかった。彼が気にすることではない。

「しかし、思い起こせば、彼女にはおかしいところがあった。どうして、僕たちが閉じ込められた倉庫の前にいたのか?彼女の持ち場はもっと違うところだったのに。そう考えると、ストリガさんが助けたのは、僕ではなくヴェッセルさん、あなただったのではないかという気がしてくるんです。あの人は僕を助けたのではなく、あなたを助けたのではないか?」

 その推理は間違っている。ノルダルは副監督の動きをマークし、その途中でエンデルが作業員によって閉じ込められている場面に遭遇した。その時、ヨハンが同じ部屋に閉じ込められていることを、彼女は知らなかった。彼女は紛れもなく、エンデルを助けるために動いたのだ。

 しかしヨハンはあえてそのことを指摘しなかった。結果、こうして犯行が看破されている以上、そんな指摘も無意味である。

「思い起こすと、棚を動かして僕らを出してくれた時、彼女はあなた手で挨拶をしても、反応しなかった。反応しないというのがそもそもおかしい気がします。普通、会釈されたら何らかの反応をしますよね。彼女は意図的に、あなたを無視しようとしているように見えました」

「……さすが、よく見ている。卓越した観察眼だ」

「部下を見るのが僕の仕事ですから」当然だという態度で彼は言った。「ただ、その時はあなたがたが知り合いなのかもしれない、と思うだけで、その関係性の持つ意味までは察していませんでした。工場に入ってきたのが同時だったことも相まって、それはゆるぎない事実に思えました。ただ、あなた方ふたりが犯罪に関わっているのかもしれないという疑いを持ったのは、部下から薬品室に強盗が入ったらしいという報告を受けた後のとこです。

 報告によると、強盗が押し入ったのは昼休み頃だとのことでした。やや論理の飛躍があるのは否めませんが、そこで同じ昼休みというタイミングで起こったストリガさんの騒動と強盗を結び付けたのです。もしかして彼女があんな乱闘騒ぎを引き起こしたのは、誰かが薬品室の中に侵入するのを手助けするためだったのではないか、とね。ヴェッセルさんたちが労働者として入ってきた次の日には、苛性ソーダが紛失しています。今月に入って、この短いスパンで盗難が続く原因には、新しく入ってきた労働者がいると考えたのは自然なことでした。念のため訊いておきますが、苛性ソーダを盗んだのはあなたの仕業ですか?」

「まあ、そうだな。その通りだ。正確に言えば、彼女の手柄だが」

「盗んだのはいつです?」

「三日前……月曜だ」

「入った初日に盗んだんですか?なんというか、大胆ですね」

 呆れているのか、感心しているのかわからない曖昧な笑みをエンデルは浮かべる。単純に時間が限られているので、そうせざるを得なかっただけの話だった。時間があったなら、もっと慎重に行動した。ミュラーに見つかることもなかっただろうし、今こうして詰め寄られていることもなかったはずだ。

「実際に現場に赴いて、血の付いたガラスを発見しました」エンデルは戦利品を見せびらかすように、ガラスを顔の位置に掲げた。「どうやら、犯人はガラスで切ったらしい。ならばあとは簡単な話で、傷がある人間を捜せばいいだけです。最初に候補として事務所に呼び出したのが、ストリガさんと顔見知りであるらしいヴェッセルさん、あなたでした。こんな重要な手がかりをその場に置いていくなんて、迂闊でしたね」

 エンデルはガラスを持った手を揺らす。ヨハンはため息をついた。

「本当に迂闊だった。一生の不覚と言ってもいい」

「わかりませんよ。もしも血の付いたガラスが残っていなくて、僕が犯人に心当たりがなかった場合、警察にすべてをお任せしていたかもしれません。そうならなかったのは、ヴェッセルさんの不始末のおかげです」

「なあ、そもそもどうして警察に通報しない?話したいとか言っていたが……そうすることで、あんたに何のメリットがある?」

「そうですね……」ヨハンは左手でデスクを軽く撫でる。「お礼みたいなものでしょうか」

「お礼?」

「ええ。ミュラーさんを殴ってくれたことの」

 ヨハンは口を少し開き、二、三度瞬きをした。「……知っていたのか」

「ええ、もちろん。当り前じゃないですか」

 当然のことだった。わずかな手がかりからリヴ・ストリガとヘンリック・ヴェッセルのつながりを見出し、二人の陰謀を暴いたこの男が、身近な人間の野望を見抜けないはずがなかった。

「しかしあの時、慕われている思うと言ったのは?」

「部下に個人的ないざこざを見せるのは二流の人間のすることですよ」

 あれは、入ってきたばかりの新人に、工場内の権力争いを見せまいとするエンデルなりの配慮だったというわけだ。

「彼は僕を陥れるために作業員を扇動して攻撃させるよう仕向けました。お金をもらっている労働者も中にはいたらしいですが、その多くの人員を一つにまとめたカリスマ性は大したものです。こんなくだらないことに能力を使っていないで、まっとうに働いてほしいのですが」

「ミュラーがあなたを攻撃するのは、あなたを辞めさせて自分が監督になりたかったからか?」

「ええ、そうでしょうね。そんな搦め手を用いなくとも、まっとうに働いていれば出世の話は舞い込んできたでしょうに。能力はあるんだから」

 エンデルは残念そうに首を振る。有能な人材がこんな形で損なわれてしまったことを悔いているようだった。

「これから、あなたはどうする?」

「どうする、とは?」

「これからもこの場所で働いていくつもりか?この、敵がたくさんいる工場で」

「労働者の皆さんは敵ではありませんよ」エンデルは真顔で言った。「まあ、かといって味方であるかと言われても怪しいところがありますが。たとえ彼らから嫌われていても、僕はできる限り彼らを好きでいようと思っています」

「……なぜ」

「それが僕の仕事だからです」

 彼はそう言い切った。矜持のこもった、凛とした声だった。

「労働者一人一人は、しっかりと独立した意志を持っています。現状に悩み苦しみ、家に帰れば家族の一員として迎えられて、笑顔を見せる。個々人の人生と、確固とした人格がそこにはあります。しかし、ふとした瞬間に彼らの独立性は大いなる運動の中に飲み込まれてしまいます。あなたも見たでしょう?ストリガさんの乱闘騒ぎに熱狂する労働者を。否応なしに、彼女に殴りかかったミュラーさんの姿を」

 あの時の、異様ともいえる熱気をヨハンは肌で思い出す。誰も彼もが熱で浮かされていたようになっていた。

「ミュラーさんは冷静な、冷徹な男です。無駄を嫌い、勝てない勝負には決して出ない、そういう人間です。それなのに彼は、ストリガさんと同じ舞台に立ってしまった。自らの意志が、るつぼに溶かされるようにして集団に飲み込まれてしまったのです」

 あわれですよね、とエンデルは小さな声で付け加えた。

「ところでヴェッセルさん、この工場は何を作っていると思います?」

 唐突な質問に、ヨハンは思考の隙をつかれ、数秒遅れてから頭を回し始める。確か、ノルダルの持って来た資料に、それらしき情報が記されていた気がしたが、工場の地理を把握するのに手いっぱいで、細部を暗記していなかった。

「確か……機械類、と書いてあったか?どんな機械を作っているのかは知らないが」

「トラッカーですよ。僕らの左肩に挿入されている、あの小さな機械です」

「トラッカー?」少なからず、驚きを覚える。「あんな小さな機械を作るのに、こんな大規模な設備が必要なのか?」

「いえ、実際にトラッカーを製造するのに稼働するエリアはわずかなものです。この工場ではまず、様々な廃棄物を破砕し、材料をトラッカー作成に必要なものと不必要なものに選り分けます。トラッカーに不必要なもののうちのいくつかは、工場内で様々な装置に再構築され、ほかの工場へと送られます」

 ヨハンが動作確認していた機械は、ほかの工場に送られるものなのだろう。あれらはトラッカーを作るときに出た、残滓から生まれたものなのだ。

 少し間を空けて、彼は言葉を続ける。

「でも、実はトラッカーには個人を追跡する機能なんてそなわっていません」

 日常会話のような調子で、エンデルはそう言った。

「…………は?」頭を殴られたみたいな衝撃を受ける。にわかに、彼の言ったことが信じられなかった。「……トラッカーには、意味がない?」

「ええ。まぎれもない事実ですよ。少なくとも、工場の監督にとっては常識の範疇です」

 エンデルは両手を組み、微笑んだ。こちらの無知を指摘して得意になっている様子もない。彼にとってはトラッカーが機能していないことなど、本当に何でもないことなのだろう。

 フロンメルトやナスターシャは、この事実を知っているのか?いや、知っているはずがない、と即断する。知っていたら、わざわざトラッカーを取り出す手術など、する必要がない。

「正確に言えば、人間を生涯にわたって管理できる、という機能が虚言なのです。設計上、あんなに小さな機械が位置情報を発信し続けるのは不可能で、遅くとも、人間が二十歳になる頃には、電池が切れてしまいます」

 ヨハンは自分の左肩を押さえた。もう何も埋め込まれていないはずなのに、不気味な違和感を覚える。

「政府は……友愛党はそれを知って、トラッカーを生産し続けているのか?」

「当然、そうです。彼らの狙いは、国民一人一人を管理することではありません。むしろ、工場などの巨大なシステムの中に国民をからめとって、集団として管理しやすくするのが、友愛党の支配体制の肝なのです」

「ちょっと待ってくれ」ヨハンは額を押さえた。「この工場そのものが、政府の管理システムを担う機関だと?」

「ええ。少なくとも僕は、友愛党の人間からそう教えられました。トラッカーみたいな機械で一人一人を管理するのは非効率的なのでしょう。何せ、彼らの生活スタイルには類似があるものの、全く同一であることはあり得ません。それならば最初から、人間を群れとして管理したほうが都合がいい。個性を捨象し、大衆をイワシの群れのようなダイナミズムを持つ現象として把握する。この工場は、個々人を大衆という大きな集団に作り直すための工場なんです」

「……そんなこと、可能なのか?」ヨハンは口元に手を当てた。「大体、そんなやり方で人間を管理できるとも思えない。ただ野放しにしているだけじゃないのか?」

「この支配体制の根幹は」エンデルは両手を広げる。「人間を労働に没頭させ、疲弊させることにあります。深く物事を考える能力を仕事で奪ってしまうのです。政府への不満とか、現状への疑問だとか、そういった思考が芽生える暇もないくらいに働かせるのです。結果的に、政府へ異議を唱える人間は減少する」

 友愛党の異常な支持率は、こういったシステムが根幹にあることで形作られているのだろうか?機械を国民一人一人に埋め込んで管理するという話のほうが、まだ理解は可能だった。

「もちろん、現状への不満がゼロになることなんてありえません。生活が安定してきたら、さらなる贅沢を求めてしまうのが人間の本能です。完璧な安定はありえず、微小な不安定こそが逆に最適な状態を作り出します。不満をうまいこと発散させるために、党は個別に大衆の不満のはけ口を用意しました……何を言っているか、わかりますか?」

「そのはけ口というのが……監督、のことなのか?」

 エンデルは満足そうな微笑みを浮かべる。「労働者たちの暴力性を外に出させないための的が、僕なんです。考えれば、ミュラーさんも監督のポストが欲しかったのではなくて、党から指示をもらって労働者の攻撃性を誘導していただけなのかもしれない。事実として、彼は労働者たちにお金を渡して、僕への攻撃を煽っていた。そのお金はどこから出ていたのでしょう?」

 エンデルの推測は、しかし、外れているようにも思える。ミュラーは苛性ソーダの袋を盗んだ。あの行いは、労働者の攻撃を煽るのとは無関係だ。だが、最初は党の指示で、労働者を促していたのに、それがエスカレートしていって、ミュラー自身も本心からエンデルに危害を加えていくようになった、というのもありそうな話だった。

「これでわかったでしょう?嫌がらせを受けるのが僕の仕事なのです。ですから、嫌がらせを理由に仕事を辞めることはできません」屈託のない笑顔を顔に張り付けて、エンデルはそう言った。「一人一人には、もちろん悪意はありません。ですがそれが束になると、無垢な暴力に転化します。一人の悪口に効力はなくても、それがいくつも集まれば凶器にもなります。そして彼らは誰かを傷つけていることに気が付けない……集団のもたらす暴力の行きつく先に、誰かが立っていないといけないのです」

 ヨハンは何かを言い返そうとしたが、自分にそんな権利がないことに気が付いて、口を閉ざした。エンデルは、彼なりの覚悟を以て、工場監督という役職に就いているのだろう。今の今まで、何も知らなかった人間がその覚悟に疑問を呈するようなことを言えるわけがなかった。

「……そんな、暗い顔をしないでください」なおもエンデルは、陰ったところのない表情を保ち続けている。「僕は僕の仕事を嫌ってはいませんし、労働者たちを憎く思うこともありません。何度も言うようですが、彼ら一人一人は微小な存在です。辛い思いをしながら、朝起きて、無心で仕事をして家に帰ってはお酒を飲み、温かいベッドで眠る……彼らの大半はそんな人生を送っていくのでしょう。それはそれで、この上ない幸福だと思います。僕は……彼らの集団的な無意識が暴力性を孕んでいても、彼らの幸福をできる限り肯定したいのです」


 午後三時過ぎ、ヨハンは拠点に帰還した。これほど明るい時間に工場を出るのは初めてのことだ。なんだか、同じ部署で働いている作業員たちに後ろめたさを覚える。しかし、クビにされた人間がそんな感情を抱くのは不当なことだった。

「ただいま」

「おかえりなさい」先に拠点に帰っていたノルダルが出迎える。「どうでしたか?薬品は手に入りましたか?」

 ヨハンは二つの瓶を玄関わきに置いた。それを見たノルダルは満足そうに頷く。

「私の考えた作戦、うまくいったみたいですね」

「いや、そうでもなかったみたいだ」ため息の混じった声で言う。「シャワーを浴びてから、詳しく話すよ」

 不思議そうな表情を浮かべるノルダルを置いて、ヨハンは浴室に向かう。脱衣所で作業服を脱ぎ、温水を頭から被った。こうして工場作業を終えてシャワーを浴びるのも、今日で最後だ。感慨は少しも感じない。あるのは妙な疲労感だけだった。

 浴室を出ると、ノルダルが紅茶を作って待っていた。甘い香りが部屋に漂っている。

「砂糖は入れますか?」

「ああ……いや、頼む。入れてくれ」

 ノルダルはスプーン二杯分の砂糖を、ヨハンの紅茶に入れた。

 二人はいつものようにテーブルに向かい合って座った。ヨハンが先ほどのエンデルとの会話の内容を説明し、ノルダルは黙ってそれを聞いていた。

「だから、作戦は偶然うまくいっただけだった。エンデルの采配一つで、破滅していたかもしれない」ヨハンは紅茶を口に含む。溶けた砂糖の甘みが疲労した脳を癒す。「どうして、ノルダルさんはミュラーを殴ったんだ?」

 その質問に、ノルダルは一言。

「気に入らなかったからです」

 とだけ言った。やはり、あの一撃には個人的な思いが込められていたのだ。ヨハンもその事由を深く追求することはしない。少し前まで、工場内部の事情に干渉することを避けていた彼女がそこまでしたということは、何か微妙な心理的変化があったのだろう。

 あのミュラーへの突きがなかったら、彼女もヨハンも警察に捕まっていたかもしれない。そう考えると、やはりあの時、ミュラーを殴ったことは、正解と言えば正解だったのだろう。

「でも、何といいますか、不思議なお話ですね。私には、少し観念的すぎてよくわかりませんでした。国民を集団として支配して……友愛党は何を目指しているのでしょう」

「さあな。支配することそれ自体が目的で、何のために支配するのかはあまり重要じゃないのかもしれない。あるいは、国民を支配することが善だと信じているのか」

 人間を仕事に没頭させ、考える間もないくらいに働かせる。たまに生じる現状への不満を、うまいこと敵へと誘導し、解消させる。結果、労働者たちは政府への不満を爆発させることなく、ささやかな日常を送って一生を終えていく。それが友愛党の提供するライフ・モデルだ。

「国民の生活を知らず知らずのうちに支配して、操るなんて、傲慢以外の何物でもありません。自分たちを神だとでも思っているのでしょうか」

 落ち着いた口調で、ノルダルは言った。傲慢、という言葉は、前にナスターシャも使用した。過去を生きた人間の歴史を消し去るのは、万死に値する傲慢だと。

「……昨日、工場で、私が医者として働いていたころに患者として来院した男と顔を合わせた」

「え?」カップを口につけようとして、動きを止める。「本当ですか?身元がバレたりは……」

「していない、と思う」ヨハンは首を横に振った。「私が破滅した日に、喉の痛みを訴えて来院した患者だ。その一度しか顔を合わせていないから、たぶん、顔に見覚えがあると感じても、私がヨハン・ハーバートであると確信することはないと思う」

 ヨハン・ハーバートはすでに社会的には死んでいる人間だ。そんな人間がいきなり目の前に現れても、見間違いとして処理するのが普通だろう。

「彼は、仕事が無意味であることを嘆いていた。自分自身が誰かの役に立っているかどうか、確信が持てないでいた。相談を受けた時は、明確な解は与えられなかったのだが……」

 いくらでも代わりがいるならば、むしろ気楽に日々を送ったらどうか、なんて転倒した言葉をかけたことを覚えている。本当に、何の解決にも、励ましにもならない回答である。

「昨日会った彼は、その時よりかはだいぶ生き生きしているように見えた。喉の痛みも無視して、エンデルに攻撃するメリットを説いていた。彼に何よりも必要だったのは、薬や安っぽい人生相談なんかではなく、生きる理由だったのかもしれない」

 そしてそれはエンデルへの暴力で彩られていた。

「でも、それは友愛党の戦略によって、生み出されたものですよね。その男の人は、煽られた感情を自分の生きる理由だって思い込んでいたのではないでしょうか」

「そうなんだが、重要なのはそこではない」ヨハンは額に指をあてる。「なによりも重要なのは、悩み、苦しんでいた人間が、他人を攻撃することで自分の生を回復しようとしていたことだ」

 繊細な悩みと暴力は必ずしも矛盾しないのかもしれない。どれだけ重たい悩みを抱えている人間でも、他人に悪意をぶつけることはあり得るのだろう。友愛党の狙いは、その悪意が暴れまわることを抑制することにあるのか?

「……眉間にしわが寄っています」ノルダルが無表情で指摘した。「思考することが癖になってしまうと、戦闘の際に後手に回ってしまいますよ。私たちはできることをやりとげました。レジスタンスに集めろと指示されたものは全て集めましたし、私たち二人も無事に帰ってこれました。少し休んで甘いものを堪能しても、文句は言われないと思いますよ」

 ヨハンはため息を一つついて、思考を打ち切った。そもそも個人の行動や思考ですら、把握するのは難しいのだ。ましてやそれよりもはるかにスケールの大きい大衆の行動様式なぞ、疲れた頭で考えるのに適していない。

 少し冷めた紅茶を一気に飲み干した。たまには、砂糖を入れてみるのも悪くないかもしれない。空になったカップをキッチンに戻そうと立ち上がった瞬間、ドアがノックされた。

 ノックの音は二回。つまりは普通の叩き方だ。ヨハンたちは顔を見合わせる。音を立てないように、ヨハンはカップをキッチンに置いた。

「すみません」とくぐもった低い声。「地域開発工事会の者なんですけども、ちょっとお時間よろしいでしょうか」

 ノックをする男は、この家に誰かいることを知っているらしい。おそらく、窓から漏れる光のせいだろう。立地のせいで昼過ぎでも電灯を点けなければ部屋が薄暗いのだ。

 ノルダルはヨハンに対して頷きかける。開けてもいいだろう、という意味だとヨハンは取った。足音を立てずにドアへ近づき、鍵を開ける。

 瞬間、扉は内側へ勢いよく開かれる。ヨハンはかろうじて半歩下がって、扉の開放に巻き込まれずに済んだものの、男が突進してきて後方へ勢いよく吹き飛ばされる。ソファの側面に背中を強打し、口から空気の塊が吐き出された。

 ノルダルが立ち上がる。同じタイミングで、男がもう一人家の中に入ってきた。

 霞む目で、ヨハンは目の前に仁王立ちする男の姿を直視する。格式ばった黒い衣服に帽子。まぎれもない、この男たちは警察だった。

 ヨハンを跨ぐ男の右脚が後ろへ上がり、そのまま顔面を狙って蹴りを放つ。間一髪のところで身体を回転させ、それを避けて態勢を立て直す。鈍い音とともにソファの側面の布が陥没した。男の後方では、もう一人の警察が銀色の刀をゆっくりと抜いているのが目に入った。

 シッ、と歯の隙間から空気を吐き出しながら、男はヨハンに拳を突き出す。後方に下がり、それを避ける。続けて飛んでくる右脚の回し蹴りを、両手を重ねて防いだ。

 目の前の男は三十代後半くらいだろうか。大柄で、顎にひげを生やしている。眼には明らかな敵意が籠っていた。

 警察が間合いを詰めるのと同時に、ヨハンはソファの横に設けてあったローテーブルを、下から相手に叩きつける。うめき声を漏らしながら後退する相手のみぞおちを狙い、姿勢を低くし体重を乗せて右の肘を突き刺した。

「ヨハンさん!」

 声がした方に視線を向ける。もう一人の警察の殺気立った目がこちらを捉えていた。

 回転しながら、刀を水平に振る。刃先が銀色の残像を描いた。

 反射的にヨハンは姿勢を低くする。

 接近する刃は、視界が刃で上下に分断されたところで、硬質な音とともに静止する。

 刃先が柱にぶつかったのだ。ノルダルが椅子を投げつける。

 刀を持った男は片手でそれをいなしながら、肘内を食らった警察の手を取って身体を起こさせる。よろめきながら立ち上がった男は、腹部を押さえながらせき込んだ。

「大丈夫か」刀を持った男が言う。こちらは比較的若く見えた。

「ああ、何とか。気をつけろ、こいつら、妙に動ける」

 浅い呼吸を数回繰り返し、ヨハンは言葉を発する。「何なんだお前らは」

 その質問に二人は答えない。対話の余地はなさそうだった。そもそも抵抗をした時点で、この男たちの中にそんな選択肢はないのだろう。

 もう一人の男は刀を抜くそぶりを見せない。屋内で刀を振り回すのを躊躇しているみたいだ。さっきの男の一撃のように、柱などの障害物に邪魔されて満足に攻撃できないからだ。柱があそこになかったら、ヨハンの目玉は綺麗にカットされ、頭蓋から脳が零れ落ちていただろう。

 刀を持った男は、ノルダルに一歩近づいた。それに合わせて、素手の警察もヨハンに近づく。ヨハンとノルダルは一歩下がって間合いを保った。

 カチャリ、と金属が接する音がした。ノルダルがキッチンに置いてあった包丁を持っていた。

 それを合図に、二人の警察は飛び掛かる。

 大柄な警察官が距離を詰める。気おされるようにヨハンは後退しようとする。

 しかし、できなかった。先ほどの攻撃に使ったローテーブルに足が突っかかってしまう。

 好機と見たのか、男は左脚の回し蹴りをヨハンの胴体に叩き込んだ。

 かろうじて腕を挟み、防御を試みるも、身体ごと薙ぎ払われるように壁に激突する。

 混濁する意識の中、追撃に備え、ヨハンは態勢を立て直そうとする。

 しかし、追い打ちは来なかった。

 ヨハンに相対していた男の視線は、もう一方の戦闘へと注がれている。

 ノルダルの手にした包丁が、もう一人の警察官の喉元に突き刺さっていた。

 包丁を抜き取ると、男は目を見開いたまま聞きなれない空気音を一つ出すと、過度に大きな音を立てて床に崩れ落ちた。ノルダルの手には鮮血のしたたり落ちる包丁だけが残っていた。

「よくも……」ヨハンの前に立つ男が、言葉を漏らす。「よくも、ウォレンを……」

 男は静かに刀を抜いた。もはや、ヨハンのことは目に無いようだった。彼の目にあったのは、相棒の死体の横に無表情でたたずむ女、ただ一人だった。

「ヨハンさん」金属のように冷たい声で、ノルダルは言う。「先に、一週間前までいた拠点に戻っていてください」

 有無を言わさぬ声だった。警察は何も反応しない。

「早く!」

 彼女の叫び声を聞くとともに、ヨハンは床に落ちていたマントを掴み、家から飛び出した。

 日が落ちて、街が闇に包まれた頃、ヨハンは以前までいた拠点に到着した。鍵で扉を開けると同時に、しびれるようになって何も考えることができなかった頭に様々な考えが去来する。

 家の中に入り、扉を閉めて、ヨハンはそのままもたれかかって腰を下ろした。

 ノルダルは、大丈夫なのだろうか。

 暗闇の中で、わななく両手を見つめる。あの場で、彼女を置いて出ていくべきではなかったのではないだろうか。

「……ああ」口から小さな悲鳴が漏れた。不安と罪悪感がヨハンの喉を締め付ける。

 その夜、いくら待っても、ノルダルが帰還することはなかった。

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