第三章 攻撃 2
それから数日は、ヨハンにとって比較的平穏な日々が続いた。
潜入する工場の立地の都合で、徒歩での拠点の移動が二回ほどあった。戦闘は一度もなく、訓練を目的とした疑似的な戦闘も一度もなかった。組織に属してから、最も平穏な時間だと言っても過言ではなかった。
拠点はどこも地下室がある二階建ての家屋で、似たような内装を調えていた。これらの家々がどこも同じ設計なのは、地方から都市に流入してくる労働者家族のために、一昔前に一斉に建てられたものだからだ。加えて内装が似ているのは、移動の多いレジスタンス構成員への、拠点が少しでも落ち着けるような場所であってほしいという配慮だろう。
何もない時でも、ヨハンは家の中で軽く身体を動かして、いつ、何があっても動けるように身体をメンテナンスした。たまにフロンメルトやナスターシャが訪ねてきたが、長くても二時間ほどでまた出て行ってしまった。彼らは彼らでやることがあるらしい。ヨハンはそれを尋ねることはせず、彼らも仕事内容を共有することはしなかった。
十月三十一日の夜、ノルダルがヨハンの滞在する拠点に来た。
「二週間ぶりですね、ヨハンさん。再びお会いできてうれしいです」
玄関口で、彼女は少し口元を曲げて微笑んだ。左手にはビジネスバッグをぶら下げている。
「そちらこそ、代わりが無いようでなによりだ」
ヨハンは、夕食として作っていた、野菜のたっぷり入ったチャウダーを二人分よそって、テーブルに置いた。鞄を椅子に置き、外套を脱いでクローゼットに丁寧にしまい込んだノルダルが、黄金色の光を浴びて白い湯気を立ちのぼらせているお椀を見て瞬きをする。
「ヨハンさん、料理できたんですね。これ、食べてもいいんですか?」
「そのためによそったんだ。口に合うかはわからないが」
ヨハンが席に着いた後、ノルダルもその反対の椅子に座り、二人は向かい合って手を合わせた。ノルダルはスプーンでとろみのあるスープをすくって口に運んだ。
「……おいしい」
「それは良かった」
ヨハンも自分の作った料理を口にした。特段うまくもなく、不味くもないという評価を下す。
「具がいっぱい入っていますね。ブロッコリー、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ……」
「ある野菜は全部使った。味はさておいて、煮込み料理は栄養を効率的に摂れるのが利点だ」
「利点……料理をそんな目で見たことはありませんでした」ノルダルは感心するように頷きながら言う。「作戦の前だと、あまり食べ物を口にできないんですが、これくらいおいしいとストレスなく食べられます」
「食べられない?どうして」ヨハンは何気なく聞いた。
「人を殺す前に、食事なんかとてもとっていられません」
口に入る寸前だったスプーンを空中で止めてしまうヨハン。ノルダルの顔は微笑を保っていたが、少し影が差しているようにも見えた。
「……前、生きるためには人を殺してでも食べなければいけない、というようなことを言ってなかったか」
「そんなことは言っていません。戦い続けるためには、食べなければならない、とは言いましたが。ですが、それは心構えのようなもので、実際そううまく感情を処理できるかというと、そうではありません。気に病むこともあれば、何も食べられなくなることもあります」
ノルダルはスプーンでチャウダーをかき混ぜた。彼女も、やはり完璧な殺人者ではないのだ。人を殺せば、苦悩もする。だとすれば、少し前にかけてくれた言葉には、彼女なりの励ましがこれでもかというほどに詰め込まれていたのだろう。殺人者が殺人者へと贈る精一杯の激励の言葉が、あの地獄の話だったのだ。
「あ、今は大丈夫ですよ」彼女は弁解するように言った。「明日以降の作戦は工場に侵入して必要な物資を持ち出すだけの作業だと聞いています。命のやり取りが行われないのは気楽です」
その発言から、彼女がいままでどんな仕事を請け負ってきたのか、なんとなく察せられた。もしかしてノルダルがこの作戦に加えられたのは、彼女に対するナスターシャの配慮なのではないか、とヨハンは推し量る。ありそうな話だ。
「ああ、作戦と言えば」ノルダルは持ち込んできた鞄を、椅子からテーブルの上に移動させた。その中から紙の束を取り出して、ヨハンのいるほうへ押しやる。「明日以降の作戦の資料です。私たちが勤務する予定の工場についての情報と、入手すべき原材料の詳細が記されています。お目通しください。それから」
彼女はバッグからカードを取り出す。
「偽造の身分証明書です。ヨハンさんはこの名前で、工場で働くことになります」
そこにはヨハンの写真とともに、ヘンリック・ヴェッセルという名前が記されていた。当然、ヨハン・ハーバートのアナグラムではなく、元の名前とは何の関連性もない純然たる偽りの名前がそこに記されていた。
「私の偽名はリヴ・ストリガといいます。私たちは面識のない赤の他人であるという設定です。工場内ではなるべく接触は控えてください。万が一、私たちの関係が露呈しそうになったら、その時は、実はいとこ同士であるということにしましょう」
ヨハンは設定を頭に叩き込んだ。「了解だ」
翌日の朝、ヨハンは六時に目を覚ました。仕事をしなければならないという意識がヨハンをその時刻に起床させた。ノルダルが起きて来たのは、その三十分ほど後のことだった。
二人が今滞在している拠点は、中心部から外れた位置にある。二階の窓からは、工場の排気ガスと朝焼けがまじりあって虹色に輪郭を際立たせている雲が見えた。
二人は始業時間である九時に間に合うように身支度を整え、家を出た。徒歩で路地を進み、途中から電車で工場に出勤する、鼠色の作業服姿の労働者の集団に合流した。彼らの多くは疲労の残る顔を浮かべて、無言でとぼとぼと歩みを進めている。
二人が勤務する工場の敷地は広大だ。敷地の中に巨大な建物がいくつもひしめき合って並び、その間を、労働者をいっぱいに搭載した車が走り回っている。人も物もこの中では等価だ。この工場地では独立した経済システムが構築されているような印象を受けた。
「不思議な雰囲気の場所ですね」ノルダルがつぶやいた。
二人はまず、新規の労働者ということで事務所に集められた。新人はヨハンたちのほかに十人いた。下はまだ十代に見えるような幼い顔つきの青年から、上は白髪が混じった気の弱そうな五十代くらいの女性まで。様々な年齢、階級の人が、ここでは均一に扱われるらしい。
「それでは、工場監督からのお話です」
工場監督として紹介されたのは、二十代半ばくらいの若々しい、小柄な男だった。労働者の正面に立ち、帽子を脱いで礼をする。
「皆さん、おはようございます!工場監督を勤めさせていただいている、エンデルです」
彼はよく通る高めの声で挨拶をした。よどんだ事務所内に似つかない、爽やかな声だった。
「皆様にはまず、ご自身の配属を確認していただきます。今から工場の働く場所と、一日のスケジュールを記した紙をお配りします。それでは……」
咳ばらいをしてから、彼は一人一人労働者の名前を呼び、にこやかな表情と応援の言葉とともに紙を渡していった。工場監督というのは、工場で一番偉い人間だ。工場全体の管轄権を持ち、政府との連絡役を担ったりもする。つまり、友愛党ともかかわりのある人物なのだが……。
「ストリガさん。リヴ・ストリガさん」
「……あ、はい」
ノルダルはワンテンポ遅れて返事をする。あの調子で大丈夫なのだろうか、とヨハンは見ていて思う。監督のエンデルは特に不審に思った様子はなく、ほかの人と同様に「頑張ってくださいね」と声をかけて紙を渡した。彼女はぎこちなく頭を下げながらそれを両手で受け取った。
ヨハンは周囲をさっと観察する。先ほど、監督を紹介した細身の男は副監督と自らのことを称していた。彼は労働にくたびれた、四十歳くらいの人間に見えた。どちらかといえば、彼のほうがエンデルよりも監督のような見た目をしている。
その後、ヨハンも名前を呼ばれてプリントを受け取った。実際に働くのは「4棟二階Bブロック」という場所らしい。具体的に何をするのかは、その紙からは何もわからなかった。
「皆さんに紙がいきわたりましたね。それではそれぞれの部署に移動してください。よろしくお願いします!」
エンデルは慇懃に頭を下げた。工場は過酷な労働環境だと聞いていたが、そのトップが礼儀正しい人間であることは、なんだか矛盾しているように思われた。
部屋を出て、プリントに記された案内をたどり、配属場所へと歩みを進める。業務の始まった工場はひたすらに騒がしかった。金属のこすれ合う音が聞こえたかと思えば、それに混じって怒号がどこからか飛んでくる。発生源を捜そうと目を動かしても、見えるのはパイプのジャングルと、ベルトコンベアに沿って等間隔に立ち尽くす案山子みたいな労働者たちだけだった。
歩くこと十分、連絡橋を二度わたってようやく配属場所に到着した。ヨハンは黄色い腕章をつけた、その部門を統括するリーダーを捜して声をかける。
「おはようございます」
挨拶に気が付くと、その男は振り向いた。眼鏡をかけた目で、検品するようにヨハンを下から上までざっと見た。
「ああ、あんたが今日配属された新人かい」
ヨハンははっきりとした声で自己紹介を済ませ、頭を下げる。男はそれに対して無反応で返し、名乗ることもせずに、ついてくるよう指で指示をした。
「あんたの担当はここだ」
目の前を、用途不明の手のひら大の機械が大量にベルトコンベアによって流されている。ベルトコンベアは三つのレーンに分かれており、その機械は中心のベルトに載せられていた。
「あんたの役割は」彼はベルトコンベアに載っている機械を一つ、手に取った。「この機械の不備を点検することだ。二つあるうちの右のボタンを押したら緑色のランプが点灯するから」
彼は実際にボタンを押して、ランプを点けて見せる。
「そうなったら手前のレーンに載せる。もし点かなかったら、今度は左のボタンを押す。今持っている奴は正常に動いているから何も反応しないけど、とにかく右のボタンを押して無反応な奴は、左のボタンを押せばいいから。それで黄色のランプが点灯したら、それも手前に置いていい。二つのボタンを押してどっちの明かりも光らないなら、奥のレーンに載せて」
ヨハンは要所要所で相槌を入れつつ、仕事内容を脳内で反復する。二つのボタンを押して、光が点けば手前のレーン、何もつかなければ奥のレーン。
「とりあえずは、ここに立ってできるだけの作業をやればいいから。何かわからないことがあったら、呼んで」
わかりましたと答える前に、男は歩き始めてしまう。ヨハンはその背中を見送ってから、ベルトコンベアに相対した。左右を見ると、同じ作業をしている人間が幾名かいる。彼らに倣って、分別の作業を開始した。
単調な作業は嫌いではなかった。学生時代はほかの人が苦手とする暗記を苦も無くこなしたことで、一定の成績を収めることができた。
無心で、右から送られてくる機械を手に取って点灯させる。この機械がどこから来たのか、この光らせる動作がどのような意味を持つのか、そして区分けされた機械がどこへ行くのか。少し気になったが、訊ねようという気も起きなかった。両隣の作業員は自分の仕事に入れ込んでいたし、そもそも機械の駆動音のせいで会話を楽しめる雰囲気でもなかった。おまけに目の前のパイプには「私語厳禁!集中!」という赤文字が書かれた紙がテープで貼られていた。その文字は口を開く気を効率良く叩き潰した。
十三時に昼食を取るように言われた。配られた紙によると、休憩は一時間とあった。ヨハンは人の流れに乗って工場内の食堂に移動して食事をとった。回転率を重視しているためか椅子はなく、労働者は立ちっぱなしで昼食を食べていた。会話はもちろんない。ヨハンの両隣に立った労働者からは強烈な油のにおいがして、食事の味はまるでわかったものではなかった。
昼休みの余った時間で、ヨハンは建物を出て近くにあった倉庫へと移動した。途中、作業員の集団とすれ違ったが特に声をかけられることもなかった。
倉庫の中は段ボールの塔がいたるところに築き上げられていた。倒壊しないよう周囲を網で補強してあったが、さほど効果があるようには見えない。
入手するように言われているのは、いくつかの薬品だった。ヨハンは段ボールにつけられたラベルを見て、目的のものがないかチェックする。
意外と簡単にそれは見つかった。容れ物は段ボールではなく、白いビニール袋だ。
そこには苛性ソーダ、と書かれていた。土嚢みたいに大量に積み重なっている。表記を見るに、一つの袋に二十五キロが詰まっているらしい。
ヨハンは踵を返した。今はターゲットの位置だけ確認できればいい。もう少しこの場所に慣れて、管理の様子が把握できたら行動に移す予定を立てる。
手近な出入り口から外へ出ようとしたが、何やら話し合っているのが目に入った。そのうちの一人は知っている顔、エンデルとかいうあの工場監督だった。ほかの二人は腕章を左に巻いている。どうやらどこかの部門のリーダーらしい。
何やら言い争っているみたいで、空調の音に混ざり合って怒号が飛ぶ。もっとも、怒っているのは上司であるはずのエンデルではなく、ほかの二人のほうだった。監督のエンデルは青ざめた顔を振ったり、頭を下げたりしている。大声を飛ばしている二人はいかにも肉体労働者らしく大柄で、その二人が小柄なエンデルに詰め寄っている様子は恫喝にも見えた。
仲介に入ろうかとも思ったが、潜入している身ではそうもいかない。後味の悪い中、立ち去ろうとしたその時に、もう一人、見覚えのある男が彼らに向かって歩いて行くのが見えた。今朝、事務所でエンデルの横に立っていた副監督だった。彼は落ち着いた調子で三人を引きはがし、仕事に戻るように指示をした。二人のうちの一人は何やらその場で吐き捨てて、もう一人は呆れたように首を振りながらその場を離れて行った。残った監督は副監督に対して頭を下げている。事情はよく分からないが、最上位の位を持つ監督も、ここでは苦労が絶えないらしい。
昼休憩が終わり、ヨハンは持ち場に戻って仕事を再開した。やってくる機械をひたすらえり分けるだけの、簡単な作業だ。
流れている機械をずっと見ていると、動いているのがベルトコンベアなのか自分たちなのか曖昧になることがあった。なるほど、これは確かに、精神的にも肉体的にも苦痛な作業だと、ヨハンは実感する。何よりもつらいのは、この労働の結果、社会にどのような変化があるのかがわからないことかもしれない。この機械の行く先を、両隣に立って作業をしている人は理解しているのだろうか?
仕事は何の事件もなく終わりを迎えた。「六時に鳴りました。本日の業務はここまでです。大変お疲れさまでした」と、音割れした女性の声の館内放送があちこちのスピーカーから鳴り出した。「速やかに帰路につき、明日の労働のため、英気を養いましょう」
「点呼を取るぞ」腕章をつけた男が、部署の人間を集めた。彼はけだるそうな声で二十三人の名前を呼びあげた。呼ばれた人間はそれに対して、疲れの混じった声で返事をした。
「今日の業務は終了。お疲れさまでした」
男は軽く頭を下げた。ヨハンを含めた二十三人の労働者も「お疲れさまでした」と言って頭を下げたが、男はどうでもよさげに早々とその場から離れていた。労働者たちも、各々外へ向かっていく。
ここからがヨハンの本当の仕事の時間だった。自然なペースで歩みを進め、倉庫へ向かう。
どうやらこの場所で働く人間のほとんどは他人に興味がないらしいと、ヨハンは感づいていた。会話はほとんどないし、すれ違っても会釈すら交わさない。機械に向かい合っているだけの仕事が、人間をそのように作り変えてしまうのだ。この工場が全体で何を作っているのかは不明だが、個性なき人間の群れを量産しているのは間違いがない。
だが一方でそれは作戦を遂行する上で有利に働く。出口とは逆の方向へ歩みを進めても、話しかけてくる人間はほとんどいない。たまに視線を送る人がいたが、視線では歩みは止められない。万が一呼び止められても、新人でまだ工場内の地理が把握出来ていないと言って乗り切ることもできるだろう。
さしたる障害もなく、ヨハンは目的の倉庫へたどり着いた。照明の灯っていない倉庫は薄暗い。人の声も機械の音も無くなったこの場所の空間の空虚さだけが際立っていた。
あたりに誰もいないことを確認してから、苛性ソーダの袋を手に取り、肩に担いだ。二十五キロの重みが身体にかかる。
あとはこれを外へ持ち出すだけだった。労働者の喧騒はすでに遠ざかっている。あたりはだいぶ暗く、上空を支配する銀色のパイプもシルエットしか見えなかった。二十五キロのハンディキャップを背負っていても、これなら問題なく外へ出られそうである。
そんな油断が原因だったかもしれない。
ヨハンはすぐ近くまで接近していた男に気が付けなかった。ちょうど出入り口に差し掛かるときだ。暗闇は平等に視界を奪うが、向こうには地の利があった。
「そこで何をしている」
ヨハンは立ち止まった。袋を落とさなかったのが幸いかもしれない。
そこに立っていたのは、副工場監督の男だった。彼は無表情でヨハンの顔を見返していた。
「ああ、ええと」ヨハンの頭は冷静に言葉をはじき出す。「この薬品を持っていくように言われたんですけど、道に迷ってしまって」
「迷った?」男は低い声で訊き返した。
「ええ、なにせ、今日から働き始めたものですから……」
男は細い目でヨハンをじっと見た。ヨハンは袋を足元に置く。それにつられて、男も地面の薬品の袋に目を落とした。やがて男はため息を一つつく。
「就業時間はもう終わっている。君はもう帰りなさい」
「わかりました。でも、出口がどこだか」ヨハンは無知を装った。
「私が案内してあげよう。ついて来たまえ。薬品の袋はそのままでいい。私が後で戻しておく」
副監督は返事を聞く前に歩き出してしまう。ヨハンはい言われたとおりに袋をその場に置いたままにして、その後を追った。
前を行く彼の背中を見ながら考える。この男は嘘を信じただろうか。無表情からは何も読み取ることができなかった。ヨハンが新人であることを把握しているなら、嘘にも多少の信ぴょう性が宿るかもしれない。
無言のまま、二人は工場の出口にたどり着いた。
「では、私はこれで」
「ご迷惑をおかけしました」
「うむ。ではまた明日」
男は敷地の中へ戻っていった。再び戻って盗みを働くことも考えたが、もう一度見つかってしまったら言い訳が立たない。今日のところはおとなしく引き下がることにする。
工場のフェンス沿いの道を歩いた。夜の道を等間隔に並んだ街灯が明るく照らしている。
前方に何か白いものが落ちていることに気が付く。無視するには大きい、何かだ。
最初は動物の死骸かとヨハンは思った。しかし近づくとそれは、先ほど手に入れそこなったはずの苛性ソーダの袋だったとわかった。
後方からリズミカルな音がした。振り向くと、作業服姿のノルダルがそこにいた。
「……よかった、どこも破けていませんね」彼女は袋の傍にしゃがみこむと、軽々とそれを持ち上げた。
「ノルダルさん……これが、どうしてここに?」
「話はあとです。とにかく今は、ここから離れましょう」
家に帰ってシャワーを浴びる。長時間、同じ姿勢で作業をしていたために硬くなっていた関節を、熱湯がほぐしてくれる。髪に付着したオイルのにおいも同時に洗い流された。
「疲れたな……」
浴室から出たヨハンは、ダイニングテーブルの椅子にもたれるように腰かけた。医者として働いていた時よりも疲れたかもしれない。先にシャワーを浴びたノルダルが、夕食をテーブルの上に並べた。ベーコンとサラダとパンが載ったプレートをそれぞれ一つずつ、加えてオリーブオイルがかかった生ハムのカルパッチョの大皿を一つ置いた。
「簡単なもので申し訳ありませんが」
「いや、今は喉に通りやすいものがありがたい」
言ってから自分の言葉がフォローになっていないことに気が付く。ノルダルは気分を害した様子を見せず、ヨハンの前に水の入ったグラスを置き、向かいの席に腰を下ろした。二人は両手を合わせ、食事に手を付ける。
「それで、あの苛性ソーダの袋がどうしてあの場所にあったか、でしたよね」今、その袋は玄関わきの壁にもたれるようにして置いてあった。「終業の放送が鳴ったあと、工場の外へ出ようとしたら逆方向へ歩いて行く人の姿が見えたんです。それがヨハンさんでした」
「見ていたのか」
「目立っていましたよ。もう少し周囲の目を気にしたほうがいいかと」
呆れが混じった口調だった。確かに大胆不敵に過ぎたかもしれない。誰も彼も他人に無関心というわけではなく、やはり見ている人間はしっかりと見ているらしい。
「次からは気を付ける。副監督にも見つかってしまったことだしな」
「ヨハンさんがあの男性と話をしている隙に、薬品の袋を一つ盗んで、敷地の中からフェンスの外に投げました。袋が破けないか心配だったんですが、どうやら大丈夫だったみたいですね」
「投げた」ヨハンは言葉を繰り返した。「一個、二十五キロだぞ」
「あ、でも、投げたというよりも、フェンスの上に持ち上げて歩道に落とした、というのが正確な表現かもしれません」
どちらにせよ驚異的である。フェンスは二メートル半くらいの高さがあった。その高さまで二十五キロの袋を持ち上げるのは、ヨハンにはおそらくできないだろう。
「つまり、あれは」ヨハンは右手の親指で、背後にある苛性ソーダの袋を示した。「私が運ぼうとしたものとはまた別の袋ということか」
「ええ。副監督の男は、ヨハンさんを案内したあと、袋を戻しておくと言っていましたから。それなのにその袋を盗んでしまったら、怪しまれることは間違いありません」
副監督の男は、ヨハンと会話をしていた際には問い詰めるようなことはいっさい言わなかった。彼はこちらを怪しんでいるだろうか。あの無表情は何も考えていないようにも見えたし、深いところで疑念を募らせているようにも見えた。
「あの、副監督の男……名前は何と言ったか」
「確かレジスタンスがまとめた資料に書いてありましたよ」
ノルダルは席を立ち、壁際の棚の引き出しにしまってあった紙を手に取ってヨハンに渡した。
『工場監督・フィン・エンデル』と書かれている下に、『副工場監督・ミハイル・ミュラー』とあった。エンデルの年齢は二十六歳で、ミュラーは三十八歳らしい。
「フィン・エンデル、二十六歳、か。この若さで工場のトップを任せられているとは。ミュラーのほうが監督にふさわしい貫録を備えていると思うんだが……」
資料をテーブルに置いた。エンデルが従業員に詰め寄られて、頭を下げていた光景を思い出す。副監督の介入であの場は収められた。
「身内に政府関係者がいるのかもしれません。そのおかげで能力に合わない高官に就くなんてことはよくあることです。いずれにせよ」ノルダルは副監督の名前に人差し指を立てた。「この男は警戒しておいてください。予定としては、あと四日間ですべての品を手に入れなくてはなりません。おそらくミハイル・ミュラーが一番の障壁になるでしょう」
二人は今週末の金曜日に作戦を終わらせる予定だった。そのための辞表もすでに用意してある。工場における非正規労働者の退職率は低くはないので、一週間で仕事を辞めても疑わないだろうという目論見だ。
「どうせ辞めるのですから、多少武力を行使しても問題はない……そう考えると気楽ですね」
ノルダルは軽い会話のつもりで言ったが、ヨハンにはあまり共感できない発言だった。
食事を済ませた二人は早々と眠りについた。労働による適度な疲労はヨハンを深い眠りに誘ったが、一方で任務への責任が彼の眠りを阻害した。昨日と変わらず、ヨハンは六時に目を覚ましたが、疲労は完全には取れなかった。
ノルダルはすでに目覚めていた。ヨハンは苛性ソーダの袋が無くなっていることに気が付き、そのことについて彼女に訊ねた。どうやら朝早くに、レジスタンスの人間がここに取りに来たらしい。来たのはヨハンが知っている組員かどうかを訊くと、ノルダルは首を振った。
二日目の業務も全く同じだった。右から流れてくる機械のボタンを押し、ランプが光れば手前のレーンに置き、光らなければ奥のレーンに置いた。会話もなしにひたすらその作業を繰り返した。
昼休みになり、早々と昼食を取ったヨハンは、苛性ソーダが積まれている倉庫に赴いた。深い理由があったわけではない。なんとなく、様子を見たいと思ったのだ。犯人は犯行現場に舞い戻る、なんて箴言は、どうやら真実らしいとヨハンは思った。
苛性ソーダの袋の山は昨日と同じ様子でうずたかく積みあがっている。見ただけでは何の変化も感じられなかった。
山の横に、二人の男が立っている。監督のエンデルと副監督のミュラーだった。何を話しているのか、ヨハンのいる位置からはうかがい知れなかった。
周囲を見ると、彼らを遠くから見ている労働者の群れがいくつか見受けられた。ヨハンはそのうちの一つに近づいて話かける。
「なあ」ヨハンの声に、二人の労働者は振り向いた。「あれって監督と副監督だよな。いったい何の話をしているんだ?」
「薬品が一袋、無くなってるんだってさ。副監督がさっきまで喚いていたよ」片方の男がそう答える。「苛性ソーダと言えば猛毒だ。行方が知れないとなれば、問題にもなるだろうよ。最悪、何人かの責任者がこれかもな」
彼は首を切るしぐさを見せた。
どうやら、あんな山積みの薬品でも、しっかりと個数まで管理していたらしい。早々と感づかれたことは、どう考えても悪い方向に働く。昨晩、ミュラーと顔を合わせたことといい、袋が無くなっていることに気が付かれたことといい、思ったよりも今回の作戦は困難なものになるかもしれない。
ヨハンはおもむろにその場を離れようとした。ミュラーの頭が正常に働くなら、昨晩はち合わせた、苛性ソーダの袋を持った男と今回の紛失を結び付けるだろう。顔も見られていることだし、一刻も早くこの場から離れたほうがいい。
ヨハンが背中を向けようとしたその時、もう一人の男が薬品の袋に近づいて行った。腕章をつけているところを見るに、この部署の責任者かもしれない。彼は何やらミュラーから指示を受けた。男の返事の声は大きく、少し離れたヨハンの耳にまで届いて来た。
彼はしゃがみこんで、個数を数え始める。山の周囲を何度か回った後、彼は大きな声で結果を報告する。
「報告します!二つの苛性ソーダの袋が、ここから消えています!」
「なに!」
これにはミュラーも驚いたらしく、彼に似合わぬ大声が倉庫に響いた。同様に衝撃を受けていたヨハンは、追い立てられるようにして倉庫を出て行った。
「と、いうことなんだが……いったいどういうことだ?」
夕食の場でヨハンが疑問を投げかけた。向かいに座っているノルダルも真剣な面持ちを浮かべている。
この日、ヨハンは何も持ち帰ることができなかった。エンデルやミュラーの動きを警戒したためだ。直接、彼らから何かを言われることは本日のうちにはなかったが、これ以上安易に、目立った動きをするわけにもいかなかった。
一方でノルダルは石炭酸の瓶を二本、持ち帰ってきた。拠点に帰ってきた時こそ、「しっかり仕事してください」とやや誇らしげな様子でヨハンに言ったが、彼が昼休憩中に見た話を聞くと、険しい表情を浮かべざるを得なかった。
「私の盗んだ石炭酸も個数を管理しているのでしょうか。棚にぎゅうぎゅうに押し込まれていたので、一つや二つ取って来てもバレないと思っていたのですが……」
「ノルダルさんはまだ警戒されてはないからさしあたり問題ないと思うが、仕事がやりにくくなることは間違いないだろうな」
彼女は手元に視線を落とし、ヨハンが作ったミートソースパスタをフォークに巻き付け、口に運んだ。
「ただ、ちょっと現状を把握しかねている」ヨハンはテーブルに肘をつき、両手を組んだ。「どうして苛性ソーダが二つも無くなっていたんだ?何か心当たりは?」
「ありません」彼女は即座に首を振る。「ヨハンさんがわからないのなら、私にわかるわけがないじゃないですか。私の仕事は主に肉体労働であって、頭脳労働ではありません」
ヨハンはため息をついた。ますます作戦が難航しそうだ。
「まさか、私たちのほかに薬品を盗んだ人間がいるのだろうか?」
「可能性としてはありえなくはないと思いますけど、ちょっと考えにくいですね」
ヨハンも本気で言ったわけではなかった。その線はやはり薄いと言わざるを得ない。
「どちらにせよ、私たちの目的は変わりません。組織のためにいくつかの化学物質を手に入れる。邪魔が入ろうが不可解な現象が起きようが、やることは単純です」
ノルダルさんは前向きな、あるいは楽天的な態度を示している。半面、ヨハンの胸中は不安に満ちていた。
監督と副監督のやり取りを遠巻きに見ていた男との会話を思い出す。彼は首を切るしぐさをした。監督たち責任者は今回の件でますます警戒を強めるはずだ。
「……ん?」
「どうかしました?」ヨハンの声に、ノルダルは首を傾げた。
「いや、そういえばあの男……副監督が騒いでいるのは、薬品が一袋無くなっているから、と言っていた」
「はあ、それが?」
「そのあと、その部署の責任者がやって来て、苛性ソーダの数を数えて、二袋が無くなっていることを報告した。ミュラーはそのことに、驚きの声を上げた」
「……ええ、それは驚くでしょうね。二つも袋が無くなっていたら」
「ミュラーは、薬品が無くなっていることに驚いたのではなくて、無くなっているのが二つであることに驚いたんだ」
ノルダルはけげんな表情を浮かべ、首を横に傾けた。
「つまり」ヨハンは右のこめかみに人差し指を立てる。「副監督はもともと苛性ソーダが一つ足りないことを知っていた。それで、責任者の男を呼び寄せて数を確認させたら、無くなっているのは実は二袋であることが判明した。それで、彼は驚きの声を上げた」
「はあ、よくわかりませんけど、副監督は自分で数を確認したんじゃないんですか?」
「それはない。数えていたら、もとから足りないのが二袋であることは把握できただろう。したがってミュラーは、数えてもいないのに、苛性ソーダの袋が一つ無くなっていることに気が付いていたことになる」
そんなことは、普通はできない。苛性ソーダの袋は積み重なっていて、はた目には一つや二つ、無くなっていてもわからない。
「……なぜ?」
「……私たちのほかに苛性ソーダの袋を盗んだのは、ほかでもない副監督のミュラーだったのではないか?彼はあらかじめ一袋足りないことを知っていた。だから不足が二袋であるのを知ったときに驚きの声を上げたのだ」
それは同時に、ヨハンがあの場で驚いた理由でもあった。ヨハンはノルダルが苛性ソーダの袋を一つ盗んだことを知っていた。それなのに二袋が無くなっていると、責任者の男は報告した。無くなっているのが一袋だけだったら、驚かなかった。
「ああ、なるほど……」ようやく事態を飲み込めたノルダルは口元に手を当てた。「でも、いったいどうしてミュラーはそんなことをしたのでしょう?薬品を紛失した責任を問われるのは、間違いなく彼ら管理者ですよね」
「むしろ、それが狙いなのかもしれない」ヨハンは、首を切る動作をした男を思い浮かべた。「彼は監督であるエンデルを失脚させようとしているのではないだろうか。エンデルがいなくなれば、次の監督に就任するのは、副監督であるミュラーだ。だから、苛性ソーダの袋を盗み、その責任を監督に負わせようとした」
「そう考えればすべてのことに説明が付けられますね。ひどい話ではありますが」やや感心した口調で彼女は言葉を続ける。「謎が解決しましたね。これで何の心配もなく、任務に取り組むことができます」
ノルダルはそう言ったが、当然、何も解決していなかった。テーブルの上で展開されたヨハンの推理は現実の問題に何一つ影響を及ぼさなかった。
翌日、ヨハンが、機械をひたすら分けるだけの仕事を開始した数分後、彼の肩を叩く人がいた。
振り向くと、腕章をつけた、その部署の責任者が立っていた。
「ヘンリック・ヴェッセルだな」男は確認する口調で言った。
「はい」久々に偽名を呼ばれたが、問題なく、それが自分の今の名前だと認識できた。
「お前、呼ばれているぞ」
彼は後ろを指さした。そちらに視線を向けると、柱にもたれかかるようにして、副工場監督であるミュラーが立っていた。
「副監督殿が直々に出向くことは滅多にない。お前、何をやらかした?」
「さあ」ヨハンは曖昧な笑みを浮かべた。
近づいてきたヨハンをミュラーは無表情で二秒ほど観察した。ヨハンはとにかく、平静な表情を表に出すよう努力をした。
「ついてこい」感情のこもっていない声で、ミュラーは言う。
二人は近くにあった、資材が置いてある小部屋に移動した。扉を閉めると、機械の音が遠くなる。床には段ボールが置いてあり、部屋の中央にある棚には、用途不明の器具が並んでいた。ほこりとアルコールの臭いが充満している。
「ヘンリック・ヴェッセル」ミュラーが名前を呼んだ。
「はい。あの、どういったご用件で?何か手違いでも起こりましたでしょうか」
ヨハンは声にうまく怯えを混ぜた。何も知らない非力な一労働者を装うためだ。
「いや……」彼は咳ばらいをする。「なに、新人がうまくやっているのか、見て周っているのだ。ここには慣れたか」
「いえ、まだあまり慣れていません」
「そうか。ところで、君、あのあとはどうした?」
ヨハンはあえて話の通じないふりをする。「あのあと?」
「一昨日、就業時間を超えても薬品の袋を運んでいただろう。そこで私が声をかけて、君を帰らせたわけだが……工場の中に戻ったりはしなかったか」
「ああ、あの時の」ヨハンは大げさにうなずいて見せた。「帰っていいとおっしゃったので、すぐ帰りましたが……いけませんでしたか?」
「いや、そのまま帰ったなら問題ない」
ミュラーはミュラーで後ろめたいことを隠している。目の前の労働者がもう一つの袋の紛失に関わっているかどうか確信が得られない以上、深く踏み込むことはためらわれるようだった。
「あの、何かまずいことでもあったんですか?」
「そういうわけじゃないんだ、気にしないでくれ」
話の主導権はヨハンが握っていた。畳みかけるべきタイミングはまさしく、今だった。
「でも、薬品の袋をいくつか紛失したという噂を聞きましたが」
ミュラーは二、三回、ヨハンの目を見て瞬きをし、それから舌打ちして、うつむきながらため息をついた。ヨハンの一言は効果的に彼を揺さぶったらしい。その仕草から、昨日の推理が的中していることを確信する。
「どこでその噂を聞いた?」ミュラーはややにらむような視線を向けた。
「……覚えていません」
ミュラーに対して、しっかり薬品の袋を戻したのか、と尋ねることも選択の内にあったが、あえて口を閉ざした。あくまでも、ヨハンの役割は必要な薬品を奪取することだ。その作戦を円滑に進めるためにも、目立つような行動はできる限り慎んだほうが賢明だ。
奇妙な沈黙が流れる。この場で精神的に追い詰められているのはミュラーのほうだった。
「あ、こんなところにいましたか」
突然、ドアが外側に開かれる。二人の視線がそちらを向いた。
「探したんですよ……いったい何をしているんです?そんなに見つめ合って」
そんな場違いなことを言いながら部屋に入ってきたのは、この工場で最も権力を持つ役職に就いている、エンデルその人だった。
「監督……」ミュラーは驚きの表情を隠さなかった。「どうしてここに?」
「それはこっちの言葉ですよ、副監督」怒った風ではなく、単純に困惑しているみたいだった。「ほかの作業員に訊いたら、突然やってきたあなたがヴェッセルさんをこの部屋に連れ込んだそうじゃないですか。巡回の仕事はどうしたんです?」
「……あ、いや、これも巡回の一環で」
エンデルはため息をついた。「ミュラーさんは巡回に戻ってください。僕は彼に話を聞いてから戻りますから」
ミュラーはヨハンを一睨みしてから、絞り出すような声で、わかりました、とだけ言って、監督の横をすり抜けて出て行った。
「さて」出て行ったミュラーを見送ったエンデルは、ヨハンに向きなおった。「ヴェッセルさん、で間違いないですね?あなたたちはここで何を話していたんですか?」
「えっと……ただの世間話でした。この工場に慣れたかどうか、とか」
「世間話、ですか?」エンデルは小首をかしげる。「珍しいですね。あの人、僕とは全然世間話なんてしてくれないんですよ。いつも仕事の話ばかりで。ほかには?」
「あと、新しく入った労働者の視察、とか言ってました」
「新人の視察……それも意外ですね。いつもは入ってきた人の名前すら覚えようとしないのに」
ミュラーの杜撰な仕事態度に呆れつつも、ヨハンはいま目の前に立っている小柄な工場監督の人を見る眼に、多少感心した。ノルダルは、彼の身内には政府の人間がいて、その縁で工場監督についたのかもしれないなんて言っていたが、エンデルはおそらく、純粋に能力が評価されて今の地位に立っているのではないか。
この男なら、ミュラーが苛性ソーダの袋を盗んだことに気がつけるかもしれない。一昨日のミュラーとのやり取りや、今まで行われていた会話を包み隠さずエンデルに伝えれば、きっと真実にたどり着く。しかしそうすると、もう一つの苛性ソーダの紛失の謎が際立ってしまう。
ヨハンは、ミュラーの暗躍について黙っていることを選択する。悪事に加担しているみたいで歯がゆかったが、ノルダルの脚を引っ張るような真似だけは避けたい。
「うん、なるほど。なんとなくわかりました」エンデルは得心がいったみたいに数回うなずいた。「ヴェッセルさん。副監督に呼び出されるようなことをした心当たりはありますか?」
「……いえ、特にないですが」
ヨハンはやや間を空けて返答した。優秀な人間は反動速度からも、相手の心理を分析できる。
「ううん、そうですか。その辺の意図はやはりミュラーさんから訊くしかなさそうですね」エンデルは和やかな笑みを浮かべた。「安心してください。このやり取りの結果で、あなたに不利益が被ることはありませんから。もし何か思うところがあったら、気軽に相談しに来てくださいね!と言っても、監督が相手だとどうしても構えてしまうかな?」
彼は、監督を前にした部下が否応なく感じてしまう権力に自覚的であるらしい。監督はこの工場の中でも、もっとも偉い人間だ。労働者全員の賃金の多寡も、その気になればいくらでも操れる。柔らかい笑みとは裏腹に、エンデルは労働者の生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではなかった。そんな人間を前にすれば、誰だって緊張するだろう。
ただ、賃金ではなく薬品の奪取が目的であるヨハンには、その心配も無用だが。
「では、僕はこれで」
彼は丁寧に頭を下げて、ドアレバーに手をかけた。硬い音が、手元から発せられる。
「……あれ?開かない」
エンデルはドアレバーを下げてから力いっぱいに押す。しかし扉はびくとも動かなかった。
「鍵がかかっているんですか」ヨハンがあえて尋ねる。
「いいえ、そうではなく外側に何かがつかえている感じです」
「ちょっと、失礼」
今度はヨハンがドアの前に立った。扉を外へ開こうとしても、動かない。念のため引いてみても無駄だった。深呼吸をして、両手でドアレバーを握り、思いっきり上半身で扉を押し込む。それでもやはり、扉は少しも動かなかった。
近くで棚でも倒れたのだろうか?しかしこの部屋に入ってくるとき、周囲につかえになるようなものはなかった。部屋にほかの出入口はない。何かあったときの非常事態に避難経路を確保するためにも、扉の近くに棚などを設置するとは考えにくい。
「ちょっと、これは困ったなあ」エンデルはいら立ちの混じった声でつぶやき、ヨハンの横を抜けてドアを拳で叩く。「すみません!誰かいませんか!」
返事はない。近くに誰もいないのだろうか。いたとしても、工場内は機械の音が間断なくうなっている。必ずしも聞こえる保証はどこにもない。
「ここには、僕のほかにも、ヴェッセルさんがいるんですよ!」
エンデルの大きな声と拳の音は、遠くから地響きのように伝わってくる機械の駆動音に吸い込まれていった。彼は小さく舌打ちをして、ため息をついた。それからヨハンのほうへ首を向けて、ごまかすように笑顔を作った。
「すみません、まさか閉じ込められるなんて……」
「閉じ込められる?」その言葉の使い方は、単なる比喩ではなく、誰かの意志が絡んでいることを示しているように聞こえた。「どういうことですか?」
「ここに入ってきて三日目の方に話すことでもないのですが、巻き込まれてしまった以上、ヴェッセルさんにも事情を知る権利はあります。恥ずかしい話なのですが……僕はあまり部下から好かれていないみたいなんです」
はは、と乾いた笑みをエンデルは浮かべる。ヨハンは無表情でその言葉を受け止めた。
「部下、というのはミュラーさんのことですか」
「ミュラーさんにはそこまで嫌われてはないと思います。なんだかんだ、僕のことをサポートしてくれますしね。それ以上に、作業員の方から信頼がないんです」
一昨日、エンデルが作業員の男に詰め寄られていた光景をヨハンは頭に浮かべた。あのいざこざも、作業員と工場監督の不和の表れなのだろうか?
「あの、これは聞いていいことなのかわかりませんが、どうして嫌われているんです?」
「僕が知りたいですよ」気分を害した風でもなく、依然、笑みを保ったまま言葉を続ける。「賃金に不満があるのか、それとも環境が気に入らないのか……もしかしたら、若い人間が上司にいることが嫌なのかもしれません。現にミュラーさんはあまり嫌悪されてはいないようですし」
ありえない話ではない。高官に就いていて高給取りで。エンデルは誰がどう見ても成功者だ。妬んでしまっても無理はない。が、だからといって攻撃していい道理にはならない。
「こういうことはよくあるんですか」低いトーンでヨハンは訊いた。
「まあ、そこそこありますかね。殴る蹴るといった直接的な暴力こそありませんが、怒鳴られることはしょっちゅうあります。あとは、作業服が切り裂かれたり、事務所のドアレバーにカッターの刃が取り付けられていたり……そんな嫌がらせも多いですね」
ヨハンは口を閉ざす。安易に踏み込むべきことではないと判断したからだ。三日後には仕事をやめ、ここから離れるのだ。短い期間しかここにいない人間が状況をいたずらに変革するのは、無責任というものだろう。
「少し喋りすぎたかもしれま――」
発言の途中でエンデルは不自然に静止した。
「どうしました?」
「外から何か聞こえます」彼はドアに顔を近づける。
ヨハンも扉に近づいて耳を澄ませる。確かに、聞こえた。機械の音に混じった人の声が。
機会の騒音に加えて扉を一枚隔てているので、何を言っているのか、何人がいるのかはわからない。ただ、声のトーンから、何やら穏やかではないことは伝わってきた。
扉に何かが当たる音。二人はそこから距離を取った。ドアレバーが捻られ、扉が外側へスライドする。徐々に開いていく隙間から、工場の騒音が倉庫内に流れ込んでいく。
ノルダルが、そこに立っていた。
「あ……」やや驚いたように、エンデルはそこに立っている女性の顔を見上げた。「ストリガさん、でしたか。あ、ありがとうございます」
「いえ、当然のことをしたまでです」
エンデルが彼女に頭を下げながら部屋の外に出る。ヨハンもそのあとに続いた。助けてくれた人間に対して何も反応しないのも不自然だろうと思い、ヨハンもノルダルに頭を下げた。しかし彼女は会釈に対してそっぽを向いて応えた。
足元には、ヨハンと同じくらいの高さで、幅が五十センチほどの空の棚が二つ横たわっている。出入口をふさいでいたのはこの棚で、それをノルダルが移動させたみたいだ。近くに誰もいないところを見るに、一人でやったのだろう。口論の相手はどこかへ行ってしまったらしい。
「では、私はこれで失礼します」ノルダルは頭を下げてから大股で立ち去っていく。エンデルは彼女の背中に向かってもう一度、礼を言いながら頭を下げた。
「ストリガさんの配属部署は違う建物だったはずですが……どうしてここにいたのでしょう。不思議な方ですね」
相槌を求めるように彼はヨハンを見た。ヨハンは曖昧に首を捻ることしかできなかった。エンデルは扉を開けてくれたノルダルの顔を見て、その名前を呼んだ。数日前、わずかなやり取りをしただけの人間の顔と名前を一致させているその記憶力は、驚嘆に値する。加えて、彼女の配属先まで覚えているときた。工場からいくつかの品を奪取するという作戦の一番の障壁となりうるのは、副監督のミュラーではなく、この男だろう。
ただ、その彼が工場内のいざこざで負担を負っているのは、こちら側にとって不幸中の幸いと言える。もっともエンデルからしたら、不幸の中のさらなる不幸だが。
「さて、ストリガさんのおかげで無事に出られたわけですし、僕は一度事務所に戻ります。ヴェッセルさんも落ち着いたら、仕事に戻ってください。それでは失礼します」
彼はまた深々とお辞儀をし歩いて行った。
エンデルの背中を見送っていたヨハンに、二人の労働者が近づいてくる。
「おう、災難だったな」向かって右の男が右手を上げた。服に黒い油の跡がべったりついている。腕章をつけているところを見ると、平社員よりかは立場が上であるらしい。「あんたには申し訳ないことをした。できることならあいつ一人を閉じ込めたかったんだが、ミュラーさんがやれって言ったんだ」
なるほど、二人を閉じ込めるように言ったのはミュラーの仕業らしい。今の男の発言で大体のことは察せられたが、ここは無知を装い、情報を引き出すことに専念する。
「大丈夫だ、気にしてない。だが、どうしてああなったのかを知る権利くらいはあるだろう?」
「知る権利って……あんた、知らないのか?」
「最近ここに入ったばかりなんだ。入って三日でこんな目に遭って……うんざりだよ」
「そうか、それは気の毒なことをした」もう一方の男が言った。年齢は四十代後半に見えたが、その声は老人のようにひび割れていた。「安心しろ。俺たちは労働をする人間の仲間なんだ。あの男みたいに、人を使うだけ使って甘い汁だけを啜るようなヤツは敵だけどな」
「敵?エンデル監督のことか?」
「ミュラーさんが言ったんだ」もう一人の男が手振りを交えながらしゃべる。「労働が大変で、給与もそれに見合うだけ与えられないのはあいつのせいなんだと。エンデルがトップにいる限り、昇給もないし、環境も劣悪なままなんだ。この国のシステムの悪いところの象徴が、あの男だ。努力もしない人間が、苦労をする人間をこき下ろして利益を得る」
「実際、ミュラーさんの指示に従うと、あの人はしっかりと報酬をくれるんだ。いや、報酬とはちょっと違う。ミュラーさんは俺たちの苦労に対する正当な賃金を与えてくれるんだよ」
「副監督の指示、ね」ヨハンは先ほどまで閉じ込められていた部屋に目を向けた。「ああいった行動のことを言っているのか」
「ああ」腕章の男が不満げに言う。「あのでかい女のせいで不完全燃焼に終わっちまったがね」
「なあ、あんたもあの若造を辞めさせるのに協力してくれないか。あいつが辞めればミュラーさんが監督に就く。そうすれば俺たちの賃金を上げてくれるよう政府に交渉してくれるってよ。努力がきちんと報われる世界にしたいだろ?俺たちの手で、それを成し遂げ……」
楽しそうに目標を語る、しわがれた声の男は、突然ヨハンの顔を見たまま固まってしまう。もう一人の男が、おい、と肘を当てた。
「……あんた、どこかで会わなかったか?」
瞬間、ヨハンの脳内に過去の光景がにわかに蘇ってきた。工場内に充満する薬品のにおいが、それを後押しする。
「いや、気のせいだろう」ヨハンは二人に背中を向けた。「仕事に戻る」
「あ、おい!」腕章の男が呼び止めたが、ヨハンは反応しなかった。「……まったく、最近の若い人間はどうもいけ好かねえ。エンデルといい、あの女といい……おい、どうした」
男は固まったまま呆然としている相棒の顔を覗き込んだ。
「幽霊でも見たみたいな顔だぜ……大丈夫か?」
「ただいま」
「おかえりなさい」ノルダルは厨房に立って、何やら料理をしていた。コンソメのにおいがヨハンの食欲を刺激する。「先に身体を綺麗にしてきてください。その間に料理しておきますから」
言われたとおりに、浴室で汗を洗い流した。人間、長時間おなじ場所に滞在していると、そこのにおいに順応してしまうと聞く。任務が終わった後、ナスターシャやフロンメルトに再会したときに油のにおいを指摘されるかもしれない。
浴室から出ると、テーブルの上に鍋が鎮座していた。
「ポトフです。今回は結構おいしくできたと思います」
彼女は真顔でそう言った。今回、と言ったが、おとといのカルパッチョなどの食事も美味だった。このポトフはそれらよりもおいしい、ということだろうか。
「今日はしっかり仕事をしてきた」
ヨハンは玄関横に置いた、硫化ソーダの瓶に目を落とした。
倉庫から出て持ち場に戻る前に、ほかの場所を散策した。担当部署のリーダーに何かを言われたとしても、副監督の名前を出せば問題ないだろう。ミュラーのせいで部屋に閉じ込められたことは事実なのだから。そうして手に入れた成果が、この硫化ソーダの二つのボトルだった。横には、硝酸の瓶が二つ置かれている。ノルダルが手に入れて来たものだろう。
「お疲れさまでした。これで目的の品のほとんどは手に入れることができました。明日のうちに残りの物を手に入れられれば、残す仕事は職を辞すだけですね。そこで、退職願を出すわけですが……二人そろって辞めたら関係を疑われるかもしれません」
向かい合って席に着いた二人は鍋からポトフを取り分けてそれぞれ口にした。野菜の甘さとスープの塩味がうまく混ざり合っている。確かに極上の出来だった。
「最終日に私たちが知り合いだったということが露呈しても、問題はないだろう。そもそも二人のつながりを隠しておいたのは、どちらかが摘発された際に芋づる式で仲間も捕まえられるのを回避するためだ。辞める理由として話しても違和感のない出来事もあったしな」
「今日の出来事ですね」
ヨハンは頷いた。「そういえばまだ訊いてなかった。ノルダルさんはどうして、あのときあの場所にいあわせたんだ」
「それはですね、話すと長くなるんですが……」彼女は天井に向かって薄くたなびいている湯気に目を向ける。「ミュラーさんが私の働いているところに来たのです。新人の視察とおっしゃってましたけど、あの人、私の顔を見ただけすぐほかへ移動しようとしたんです。昨日の話もありましたし、もしかしたらあの副監督はあなたを捜しているんじゃないかと思いました」
「……ああ、そういえばおとといミュラーに遭遇したとき、新人だとは言ったが、名前は教えなかった。だから名簿か何かを見て、一人一人、新人の顔を見て回ったんだろう」
エンデルはミュラーのことを、入ってきた人間の名前すら憶えない男だと評していた。ミュラーは先日遭遇したヨハンの顔も、ヘンリック・ヴェッセルという名前も覚えていなかったに違いない。
「それで、少し間を空けてあの人を尾行したんです。途中、少し見失ってしまいましたけど、その時に、不自然に扉が閉鎖されている部屋を見つけたんです」
「それが、私たちが閉じ込められていた倉庫だったというわけだ」
確かに外側から見たら、あの扉の閉じられ方は不可解だっただろう。ドアの前に空の棚が横たわっていたのだから。
「周りの人に話を聞くと、監督が閉じ込められているとのことでした。周りの誰も、監督を助けようとしないの私が棚を動かそうとすると、彼らはやめるよう言ってきました。監督のエンデルさんには、そういった処遇を与えるのがふさわしいのだと、彼らは主張しました」
扉に耳を当てて聞いた声は、その時のものだったのだろう。
「彼らの主張には熱が籠っていました」吐息交じりの声で、ノルダルは続ける。「彼らは本気で、監督さんに対してつまらない嫌がらせをするのが正しいことだと信じていました。集団であの人を追い詰めて、辞めさせれば、賃金が上がるとも言っていました。まあ、残念なことにそんな甘言は私に通用しませんでしたが。そもそも労働者ではありませんからね」
ノルダルは本質的には外部の人間である。長期間、工場に勤務して生活を営むという心づもりは初めから存在しない。賃金を目的として働いているわけではないのだ。
「それで、棚を動かしてドアを開けたら……驚きましたよ。監督さん一人しかいないと思っていたら、ヨハンさんが出てきたんですから。あんなところで何をやっていたんです?」
「副監督に連れ込まれて、その少し後に監督がやってきたんだ。それで結果的に一緒に閉じ込められてしまった。出してもらった後に、ほかの労働者と少し話をしたんだが、どうやらミュラーが労働者を扇動してエンデルに嫌がらせをしているらしい」
「やはり、ミュラーさんですか」呆れて、彼女はため息をついた。「そのことをエンデルさんは?」
「知らないどころか、監督はミュラーを味方だと思っている。閉じ込められたのも労働者に嫌われていることが原因だと考えているらしかった」
「ああ……」ノルダルは眉間にしわを寄せて頭を抑えた。「なんか、かわいそうに思えてきました。嫌がらせを指示しているのが信頼を寄せている副監督だと知ったら……」
「それこそ、仕事を辞めてもおかしくないかもしれない」
「教えてあげたほうがいいでしょうか?」
「いや、少なくとも明日の内は、下手に介入しないほうがいい。警戒するべきなのは監督や副監督だけじゃない。場合によっては、労働者全員を敵に回すことにもなる」
工場からいろいろなものを盗んでいることは、労働者たちにも秘密にしなければいけない。
「彼らは幼児みたいな残虐性を持っているうえに、連帯感がものすごく強い。労働者ではないということを知ったら、彼らは容赦なく、私たちを私刑にかけるだろう」
「ああ、なるほど。午後の業務の際に荷物を押し付けられることが多かったのは、だからかもしれません」
倉庫前のやり取りの話がノルダルの働いている部署にまで伝わったのだろう。口論まで巻き起こったみたいだし、敵視されることにたっていてもおかしくはない。
「それは……大丈夫だったか?直接、暴力を振るわれたりは……」
「大丈夫ですよ、ヨハンさん。今のところ、運搬作業を増やされた以外は、特に実害はありません。押し付けられた量も、大したことありませんでした。現に嫌がらせを受けたことすら、今まで気が付かなかったくらいですから」
ノルダルは右腕を曲げてみせる。彼女のフィジカルの強靭さを、ヨハンは痛みを以て十分に知っている。彼女が大丈夫だというなら問題はないのだろう。
「ただ、ほかの作業員に目をつけられてしまったとなると、明日はあまり動けないかもしれません。残る物資の確保はヨハンさんに任せっきりになってしまいそうです」
「あと必要なのは……濃硫酸と濃硝酸か」
「調べてみたところ、どちらも厳重に管理されている物質です。薬品室の、鍵のかかった棚の中に保管されているとか」
さすがに濃硫酸や濃硝酸などといった劇物ともなると、倉庫に山積みするわけにもいかないらしい。
「私にいい考えがあります」
「考え?いったいどんな」
「私の考えた方法なら、おそらくきっと、全てがうまくいきます」
ノルダルは微笑を口元に作る。一方のヨハンは不吉な予感を覚えていた。
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