第三章 攻撃 1


 十月二十二日未明、ロジアルド市の北西にあるローグタウン銀行が爆破される事件が発生。この事件で建物の三階部分は一部崩壊し、銀行の警備員の男性一人が意識不明の重体を負った。警察は警備員の男を重要参考人として事情聴取をする予定で、男の意識が回復するのを待っているとのこと。なお、この事件による近隣住宅への被害はなかった。


 潜入からまる一日が経った二十三日の朝刊に、そんなことが書いてあった。ヨハンは新聞を折りたたみ、テーブルの端に追いやった。

「災難だったな」

 フロンメルトが朝食のミートパイが載った皿を机の上に置いた。その言葉が、警備員の男に向けられたものなのか、ヨハンに向けられたものなのかはわからない。

 あの後、ヨハンとウェストリンは無事、拠点に帰還した。家にいたフロンメルトに、主にヨハンが、銀行で起こったことを報告した。銀行で爆発が起こったことは彼も把握していたらしく、騒ぎが大きくなったことに少しの小言を述べ、その後に労いの言葉をかけた。

 ヨハンはそこで休息をとることになったが、ウェストリンはまだやらなければならないことがあるらしく、銀行から手に入れた資料を持って拠点を出て行った。シャワーを浴びて、ベッドに入ったヨハンだったが、身体が疲労しているものの頭が冴えて眠れず、結局意識を手放したのはベッドに入ってから約三時間後の、朝の九時頃のことだった。

 浅い眠りの中でヨハンは夢を見た。シャルロッテと初めてしっかりと会話した時のことだ。

 黒い服の集団が、煤煙で色が薄くなった空の下の教会の前で、沈痛な面持ちを浮かべている。ある者はさめざめと泣き、ある者は魂を抜かれた忘我の表情で立ち尽くしている。

 ヨハンの父、ダドリー・ハーバートの葬式だった。参列客の多くはヨハンの知らない人だった。仕事で家にいることが少なかったダドリーの死を悼むためにやってきた人々の顔を見ていると、自分が知っている父は彼のほんの一部だったのではないかという気になってくる。

「あの……」

 参列客の悲しみの渦の少し離れていたところに立っていたヨハンに、おそるおそるといった様子で話しかけてきたのが、シャルロッテだった。

「このたびは……」と彼女は消え入りそうな声で弔意を伝え、深く頭を下げた。

「ああ、どうも……ええと」

「シャルロッテ・グリーグ、です。引っ越しの準備で忙しいナスターシャさんの代わりに、私が来ました」

 生徒会長の代わり、ということだろう。

「そうか、それは……ありがとう」顔は知っていたが、今まで一度も話したことのない相手との間に気まずさが漂う。パーティのような華やかな場ならまだしも、葬儀という楽しさのかけらもないシチュエーションで、何を話せばいいのだろう。

「大変なことになっちゃったね」

 うつむきがちな彼女が口を開いた。ヨハンは参列客をぼんやり眺めながら返答する。

「ああ。でも大変なのは俺だけじゃない。亡くなった人は百人にも及ぶと聞いた」

 その百人の葬儀が、各地で行われているのだろう。このような悲しみの儀式がいろいろな場所で同時に行われていることを想像するだけで、気分が沈む。

「……人、たくさん来ているね。ヨハン君のお父さん、慕われていたんだ」

「そうらしい。俺も知らなかったが」

「あの、こんなことを訊くのも良くないとは思うんだけど……ヨハン君は悲しくないの?」

 ヨハンはシャルロッテに目を落とした。視線を受けて、慌てて彼女は頭を下げる。

「あ、ごめんなさい!無遠慮な質問を……」

「いや、別に怒ってはいないよ」ヨハンは無表情で答える。「ただちょっと驚いただけだ。普通、家族が亡くなった人にする質問じゃない」

「だ、だよね……ごめんね」シャルロッテは肩をすぼめた。

「……別に、悲しくはないさ」

 ヨハンの発言に彼女は顔を上げて目を見開いた。

「確かに、思うところはあるけど、特段、悲しくはない。涙も出そうにないしな」

「……そっか」

 シャルロッテはつぶやくように言った。ヨハンよりも彼女のほうが悲しんでいる風だった。

「あの、私の話をしていいかな」ヨハンが了承する前に、彼女は建物の壁に背中を預けて語り始める。「私のお父さんも、事故に遭った列車に乗ってたんだ」

「え?」

 思わずヨハンはシャルロッテに顔を向ける。違うの、と彼女は首を振る。

「私のお父さんは幸運なことに生き残ったんだ。足の骨を折っちゃったんだけど、それでも命までは失わずに済んだ」

「それは……」

 何と返せばいいのか、わからなかった。良かったな、と言うわけにもいかない。シャルロッテは返答など求めていないらしく、なおも喋りつづける。

「お父さんが言うにはね、車内の周りの人はみんな亡くなっていたんだって。それでも、生き残った、これは日頃の行いが良かったからだって言ってるの。えっと、勘違いしないでね、私が言っているわけじゃないから。でもね、お母さんは逆に、日頃の行いが悪かったって言うの。なんでだかわかる?」

 ヨハンは軽く首を捻った。

「事故の被害者救済の支援金がもらえないからだって。お母さんは、お父さんが死ねばまとまったお金が手に入って少しは暮らしが良くなるって言ってた。支援金が下りれば、私の学費も簡単に賄えるって……」

 シャルロッテはそこで、深いため息をついた。

「ねえ、そこで私はどんな顔をすればよかったと思う?」

 沈黙。ヨハンは何も、語るべき言葉を持たなかった。彼女が二人の人間のエゴに板挟みになって、苦悩しているのはわかる。わかったところで、何も言葉が浮かんでこなかった。

 彼女はきっと、羨ましいのだ、とヨハンは思う。死んで、たくさんの人間に悲しまれているヨハンの父が。そしてその息子が羨ましいのだ。喪失と追悼のやり取りがまっすぐに成立しているこの場所が、羨ましいのだ。

「……ごめんね、こんな話、するべきじゃなかった」

 ごめんと再びつぶやいて、彼女はその場を離れようとする。

「ちょっと、待て」

 とっさにヨハンは離れていく彼女の手を掴んだ。どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。

 彼女は暗い表情をヨハンに向ける。

「あの、初対面の人間が言っても説得力はないと思うんだが」ヨハンはテストを受ける時よりも必死に頭を回転させた。

「俺は、君が死んだら悲しいと思う」

「……え?」

 掴んでいる手を放して、ヨハンは深呼吸をする。

「うまく言えないけど、一緒に過ごしてきた時間とは関係なく、それが少しの時間でも、悩みを打ち明けてくれるほどに近い距離にいた相手が死んだら、俺は悲しむ」

 その言葉が、今のヨハンに言えた精一杯の言葉だった。嘘は混じっていたかもしれない。その時点で、彼女が亡くなっても、ヨハンは葬儀に行くどころか、黙とうさえしなかったかもしれない。それでもほんのわずかな、彼女を思いやる偽りのない心は、そこに含まれていた。

 シャルロッテはヨハンに向きなおる。

「私が死んだら、泣いてくれる?」

「……ああ、泣くよ。君が死んだらその日一日だけ泣こう。その後、君のことを忘れたとしても、その日だけは喪に服そう」

 ヨハンの言葉を聞いて、シャルロッテは微笑を浮かべた。現状は何も変わらないが、それでも一人の人間が彼女の死を純粋に悲しんでくれる可能性があることを知って、ほんの少しだけ、彼女は救われたのかもしれない。

 シャルロッテは何かを言おうと、口を開く。

 しかし夢はそこで途切れてしまった。彼女の言葉は暗い部屋の風景とまじりあって、無音のうちに消えてしまう。

 ベッドの上で、ヨハンは拠点の天井をぼんやりと見た。目元が熱い。自分自身が涙していることに気が付く。

 何か、とても心地の良い夢を見ていたような気がする。その印象だけが残って、確固たる内容は何一つ思い出せなかった。顔を伝う涙だけが、その余韻を現実に残してくれていた。

 ヨハンは再び眠りにつく。夢の続きを見ることを少し期待していたが、今度は深い眠りに落ちたため、悪夢を見ることすらかなわなかった。

 再び目を覚ましたのが、二十三日の朝だった。

「結局、この警備員の男は何がしたかったんだ?」

 フロンメルトがテーブルに新聞を広げ、記事を見ながら言った。

「侵入者をわざと誘導させて、それを自分の手でとらえて報酬を得ようとしていたんだ。つまり、マッチポンプが狙いだった。だから銀行に入ってくるときも、わざわざ窓ガラスを割って入ったんだろう。そうしないと窓の鍵が開いていたことが露呈して警備責任が問われる」

「ふうん。だがまだ不可解な部分がある」フロンメルトは新聞をとじた。「警備隊が来なかったことだ。普通、警備隊ってのは警報が鳴ってから遅くとも十分以内には来るもんだ。俺たちにとっては幸運だったが……なぜだ?お前、警報機のスイッチを切ったりしたか?」

 ヨハンは首を横に振った。「スイッチ?そんなものがあったのか?」

「一階の事務所の奥に、警報機を統括する配電盤がある」

「知らなかったな。教えてくれれば、もう少し作戦を安全に進められた」

「必要ないと思ったんだよ。あの男が乱入してきたのは完全に想定外の出来事だった。とにもかくにも、警備隊が来なかったことを考えると、警報のスイッチは切られていたと考えるのが妥当だ。誰に?それはもちろん、この警備の男に、だ。侵入者を招き寄せるためだったら、警報が鳴らないように細工をしたっておかしくはない。だが、そこまでする理由は何だ?仲間を呼ばれていたら、あんたはおそらく掴まっていた。そうすれば報酬だって栄誉だって得られたはずだ。しかし、そうはならなかった。警報機が切られていたせいで」

 あのおしゃべり好きな男をヨハンは思い出す。彼は最後の最後まで、自分が勝利を収めて報われることを信じていたように思えた。

「彼は、手柄を独り占め、という言葉を使っていた。結局はそういうことだったんだろう」

「……ああ、なるほど」フロンメルトは鼻で笑った。「仲間と協力したら自分の分け前が減ってしまう。だからスイッチをオフにしたというわけか。その結果、重要参考人として扱われてしまうとは、なんとも悲劇的だね」

 クーベルタンは愛と正義の戦士としてヨハンの前に立ちはだかり、敗れ、犯罪者に近しい人間として今や扱われている。彼の妻と三人の子どもたちは、仕事に失敗した一家の長のことをどう思うのだろう。家族のためなら炎の中でも飛び込めると豪語するほど、クーベルタンは彼らを愛していた。しかしそんな彼は、最後は炎に包まれて倒れた。

「何にせよ、警備に捕らえられなくて本当に良かったよ。あんたはすでに公的記録的には死んでいる身だ。党の手に落ちたら、まず間違いなく、あんたは殺される」

 今回の作戦に出る前、ヨハンはもうすでに、世間からは死んだ人間として扱われていることをフロンメルトから教えられていた。しかし党は、トラッカーの件からヨハンが生きていることを把握している。彼らは今頃、ヨハンをもう一度殺そうと躍起になっているはずだ。

「あの、銀行の壁を吹き飛ばした炎はいったい何だ?ウェストリンの発明か?」

「ダイナマイト、というらしい。現代に伝わっていない技術の一つさ。なんでも、ダイナマイトのおかげで文明は大きく飛躍したそうだ。この火薬の製作者は得た膨大な資金で人類の功績をたたえる賞を作り出したんだが、それももう無い。栄光すら一炊の夢、というわけだ」

 フロンメルトは小声でつぶやく。「未来に何も伝えられないなら、生きる意味はないのかもしれないな」

 ヨハンは何も言わない。フロンメルトはごまかすように「ま、でも」と言葉を続けた。

「俺たちはその過去を取り戻すために戦っているんだ。あんたの今度の活躍はその大目標の達成の大きな一歩となる。報酬、というわけではないが、頼まれていた件について報告しよう」

「シャルロッテのことか?」

 フロンメルトは浅く頷いた。彼はポケットから折りたたまれた紙を取り出して、そこに書かれた内容を読み上げる。

「浮気相手の名前はクラウス・ムンク。聞き覚えは?」

「……ないな」ヨハンは首を横に振る。

「たぶん聞いたことがあるはずだぜ。年齢は四十。職業は生物学の研究者」

 瞬間、ムンクという男がどのような立ち位置にいたのかを悟った。

「父の、関係者か?」

 にやり、とフロンメルトは口の端を曲げた。

「おそらくそうだろう。あんたの御父上、ダドリー・ハーバート氏が亡くなった後、彼の研究職の後任に収まったのがこの男だ。ほら」

 フロンメルトは写真を渡す。白い背景に、スーツ姿の男性のバストアップがそこには映っていた。年相応の、落ち着いた顔立ちで、どこか自信に満ち溢れた表情をしていた。

「この顔は……」

「どうだ、見覚えあるか?」

 ヨハンは頷いた。写真を目にしたのと同時に、今朝見ていた夢の内容が自然と思い出された。

 父の葬儀。初めてシャルロッテと話したあの日、彼女との会話に割り込んできたのが、この男だった。夢の中でシャルロッテは何かを言おうとして、その声は届かなかったが、もとより、あの後に会話は続かない。この男が割り込んできたからだ。

「確かこの男は、父の後輩だったんだ。まさかシャルロッテと繋がっていたとは……」

「この男には八歳になる娘と綺麗な奥さんがいる。あまり家には帰らなかったそうで、家族仲が良かったとは言えそうにない。二日で調べられたのはそれだけだ」

「……そうか、感謝する」

 軽く頭を下げる。フロンメルトもいろいろ仕事があるだろうに、短い時間でよくここまで調べてくれた。

「できれば、いつからシャルロッテと関係を持っていたのか知りたい」

「無理だよ」フロンメルトは即答する。「旦那であるあんたですら、浮気に気が付けなかったんだ。痕跡なんて残っているはずがない。それに……」

「それに、何だ?」

 フロンメルトは何やら言いよどみ、視線を中空へ向けた。「いや、何でもない。とにかくできないものはできない」

 ヨハンはテーブルに身を乗り出した。「シャルロッテとの関係が調べられないなら、この男のことについてもっと調べてくれ、頼む」

 懇願するような視線を、ヨハンはフロンメルトに向ける。フロンメルトはため息をついた。

「なあ、これは余計な忠告かもしれないが、あんた、ちょっとおかしいぜ」

「……は?」

「前にも言ったが、自分で自分の傷をえぐっているみたいだ。多分、そういうのを憑りつかれている、っていうんだろうな」

 フロンメルトは単調に言う。

 ヨハンは呆然として、相対する彼の言葉を受け止めた後、ぽつりと一言。

「……彼女の、シャルロッテの霊に憑りつかれているのなら、それでもかまわない」

 と言った。フロンメルトはさらに深いため息をつく。

「医者が何を言ってんだか」

 不意に、ドアノッカーが鳴らされる。二人は玄関に眼を向けた。その奇妙なリズムの刻み方は、ドアの外に立っている人間がレジスタンスの構成員であることを示している。

 フロンメルトは立って玄関の鍵を開けた。扉を押して入ってきたのは、ナスターシャだった。

「やあヨハン、君と再び会うことができてうれしいよ」

 それが彼女の開口一番の言葉だった。マントを脱いで、クローゼットの中に丁寧にしまう。その間、フロンメルトはテーブルの上のクラウス・ムンクの資料を折ってポケットにしまった。

「コーヒーを淹れよう」フロンメルトが自主的に提案した。

「ああ、頼む」ナスターシャはヨハンの隣の席に座った。「ウェストリンから聞いたよ。戦闘があったんだってな。怪我はないか」

「ああ、目立った外傷は負ってない」

 首への一撃は、クーベルタンの振りが浅かったのか、黒っぽい痕は残っているものの寝ている間に痛みはほとんどなくなってしまった。戦闘している最中には強烈な攻撃を食らってしまったと思ったのだが、どうやらそうでもなかったらしい。ともあれ、どんな攻撃が戦況を覆すかはわからない。大したことのない攻撃でも心理的にダメージを受けてしまうことがある。

「窓のことが、侵入経路を作って得物を呼び寄せる罠だったと気が付けなかった自分をふがいなく思う。そのせいで君を必要以上に危険にさらしてしまった」

 そのトーンには、いつものようなハリがない。どうやらそこそこ気にしているらしい。ナスターシャは責任感が強い分、失敗を過剰に反省する節があった。弱点の一つと言えるだろう。

「あまり気にしないでくれ。気が付けなかったのは私も同じだ」

 ナスターシャはヨハンの目を見て、薄く微笑んだ。「いずれにせよ、君とウェストリンは不測の事態にもうまく対処してくれた。本当に感謝するよ、ありがとう」

「しかし痕跡を残してしまったのも事実だ。爆発もそうだし、陽動のための金も盗めなかった」

 もしかしたらすでに友愛党はレジスタンスの工作に勘づいているかもしれない。警戒が厳しくなってしまったら、党の広報局局長アンドレ・グーゼンス暗殺も難しくなる。

「こじ開けた金庫は、マルク氏の預け物が入ってた一つだけなんだろ?」フロンメルトはヨハンたち二人の前にコーヒーを置いた。「警察はまず間違いなく、金庫の預け人の身辺を調査する。セシル・マルクの素性が割れたら、どんな奴が盗みに入ったのか大方の見当がついちまう」

「しかし、セシル・マルク氏は偽名を使っていた。特定はおそらく難しい。そこは安心してもいいかもしれない」

「どうかな」ヨハンは言っていなかった情報を付け加える。「実は、彼の使っていた偽名はリーセス・カームというものだった。『CESIL MARC』のアナグラムだ」

「あちゃー……」フロンメルトは額を抑えた。「おいおい、学者という素晴らしい頭脳を持っていなけりゃなれない職業に就いていた人間が、そんな単純な偽名を付けるかね」

 そこはヨハンも感じたところだった。友愛党から命を狙われている身分で何かを遺したいと思っているときに、すぐに元の名前が推測できてしまうような並び替えをなぜ用いたのだろう。

 しばしの黙考のあと、ナスターシャが一つの回答を出した。

「……もしかして、彼はこうなることを予測していたのではないだろうか」

「予測?」ヨハンは訊き返した。「誰かが彼の預け物を取りに来ることを、か?」

「ああ。期待と言ってもいい。アナグラムは一種の暗号だったんだ」

 ナスターシャはコーヒーを一口だけ飲みんで咳ばらいをした。

「暗号の本質はメッセージだ。何かを伝えるために暗号はある。しかし、外部の人間にそのメッセージが伝わってはいけない。そのためにはメッセージを複雑に変換するわけだが、複雑すぎて相手に内容が伝達できなくては本末転倒だ。伝わらなければ根本的に意味がない」

「意味を届けなくてはいけないのに、不本意な相手にそれが届いてはいけない、という両義性があるってことかい」詩を朗読するみたいにフロンメルトが言った。

「マルク氏はリーセス・カームという暗号を未来へ送り出した。私たちのような、彼の名前を知っている人間が、金庫の前に立った時に、その箱がセシル・マルクのメッセージであることに気が付けるように。もし金庫に記された名前がリーセス・カームじゃなかったら、目的の金庫を探し当てるのにもっと手間取っていたかもしれない」

「ああ……想像したくもないな」

 二千もの貸金庫があの場所にはあったのだ。探している金庫が見つけられない可能性だって十分、考えられた。その上、クーベルタンと戦闘をしなければならない状況に追い込まれていたかもしれないことを考えると、身震いがする。

「リーセス・カームがセシル・マルクの並び替えだと気が付けたのは、ヨハン、君の頭に彼の名前があったからだ。その名前を念頭に置いておかないと、金庫のメッセージには気が付けない。ともあれ……」

 ふっ、とナスターシャが笑みをこぼす。

「マルク氏の未来へのメッセージを無事に受け取ることができて、本当に良かった。歴史を取り戻すことを掲げているのに、たった十年前の一個人の過去を受け継ぎ損ねるなんて間抜けな真似はできないからな」

「それもこれも、お前のおかげだ。よく頑張ったな」立っていたフロンメルトがヨハンの肩に手を置いた。サービスの角砂糖は必要ない、とヨハンは呟いた。

 フロンメルトはその後、昼寝をすると言って二階へ上がっていった。思えばヨハンが起きているときはいつも、彼も起きて活動をしていた。合間合間に休息を取っているのかもしれない。

 ナスターシャはおもむろに机の上にあった新聞を手に取り、昨日の事件の記事に目を落とす。

「意識不明の重体、か。ヨハン、君はこの警備員の男と戦闘したようだが、ノルダルの教えは役に立ったかな」

「ああ、彼女との訓練の経験が無かったら、帰ってこれなかったかもしれない」

 あのような命のやり取りの場では、一瞬の迷いが破滅を招く。選択肢が多いことは確かに有利だが、その多さはかえって決断の時間を生む。ノルダルとの訓練では型にはまった動きをひたすら反復し、身体に叩き込んで覚えさせた。それが迷いのない動きにつながる。

「傷跡が残っている」ナスターシャはヨハンの首元に右手をそえ、いたずらっぽく微笑む。「まだまだ精進が足りないな。ナイフは使わなかったのか?ナイフ術も教えてもらっただろう?」

「ナイフ?ああ……いや、素手でも戦えると思ったんだ。事実、ウェストリンと協力してうまく立ち回れた」

「だが、急所に攻撃を食らっている。もう少しでも相手の力が強かったら、あるいは立ち位置が少しでも違っていたら、君は死んでいた」

 ナスターシャが首の黒くなっている部分を人差し指でなぞる。空気が剣呑なものになっていることに、ヨハンは気が付く。まさに、ナイフを首元に這わされているみたいな心地がした。

「もしかして君は、敵を殺すことに躊躇したのではないか?」

 彼女の手がヨハンの首を甘く絞める。

「……い、いや、そんなことは」

「本当に?嘘はつかないでくれ、ヨハンも知っている通り、私は嘘をつかれるのが大嫌いだ」

 低い声で彼女はささやいた。もしかしたら、いま首元に手を置いているのは、血脈の乱れで嘘を判別するためなのかもしれない。今ここで許されているのは、誠実だけだった。

「……わからない」ヨハンは必死に頭を回転させながら、言葉を発する。「あの時、自分が何を考えていたのか、よく覚えていないんだ。あの時は緊迫した状況にいっぱいいっぱいになっていた。もちろん、あの場で死ぬつもりは毛頭なかった。ただ……君の言うように、敵の命を奪いたくないという気持ちもあったかもしれないことは否めない」

 クーベルタンには家族が三人の息子と妻がいた。彼は自分の家族のために戦っていたのだ。彼は、家族の温かみなどヨハンにわかるはずがないと断じた。クーベルタンの命に情けをかけることで、それを否定したかったのかもしれない。

「……そうか」ため息交じりの声で彼女は言う。手はいまだヨハンの首にそえられたままだが、そこにこもっていた力は抜けていた。「いやなに、責めるつもりは毛頭ないよ。ただ……」

 手は首元からずり落ちるように下がっていき、肩に触れる。ナスターシャはうつむきがちになり、絞り出すように言った。

「私は仲間が死ぬのが嫌なんだ。他人を殺してでも、それがどんなにつらいことであっても、仲間には生き残ってほしい。生き残るための精一杯の努力をしてほしい」

 ナスターシャは告解をするかのように、なおも言葉を続ける。

「私は、多くの人間を殺してきた。もう両手では数えきれない。部下に指示して間接的に殺めた数も入れれば、死体の山が出来上がる。それに比べれば、君の手はまだ綺麗なままだ。私はそれが……憎らしくも羨ましい」

 彼女は自分の震える両手を見つめた。

 やはりフロンメルトは間違っていた。ナスターシャは罪悪感も抱けば後悔だってする。しっかりと血の通った人間なのだ。現実を大きく変革するために、罪悪感もなしに大量の犠牲を生み出せる人間など、存在するわけがない。

 彼女はもう死体の山を築き上げてしまった。引き返せない場所まで達してしまった。

 それが、どうしようもなく彼女の心を締め付けるのだろう。

「……いざとなれば、敵を殺す覚悟はできている」

 ナスターシャはヨハンの言葉に顔を上げる。「……本当に?」

「本当だ。君の前では嘘はつかない。ついても、君ならすぐに見透かすだろう」ヨハンは浅いため息をついた。「ノルダルさんは言っていた。いつか罪は地獄で償われる、と。警察を殺してしまったあの日から、私が地獄に落ちることは決まっているはずだ。どうあがいても、君が地獄に落ちることは避けられないだろうが……その時は私も付き合おう」

 少し間を開けて、ナスターシャは噴き出すように笑った。

「何だそれ、励ましだとしたら程度が低すぎる。私はそもそも地獄だとか天国だとかは信じていない」彼女は左手で頬杖をついた。「でも、まあ……気休めにはなったかな」

「それは良かった」

「ヨハンは昔から人を励ますのが苦手だったものな。君は誰よりも強く、賢かった。だから打ちのめされた人にかける適切な語彙を持っていないんだ」

「強い?そんなことは全くないんだが」誰だって嫌なことがあれば落ち込んだり、傷ついたりする。ヨハンからは、ナスターシャのほうがよっぽど芯の強い人間に見えた。

「苦手な言葉を私のために考えてくれたことが、何よりも励みになる。これからの働きも期待しているよ、ヨハン」

 その期待の程度がどの程度かは測ることはできないが、ナスターシャの判断は大抵正しい。過度な期待もしなければ、過小評価もしない。彼女はそういう人間だ。

「なんだか湿っぽい話になってしまった。こんな話をする予定はなかったのだが」ナスターシャは熱が少し失われたコーヒーに口を付けた。「さて、では次の期待の話をしよう。君が手に入れてきた書類に関することだ」

 セシル・マルクの封筒。あの中には何らかの書類が封入されていたらしい。

「何が書いてあったんだ?」

「予想通り、過去に使われていた武器の設計図だよ。うまく使えれば刀を持った警察を無力化できるかもしれない。現在ウェストリンやほかのエンジニアが形にしようと奮闘している」

「奮闘?そんなに複雑な機構を備えた武器なのか?」

「おっと」彼女はバツが悪そうに眼を逸らした。「口が滑った。申し訳ないが機密保持のためにあまり説明できない。君が党に捕まって、厳しい尋問にあわないとも限らないからな」

 ナスターシャは一つ咳ばらいをして、その場をごまかす。

「ヨハン、君には工場に潜入してその武器を製造するのに必要な材料を奪ってほしい。ただし、今回は夜間に忍び込むのではなく、れっきとした工場の従業員として内部に侵入するんだ」

「従業員として?本気で言っているのか?」

「ああ、もちろん本気だ。私が本気であることくらい、君には察せられるだろう?」

 ナスターシャは不敵に微笑んだ。確かに彼女はつまらない冗談は言わない。ヨハンがすでに公的には死んでいる立場であることなど彼女は織り込み済みで、その上で正式に工場作業員として侵入せよと言っているのだ。

「個人情報は偽造する。ヨハン・ハーバートという名前も使えない。その辺りの工作はうまくやっておくから、心配しなくていい」

「君の判断に異を唱えるわけではないが、どうして私なんだ。もっと簡単な手続きで侵入できる人はいないのか?」

「もっともな疑問だ」吐息交じりの声で彼女は言う。「簡単な理由だよ。レジスタンスの実働部隊の人員が少ないんだ。組織のメンバーの多くは特定の技能に秀でていてね、君のようにオールマイティに動ける人間はそうそういない。まして今回の任務は数日間、実際にほかの工場作業員に混じって働いてもらうことになる。裏工作が得意な人よりも、社会性に秀でた人間が望ましい。君は医者だったしな、そのあたりは適正があるだろう」

「なるほどな」説得的な理由だった。「だがそもそも、おとといの銀行強盗のような強硬な手段を取らないのはどうしてだ?あのやり方なら社会性を気にする必要もない」

「おや、ヨハンは荒っぽいやり方がお好みかな?」

「いや、そういうわけではないんだが……」

「冗談だよ」ナスターシャは楽し気に声を揺らした。「単純に、騒ぎになったら困るからだ。先日の銀行強盗も、夜間のうちに速やかに目的のものを奪取するだけの予定だったのだが、ウェストリンの発明のおかげで事が大きくなってしまった。立て続けに事件が起こったら、治安強化が図られることはまず間違いがない。そうなったら当然、暗殺もやりにくくなる」

 ナスターシャは、事を荒立てたきっかけはウェストリンだと言ったが、正確にはクーベルタンの乱入が根底にある。彼は家族の幸せの貢献には失敗したが、その行動はレジスタンスの牽制に繋がっていた。回りまわって、党の広報局局長アンドレ・グーゼンス暗殺の足かせにもなっている。そう考えれば、クーベルタンは一応、警備する対象は違っていても、自分の仕事を今もなお全うしていることになるかもしれない。つくづく、喜劇的な男である。

「工場潜入作戦も、二人で挑んでもらう。今回、君の相棒になるのはノルダルだ」

「ノルダルさんか……」ヨハンは彼女の姿を頭に浮かべた。「確かに彼女は一緒にいて安心感があるし、頼れる相棒になりそうだが、社会性は大丈夫なのか?」

「彼女もかつては警察にいたんだ。問題はないだろう」

 ノルダルに対するヨハンのイメージは、苦行の一週間から来るものが強かった。あの人は若干、勢いのままに他人に接するところがある。本当に大丈夫だろうか?

「本当は私が君と一緒に任務に就きたかったのだが、リーダーが働くべきではないと周りから反対されてしまってね。たまには部下の働きを現地で見てみるのも仕事の一つだと思うんだが」

 などと、彼女は愚痴にも似たようなことを言った。数日前に再会した時点に比べて、ナスターシャの雰囲気は多少軟化したように感じる。学生時代の関係が、今のやり取りに入り込んでいるのかもしれない。この関係が心理的負担を和らげられていることを、ヨハンは願った。

「聞いている限りそこまで危険はなさそうだ。君は安心して私たちの帰りを待っていればいい」

「ああ、そうすることにするよ。作戦決行までにはもう少し時間がある。それまで調子を整えておいてくれ」

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