第二章 襲撃 2

 ヨハンはフロンメルトに言われた通り、二階にある個室に戻って休息を取った。ここ一週間、ノルダルにしごかれて身体には疲労が蓄積していた。節々は痛み、四肢は熱を持って鈍く痛む。このような状態で満足に働けるだろうかという懸念が頭をよぎる。年を取るにつれて衰えていく自分自身の治癒力を信じるしかない。ヨハンは軽くストレッチをしてから、ベッドに入った。

 翌朝、空腹を覚えて目を覚ます。上半身を緩やかに起こして、両手を組み、天井に向かってめいっぱい伸びをする。それから左右に身体を曲げる。背骨が小気味の良い音を立て、筋肉が解れる感覚がした。ベッドを出て、床に足をつける。それから深呼吸をした。

 昨日までの自分と、明らかに異なっていることにヨハンは気が付く。筋肉の動きはしなやかで、プラスチックのように軽い。自分の身体にこのような可能性が眠っていたのか、と内心で驚愕するほどだった。

 身支度を整えて階下に降りる。リビングでは、フロンメルトが椅子に腰かけて、テーブルに広げた新聞を眺めていた。ヨハンに気が付くと、新聞を折りたたむ。

「おはよう。調子はどうだい」

「悪くない」ヨハンは右肩と首を回して見せる。「身体に羽が生えたようだ」

「そいつは重畳」フロンメルトは立ち上がって台所に向かう。「腹減っただろ。飯を作ってやる」

 時刻はもうすでに十時を回っていた。六時に起床するという、病院に勤めていたころの習慣は、もう見る影も無くなってしまった。その事実にヨハンは少し感傷的になる。

「簡単なもので悪いが」

 食卓に並べられたのはオムレツに、カリカリに焼けたベーコン、付け合わせのレタスに、バターが塗りたくられた小麦色のトーストだった。加えてコンソメスープが食卓に置かれる。シンプルだがどれも朝日に色鮮やかに映えて、空腹であるヨハンの食欲をそそった。

「コーヒーも淹れよう」

「ならミルクと砂糖は入れないでくれ」

 あいよ、とフロンメルトは返事をする。作り立てということもあるだろうが、彼の出した食事はどれも逸品に感じられた。口の中でかみしめるたびに、脳細胞が活性化されていくのがわかる。ヨハンは出された食事を平らげて、両手を合わせた。

「ごちそうさま」

「お粗末様」

 フロンメルトはテーブルに二人分のコーヒーを置いた。彼はそのうちの一つに、小さなピッチャーでミルクを注いで、スプーンでかき混ぜた。

「ナスターシャとノルダルさんは?」少量のコーヒーを飲み、訊いた。口に残っていたパンの香ばしさとコーヒーの苦味が混ざり合う。

「深夜のうちに出て行ったよ。あいつらはあいつらでやることがある。それが何なのか、教えてもらえないのが常だけどな」

 かき混ぜて発生するコーヒーの渦をぼんやり眺めながら、フロンメルトは言った。

「なあ、あんたとナスターシャはどういう関係なんだ」

「聞いてないのか?」

「高等学校の同級生、としか」

「それであっている。私たちは同級生で、それ以上でもなければそれ以下でもない」

 数秒の沈黙の後、フロンメルトは小さく、そうかい、と言って湯気の立つコーヒーに吐息を吹きかけ口をつけた。

「あの女は昔からああだったのか」

「ああ、とは?」

「あー……、なんというか、頭のおかしいヤツだったのか、ということさ」

「意味がわからない」ヨハンは首を横に振った。「私は彼女の頭がおかしいとは思わない」

「本気で言っているのか?」フロンメルトはけげんな表情を見せた。「本気で言っているなら、あんたもだいぶクレイジーだな。ナスターシャは自分の目的のためならどんな犠牲もいとわない人間だ。その途上で人の命が失われても、後悔しなければ罪悪感も持たない。加えて変なカリスマ性も兼ね備えている」

「それはあんたの視線から見たナスターシャ・オリヴァーだろう。彼女だって人間だ。後悔もすれば、奪った命に対して罪悪感も抱く」

「じゃあ、一週間前、あんたの目の前で二人の警察を殺した時、あいつは後悔するようなそぶりを見せたか?」

「見せない」ヨハンは即答する。「そんなことは当然だ。ナスターシャは絶対に、何があっても絶対に、他人の眼がある場所では弱みも悔いも見せないんだ。ただ……負の感情が表に出ないからといって、彼女がそれらを抱いていないというわけではない。苦しみや悩みも、表に出さないだけできっと、人並みに持っているはずだ」

 数秒、フロンメルトはヨハンの眼をじっと見つめてから、やがてふっと笑みをこぼした。

「……なるほどな、一理ある。どうやら同級生というのは名ばかりじゃないらしい」

 彼は再びコーヒーカップに口をつけた。一口飲んだ後、ミルクをカップにさらに注いだ。

「レジスタンスがどれだけの人員を抱えているか、お前は知ってるか」

 ヨハンは首を捻った。「ノルダルさんは組織の機密を保つためにそれは意図的にぼかされていると言っていた。フロンメルトは知っているのか?」

「百人以上、千人未満といったところかな」

 それは知らないに等しいのでは、とヨハンは内心思った。

「俺が言いたいのは、ナスターシャには少なくない数の人間を束ねる能力があるということだ。それも普通の集団じゃあない。犯罪者の集団だ。あのリーダーシップも、昔から彼女は持っていたのか?」

「ああ」ヨハンは背もたれに寄りかかって、軽く天井を見上げる。「彼女は学校のみんなから信頼される生徒会長だった。校長の話に退屈している生徒も、ナスターシャの話だけは熱心に聞いていたよ」

「その光景、容易に想像できるな」

「不思議なことに、彼女の話はどんな内容であれ人の心を打つらしい。声に特徴があるのか、それとも喋り方や身振り手振りに要因があるのかわからないが、ナスターシャにはスピーチの才覚がある。生徒会役員選挙の時は、彼女の演説に対して万雷の拍手が送られた。当然、圧勝だったよ。噂では、対立候補には片手で数えられる程度の票数しか入らなかったとか」

「片手?」冗談だと思ったのか、フロンメルトは肩をすくめた。「それはナスターシャじゃなくて、相手の候補者に問題があったんじゃないか。ほら、普段の素行が悪かったとか、単に成績が悪かったとか」

「いいや、そんなことはない」ヨハンはきっぱりと否定した。「彼女も十分な優等生だったよ。教師には気に入られていたし、クラスでも皆から好かれていた。それに、学校をよくするために本気で取り組んでいた。選挙をする前はむしろ、その候補者の女の子が僅差で勝利を収めるのではないかという予測が立ったくらいだ。その前評判を、ナスターシャはものの数分の演説でひっくり返した」

「ふうん」フロンメルトはつまらなそうに相槌を打つ。「そいつもショックだったろうな。いざ蓋を開けてみればまさかの大敗だ。本気で選挙に取り組んでいたんなら、なおさら、悔しかっただろう」

「それがそうでもない。彼女はその後、副会長になってナスターシャの補佐に着いた。彼女もナスターシャのスピーチを聞いて心を揺り動かされた人間の一人だったというわけだ」

「はん、なるほどねえ。面白いオチだ、涙が出るほど笑えるね」

 フロンメルトは伸びをしながら皮肉を言った。ヨハンは両手を組んで、揺らぐコーヒーの水面を見つめ、ふっと息を吐いた。

「……その対立候補が、シャルロッテだった」

 再び沈黙が流れる。フロンメルトは軽く目を右往左往させてから、小さく、

「へえ」とだけ言って、コーヒーを飲んだ。

「なあ、フロンメルト、頼みがあるんだが」

「俺はあんたやナスターシャほど賢くないが、この話の流れだったら言わんとしていることはわかる。あんたの妻についてのことだろ」

 ヨハンは無言でうなずいた。フロンメルトは大きなため息をつく。

「彼女と一緒に死んだ人間が誰なのか、知りたいんだ」

「やっぱりあんたはクレイジーだな」彼はあきれ果てて頭を振る。「もう終わってしまったことだろ。忘れちまうのがあんたにとって一番いい。わざわざ古傷を抉り出すような真似をしなくてもいいだろ」

「気遣いには感謝する。だが知らなければならないんだ。私は、シャルロッテを愛していたし、今でも愛している。その愛した人間が誰と一緒にいたか知りたいと思うのは当然のことだろう」

 なんとなく、ナスターシャが正しい歴史を求めようとする気持ちがヨハンにもわかる。おそらく彼女は正しさを知りたくてどうしようもないのだ。色々なものを失ってあやふやになった自分自身を回復するためには、拠って立つべき真理がどうしても必要なのだ。

「頼む」

 ヨハンはテーブルに身を乗り出して、フロンメルトを見た。彼も、やや上体を逸らしながらもヨハンを見返した。

 その時だった。

 コツコツ、という音が玄関のドアから鳴った。空気が緊迫し、二人はそろって玄関扉を見遣る。音は次第にリズミカルなものに変わり、二人の沈黙を埋めた。

「……来たかな」フロンメルトは立ち上がり、ドアの鍵を開けた。取っ手を掴み、扉を開ける。

 以前のヨハンたちと同じく、その人はマントを羽織り、フードをかぶった姿で部屋に入ってきた。小さめの身長だけは、外套に身を包んでいても一目でわかった。左手にはその体格に不揃いな大きめのスーツケースをぶら下げ、背中には角ばった大きなリュックを背負っている。

 フードを取ると、まだ幼さの残る顔が出てきた。成人を迎えていない学生に見える。

「紹介しよう」フロンメルトはその男の肩に手を置いた。「イーヴァル・ウェストリンだ」

 ウェストリンは紹介を受けても何も反応せず、無表情で正面を見つめている。

「無口な奴なんだ」フロンメルトは手のひらを見せながらそう言った。昨日、ウェストリンの名前が挙がった際、彼のことを頼れる存在だと評したノルダルが最後に「きっと」という言葉を付け加えた理由が、ヨハンにわかり始めていた。

 立ち上がって、彼のほうに近づく。ウェストリンの視線は移動するヨハンを追った。

「ヨハン・ハーバートだ。よろしく頼む」

 ヨハンが差し出した右手を、ウェストリンは右手で握り返し、上下に振った。どうやら友好的に接する気はあるらしい。

「ウェストリン。頼んだものはできているか」

 彼はうんともすんとも言わないで、テーブルの上に荷物を置き、スーツケースを開いた。ケースの中には、アンテナが付いた、長方形の手のひらサイズの機械が二つ、収まっている。ウェストリンは一つを取り出して、ヨハンに渡す。ヨハンは促されるままにそれを受け取った。それからウェストリンはもう一つを手に取って、口元に近づけた。

「あー、あー、ヨハンさん。聞こえる?」

 手に持った機械から、ひび割れた声が鳴り出した。予期しない音声にヨハンは肩を震わせる。その様子を見たウェストリンは、満足そうな笑みを浮かべた。

「これは……トランシーバーか」自分の手に持っている装置が、急に重たく感じられた。「市民の給料では、とても手が出せる品ではない。レジスタンスにはそんなに潤沢な資金があるのか?」

「いや、これはウェストリンが作ったんだ」フロンメルトがウェストリンの肩に手を回した。「こいつはとびっきり優秀な、組織のエンジニアなのさ」


 午前二時の街は凍てつく闇に深く沈んでいる。住居のほとんどは雨戸で窓をふさぎ、中の光が外へ漏れ出さないようにしている。夜空は濁った厚い雲で覆われていて、星の光はおろか、月光さえ地上には届かない。代わりに誰もいない通りを照らしているのは、何かを焼いているような音を出しながら無表情に立ちすくんでいる街路灯だけだった。

「ローグタウン銀行、西側、二階のトイレ窓の前に到着した」

 ヨハンは夜の闇に紛れる黒い外套を身にまとって、家々の屋根を伝い、銀行の傍に移動した。相棒のウェストリンにそのことをトランシーバーで報告する。

「確認した。問題はない」

 短い返答だった。ヨハンは軽く周囲を確認して、ウェストリンの姿を捜した。しかし目に入るのは平坦な屋根の輪郭と、たまにその間から漏れる街灯の明かりだけで、動きのあるものは何一つ見つけられなかった。

 ヨハンが銀行に侵入している間、ウェストリンは離れたところから銀行の周囲を警戒するという手はずだった。ただ、彼がどこでその任に当たっているのかは、ヨハンに知らされていない。余計なことは考えず、自分の役割に徹しろということだ。

 ヨハンの目の前には今、二枚の擦りガラスがある。ここの鍵が本当に開いているのか、そもそも男子トイレなのかすら、中を見ることができないので不確かだ。そこはフロンメルトの調査を信じるしかなかった。

「これから、作戦を実行する」

「了解」

 ウェストリンの返事を聞いて、ヨハンは一度、深呼吸をした。冬の夜中の冷えた空気は身体を適度に緊張させた。黒い手袋をはめた手を軽く組んでから、窓枠に手をかけて力を入れる。

 少々、力を要したが、窓は軽い音を立てて横にスライドした。素早く中に入り、窓を閉める。

 中は外以上に暗く、物を見ることはほとんど不可能だったが、芳香剤のにおいからトイレであることは間違いないと判断する。見取り図は頭に叩き込んである。まっすぐ進めば、廊下に出られるはずだ。

 足音を立てないように歩みを進める。建物内は無人なので音を立てても問題はないのだが、自分が今、不法侵入をしているという意識がヨハンを慎重にさせた。呼吸も無意識に浅くなる。

 前に伸ばした手に、何かがぶつかった。手に力を入れても、それは動かない。両手で正面の壁を探ると、取っ手が見つかった。それをひいて廊下へ出た。

 廊下は非常口の位置を示す緑色の誘導灯が天井に備え付けられているので、トイレよりかはいくぶん明るかった。誘導灯の照明としての役割は心もとなかったが、完全な暗闇に近い場所にいたヨハンにとっては、その微々たる明かるさでも十分だった。

 出て左の壁に手を付けながら移動する。見取り図通りに、トイレのすぐ横に階段はあった。足音に気を付けながら、階段を一段飛ばしで上がる。

 上がりきった後、左手を壁につけて廊下を進む。二十秒ほどで、壁の切れ目に手が触れる。

 階段を上がって最初の扉。その中が貸金庫室だ。右手でドアノブを掴み、軽くひねる。当然のごとく、施錠されていた。どうやらここの扉の施錠確認者はしっかり仕事をしているらしい。

 ヨハンは腰につけているポーチに手を入れた。手探りで、その手のひらサイズの四角い装置を取り出す。それから手でドアノブの位置を確認し、その横に、粘着テープで装置を取り付けた。スイッチを入れると、うなるような駆動音が鳴り出す。それから一瞬火花が出て周囲がわずかに明るくなり、同時に高い金属音がした。ヨハンは思わずあたりを見渡した。

 やがて機械は静かになる。おそるおそる、装置をノブから取り外した。手袋をした手には装置からの熱が伝わり、プラスチックが溶けるような臭いがそこから漂っていた。

 機械をポーチにしまいなおしてから、ヨハンは扉を押した。音もなく、扉は内側に開いた。どうやらウェストリンの発明は無事に機能したようだった。

 フロンメルトが言っていた鍵を開ける機械というのが、たった今ヨハンが使ったものだった。製作者本人が言葉少なに説明するところによると、熱でかんぬきの部分を焼き切る仕組みらしい。その際に音と光が発することと、使用後に、固定した部分にかなり派手な焼け跡が残ってしまうこと、加えて使い切りであることが不便な点だが、それでも力で扉を破壊するよりかはだいぶ洗練された方法だといえる。

 貸金庫室には窓がないので、光が外に漏れる心配もない。もはや防御する能力を失った出入り口の扉を閉めて、ヨハンは懐中電灯を点けた。

 そこには銀色の四角い物体がいくつも整列していた。高さはヨハンの顎あたりで、厚さは五十センチほど、表面には鍵のついた扉が付けられている。そんな物体が二メートル間隔で並んでいた。入ってすぐの左手、部屋の隅に当たるところには掃除用具を入れるためのロッカーが置かれている。整然と並べられた金庫に対して、部屋の隅にぽつんと置かれているロッカーは仲間外れに思えた。

 腰につけたトランシーバーでウェストリンに報告する。「貸金庫室に到着した」

 即座に返事がある。「了解」

 ヨハンはまず、金庫の数と配置の把握に努めた。

 貸金庫はコインロッカ―のように大きな箱を区分けするようにして作られている。扉は縦方向に十個、それが横方向に十列並んでいる。その百個の金庫のまとまりが、東西方向に二つ並んで、北に向かって十列、二メートルほどの一定間隔を保って平行に並んでいる。

 計二千個の貸金庫がそこにあった。ここからセシル・マルクの遺物を捜さなければならない。

 目の前にした金庫のスケールに一瞬、圧倒されそうになるが、逃げ帰るわけにもいかない。即座にネガティブな自分自身を切り替えて、効率よく目的の金庫を捜す算段を立てる。

 まずヨハンは、手近な金庫に歩み寄った。入り口に一番近くて、俯瞰した時に部屋の南西に位置する金庫だ。見ると、金庫には一つ一つ番号が割り振られているようで、近づいた金庫には「1901」という数字が刻印されている。一つ下がると数が一つ増え、一つ右に移動すると数字が十だけ増えている。このあたりの金庫にはすべて鍵が差さっている。開けてみると、中には何も入っていなかった。

 奥に進んで違う列に眼を向ける。「1201」から始まる列に、鍵が差さっていない金庫が見つかった。フロンメルトが言っていた通り、その貸金庫の扉には預けられた日付が書かれたプレートが入れられていた。日付は割と最近のものだ。また、日付の下に預け主であろうと思われる人の名前が記されていたが、セシル・マルクは偽名を用いたらしいのでここは意味がない。

 注目すべきなのは金庫の番号と日付だ。部屋の北側、すなわち奥へ行くほど数字は小さくなっていく。そしておそらく、小さいほど預けられた日は古くなっていくはずだ。もちろん、セシル・マルクのように十年にわたって預けっぱなしである場合は稀だろう。預かり主が受け取りに来て空になった金庫に、最近新しく誰かが預けることもある。そう考えると、低い数字の箇所に新しめの日付が入ることもありうる。しかしその逆、高い数字の金庫に古い預け物が入っていることはありえない。

 ヨハンは一気に数字をさかのぼり「501」の列を眺めた。「539」の金庫に、七年前の日付が見つかった。さらに移動して「401」の金庫群を捜す。そして、「414」に、十年前の事件の、数日前の日付を見つけた。預け主の名前は「LICES CARM」、リーセス・カームとある。「CESIL MARC」のアナグラムだ。

 ポーチから、さっき使ったのとは別の鍵開け装置を取り出して金庫の鍵の部分に取り付けスイッチを入れた。高い金属音と火花が出る。装置を外し、扉を開けて懐中電灯を内部に向けた。

 中に入っていたのは、A4サイズの白い封筒だった。口は糊付けされており、表にも裏にも何も書かれていない。厚みからは、少なくない枚数の紙が封入されていることがわかる。懐中電灯で封筒を透かして見ても、こんがらがった線で何かを読み取ることはできなかった。

 封筒以外、金庫には何も入っていない。封を切って中身を確かめようと、封筒の上部に手をかけた瞬間、腰につけたトランシーバーからノイズが鳴った。

「ヨハンさん、ヨハンさん」聞こえて来たのはウェストリンの相も変わらない冷静な声だった。「まずいことになった」

「なんだ?」トランシーバーを手に持って、小声で訊き返す。

「誰かが二階のトイレの窓を割って、中に入っていった」

「何だって?」肌が泡立つ不快な感覚が全身を走る。

「懐中電灯を持っている。今、光が階段を上がっていっているのが見える。走っているみたい」

「誰だ?誰なんだ、そいつは」

「強盗かもしれない。とにかく、遭遇しないほうがいいのは間違いない。一刻も早く、その場を立ち去ってください。窓が割られたということは」

 瞬間、入り口の扉が勢いよく開かれる。外から窓を通してそのシーンを見ていたのか、折よく通信は途切れた。慌てて懐中電灯の光を消す。

 心の中でウェストリンの言葉の続きを繰り返した。窓が割られたということは、警報機が作動して警備員が駆けつけてくる。銀行内部には何も変化は表れていないが、今頃、警備員の詰め所は大騒ぎしているかもしれない。警備の人間が到着したら、全てが終わってしまう。

 ヨハンは身体をかがめる。その上を光が通り過ぎた。光は天井や壁を右往左往している。

 フロンメルトからは、セシル・マルクの遺留物に加えて現金も盗んでくるよう指示を受けていた。そうすれば、侵入したのが単なる金目当ての強盗であるように偽装できるからだ。しかし状況は変わってしまった。現金を奪う余裕はない。すぐにここから逃げなければならない。

「侵入者さあん」

 いやに間延びした、男の声だった。「いるのはわかっているんですよ。扉の鍵が開いていましたからねえ。隠れてないで出てきてくださいよ」

 どうやら男は入り口に立って金庫室を見まわしているらしい。頭上をよぎる明かりの動きからそれがわかった。彼をどうにかしなければ、部屋から出ることは難しい。潜入しているのが遮蔽物の多い貸金庫室だったことが不幸中の幸いかもしれない。

 腰についているナイフの柄を掴む。これを抜くのは最終手段だ。

「東洋には、箱の鼠ということわざがあるらしいですねえ」朗々と、男はそんなことを言った。「何でも、逃げ場を失った獲物のことをそう表現するらしいのです。金庫に囲われた部屋に閉じ込められたあなたに、ぴったりな言葉だと思いませんか?」

 それは袋の鼠の間違いではないかとも思ったが、当然、そんなことを教えてやる義理も余裕もない。ただ、顔は見えないが、その声色から得意そうに語っていることだけはわかる。

 何か、大きなものが倒れる音が聞こえた。

「ロッカーを倒しました。これで抜け出すことはさらに難しくなりましたよ」

 入り口の横にあったロッカーをヨハンは思い出す。確か扉はうち開きだった。この部屋から出るためには、そのロッカーをどかさなければならない。

 背筋が冷えるのを感じる。この上ない窮地に、自分は立たされているらしい。

 姿勢を低くしたまま、部屋の北東に移動する。男がいる出入口は部屋の南西にある。この場所が部屋で一番、男から遠く、会話を聞かれる危険性も低い。

「ウェストリン、まずいことになった。出口をふさがれたらしい。戦闘は避けられそうにない。敵は……警備員かもしれない」

「警備員……フロンメルトさんの資料によると」すぐさま返答が来る。「彼らは警棒を持っています。それにおそらく防具も身に着けているはずだ」

 そう言われて、ようやく相手が防具を身につけている可能性に思い当たる。思えば、男は侵入者がいることを前から察知している口ぶりだった。であれば当然、装備を整えているはずだ。

「おや、何か聞こえますねえ」

 とっさにヨハンはトランシーバーの通信を切った。大きな足音がこちらに近づいてくる。瞬間、懐中電灯の光がヨハンをとらえた。

「見つけましたよ」

 男は部屋の中心の金庫の上に立って、ヨハンを見下ろしていた。こうなればもう、隠れている意味もない。ヨハンは立ち上がって、その身を晒して見せた。

 逆光で見えにくいが、そこに立っているのは中年でやや小太りの警備員だった。ヘルメットや盾を装備している様子はない。

 ヨハンはポーチから役目を終えた鍵開け装置を取り出し、男に向かって投げつけた。「おっと」という声を出して、男はそれを避ける。その隙をついて、ヨハンは走り出して「001」から始まる金庫の陰に隠れた。

「ヨハンさん」再びトランシーバーが鳴り出した。ヨハンはマントの端でスピーカーの部分を押さえて音が男に届かないようにした。「返答はいりません。これから敵を倒すと同時にそこから脱出するための作戦を伝えます」

「あれ?どこへ行きました?」男の声が遠ざかる。どうやら出入り口に向かったらしい。逃げ出すのを警戒しているようだ。

「今から八分後の二時三十五分ちょうどに、男を部屋の北西に追いやってください。三十五分、北西です。お願いします」

 何をするつもりなのか言うことなく、通信は切れてしまう。舌打ちしたい衝動を抑えつつ、ヨハンは懐中時計を取り出して文字盤に目を凝らす。今は二十七分二十秒。七分半後に、男の身体を部屋の北西に誘導する。今はとにかく、ウェストリンを信頼するしかない。ヨハンの頭は自分自身が生き残るために必死で思考を開始した。

「侵入者さん」静寂と緊張に満ちた部屋に男の声が響く。「いつまでだんまりを続けているつもりなんですか?私は私の仕事をすぐにでも終えて、家族が眠っている温かい家に一刻も早く帰りたいんですがねえ」

 どうやら、男はおしゃべりが好きらしい。その性格を利用できないだろうか?ヨハンはフードを深くかぶり、金庫の陰から姿を出し、三十メートルほどの距離を隔てて男に相対した。

「ようやく姿を現してくれましたか」男は芝居がかった動作で両手を広げた。「私の名前はクーベルタンと言います。あなたの名前を聞いておきましょう」

「マルク」とっさにヨハンは友の名前を借りた。「なあ、どうしてあんたは私がここに侵入したことに気が付いたんだ?ガラスを割らなければ警報機は作動しないんだろう?」

「もっともな疑問です、マルクさん」クーベルタンは右手で腰から警棒を抜いて、腕の振りを使ってそれを伸ばした。「あなたは毎週木曜日、ここの施錠担当の人間が二階のトイレの窓の鍵を開けたまま帰宅してしまうことに気が付いて、銀行強盗を目論んだのでしょう?何を隠そう、その木曜の施錠担当の警備こそ、このクーベルタンなのですよ。私は、あなたみたいな哀れな盗人をあえて誘導するために、わざと鍵を開けたままにしていたのです」

 窓の鍵が開いていたのは、侵入者をあえて銀行内に招き入れるための罠だったというわけだ。

 迂闊だった。侵入するチャンスに盲目になって、そこに潜んでいる意味に気が付けなかった。

「窓には開閉を感知するセンサーが取り付けられていましてね、銀行内に人が入った途端、私の自宅に連絡が来るようになっているのです。いわばあなたは、罠に捕らえられた一匹の鼠。すでに私との知恵比べで負けているのですよ」

 クーベルタンは左手に電灯を、右手には警棒を持って、ヨハンとの距離を少しずつ詰める。

「いったい何のために、あんたは侵入者を招き寄せるような真似をするんだ」

「それはもう、愛する家族のためですよ!」質問に対し、男は舞台に立つ俳優のように仰々しく答えた。「私には娘が二人、息子が一人います。みんな、私のことを慕ってくれる可愛い可愛い子どもたちです。そして何より、何よりも美しい、愛すべき妻がおります。先ほどまで、家族全員で布団を共有し、深い夢を見ていました。マルクさん、あなたには同じ布団で同じ夢を見てくれるような、そんな愛おしい存在がいますか?」

 ヨハンは何も、答えない。

「いいえ、あなたみたいな人間にはそんな存在、いるはずがありません!そんな特別な存在がいるのなら、こんな夜中に家を飛び出してくるはずがないからです。家族で眠る心地よさを知っているならば、そんな真似は絶対にできません。私だって、本当はこんなところまで来たくありませんでした。布団を抜け出して徐々に失われていく温もりに、私は涙が出そうでした」

 クーベルタンは鼻を鳴らした。彼の言葉はますます熱を帯びていく。

「しかし、やらなければならないのです。警備員の賃金は頭を抱えるほど少ないのです。とても、寒い冬を家族五人で越せるようなものではありません。だから、ですよ。だから私は侵入者をおびき寄せ、その人間を捕らえることで手柄を独り占めし、報酬を手に入れるのです。全ては愛すべき家族のため!家族のためであれば、たとえ炎の中にだって飛び込めるでしょう!」

 彼の右手が闇の中を動く。警棒が空気を切り裂く音が聞こえた。

「さあ、そろそろいいでしょう。あなたにも事情があるかもしれませんが、家族愛のために犠牲になってもらいます」

 クーベルタンはゆっくり、にじり寄ってくる。彼の息遣いが暗闇を通して伝わってくる。彼の精神も極限状態にあるらしい。犯罪者を前にして、この上なく緊張している。

 それとは対照的に、ヨハンの頭は落ち着いていた。時間はだいぶ稼ぐことができた。手に持った時計にちらりと眼を落とす。三十五分まであと、二分半と少し。

 ヨハンは腰を軽く落とし、両手を前に出して構えを取る。ナイフは抜かない。そのほうが相手を油断させられる。

 奇声を上げながら、クーベルタンが警棒を振り上げる。ヨハンは身を引いて、その一撃を回避した。動きはあまり早くないものの、暗闇のせいで黒い警棒の軌道が読みにくい。

 クーベルタンは続けて二回、警棒を振るった。それも軽くステップを踏んで避ける。再び少し距離を取ろうとしたとき、クーベルタンが持っていた懐中電灯を天井に向かって投げた。

 ヨハンは無意識にそれを目で追ってしまう。

 まずいと思ってもすでに時は遅く、無防備になったヨハンの首を警棒が捉えた。

 視界が一瞬明るくなったかと思えば、身体が真横に吹き飛ばされ、地面にこすりつけられる。視界の端で、落下する懐中電灯の光が踊るように周囲を照らした。

「はあ……はあ……やっと当たりましたよ」

 クーベルタンは懐中電灯を拾いあげ、ヨハンが倒れた所に光を向けた。ヨハンは転がりながら身に着けていたマントを脱ぎ、クーベルタンへ投げつける。彼はそれを警棒でいなした。

 が、それが悪手だった。マントが警棒に引っかかったのだ。ヨハンが距離を詰める。クーベルタンは再び警棒を振りかざしたが、マントの重みでそれも遅い。ヨハンはすかさず、右手を彼の胴体に叩き込んだ。

 クーベルタンはよろめきながら後退する。ヨハンはせき込みながら、再び構えを取った。痺れが残るが、まだまだ動ける。

「愛する、家族が、待っているんでね……倒れるわけには、いきませんよぉ」

 その言葉は明らかに虚勢だった。若かりし頃はもっと動けたのかもしれない。しかし年齢を重ね、脂肪を身に着けた彼の体力は、実戦の緊張感に耐え得るものではなかった。

 態勢を立て直したクーベルタンは再び右手を振り上げる。ヨハンはその攻撃を左に避けてから、左手で彼の顔面に突きを入れた。

 クーベルタンはたたらを踏むようにして、北側の壁にもたれかかる。肩で呼吸をしながら、ヨハンをにらみつけた。

「や、やりますねえ、あなた……しかし、まだ、まだです。私はけっこう、我慢強いと、仲間の内でも、評判でねえ」

 壁に背中を預け、クーベルタンは両手を広げた。

「か、家族のためにも、負けられま」

 壁に何かが当たる音がした。クーベルタンはその音に最後まで気が付かなかった。

 瞬間、壁が火炎と轟音とともに破壊された。クーベルタンの身体は、衝撃でヨハンの後方へと吹き飛んだ。あまりの熱気と衝撃に、ヨハンは両腕で顔を覆う。

 貸金庫の北西の壁は見事に無くなり、黒煙と地面を這う炎の隙間から真夜中の街が見渡せた。そして、近くの家の屋根に手を振っている人が見えた。

 ウェストリンだった。無言で手招いて、ヨハンを呼んでいる。

 ヨハンは崩れかけた壁に手をかけて、そちらへ行こうとする。ふと振り向いて部屋を見返すと、破壊の衝撃で吹き飛ばされたクーベルタンの無残な身体がはるか後方に横たわっていた。

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