第二章 襲撃 1

 杜撰な都市計画で創られた首都・ロジアルドの迷路のように入り組んだ道を車で移動することははばかられた。ナンバーなどで容易に特定されるし、場所によっては検問も行われているかもしれない。

 三人はマントで身を包みながら細い道を通行する。この時間の大通りは通勤する人でごった返している。木を隠すなら森の中という言葉のように、その中を紛れて進む手もあるが、一方で、選挙が近づいている今、通りには街頭演説をする政治家やそれに付随する警備員が周囲を見渡している。フードで顔を隠せるとはいえ、そのような場所に近づくことはためらわれる。

 一時間弱はかかっただろうか。拠点として案内されたのは、先ほどいたのと同じような、目的がなければ注意して見ることもしないであろう、何の変哲もない二階建ての家屋だった。

 フロンメルトがリズミカルにドアノッカーを鳴らす。思えば、昨夜の彼のノックの仕方も普通ではなかった。この特殊な鳴らし方は合言葉みたいなものなのかもしれない。家が燃えてこの上なく焦っていたとはいえ、これしきの事に気が付かない自分自身を情けなく感じた。

「おかえりなさい」

 出迎えたのは昨日と同じ、体格の良い女性だった。彼女はヨハンに気が付くと、軽く頭を下げた。ナスターシャとフロンメルトはただいま、と返したがヨハンはさすがに言う気になれず、フードを取って、玄関を開けた女性に会釈するだけにとどめた。

「ナスターシャ、あんたはまず治療するぞ」

「治療?」フードを取り、顔面を露わにしたナスターシャを見て、背の高い女性は目を見開いた。「凄い傷ですね。何があったんですか?」

「警察を三人殺した」ナスターシャは手で自分の傷に触れて、顔を歪ませた。

「三人……ナスターシャさんがそんなになるなんて、相手は相当の手練れだったんですね」

「治療している間、お前たちは自己紹介でもやっておいてくれ。これから一緒に戦うことになるんだ。背中を預ける相手は信頼のおけるヤツのほうがいい」

 フロンメルトはそう言って、ナスターシャとともに二階へ上がっていた。残された二人は顔を見合わせる。

「ああ、えっと」初めに口を開いたのはヨハンのほうだった。「名前は確か、ノルダルさん、でいいのかな」

「はい。リオン・ノルダルといいます。ヨハン・ハーバートさんですよね。昨日は手荒いことをして、申し訳ありませんでした」そう言って彼女は深く頭を下げた。「そうするのが最もいいと、ナスターシャさんが言ったんです。あなたは普段冷静だけど、想定外のことが起こるとパニックになりやすい、だから一晩中閉じ込めてして頭を冷やさせるべきだって」

 あの軟禁はヨハンに現実を認識させるためにナスターシャが考えた作戦だったらしい。結果的に、今こうして彼女と行動を共にすることになっているのだから、その作戦は功を奏したと言える。シャルロッテがもう死んでしまっていたことを、せめて夜のうちに教えてくれればよかったと思わないでもなかったが、教えられたところで受け入れられたとも思えなかった。結局のところ、新聞記事を突き付けるやり方で教えてもらったのが、最善だったのかもしれない。

「とりあえず、シャワーを浴びて血を洗い流して、清潔なものに着替えてから話をしましょう。バスルームは奥にあります」

 案内された浴室で、ヨハンは再びシャワーを浴びる。最後にシャワーを浴びた時から、時間にして三時間ほどしか間隔は開いていない。この三時間の間に色々なことがあった。まがい物の歴史、父の死の真実……そして、警察の殺害。

 お湯に解凍されていくように、凝り固まった筋肉がほぐされていく。それと同時に、手のひらの震えと、その両手に伝わってきた人の肉を切り裂く感覚が蘇ってくる。人の命を奪ってしまったという観念が今になってようやく、現実的なものとしてヨハンに襲い掛かってくる。

 濁流のように流れ出したねばつく熱い血液と、むせかえんばかりの鉄のにおい。今頃、あの男の身体は血が抜かれて冷え切っていることだろう。その生命の熱を奪ってしまったのは、ほかでもないヨハン自身だった。

 だが、あのまま警察の為すことを眺めていたら、首が折れたナスターシャの死体を見ることになっていた。それだけは、なんとしても阻止するべきだった。無残に横たわる彼女の死体のうつろなまなざしを想像するだけで、絶望的な気分になる。

 浴室を出て用意されていた新しい衣服を身に着け、部屋に戻る。ノルダルは、彼の分の紅茶をダイニングテーブルの上に用意した。

「フロンメルトから、まだ朝食を食べていないと聞きました。何か用意しましょうか?」

「いや、いい……とてもそんな精神状態じゃない」

 そうですか、と彼女は言って、四つあるうちの一つに座る。ヨハンはその向かいの、カップが置いてある位置に腰を下ろした。深い色をした紅茶からは、香ばしさとレモンの爽やかさが混ざったにおいが立ち上っている。

「警察官を殺したんですよね」唐突に、彼女がそう言った。「さっき、二階に様子を見に行った時にナスターシャさんから事情を聞きました」

「そうか、彼女の怪我の具合はどうだった?」

「それほど深刻なものではなさそうです。ですが、一歩間違えば死んでいたかもしれない状況にあったそうですね。そこをあなたが助けてくれたと。人を殺したのは初めてですか」

「それは、当然だろう」やや強い語調でヨハンは言う。

「だから、食欲がないのですか?しかし食べなければ死んでしまいますよ。戦い続けるのならば、食べて体力をつけないと。私は、警察でそう教えられました」

 警察、という言葉を聞いてヨハンは顔を上げる。

「もちろん、今の私は警察組織とは何のかかわりもありません。ただ、暴力を請け負わなければならないのはどこにいても同じです」

 声量は小さくても、その声にはまっすぐと芯が通っているような気がした。身体にすっと入ってくるような、そんな声だ。

「こう考えてはいかがでしょうか。あなたは人を殺してしまった。その手にかけてしまった人の分まで、誠実に生きなければならない、と」

「誠実?殺人とは最もかけ離れた言葉だ」

「自分自身に対する誠実です。あなたはもう境界線を乗り越えてしまった。ですからせめて、与えられた役割を全うするべきだと思うんです。中途半端に腐って甘えながら生きていくことは他人の命を奪った人間には許されません」

 ノルダルの言葉はある種の信念に満ちていた。小さくも芯の通ったその声は、殺人で重たくなったヨハンの脳にすっと入ってくる。

「今は苦しくても、きっと死んだ後に地獄に落とされて、罪は洗い流されますよ。罪の清算はいつか必ず行われます。それまで、必死に生きる努力をしてください」

「……あなたの考えはどうにも、私には力強すぎる」ヨハンはため息をついた。

 彼女の考えは、地獄をも救いの装置にしてしまっている。形而上的なものに馴染みが無いヨハンはその思考を現実的なものとして捉えられなかったが、少なくともそう心から信じている人間が目の前にいるという事実が、わずかな救いに感じられた。

 本当に、わずかだが。

「……ノルダルさんは」ヨハンは紅茶を一口飲んでから、言う。「どうして警察をやめてナスターシャについていっているんだ?そもそも……君たちは何らかの組織の一員なのか?」

「――――――」

「え?」

「聞き取れませんでしたか?」彼女は小さく咳払いして、今度は一つ一つの言葉を区切るようにして発音した。「レジスタンス、と言いました。かつて『抵抗する者たち』を意味するために使われていた言葉だそうです。今は使われなくなってしまいましたが、ナスターシャさんがお父様から教わって、組織の名前として使わせてもらっています」

 その言葉はナスターシャがいま朝発した、国家間に発生した大規模殺戮を意味する言葉と同じく、正しく継承されなかった言葉だった。

「トップはナスターシャさんで構成員は……どれくらいいるのでしょう、私にもわかりません」

「わからない?そんなに大きな組織なのか」

「いえ、そういうわけではなく、構成員が一斉に集合することはなく、分散して活動しているので、全貌が把握できていないんです。正確な人数を知っているのは、ナスターシャさんだけかもしれません。個人的には、五十人ほどではないかなと思うんですが」

 勘ですけどね、と言って彼女は紅茶を飲んだ。

「構成員の数すら把握できないとは……ずいぶん秘密主義な組織なんだな」

 何気なく言ったのだが、今のは批判に受け取られたのかもしれないと、ヨハンは半ば反省する。ノルダルは気分を害した様子は見せず、首を縦に振った。

「見方によってはそうかもしれませんが、そのような体制であるメリットもあります。誰かが党に掴まって、自白剤を飲まされても、知らないことは言うことができません」

「リスクの分散というわけか。この方針を考えたのもナスターシャか?」

「はい。あの人は、正しい判断で私たちを導いてくれます。人の上に立つ器、とはあのような方を言うのでしょうね。あの人ならきっと、世界をいい方向に変えてくれます」

 二階から、フロンメルトとナスターシャが降りてくる。彼女の顔のほとんどは白いガーゼで覆われていた。彼らに気が付くと、ノルダルは小さな声で、おかえりなさい、と言った。

「しばらくは表立って行動できませんね」

「腫れは一週間も経たないうちにひくだろう。ノルダル、俺にも紅茶を淹れてくれ」

「自分で淹れてください」

 無言で、フロンメルトは台所に向かう。ナスターシャはノルダルの隣の椅子に座った。

「ナスターシャ、君は……」ヨハンは彼女の話を耳にしてから訊きたかった問いをまとめたが、発さずに口を閉じる。

「君は、なんだ?」吐息が混じった掠れた声で訊き返す。

「いや、愚問だった。気にしないでくれ」

「おいおい」ナスターシャは組んだ両手の上に顎を乗せる。「君と私の仲じゃないか、ヨハン。どんなにつまらない、程度の低い質問でも言ってくれてかまわないよ。私たちの間に屈託は無しだ」

「……それでは訊くが、ナスターシャ、君はなぜ友愛党と戦おうとするんだ」

「警察を殺しておいて、今更それを訊くかね」そう言ったのは、フロンメルトだった。

「フロンメルト。質問を受けているのは私だ」彼の背中を軽くにらんでから、ナスターシャはヨハンに視線を戻す。「確かに、まだ説明していなかったかもしれないが……だが、あまりいい質問とも言えないな。推測することだって可能だし、そもそも私もヨハンも、父親を友愛党に殺されたという点では彼らを憎んでしかるべきだろう」

「それは、そうだ。だが君の態度は個人的な復讐を超えたものまで抱えているような気がする」

「ああ、そうだな。人類の歴史。それを自分たちの手に取り戻したいというのも、目的の一つ……いや、どちらかといえば、そっちのほうが復讐よりも重要だ」

 フロンメルトが彼女の分の紅茶をテーブルの上に置いた。ありがとう、と彼女は礼を言う。

「人々に忘れ去られた時、人間は初めて死ぬという主張があるが、それによるなら友愛党は想像もできないくらい多くの人間を殺したということになる」

 想像もできないという彼女の言葉は比喩ではなかった。歴史の忘却とはすなわち、想像することすら難しくすることだ。

「私はどんなことが過去に起こったとしても、歴史を今生きている人たちは受けとめて、未来へ送り出すべきだと思っている。正しいか間違っているかどうかは、その時を生きる人が判断すればいい。勝手に一握りの人間が継承を断ち切るなんて、今まで生きて来た人間に対する冒涜だ。その傲慢は、万死に値する罪だ」

「……だから、友愛党と戦わなくてはならない、というわけか?」

「ああ。そして、歴史を大衆に取り戻す。それが父を含め、人類史の半ばで命を落としてきた人間に対する礼儀だろう」

 ナスターシャはそう言い切った。彼女の眼は使命に燃えて、強い意志に満ちている。

「二人も、同じ理由で党と戦っているのか?」

「まあ、そうですね」

 ノルダルは軽くうなずいた。フロンメルトは特に何も反応をせず、紅茶を口にした。

「なあ、私は何をやればいいんだ。私にできることと言えば、せいぜい治療くらいだが……」

 そうは言ったが、内科だったヨハンにはフロンメルトが施したような手術はできない。戦うとなれば、骨折や打撲などと言った外傷を抱える人間も組織には多くいるはずだが、そういったケガ人の治療は彼には難しいと思われた。

「いや、君はどちらかと言えば実働部隊としてはたらいてもらいたい。敵地に赴いて秘密を探り、場合によっては戦闘することもあるかもしれない」

「戦闘?私が?無理だよ。今日だって、刀を持った警察官を前に足がすくんで仕方がなかった」

「でもヨハンは、勇気を出して私を助けてくれたじゃないか。あの時君がそうしてくれなかったら、私は今ここでこうして紅茶を飲むこともできなかった」

 彼女は片手でカップを持ってみせた。

「刀が怖いのは当然だ。私だって昔は恐ろしかった。いや、今でも恐ろしくてたまらない。だが、戦い方を知ってうまく立ち回れば。刀を持つ人間が相手だろうと簡単には負けないだろう……と、言い切りたいんだが、今の私が言っても説得力がないかな」

 そう言ってナスターシャは照れるような笑みをこぼした。

「ナスターシャさんが言うことは正しいですよ」隣に座るノルダルがフォローする。「確かに刀の持つ殺傷能力は高いです。手入れされているものなら、簡単に敵の骨を断ち切れます。ただ、強力なぶん、いくつか弱点があるのも事実です。そこをつけば、戦況をひっくり返すことは不可能ではありません」

「だ、そうだ。ヨハン、君はまず、ノルダルに師事して基本的な戦闘術を学んでくれ」

 ノルダルが座ったまま頭を下げる。警察にいたのであれば逮捕術なども学んでいるはずだ。今朝、警察と戦ったように、この先も主に彼らを相手取らなければならないのであれば、警察内部にいて警察の戦闘術を知っている彼女はこの上ない適任だと言える。

「十一月二十日、友愛党は大規模な演説会を開く予定だ。我々の目的はさしあたり、演説までに奴らを無力化し、大衆に真実を伝えて支配から逃れることだ」

「無力化?具体的にどうするんだ?まさか、皆殺しにするわけにもいかないだろう」

「それは現実的ではないな」ナスターシャは真顔で言った。「党のリーダーを暗殺する。ただし、暗殺するのは党首ではなく、実質的なトップを務める広報局局長だ。そいつを排除すれば、党は政治組織の皮をかぶった烏合の衆に成り下がる」

 アンドレ・グーゼンス。それが党の広報局局長を務める人物の名だった。

「友愛党は代謝の良い組織で、党員の入れ替わりは比較的多いのだが、彼だけはずっと局長を務めている。そいつを演説の事前に暗殺し、会を乗っ取り、そこで歴史の真実を暴露する」

 抽象的だがシンプルでわかりやすい計画だとヨハンは思った。実現可能かどうかは措いといて、目標とするところが明確だ。

「演説会までも期間も短い。だからヨハン、君に与えられる時間はせいぜい一週間くらいだ」

「……一週間」ヨハンは突き付けられたその数字を繰り返した。「本気で言っているのか?一週間で数年、警察学校で訓練を積んだ人間と渡りあえる戦闘能力を身につけろと?」

「私は本気だ」ナスターシャは突き刺すような視線をヨハンに送る。「大丈夫、君ならできる。私は君の運動能力、学習能力、ともに人より卓越していることを学生時代から知っている。ノルダルは良い教師だし、何とかなるだろう」

 ヨハンは長い息を吐いた。一度こうと決めたナスターシャの意志を曲げるのは容易ではない。

「わかった。そっちはどうするんだ?」

「私は、そうだな……ここに残って君の訓練を見守るのもやぶさかではないが」

「あんたには違う仕事があるだろ」平坦な声で、彼女の向かいに座るフロンメルトが口をはさむ。眼を細くしたナスターシャが彼を見返した。

「ああ、そうだった。残念だよ」

 そう言って口元に笑みを浮かべる彼女の声は、本当に残念そうにヨハンには聞こえた。

 ナスターシャとフロンメルトは、それからおよそ一時間後に家を出て行った。

「じゃあな、ヨハン」来た時と同じようなマントをはおって、ナスターシャが玄関口でヨハンに右手を上げる。「一週間後にまた会おう。その時に強くなった君を見るのが楽しみだ」

「あまり期待しないでくれ」

 ヨハンとナスターシャは別れ際に握手をする。同じように、フロンメルトとも握手をした。

「あんた、俺のこと恨んでいるかい」フロンメルトはそう訊ねた。

「さあ、どうかな」否定はできなかった。しかしこの男に対して憎しみを抱いているかというと、そうでもないような気がする。

 誰を恨めばいいのだろう?ヨハンは自問をする。家に火をつけた人間か、それともシャルロッテとともに死んだ、名前も顔もわからないあの男か。どちらに対しても、憎しみとは別の感覚がある。友愛党を憎むには、ヨハンにとって対象が抽象的すぎたし、男に対しては憎悪よりも、死という特別な時間をシャルロッテと共有していることへの羨望を抱いた。

「どんな感情を抱いていてようとも」フロンメルトは無表情で言った。「少なくとも今現在、俺たちはあんたの仲間だ。何かあったら、誰かを頼れ」

「ああ、わかった」

「……頼むぜ」

 二人は家を後にした。何をしようとしているのか、フロンメルトもナスターシャも伝えなかったが、彼らは彼らで、危険に身を投じるのかもしれない。一週間後、ナスターシャが命を失わないでいることを、ヨハンは強く祈った。


 それから一週間はヨハンにとって地獄の日々だった。

「ヨハンさん、警察官と戦う時に最も大切なことは何だと思いますか」

 ナスターシャとフロンメルトが出て行った後、二人は軽い昼食を取った。

 ヨハンは向かいに座ったノルダルの質問に少し考えてから答える。「……そうだな、やっぱり刀での攻撃に注意を払うべきじゃないか」

「その通りです」彼女はできの良い生徒を前にした教師のように満足げに頷く。「刀の攻撃は当たると致命傷になります。ですから何よりもまず、刀に気を付けることを徹底してください」

「気を付ける……具体的に何をすればいい?」

「一番有効なのは、狭い場所で戦うことですね。刀は相手を突き刺すためではなく、切るために設計された武具です。振り回すことのできない狭い場所で戦えば、相手の動きを封じることができます」

「ああ、なるほど」彼女の発言で、今朝のことについて納得する。「直接確認してはいないんだが、今朝、ナスターシャが警察官二人を地下の廊下に連れ込んだのも……」

「ええ、万が一の際、刀を抜かれないことを念頭に置いたのでしょう」

 あの時、三人目が入り込んで危機的な状況に陥った。あの警察官が手でナスターシャを暴行したのではなく、刀を用いて一撃で彼女の命を奪い去っていたら、今頃ヨハンはこの場所にいなかっただろう。

「警察の基本装備は刀のみです。これはかつて警察組織が過剰に武器を所有することが反乱につながるのではないかと危惧した政府高官による制限が原因だそうです。おかげで彼らは室内では武器を使うことができません。私たちにとっては幸運ですが、なんだかマヌケですよね」

 ノルダルは呆れたようにそう言った。

「とにかく、警察と相対するときは狭い屋内で戦うことを意識すればいいんだな」

「はい。外ではできる限り戦わないでください。外で戦闘状態に陥った時、まずは屋内に逃げ込めば、生存の確率はぐっと上がります」

「……一応聞いておくが、それができない場合はどうすればいい」

「良い質問ですね」

 ノルダルはおもむろに立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあった棒状のものを手にして、ヨハンに向きなおる。

 それは木刀だった。重厚な威圧感を持つそれは、ノルダルの手に収まると、本物の刀と変わらない破壊力を持っているようにヨハンには見えた。

「それについて、今から学習しましょう」

「……は?」

「屋外で戦闘しなければいけなくなり、逃げることもできない。そのような状況が一番絶望的です。最悪のシチュエーションについての学習が、最も重要ですよね……さあ、中庭へどうぞ」

 ノルダルは真顔で、手を玄関の向かいにある扉に向ける。彼女の眼は真剣そのもので、ヨハンは半ばその圧に押されるようにして外へ出た。

 中庭は住宅の隙間を縫う形で作られていた。そこは四方を二階建ての住居で囲まれた五メートル四方ほどの正方形で、四隅には白い小さな花が植わっている。ちょうど昼時だから、太陽は真上にあって陽光が一直線に降り注いでいるが、この庭に陽が射す時間は一日の中でも限られているに違いない。上を仰ぐと、真四角に切り取られた空が覆いかぶさっている。

「もっと広い場所でやりたいのですが、公園などでは人の眼をひいてしまいます。申し訳ありませんが、このような場所で我慢してください」

「別に場所は気にならないが……その木刀、何に使うんだ?」

「当然、私がこれでヨハンさんを攻撃します」

 ヨハンは自分の嫌な予感が的中したことを悟った。

「あなたはとにかく、避けることに集中してください。一度でも刀が当たったら仕切り直します。実際、刀の攻撃を一度でも受けてしまったら、態勢を立て直すのは難しいでしょうから」

「避けるって……待て、こちらは素手なんだが」

「反撃することは考えないでください。選択肢が増えればその分、反応が遅れます。今、学ぶべきなのは、相手を殺すことではなく、自分が死なないことです。それでは……行きます」

 ノルダルは流麗な動作で木刀を体の中心に構え、切先をヨハンに向けた。その洗練された動き一つで場の空気が一変したのをヨハンは肌で感じ取った。

 後ろ脚を蹴って彼女が前に出る。ヨハンは反射的に後ろに飛びのいた。しかしノルダルの間合いの詰め方は、ヨハンの瞬発力を大きく上回っていた。瞬きする間もなく、木刀が冬の中庭の空気を切り裂いて、ヨハンの左の腿を強かに撃つ。

 身体が根底から折れ曲がる感覚がして、視界が半回転する。声を出せないまま、ヨハンの側頭部はそのまま冬枯れた茶色い芝に激突した。頬に焼けるような痛みが走る。

「うううう……」

 ヨハンは地面に横たわったままうめき声をあげた。苦い草の臭いがいっぱいに広がる。

「立てますか?」

 彼に向って手を差し出すノルダル。ヨハンはその手を掴んで立ち上がった。左足の腿はそこだけ熱湯を浴びたように熱い。

「あ、足に力が入らない」

「右足にはダメージが無いでしょう?さあ、もう一度行きますよ」

「ま、待て……」

 ノルダルはもう一度、木刀をヨハンのほうへ向けた。頭の右上に刀を掲げ、ヨハンに近づく。いまだ臨戦態勢に入れないヨハンは、鬼気迫る彼女に気おされてよろけるように後ずさったが、震える足がもつれて転倒してしまう。

 木刀が今まさに振り下ろされんとする。ヨハンは痛みを受けたくない一心で、頭を両手で囲って防御姿勢を取る。そのままの姿勢で数秒経過し、どうかしたのか彼女の様子をうかがおうと軽く顔を上げて両腕の隙間からノルダルをうかがった瞬間、刀が軽く脳天に触れた。

「これで二回、死にました」冷然と彼女は言った。「この場合、防御するのはあまりよくありません。相手が武器を持ってないならともかく、刀が相手では両手ごと切られておしまいです。さあ、もう一度立って」

「なあ、少々厳しすぎやしないか」ヨハンはよろめきながら立ち上がる。

「厳しくするよう、ナスターシャさんから仰せつかっているので」

「……ああ、そうかい」

 二、三度、ヨハンは深呼吸をする。ノルダルは再び、木刀を構えた。

 ヨハンは必死に頭を回転させる。ナスターシャがこのような訓練をするよう言ったのなら、それはヨハンにこの試練を乗り越える能力があると見越してのことだろう。彼女は相手の能力を正しく測る審美眼を持っている。

 ナスターシャの有能さをヨハンは信じていた。彼女は無理難題を決して押し付けない。彼女ができると判断した以上、自分の能力を十全に発揮すれば、この困難を乗り越えることは可能なはずだ。

 ノルダルが前進するとともに、木刀を持ち上げる。

 瞬間、ヨハンはやや前傾姿勢を取り、右足に力を入れてノルダルに突進する。

 彼女は身体を左に移動させ、正面に来たヨハンの背中に刀の柄を突き刺した。

 雷に打たれたような感覚が、ヨハンの全身に走り、身体が地面に叩きつけられる。呼吸が止まり、手足の末端が痙攣し、意識が途切れがちになる。

「ああ……大丈夫ですか?やりすぎたかも」

 不安げな声をノルダルが上げる。ヨハンはしばらく、陸に打ち上げられた魚みたいに芝の上で痙攣していた。

「すみません、ヨハンさん」ノルダルは彼の横にしゃがみこんだ。「まさか三回目で反撃してくるとは……攻撃するなと言っても、攻撃しようとしてくる血気盛んな人はたまにいるんですが、何回も試してから反撃しようとするのが普通です。こんな早い段階で攻撃してくるなんて……」

 なんて言い訳がましい言葉を、ヨハンは点滅する意識の中で聞いていた。過去の思い出が、頭の中でよぎる。

 シャルロッテ、ナスターシャ、ヴェルナー。

 ヴェルナー……再び彼と顔を合わせる機会があるのだろうか。

「ああそういえば、ヴェルナーのことなんだが」

 フロンメルトとナスターシャが家を出ていく前、彼女が級友のことを話題に出す。

「ヨハンの話を聞くと、あいつは普通の巡査員みたいだな。そうでなければ昼食に君の勤務していた病院まで来れないだろう」

「ああ、確か本人もそう言っていた気がする。治安維持のために長時間、街を徘徊していると」

 徘徊、という言葉遣いがおかしかったのでそのことは覚えていた。くだらないことばかり覚えているものだと、ヨハンは懐古する。

「となると、ヴェルナーと直接戦闘をすることはないかもしれない。今朝私たちの家に来たのは、警察内部に秘密裏に存在している党直属の少数精鋭部隊なんだ。市民はもちろん、普通の警官はその存在自体知らない。一般巡査であるヴェルナーも、おそらく関知していないだろう」

 ヨハンの家を燃やしたのも、そいつらの仕業だろうとナスターシャは推測する。彼らは普通の警察に紛れて、友愛党の支配の妨げになりそうな因子を消すために行動しているのだ。

「だが、ヴェルナーと殺し合わなければならない状況に陥ることも十分に考えられる。いざとなれば見知らぬ警察だけでなく……かつての親友をも手にかけなければならないことを覚悟しておいてくれ」

 なぜ、急にこの会話を思い出したのだろう?ノルダルの攻撃で地面に這いつくばったヨハンは、寝返りをうって空を仰ぐ。四方を壁で囲まれた空と、少し中心から外れた太陽を目に入れながら、必死に酸素を取り込もうとする。次第に手足の痺れが取れていき、脳に新鮮な酸素が送り込まれて思考がクリアになる。

 ヴェルナーはヨハンの家の悲劇が起こることを知っていたのではないか。そんな考えが彼の頭に浮上した。

 最後に会った時の彼の様子は、どことなくおかしかった。今思えば、何か重大なことを隠しているような、そんなよそよそしさがあの日のヴェルナーにはあったし、「もう二度と来ない」というセリフは、ヨハンとの縁がそこで途絶えることを暗示していたようにも思える。

 いや、わからない。ヨハンは軽く首を横に振る。あの態度もそのセリフも、彼特有の質の悪い冗談だったのかもしれない。自分の知っているヴェルナーは、どんな人間だっただろうか?今更、そんな不確かなことを考える。

「あの……大丈夫ですか」ノルダルが上から覗き込んで影が落ちる。ヨハンの思考は中断された。「もしご気分が優れないようでしたら、少々休息の時間を取りましょうか」

「いや、大丈夫だ」ヨハンは上半身を起こした。多少、手足に痺れが残るものの、極端に動きが鈍ったというわけではなさそうだ。「……続けよう」

 ノルダルは無言でうなずいて、距離を取って再び構える。

 ヨハンの心中にはもう、恐怖はなかった。生き残るために、眼にも止まらぬ一撃に対処するためにはどうすればいいか、必死に考える。

 ノルダルが振りかぶる。

 ヨハンは一歩、後ろに下がる。

 そして、木刀が唸りを上げて振り下ろされる、そのタイミングに合わせて、ヨハンは思いっきりジャンプをした。

 刀は彼の足元の芝を撫で斬って通過した。ヨハンが地面に着地した後、ノルダルは構えを解き、切先を地面に向け、微笑んだ。

「素晴らしいです。こんなに早く気が付けるとは思っていませんでした。さすが、ナスターシャさんが連れて来ただけのことはありますね」

「ああ……死に直面すれば、人間、普段以上のパフォーマンスが発揮できるというのはどうやら正しいらしい」

 今朝、警察官の男と戦った後のような筋肉の緊張が身体にのしかかる。だがこの凝りは、成長のために必要らしいと、ヨハンは直感していた。

「警察では、初撃は必ず足元を狙うように教えられます。彼らの目的は犯罪者を殺すことではなく、生かして捕らえることです。犯罪者を裁くことができず、その命を奪って全てを済ましてしまうことは、司法における敗北を意味します」

「だからまずは足を狙って相手を無力化するということか。脚なら多少傷ついても、死なない」

「ええ。彼らの最初の攻撃は、必ず、脚を狙う。これがわかっていたら、戦闘でかなり有利に立てます」

「……口頭で教えてくれてもよかったじゃないか」

「身をもって思い知った経験と、簡単に伝達された情報では、理解度も違いますし、いざという時に適切な行動ができるかどうかも変わってくるでしょう。本番の相手が持っているのは、木刀ではなく、本物の刀ですからね」

 確かに、真剣を前にした極限状態で、適切な判断ができるかと言えば大いに怪しい。身をもって、痛みを知っていれば、脳で考えなくても身体が反応してくれる。彼女が言いたいのはそういうことなのかもしれない。

「少しだけ休憩をしましょう。十分くらい休んでから、続きを始めます」

「……なんか、ノルダルさん、楽しんでいないか?」

「そう見えますか?」彼女は首を少し傾けた。「そうかもしれません。これほど才能のある人には初めて会いましたから」

 どのような才能なのか、ヨハンはあえて訊ねなかった。


 十月二十日の午後十九時過ぎ。ナスターシャとフロンメルトは再びヨハンとノルダルが滞在する家に戻ってきた。

 外出した二人は特に大きなトラブルがあった様子はなかった。ナスターシャの顔には少しだけ赤みが残っているものの、包帯は取れて、普通に道を通行しても他人の眼をひかない程度には回復している。

 変化を来したのは、彼らよりもむしろ、家の中にほとんどいたヨハンのほうだった。

「私の包帯が君に乗り移ったみたいだな、ヨハン。調子はどうだ?」

 彼と顔を合わせたナスターシャの開口一番の言葉がそれだった。

「全身、打ち身、青あざ、擦り傷にまみれている。こんなに怪我を負ったのは生まれて初めてかもしれない……ただ、なぜだかかえって動きやすくなったような気がする。悪くない心地だ」

「運動不足が解消されたんだと思いますよ」一週間、ヨハンを鍛えに鍛えたノルダルが口を開く。「ヨハンさんは内科でデスクワークに追われる日々を送っていましたから、筋肉がガチガチに凝り固まっていました。余分な脂肪もそぎ落とされて、今のヨハンさんの身体はかなり洗練されています。並みの格闘家なら、身体能力の差で勝てるかもしれません」

 と、彼女は言ったが、ヨハンはノルダルに戦闘で勝てるとは微塵も思っていなかった。この一週間、素手の組手でも、ナイフ術でも、終始彼女に圧倒されっぱなしだった。ノルダルは並みの格闘家の範疇に収まらないらしい。

 ヨハンは肩と首を回した。筋肉の心地よい緊張と弛緩が感じられる。線維一本一本が脈動しているかのようだ。

「確かに、羽が生えたみたいに身体が軽い。たまには運動したほうがいいのかもな」

「……見違えたな、ヨハン・ハーバート」フロンメルトは嘆賞した。「一週間前はなまくらの刃みたいなやつだと思っていた。研げば多少変わるものと思っていたが……ここまでとは。今のあんたは、なんというか、以前と比べて暴力的に見える」

「ヨハンは学生だった頃もこんな感じだった」

 なぜかナスターシャが誇らしげに言った。そんなことない、とヨハンは言おうとも思ったが、案外、ナスターシャから見たら自分はそのように映っていたのかもしれないと思い直す。もっとも、そう思われるような心当たりは何一つなかったが。

「ナスターシャさん。ヨハンさんはだいぶ仕上がりました。言った通り、一週間でここまで」ノルダルは自社製品を顧客に紹介するみたいに言う。「足りないのは実戦経験だけです。しかし先ほども言ったように、それも持ち前の身体能力でカバーできるかもしれません」

 幸福なことに、四人は一週間ぶりに同じテーブルを囲むことになった。フロンメルトが人数分の紅茶を淹れた。夜に特有の温かみのある明かりが四人の席を照らし出す。

「この一週間、頑張ったサービスだ」

 と言って、フロンメルトはヨハンのカップに角砂糖を三つほど入れた。ヨハンは甘いものがあまり好きではなかったが、文句を言わずにカップに口をつけた。甘いものが苦手であることを知っているナスターシャは、その様子を無言で眺めていた。

「友愛党と戦うにあたって、まずは武器が必要だ」ナスターシャが口火を切った。

「警察が持っている、あの刀はどうだ?うまく扱えれば警察とも対等に戦える」

 ヨハンの提案にナスターシャは首を振った。「あの刀には一本一本、使用者のデータが書き込まれたチップと発信機が埋め込まれている。奪ったその場で解体しようにも手間がかかるし、アジトに持ち帰って作業するわけにもいかない」

「管理が徹底しているな」

 杜撰なお役所仕事には毎度辟易させられるが、アウトサイダーの立場に立ってみると、彼らのしっかりとした仕事ぶりにも文句を言いたくなる。

「そこで私たちが目を付けたのが、セシル・マルクの遺物だ」

「セシル・マルク……ヴェルナーの父親か」

 まさかその名前が今ここでナスターシャの口から出るとは、ヨハンは思ってもいなかった。

 セシル・マルク。ヴェルナーの父親で、ヨハンの父と同じ大学の研究者でもある。そして二人の研究者は、列車の事故に遭ったせいでそろって命を落とした。

「ヨハン、君は彼がどのような研究をしていたか知っているか?」

「確か……」ヨハンは額に右手の人差し指の関節を当てて古い記憶を呼び覚ます。ずっと昔、ヴェルナーの口から聞いたことがあったはずだ。「工学博士、ではなかっただろうか。研究内容まではわからないが」

「彼は警察の装備やセキュリティなどについて研究を行っていたそうだ。表向きには、な」

「表向き……というからには裏があるんだな」

「ああ。当然、普通に研究をしているだけじゃ、友愛党に殺されることはない。マルク氏は秘密裏に、過去の国家間の戦いに用いられた武器について研究していたんだ」

「武器」ヨハンは言葉を反芻する。「それはどんな?」

「わからない」吐息まじりの声でナスターシャが言う。「私たちはこの一週間、彼のその武器について調査していた。わかったのは、マルク氏が事故で亡くなる数日前に、とある銀行の貸金庫に何かを隠したということだけだ」

「……私たちの次の目的は、その何かを入手するということか」

「話が早いな。その通りだ」

 ナスターシャがニヤッと笑う。どうやら彼女のペースと息が合ってきたらしい。

「だが、その貸金庫の中身はまだ保管されているのか?事故があったのは十年も前のことだぞ」

「それを調べるのが、ここんところの俺の仕事だった」

 フロンメルトは服のポケットから折りたたまれた紙を取り出して、机の上で開いた。そこには建物の図面と、いくつかの注意点が手書きで記入されていた。

「ローグタウン銀行。セシル・マルクが利用した銀行だ」知っているよな、と彼は三人を見まわした。市の北西部にある、比較的大きな銀行だ。「建物は三階建て。尖塔の部分は四階まである。一階は主に窓口として使用されていて、二階は事務所、三階が金庫室だ。現金やそれに類する貴重品は全てこのフロアの金庫で管理されている。それで、だ」

 フロンメルトは人差し指をあるメモ書きの上に立てる。

「貸金庫の数はぴったり二千で、銀行口座を開いている人間ならだれでも使用できて、契約が続いている限り中身も処分されない仕組みになっている」

「となると」ノルダルが顎に手を当てて言った。「希望は薄いかもしれませんね。マルクさんが亡くなった時点で、通帳は止められたはずですから」

「ところが、そうでもないらしい」否定をしたのはナスターシャだった。「マルク氏は、金庫を借りる時に利用した通帳を作る際に、偽名を使ったそうだ。近いうちに自分が亡くなって、貸金庫が閉鎖されることを危惧したのかもしれない」

「通帳の契約は、なんと十五年ごとに行われる規約になっている。なんともいい加減な管理体制だ。大切なものを預ける時にゃ、この銀行を利用するのだけはやめたほうがいいぜ」

 偽名まで使っているのなら、友愛党に存在が知られていないかもしれない。貸金庫の中に、セシル・マルクが死の直前に残した何かが、いまだ眠り続けて日の目を浴びるのを待っているのは間違いがなさそうだ。

「で、問題は、その偽名がわからない上に、貸金庫の鍵も残っていないことだ」フロンメルトは咳払いをした。「残念ながら俺たちには正規の方法でそれを手に入れる手段がない。ということは、必然的に奪い取るしか方法がないわけだ。これから俺が考えた計画を話す」

 彼は一同を見渡して、異議がないことを確認すると再び紙に目を落とした。

「まあ、計画といってもそんな大層なことはしない。夜間にもぬけの殻になった銀行に侵入して金庫を漁り、逃げ帰る。シンプルだろう?侵入するのはここ」

 フロンメルトは図面に指を立てる。

「二階の西にある男子トイレだ。この銀行にはトイレが五か所ある。一階の男性用トイレ、女性用トイレ、多目的トイレ。二階の男性用トイレ、三階の女性用トイレの五つだ。ガラスを割ると警報が作動して警備の人間が駆けつけてくる。だから強硬手段で侵入はできないんだが、毎週木曜日……つまり明日、最後に残って戸締りをする警備員はこの二階トイレの鍵の施錠確認をしないんだ。ほかのトイレは閉めるくせに、ここの戸締りだけはサボるんだよ。その分の給料はもらってないのかもな。ここから侵入して、すぐの階段から三階の金庫室に上がる」

 フロンメルトの指が紙面をスライドし、三階の見取り図へと移る。

「三階に着いたら、金庫室に入って、貸金庫を物色する。貸金庫にはそれぞれ、預けられた日付が書かれたプレートがあるらしいから、列車の事故が起こった前の日付を捜して、開ければいい。それらしいものが見つかったら、奪って逃げる。ここまでで質問は?」

「肝心なところを話していないだろう」ヨハンは見取り図の金庫室のドアを指さした。「このドアや貸金庫には、当然、鍵がかかっているはずだ。どうすればいい?ドアはともかく、金庫を力づくで開けるわけにもいかないだろう」

「そこはウェストリンを使う」

「ウェストリン?なんだそれは」

「そういうヤツがレジスタンスにいるんだ。そいつに頼んで、鍵を開けるための装置を作ってもらった。ヨハンが銀行に忍び込むときには、そいつに見張りも頼む予定だ」

「彼はとても頼りになる人ですよ。ヨハンさんをうまくサポートしてくれると思います」

 きっと、とノルダルは最後に付け加えた。

 出会って間もない相手に、自分の命にもかかわる見張りを頼むのはいささか気が引けたが、それはおそらくウェストリンとやらも同じことだろう。ヨハンが失敗して、味方の情報が敵にもれてしまえばレジスタンスは窮地に落とされる。命を懸けているのはヨハンだけではない。

「実際に銀行に行くのは私と、そのウェストリンだけか?」

「ああ」ナスターシャが頷く。「おそらく戦闘は起こらない。そういった意味では命の危険がない任務だ。かといって、重要度が低いというわけでもない。できるか?」

「そう訊ねる時には大抵、もうすでにやるしかない状況に追い込まれている。……やろう。君たちの判断を信じる」

「大船に乗ったつもりでいてくれてかまわないぜ」フロンメルトがヨハンの肩を叩いた。「決行は二十六時だ。それまで英気を養っていてくれ。以上」

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