第一章 悲劇 2
冷たさを頬に感じながらヨハンは意識を取り戻す。床に倒れこんだまま眠ってしまったらしい。いや、入眠というよりかは、気絶と表現したほうが現実に即しているかもしれない。鈍く痛む両手に力を込めて上体を起こし、あたりを見渡す。
窓のない小部屋。どうやら昨日の出来事は悪い悪夢などではなく、現実らしいことを飲み込む。家が燃え、男にいざなわれるままにここまで来て、地下室に閉じ込められた……いま思い返せば男の話にはおかしいところが多かった。保険証の提示などはこちらを信頼せるためのパフォーマンスだったのかもしれない。
壁にかかっている時計は六時を指していた。外の様子がわからないため、午前なのか午後七日はわからないが、おそらく午前だろうとヨハンは判断する。仕事があるときはいつも起こされなくても六時に目が覚めるのだ。
「そうだ、仕事……」
ひび割れた声でつぶやいた。いや、仕事のことなんて考えている場合ではない。
シャルロッテはどうなった?とにかくここを出なければ。全てはまずそこからだ。
第一に優先するべきなのはシャルロッテの安否の確認。次に、奴らの、ここに自分を監禁した奴らの目的を把握すること。
ドアレバーに手をかける。手は固まった血で覆われており、ほとんど力が入らなかった。
昨夜と同じように、扉には鍵がかかっていた。監禁されている状態は相変わらず続いているらしい。拳で叩いてみることも思いついたが、思い直してやめた。昨日やって無駄だったのだ、弱ったいま、叩いたところでいたずらに体力を消耗するだけだろう。
ヨハンは昨日より冷静になっている自分自身に気が付く。今できることは、とにかく現状把握に努めることだけだろう。
部屋にあった椅子に腰を下ろす。床に落とされたままの、昨日買った結婚記念日を祝うための品々を机の上に置いた。紙袋で覆われているから中身は見えないが、きっと床に落とされた衝撃で駄目になってしまっているだろう。くしゃくしゃになった紙袋を見ていると、昨夜、自分の帰りを楽しみに待っていたであろうシャルロッテのことが想起されて心が痛んだ。
再度、部屋を見渡す。ベッドに机、そして自分が座っている椅子。どれも一つずつしかない。ここは宿泊施設なのだろうか。しかし建物の玄関には看板も何も出ていなかったし、エントランスのようなものもなかった。
立ち上がって、部屋の奥にある扉を開ける。そちらの扉はトイレと洗面所に繋がっていた。きちんと清掃されている。今現在も使われている施設であることは間違いなさそうだ。
ヨハンは洗面所の鏡に映った自分を見た。目元は擦り切れたように赤黒くなり、頬は床にずっと接していたせいで青くなっていた。
蛇口をひねって出て来た氷のように冷たい水で両手を洗う。手先から鈍い痛みが感じられたが、今の彼にとって、その痛みは少しだけ心地が良かった。両手がある程度きれいになると、今度は顔を洗った。鏡に映る自分は相も変わらずひどい顔をしていたが、それでも少しはマシになったような気がした。
ふいに、天井から音がした。叩くような、硬い音だ。リズミカルな連なりを持っていることから、瞬時に足音であることが察せられた。
「誰かいるのか!」
足音はすぐに聞こえなくなる。床を直接歩いているのなら足音も下まで届いてくるだろうが、カーペットの上に乗られてしまったらそれも聞こえなくなる。
個室から出て、ヨハンは左側の壁に耳をくっつけた。
確かに、聞こえる。間違いない。誰かがこの家にいる。あのフロンメルトとかいう男か、それとも自分をこの部屋に押し込んだ背の高い女か。
足音は、だんだんこちらに近づいてくるようだった。
扉に駆け寄って、右手の第二関節で数回ノックをする。
「おい!開けてくれ」
「おはよう」扉の向こう側から、くぐもった低い声が聞こえた。あのフロンメルトの声だ。「気分はどうだい、よく眠れたか」
「そんなことはどうでもいい、おい、シャルロッテはどうなった。ここから出してくれ」
「ああ、言われなくてもそうするよ。元からそのつもりで俺は来たんだ。ただ、あんたを出すにあたって一つ条件がある」
「何だ、身代金でも要求するつもりか?」
「監禁された人間がそれを言うのは少しシュールだな」
痛みを忘れて、右の拳を扉に叩きつける。「おい!ふざけるのも大概にしろよ」
怒りを通り越して、扉を一枚隔てて立っている男に殺意を覚えていた。この扉が開かれたら、間を開けずに、その顔に拳を叩き入れてやる。
「条件ってのは、落ち着くことだ」
「落ち着く?」
「そうだ、まず、落ち着け。昨日、ここに歩いてくるときにも言っただろ。落ち着くこと、それがあんたをこの場所に連れてくる条件だってね」
「いいや言ってない。あんたはシャルロッテに会わせる条件として落ち着くことを要求したんだ。ここに連れてくる条件ではなかった」
「それを覚えているんだったら、上々だな。次、条件その二」
「まだあるのか?」
「これが最後だよ。そしてこっちのほうが重要……というか落ち着くこともこの上なく必要なんだが、まあいいや、ほら」
扉の郵便受けが内側に開く。そこから歪な形の紙が一枚、部屋に入れられた。ヨハンは無言でそれを受け取る。
「新聞記事、か?」
「今朝の新聞の切り抜きだ。あんたの家の火災について書かれてる」
その説明を受ける前に、ヨハンは目の前の紙を食い入るように見つめていた。
十月十二日、午後七時頃、ロジアルド市中心部に位置するハーバート氏の住宅が全焼する火災が発生した。火災は隣接する建物の窓を割る勢いを見せたが、同日午後八時半頃に消防団により消し止められた。建物の寝室と思われる部屋からは男女の遺体が見つかっており、警察はその家に住むヨハン・ハーバート氏と妻のシャルロッテさんと見て捜査を進めている。火災の原因は目下調査中とのこと。
「読んだか、おい。読んだら読んだって言ってくれ」
ヨハンは言葉を出せなかった。
「……読んでないなら読むまで待つよ。だけどま、早めに目を通してくれると助かる。俺にもお前にもやることが残っているんでね」
何だ、これは。
シャルロッテが、死んだ……?
……この男は、誰だ?
「うわあああああああああああああああああああああ!」
ヨハンの口から、絶叫が発せられた。鋭い痛みが喉に走ったが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「何だ、何だこれは!」
「今朝の新聞だよ。ショックを受けているってことは、読んだみたいだな」
ヨハンは両の拳で扉を叩いた、何度も、何度も。
「おい、ふざけるな。こんなもの、真実であるはずがない。あんたら、何が目的で、こんなものを」
「まぎれもない真実だよ」フロンメルトは相も変わらず落ち着いたトーンでそう言った。「確かに俺たちだったら新聞の偽造の一つや二つはできなくないが、そんなことはしちゃいない。証拠になるかどうかはわからないが、ほら」
扉の郵便受けに、新聞が入れられる。新聞はヨハンの手には渡らず、重みで床に落下した。
「それが今日の朝刊だ。あんたが読んだ記事はその新聞に載っていたものだ」
床に落ちて広がった新聞紙には、ヨハンが手に持っている記事と同じ形に切り取られたページがあった。
「ほかにも、ほら」
新聞が次から次へと郵便受けに入れられる。ヨハンはそれを手に取ることができず、入れられた新聞は地層を成すように床に堆積していった。
「ほかの会社の新聞にもあんたの家の火災の記事が出ているよ。表現の仕方はまちまちだけど、あんたの家から男女の死体が発見された部分はどこも一貫している。それは紛れもない真実であり、誰が見ても解釈のわかれようがない事実なんだ」
ヨハンは崩れ落ちるようにして膝をついた。床に溜まった灰色の紙の束が、残酷な現実を直視することを要求してくる。
昨夜、十月十二日の十九時頃、医者であるヨハン・ハーバート氏の家が全焼する火事が発生した。焼け跡からはハーバート夫妻と思われる男女の遺体が見つかっており、至急、遺体の身元の確認が進められている。
十月十二日十九時頃、ロジアルド市中心部の住宅街で家が全焼し、焼け跡の寝室と見られる部屋から二人が遺体で見つかった。この家に住む二十代の夫婦と連絡がとれていないということで、警察が身元の確認を進めているとともに、火事の原因を調べている。
「…………シャルロッテ」
彼女の微笑みを思い出す。
彼女の慈愛に満ちた白い手を、まなざしを、声を思い出す。
「……誰なんだ、この男は」
「あー……それ、本気で訊いてんの?そりゃまあ、男女が寝室にいたってことは、浮気以外ありえないだろ」
「昨日は結婚記念日だった。早く帰って来てくれと、シャルロッテは、言っていたじゃないか」
「でもあんたは祝いの品々を買うために遠回りをした。おおかた、ケーキでも買ってくるように頼まれたんだろ?少しでも好きな男と一緒にいたかったのかもな。まあ、おかげであんたは生き残り、代わりに一人の男が死んだわけだが」
シャルロッテとともに、一人の男が焼け死んだ。それはヨハンではなく、名前も顔もわからない別の誰かだ。
「誰なんだ、こいつは……誰なんだ」
「さあね。あんたではないことは確かだよ」
フロンメルトは無機質な声で言った。
死んだのが自分ではない。その事実が、何よりも身を引き裂かれるほどに憎らしい。
シャルロッテとともに死んだ男は自分ではないのに、世間ではヨハン・ハーバートとして認識されるかもしれない。シャルロッテと一緒に生きて、そして死んでいくのは自分だと疑わなかった。彼女と喜怒哀楽を分かち合い、生と死を超えて愛し合う権利を持っているのは自分だと信じていた。その権利を突然、どこの誰ともわからない人間に横取りされた。
シャルロッテは男と一緒に死に、男はシャルロッテとともに死んだ。
そして、その男は自分ではなかった。今まで積み上げて来た「ヨハン・ハーバート」という人格が、崩れていく気がした。
「なあおい、生きてるか」
答えることができなかった。
「あんたには、同情するよ。家が燃えたと思ったら、怪しい男に監禁されて、奥さんは死んで、その上、奥さんにはほかに男がいて……ベッドルームで心中していて。こいつはなかなかハードな経験だと思う。ただね、それでもあんたはまだ生きている」
「……………………」
「さっきも言っただろ。男が死んだ。だがそれはあんたではない。俺は昨日、わざわざあんたの名前と職業、誕生日を訊いた。ヨハン・ハーバート、医者、誕生日は二月十九日。あの家で死んだのは別の誰かで、あんたではありえない。それだけは覆しようのない事実だ」
「……ヨハン・ハーバートは、死んでしまった。ここにもそう、書いてあるだろう」
床に散らばっている新聞記事を弱々しく握りしめる。
「そこに載っている男の名前はヨハンでもハーバートでもないよ。ヨハン・ハーバートはまだ生きている。世間はお前が死んでしまったと思っているかもしれないが、それが間違いであることを俺は知っている。そして、生きている限りはまだできることがある。奥さんの横で死んだ男の素性を突き止めたり、家を燃やした奴らに復讐したりな」
「……復讐?」
「言ったろ。俺にもお前にも、まだやることは残っている。できることはある、やらなきゃいけないことがある。そのためにさしあたり、今まで起こったことにある程度の折り合いをつけてくれると助かる。理不尽に怒りを覚えてるだろうけど、その怒りを腹の中に溜めておくんだ」
ヨハンは浅い呼吸を数回繰り返し、それから深呼吸をした。
「……私の家に火をつけた人間がいるのか?」
「そうだ。自然発火じゃあない」
「あんたらはそいつが誰か知っている」
「ああ」
もう一度、ヨハンは深呼吸をした。
ほんのわずかに、自分自身が戻ってくる。
「……話を、聞かせてくれ」か細い声で、そう言った。
「オーケー」
がちゃん、という音が部屋に響き渡る。ドアレバーが回り、散乱した新聞紙を押し寄せながら扉が内側に開かれる。
「久しぶりだな」
その声はフロンメルトのものではなかった。彼のものより少し高い声がヨハンに向けられる。
ヨハンは顔を上げた。目の前に立っている人物が、彼を見下ろす。
「ひどい顔だな」
その人物はヨハンの顔を両手で包み込み、微笑んだ。手のひらから伝わる熱がヨハンの頬を温める。焦点が相手の顔に合って、そこに立っているのが誰なのか、ヨハンは認識した。
「……君、ナスターシャ……ナスターシャなのか?」
その名前を口にした瞬間、電流が走るようにして遠い昔のことが思い出された。十年以上前のこと、友人たちと笑い合った高等学校での美しい日々。
目の前に立っていたのは、容貌は大きく変わっていたが、確かに楽園のような日常をともに形作っていたナスターシャ・オリヴァーその人だった。
地下室から出されたヨハンがまずやったのは、一階にある浴室でシャワーを浴びることだった。脱いだ服からは汗と煙の臭いが染みついていた。
暖かい水流を頭からかぶっていると、不快なものが身体から洗い流されていくような感覚を覚えると同時に、自分自身がまだそこに存在しているということを実感できた。
用意された肌着を身に着けて、白いシャツに袖を通し、黒いスラックスを履いた。鏡に映った自分は、前の自分とは何かが決定的に違ってしまっているような気がした。
ナスターシャは一階の広間にあるソファに腰を下ろしていた。ヨハンが洗面所から出て来たことに気が付くと、口元だけで微笑んで机を挟んだ向かいにあるソファに座るよう促した。
「うん。さっきよりだいぶ良い顔になった」ナスターシャは長い脚を組み、その上に肘を置いて頬杖をつく。「私の知っているヨハン・ハーバートの顔だ」
「ナスターシャ、君はいったい……あの男はどこだ?」
「フロンメルトは諸々の準備と、食料の買い出しに行かせた。君、昨日の夜から何も食べていないんだろう?君がいた部屋にパンやらケーキやらがあったが、もし空腹が抑えられないと言うなら、あれらを持ってくるが」
「いや、いい」ヨハンはもう、あの無残な品々を目に入れたくなかった。「食べたくない」
「そうか」組んだ脚を解いて、ナスターシャは立ち上がる。「コーヒーでも入れよう」
彼女は厨房に立ち、薬缶に水を入れて火にかけた。湯が沸く間に、ナスターシャはミルで豆を挽いた。香ばしい匂いが部屋に広がる。ヨハンは手際よくその作業をこなす彼女の姿を後ろから眺めていた。
十年前に比べて、身長は少し伸びただろうか。格好はヨハンと同じような白いブラウスに黒いスラックスで、マニッシュな雰囲気を演出している。窓から差し込む朝日を吸って、短く切り揃えた赤毛が燃えるようになっていた。
何から訊いたものか考えているうちにコーヒーが出来上がった。ナスターシャが差し出す湯気の立ち上るマグカップを、ヨハンは「ありがとう」と言って受け取った。
「……元気だったか?」コーヒーを飲む前に、ヨハンはそう訊いた。
「どうかな」もともと座っていたソファに腰を下ろしながら、ナスターシャは曖昧に答えた。「そっちは?」
「元気だった。幸せだった……昨日までは」
「そうか……それを言うなら、私も十年前までは元気だったし、幸せだったよ」
「十年前?」引っ越しをする時点のことを言っているのだろうか?ヨハンが訊き返す前に、彼女が口を開く。
「ヴェルナーはどうしてる?うまくやってるのか?」
「ああ、あいつは……」昨日のヴェルナーとの会話が思い出される。まだ二十四時間も経過していないはずなのに、数十年も前の出来事のように思えた。「あいつなりにうまくやっているよ。苦労もあるだろうが、それでもどうにか日々を送っているようだ」
「そうか、それならよかった。それと……シャルロッテのことは、残念だった」
ヨハンは音を立ててコップをテーブルに置き、話を切り出した。
「なあ、何が起こっているんだ。昨日から立て続けに起こっていることで頭がパンクしそうだ。君はどうして私の前に現れたんだ?」
「そうだな……どこから話したものか」ナスターシャは過去を懐古するような遠い目を中空に向けた。二、三秒思案した後、彼女は口を開いた。
「端的に言おうか。ヨハン、君の家に火をつけたのは友愛党の仕業だ」
「根拠はあるのか?」間を開けずにヨハンは返答する。その反応に、ナスターシャは二度、瞬きをして、にやりと笑った。
「やはり君の頭脳は優秀だな、ヨハン。凡人だったら、反応するのに時間を要するところを、適切な質問で切り返した。洗練された知性は十年前から変わっていないどころか、鋭さを増しているようで安心した」
「やめろ。すぐに人を褒めるのは君の悪い癖だ」
生徒会長という立場にいたからだろうか。仕事を終えた時、些細な手伝いをしたときなど、ナスターシャは適宜のタイミングで人を褒める言葉をかけた。意識的か無意識的かはわからないが、そうすれば他人のやる気が引き出せることをわかっていたのかもしれない。
「褒められるのは嫌いかな?」わずかにナスターシャは首をかしげる。
「過剰評価を下されるのが苦手なだけだ。今のやり取りだけで、こちらの能力全てが把握できたとはとても思えない」
「それもそうか。再会して間もない。三日会わざれば刮目して見よ、なんて言葉もある。君のことを把握するには、もっと話し合う必要がある」彼女は一口、コーヒーを口にした。「話を戻そうか。友愛党が君の家に放火したのは、ヨハン、君が彼らの支配体制の邪魔になったからだ」
友愛党の支配。ヨハンは昨日の朝、病院に出勤する前に男性と話を交わしたことを連想した。
「その顔、心当たりがあるようだな」
「いや……あの会話だけで?」
ただ少し、友愛党の党員がほかの政治家とはやり方が違っているということを分析しただけだ。何も彼らの政策に対して不利になるようなことは何一つ口にしていない。
「奴らの評価の仕方はポイント制なんだ。たった一回の行動で、敵を消すことは絶対にしない。誰だって、思っていないことを口にすることはあるし、その場の雰囲気で行動を決定してしまうこともある。そういう意味で、友愛党は寛容だ」
寛容。昨日の朝、会話をした男性も同じ言葉を口にしていた。
「だが、ある点数を超えた相手には容赦しない。問答無用で命を刈り取る。誘拐や洗脳なんて悠長なことはしない。殺すよりも手間も費用もかかるし、生かしておく以上、友愛党の悪事が大衆に露呈する確率が増えるからな。ましてや、私やヨハンには生まれた時点での前科みたいなものもある。遅かれ早かれ、このような破滅が待っていたと思うよ」
「生まれた時点での前科?いったい何を言っている?」
「父親のことだよ。十年前、殺された私たちの父親」
ナスターシャの使った言葉がヨハンに引っかかる。殺された?いや、むしろ。
「私たち、と言ったか?ということは……」
「ああ、そういえば知らないのか。君の父親と同じように、私の父も殺されたよ」
彼女は真顔でそう言った。確固とした事実を述べるように。だがヨハンにとっては、彼女の言葉にはいくらかの事実とは異なる表現が含まれていた。
「ちょっと待て。私とヴェルナーの父は確かに十年前、死んだ。だがそれは列車の事故に巻き込まれたからであって、殺人ではなかった」
「れっきとした殺人だよ。彼ら二人と、ほか数名の科学者を殺すために友愛党が仕組んだ殺人だ。奴らにとって、あの科学者たちはどんな手を尽くしても排除すべき対象だった。その過程で何人死のうが、おかまいなしさ」
そこで彼女は乾いたような笑いを浮かべた。一方のヨハンは、彼女の発言内容を受け入れ、理解するのに困難を覚えていた。ナスターシャは、あの大規模な列車事故は自分たちの父親たちを殺すために政府が仕組んだ事故だと、そう言っているのだ。
彼女はこのような真剣な場で冗談を言うような人間ではなかった。ということは、本気で事故は仕組まれたものであると主張していることになる。
「……にわかには信じられないな」相手の考えをうかがうために切り出す。「あの事故は、単なる不幸な出来事だと思っていた。何か、友愛党の所業だと判断できるような証拠はないのか?」
「慎重だな。いや、疑うのも当然か。無批判に言われたことを鵜呑みにするような人間ではなくて安心する。それくらい頭が働かなくては、こっちも困るから」
彼女は赤い唇に微笑みを浮かべた。学生時代から、見る者をハッとさせるような凛とした雰囲気をナスターシャは纏っていたが、今はより鋭く、より危うい雰囲気を身に着けている。
「とはいえ、物的証拠を提示するのは難しい。私たちの父をはじめとする科学者が一斉に死んだという状況証拠はあるけどね」
「さっきもそう言ったな。君が引っ越した後、君の父も、その……命を落としたのか?」
ちょっと間を開けて、彼女は話始める。
「私たちが引っ越した直後だった。ふらりと散歩に行くように家を出て行って、そのまま帰らなかった。翌日の朝、川に溺れて死んでいる父の遺体が見つかった。殴られた後もなく、財布も盗られてなかったから、事故と処理された……本当に、事故だったと思うか?」
流し目で、ナスターシャは問うた。
合理的に判断すれば、ナスターシャの父の死は単なる事故だ。警察がそう判断した以上、ほかの判断はくだしようがない。だが、立て続けにその周囲の人間が死んでいることをヨハンは考える。自分自身の父、ヴェルナーの父、そしてナスターシャの父……彼女の口ぶりからすれば、その周囲の科学者も命を落としているようだった。
ただ、事故が身近で一つ起こったからほかの事故が起こらないと考えるのは間違っている。今日事故に遭ったからと言って、明日事故に遭う確率が増減するというわけではないのだ。事故が起こる確率は誰に対しても等しく存在している。同様に、列車の事故が起こったからといって、その被害に遭った近辺の人がほかの事故に遭わないと考えることもできない。事故が立て続けに起こることも、人間の眼から見たら奇妙に映るかもしれないがあり得る現象なのだ。
「……どうして科学者たちは殺されたんだ?」判断を保留して、ヨハンは違う質問をする。「大量殺人をしたと言うなら、それなりの事情があるのだろう?」
「それは簡単な話さ。私たちの父の研究が、友愛党が作り出したい世界に仇をなすからだ」
「もっと具体的に言ってくれ。敵勢力の一つや二つぐらい存在するのは当然だ。選挙だって、友愛党の地盤を揺るがすほどではないが、ほかの党が立候補している。どうして彼らは消されないで、学者だけが粛清されなくてはならないんだ?」
ナスターシャは、浅いため息をついた。それから、ある言葉を口にした。
「……何だって?」
彼女はもう一度、先ほどと同じ言葉を発音する。が、ヨハンはそれを理解できなかった。音としては認識できるが、それがどのような文脈でどのような意味を持つのか把握できなかった。
「昔、国と国との間で大規模な争いが起こったらしい。何万という人間が死に、それと同じほどの数の人が死ぬに等しい苦しみを味わった。今の言葉は、その争いを意味する言葉だった」
「待て、何の話だ?国同士の争い?そんなもの、歴史の授業では学ばなかった」
「改竄されているんだよ。世界はずっと前から平和だった。それは友愛党が作り出した偽史に過ぎない。人間の歴史は多くの犠牲と流血の上に成り立っている。もちろん、今は平和だがな」
「改竄……いや、それはおかしい」ナスターシャの言葉を反芻して、ヨハンは論理のほころびを指摘した。「歴史が改竄されているなら、どうして君はそのことを知っているんだ。普通は、偽の歴史を教えられているなんて気が付けないだろう。歴史が正しいかどうか疑うことはできても、それが間違っていると内側から認識することは不可能だ」
たとえば、紙片をねじって作るメビウスの輪のように。メビウスの輪は表と裏の区別をつけることができず、表をたどっていけば裏に、裏をたどっていけば表に出てしまう。輪の表面に視点を置けば、表と裏が接続されているねじれに気が付くことができない。
歴史も同様だ。歴史の妥当性を検討することは、その歴史の内側にいる人間には不可能だ。事実、ヨハンは今の今まで教えられた歴史を疑うことなど考えたことがなかった。歴史を疑うにしても、その材料がない。材料は歴史の外側から、例えば外の国やそれに準ずる共同体から引っ張ってくるしかないのだ。
ナスターシャはヨハンの指摘に鼻を鳴らし、不敵に微笑んだ。
「簡単な話だ。今、この国で教えられている歴史は私の父が創り出したものだからな」
「…………」
言葉が出なかった。ナスターシャは今、自分の父親は歴史に対して完全なる超越者の立場に立っていたと言ったのだ。だとすれば当然、彼女の父は歴史が偽りだと知っていたことになる。むしろ、どの歴史が真実なのか定める立場にいたと言っても過言ではない。
「もちろん、全てを父が創ったというわけではないよ。父の仲間はほかにもいたし、そもそもベースとなる歴史がすでに存在していた。一万年以上の人間の営みがな。それらの多くは父を初めとする歴史学者によって圧縮され、修正されてしまった。もっとも、そうなる前の元の歴史も、多分、ほかの誰かによって添削されたものだったと思うが。今の人類の歴史は、落丁だらけの本みたいなものだよ。熱のこもった真実なんてどこにも書いてない、まがい物だ」
「君は父から、本物の歴史を教えてもらっていないのか?」
ナスターシャは首を横に振った。赤い髪の毛が波打つように揺れる。
「彼は私を仕事に関わらせようとしなかった。さっき発した言葉も直接父から教えてもらったものではなくて、勝手に資料を見て知ったものだ。本当の歴史も多少は知っているが、深く理解しているわけではない」
ま、でも、と彼女は言葉を続ける。
「父が一定の距離感を保ってくれたからこそ、私は今も生きているのかもしれない。真実を知ろうとする者を友愛党は決して許さない。私の父は、歴史の修正をする立場から一転して真実を手に大衆の蒙を啓こうとした。それが彼らの逆鱗に触れた」
再び、ナスターシャはコーヒーカップに口をつけた。
「話を戻そう。学者たちが殺されたのは彼らが隠された秘密を公に示そうとしたからだ。友愛党は言葉ごと歴史を捻じ曲げ、その意に沿わない者を葬ってきた」
「……いったいなぜ、党はそこまでして歴史を隠蔽する?」
「さあね。だが党の支配にとって都合が悪いことが隠されているのは間違いがない。私の推測では、彼らは加害者だったのだと思う。国内外の、多くの人間を殺した。奴らは自分たちの立っている場所がそんな血にまみれた場所であることを直視したくないのさ」
ヨハンは視線を落とし、コーヒーの静かな水面を眺めた。痺れの残る右手でカップを掴み、コーヒーを少量、口に含む。
彼女の言うことは信頼に値するのだろうか?大きな矛盾は見当たらない。かといってすぐに受け入れられるような内容ではない。友愛党は確かに奇妙な組織だ。しかしその怪しさは掴みどころがないといった類の怪しさであり、殺人を犯すような暴力性をはらんでいるとはあまり思えなかった。そういった強硬な手段に訴えることはせず、むしろソフトなやり方で地盤を固めていくイメージが彼らにはあった。
だがほかでもないナスターシャが言っているのだ。ヨハンの知っている彼女は聡明で、高潔で、人々の上に立って正しい方向へ先導する気質を持っていた。冷静に物事を見極めることができ、批評的に、大局的に世界の趨勢を見ることができた。そんな彼女が、こんな突拍子もないことを根拠もなしに言うだろうか?それを自分自身に許すだろうか?
「悩んでいるみたいだな」ナスターシャはまっすぐヨハンを見据えて言った。
「いや、そんな……」
「受け入れられなくても無理はない。というかむしろ、いきなりこんな話をされてすぐに、はいそうですか、と納得できるほうがどうかしている。ただね……」
彼女のヨハンを見る眼が鋭さを増す。核心をついた話をするとき、ナスターシャは昔から不思議な緊張感を放っていた。
「一つ断言しておこう。家に帰ろうとしたところで、君は殺される。そもそも帰る家がないという事実を度外視しても、日常に戻ろうとするヨハンを待ち受けているのは破滅だけだ。友愛党は一度狙った相手は決して逃がさない。私の父も、全てを捨てて遠くへ移住した先で、殺された。彼にはもう、党に逆らう意志も気力も残っていなかったというのに」
淡々と、彼女は言った。その表情には何の思いも読み取れなかった。遥か昔の事実として折り合いをつけているのか、それとも暗い感情を押し殺しているのかはわからない。
「そして言っておくと、私は君が殺されるのはとても嫌だ。どんな形であれ、生きていてほしい、生きる努力をしてほしい」
ナスターシャはヨハンと眼を合わせ、淡い笑みを浮かべてそう言った。昔から、気まずさを覚えることなく、直接的な言葉を相手にかけられるのは彼女の大きな武器だった。
「つらい経験をしたのは百も承知だ。死にたくなるような、死んだほうがマシだと思ってとしても当然のことがあった。それでも私は、ヨハン、君に生きていてほしい。君が死んだ旨の新聞記事でも目にしたらきっと、二日くらいは何もできなくなるだろう」
「……二日、か」リアルな数字だとヨハンは思った。長らく会わなかった友人の死を消化するには妥当な時間だ。
「私にもやることがある。君を殺したであろう人間を殺したりとかね。申し訳ないが、それほど長い時間をヨハンの死を悼むのに費やしてはいられない」
「いや、君の貴重な時間が二日ももらえるんだ。十分すぎるよ」
コーヒーを口に含み、喉を潤す。長く言葉を交わしたからか、喉の痛みはあまり感じなくなってきた。
「これが、十年前から今現在までの話だ。ここからは未来の話をしよう」彼女は腹部の前で手を組み、居住まいを正した。「私は友愛党から人類の正しい道理を大衆に取り戻すために、日々戦っている。君が昨日会ったフロンメルトやノルダルも、その仲間だ」
ノルダル。あの体格に恵まれた女性のことか。
「ぜひ、友愛党を打ち倒すために、君の力を貸してはくれないだろうか」
「力を貸す?私に貸せる力など、ありやしないさ。全てを失った」
両手でヨハンは自らの頭を抑え込んだ。絶望に苛まれている彼を前に、ナスターシャは言葉を続ける。
「そんなことはない。君は——」
彼女の発言は、部屋に鳴り響いた無機質な音によって遮られる。
ノックの音だった。二人は玄関の扉に視線を向ける。
「彼が帰って来たのか?」何気なく、ヨハンがそう言った。
「……いや、フロンメルトは鍵を持っていった。ノックなんかせずに入ってくるはずだ」
しばしの無言の後、ナスターシャは呟いた。「……おそらく、警察だ」
玄関横のすりガラスに、二人分の黒い人影が踊る。特徴的な帽子の形。
彼女の推測は的中した。そこにいるのは、間違いなく警察だった。
ナスターシャは小さくため息をつき、それからつぶやくように、
「……トラッカーか」と言った。ヨハンは自分の左肩に目を落とした。奴らはヨハンがまだ生きていることを知って、彼の命を刈り取りに来たのだろうか?
「すみません。誰かいませんか。ここに、行方不明者がいると通報があったのですが」
ドアの向こうの人物が言った。平坦な口調だった。再び、ドアノッカーの硬質な音が部屋の中に響く。先ほど潤ったはずの喉が、再び渇いていくのを感じる。
「どうする、どうすればいい?」
「落ち着け」ナスターシャは正面にいるヨハンの肩を両手でつかんだ。「心配しないでいい。私がどうにかする。君はさしあたり、下の階の一番奥の部屋に行ってくれ」
「君はどうするんだ?」
彼女はおもむろに立ち上がり、自分のコーヒーカップを掴んで中身を台所に捨てた。テーブルに残ったカップは一つ。この家に一人しかいないように偽装するつもりだろうか?
「すべて私に任せてくれていい」彼女は地下へ降りる階段を指した。「一番奥の部屋だ。いいな」
「……わかった。申し訳ない」後ろめたさを感じつつ、ヨハンは足音を殺して階段を下りた。
言われたとおりに奥の部屋に入る。レイアウトは昨夜、閉じ込められた部屋と全く一緒だった。やはりこの家は宿泊施設としての機能も持ち合わせているのだろう。
天井から足音が聞こえる。今朝、隣の部屋で聞いた足音よりも響いて聞こえる。何人いるのかはわからない。先ほど、窓に映った人影は二人だった。その二人が家の中に入って来たのか?
足音が徐々に移動する。地下に降りてくるつもりだろうか。ナスターシャは何を考えているのだろう。自分を差し出すつもりかもしれないという考えが一瞬頭をよぎったが、誠実の塊であるナスターシャに限ってそれはないと、すぐに改める。
足音が止まった。しかしそれは今いる扉の前ではなかった。地下にある廊下の、もっと階段に近い場所で、気配が静止した。
それから、何かが壁に当たる音。それが二つ続けて聞こえた。声は一つも聞こえない。
やがて、何も聞こえなくなったかと思うと、ヨハンのいる部屋の扉が内側に開かれた。ナスターシャの顔が覗く。
「終わったよ」
ヨハンは首だけ出して廊下をうかがう。
廊下は地獄絵図の様相を呈していた。
二人の警察官の男たちは、折り重なるようにして廊下の中心で頽れている。頸部からおびただしい量の血を流し、空中をうつろな目で眺めている。
その手前に立っているナスターシャも、当然、赤く染まっていた。が、怪我している様子はない。足元からシャツにかけて染みついている血は、全て男たちの体内に流れていたものだ。
彼女は子供を安心させるように、両手を少しだけ広げて微笑んだ。その右手には血を滴らせるナイフを握っている。
「……殺したのか?」
「ああ」
意味のない質問だった。医者であるヨハンは、人がどの程度、血を流せば命を失うかを知っている。彼らの命がもうすでにその身体に宿っていないことは、一目見た時点でわかっていた。
ナスターシャは音もなく、人二人の身体から効率よく血を抜き出し、その命を奪い去った。ヨハンが部屋に入ってから、二分にも満たない出来事だった。そのたった二分の間に生じた廊下の変容に、めまいを覚える。
「すぐにここを出るぞ」
ナスターシャは大股で二人の死体を跨いで階段へと向かう。数秒、ヨハンは部屋の出入り口のところで立ちすくんでいた。ナスターシャは振り返って彼が来るのを待つ。彼女を待たせるわけにもいかないという場違いな感覚に押されるようにして、ヨハンは同じように二人分の死体を跨いだ。血だまりがない場所を目で探したが、避けて通ることはどうしても不可能だったので、やむをえず、流れ出る血を踏んで廊下を横切った。
ヨハンが死体の上を通るのを見守ってから、ナスターシャは階段を上がる。ヨハンもそれに続いた。
階段の真ん中あたり、左へと曲がる部分に差し掛かった時、突如、前を歩くナスターシャの身体によってヨハンは地下へ押し戻される。
階段を滑り落ちるようにして廊下の床板に尻もちをつくヨハン。その上をナスターシャの身体が後方へ吹き飛ばされる。
壁のように大きな体格を持った警察官が階段の上に立ってヨハンを見下ろしていた。警察の視線は廊下の奥へ向かい、かつての仕事仲間の亡骸を目にする。一瞬、顔を歪めてから、彼は階段を下り、この惨劇を作り出した人間にしかるべき制裁を加えようとする。
大柄な警察はその体躯に見合わない速さでヨハンを飛び越えて、ナイフを握って血だまりに倒れこんでいるナスターシャに飛び掛かる。彼女は男の足元をくぐって体勢を立て直そうとする。しかし彼はその隙を見逃すような人間ではなかった。振り向きざま、しゃがみこんでいるナスターシャにローキックを叩きつける。彼女は両腕で身を固めてそれを防いだが、圧倒的な体格差による衝撃の余剰を防ぎきることはできなかった。わずかに身を折った隙に、警察は彼女のシャツの首元を掴み、壁に押し付けるようにして持ち上げる。
「ヨハ」
ン、の発音は警察の膝が腹部に突き刺さったためにうめき声とまじりあったものになった。電流が走ったように彼女の身体が跳ね、右手に持ったナイフが床に落ちる。すかさず、男は右手で彼女の顔を殴打した。ナスターシャの首が明後日の方向へ伸びる。
「ナスター……シャ」
男はなおも暴力を行使する。ぐったりとする彼女の顔に頭突きをし、それからもう一度、膝を入れる。喉からかすれた笛のような音がして赤い髪で隠れた彼女の顔から血と胃液が混ざり合った茶色の液体が零れ落ちる。さらにもう一度、警察はナスターシャの顔を殴りつけた。
流れるように、黒いグローブを着けた手が彼女の細い喉を握りしめる。男の眼は爛々としていて、怒りや憎しみや悲しみや殺意が入り混じった濁った色をしていた。
ナスターシャの身体が痙攣し、絞り出されるように口元から赤い泡がしたたり落ちる。その足元には赤黒く染まったナイフが、廊下の天井に備え付けられた黄金色の光を妖しく反射していて、ヨハンは何も考えることなく、地面を蹴ってナイフの柄を両手で握りしめ、身体に満ちる筋肉の躍動に身を任せるままに男の首にナイフを差し込んだ。
繊維が切れる感覚が、手のひらに伝わる。
ぐるり、と男の両の眼が反転した。ヨハンは思いっきりナイフを押して、首を半月状に切り裂いた。破裂するように血が噴出して、ナスターシャとヨハンの身体を濡らす。男の身体は奥に倒れこみ、仕事仲間たちの死体の山に仲間入りを果たした。
ナスターシャは壁にもたれながら左側に倒れる。口からは喘鳴によく似た呼吸音が漏れ出していた。
「……大丈夫か、しっかり、してくれ」
ヨハンはナイフを落とし、震えた両手でナスターシャの肩を持った。
彼女の首には痛々しい青黒い手の跡がくっきりと残っている。首の骨は折れていない。外傷も、返り血と自身の血が渾然一体となっていて非常にわかりにくいが、特に命の危機に迫るものではなさそうだった。
彼女の血まみれの手がヨハンの左肩の袖をつかむ。顔をヨハンの耳に近づけて、言った。
「…………ありが、とう」
ヨハンは彼女の顔を見る。その眼は朦朧とし、霞んでいた。
「当然のことをしたまでだ」
その言葉を聞くと、ナスターシャは口元だけで笑った。それから、ごくごく小さな声で、
「……すこし、まって、くれ」
と言った。彼女は右手の手探りでヨハンの左手を探し当て、握りしめる。ヨハンも彼女の手を握りしめた。
ナスターシャは横たわったまま浅い呼吸を繰り返す。やがて空気の量を増やしていき、胸が膨らむほどの深呼吸を二回おこなった。それから上体を起こし、首を大きく回して息を吐いた。一連の動作の後の彼女の眼には、明晰さが戻っていた。
「……ふう……待たせた、行こう」ナスターシャは立ち上がる。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ」そう言う彼女の声は掠れている。「とは言っても、頭は少し朦朧としている。酸素が足りていない。早くこんなところから出て、地上の空気を吸いたい」
歩き出した彼女の足取りはかなり怪しく、壁の助けがなければまっすぐ歩けそうになかった。ヨハンは彼女の左側に立ち、支える。
「ああ、ありがとう」彼女はヨハンを見ないで言った。「なんだか恥ずかしいな。任せてくれなんて言ったのに、このザマだ。三人目がいることに、気が付けなかった」
「いや、私こそ謝らなければならない」ナスターシャを支えながら階段を上がる。「すべてを君に任せるべきではなかったんだ。ナスターシャがあの男に殴られているのを私は見ていることしかできなかった」
「それでも、君はナイフを持って立ち向かってくれたじゃないか……手を汚させてしまった」
「そうしないと、君が死んでいた」
人の命を奪う感覚。肉を横に切り裂く重み、ほとばしる血液の熱さ……それらはまだ両手に残っていたが、不思議と後悔の念は襲ってこない。友人の命を救うことができた安堵感からか、それともアドレナリンが脳を満たして戦闘に酔った状態にあるためだろうか。身体全体に残る痺れは、準備運動もなしに筋肉を思いっきり動かしたことが原因だろう。ぼんやりとする頭でヨハンは、明日、筋肉痛に苦しむことだろうことを考えていた。
「……顔を洗いたい」
ナスターシャがそう言った。ヨハンは洗面台まで彼女を支えて行こうとしたが、ナスターシャはそれを断った。彼は一人、血にまみれた衣服でソファに腰を下ろすこともできず、部屋に残された。
ふと、窓に影が横切り、鍵が差し込まれる音がして、玄関の扉が開かれる。
「……おお、おはようさん。ひどり有様だな。今朝のあんたの姿もひどかったが、今のほうがよっぽどひどい。この短時間で、あれ以上悪化するとは、いやはやまいったね」
そんな場違いな言葉を発しながらフロンメルトが家に入ってくる。昨夜と違って、マスクはしておらず、顔の全面があらわになっている。
「警察がここに来て、戦闘になった」
ヨハンの報告を受けた彼は、視線を左右にさまよわせ、再び正面に戻す。「それで?」
「地下の廊下で、戦闘になった。ナスターシャと……私が合わせて三人殺した。私はなんともないが、彼女は負傷して、今、洗面所にいる」
「そうか」
フランメルトは大股でヨハンに近づいて、彼の身体を押してソファに座らせようとした。ヨハンは突然の彼の行動について行けず、家具を汚したくなかったため座るのを躊躇する。
「座れ」
「何をするんだ」
「トラッカーを抜く。増援が来る前にやること済ませてここから出なきゃいけない」
押されるままにヨハンは先ほどまで座っていたソファに腰を下ろす。目の前のテーブルに黒い鞄が置かれる。
「左肩を出せ」鞄を漁りながらフロンメルトが指示を出す。
ボタンをはずして肩を出す。「トラッカーを抜くって、どうするんだ?」
機械は筋肉の動きを阻害しない程度の位置にあるが、かといって擦りむいたりしたときに取れてしまうような浅い位置に埋め込まれているわけでもない。
「皮膚を切って取り出す。安心しろ、麻酔は打つから」
フロンメルトはヨハンの足元にしゃがみこみ、鞄から道具を取り出して机の上に並べた。薬品の入った小瓶、注射器、プラスチックのケースに入れられたメス、鑷子(せっし)、縫合用の糸、消毒液とガーゼ、包帯。
「あんた、外科なのか?」
「医学生だった。病院で働いたことはない。が、実習はちゃんと終えて、所定の段階を踏んで卒業している。安心してもらっていい」
慣れた手つきで、彼は手術の準備を進めていく。ヨハンの肌を念入りに消毒し、注射器に薬品を入れた。
「どれくらいで終わる?」
「五分」その言葉とともに、フロンケルトは注射針をヨハンの肩に挿入した。
同じタイミングで、ナスターシャが洗面所から出て来て、ヨハンと眼を合わせる。顔からは血が洗い流されていたが、そこには殴打の跡が生々しく残っていた。その痛々しさに耐えかねて、ヨハンはそれとなく視線を逸らす。
「醜い顔で申し訳ないな」ナスターシャがつぶやくように言った。
「いや、そんなことはない」
彼女は軽く鼻を鳴らした。「眼を逸らしながら言ったところで、説得力がない」
「おい、あまり動くな」フロンメルトが言った。「…………よし、取れた」
テーブルの上に、血液の付着した黒い直方体が軽い音を立てて置かれる。この小さな小さな機械が、絶えず自分の存在を主張し続けていると思うと、不思議な感慨が沸き起こる。
「あとは縫合するだけだ」
「早いな。まだ二分も経っていない」
「縫うのに案外、時間がいるんだ」
フロンメルトはそう言ったが、縫合も手早く終えられた。ヨハンの腕を再び消毒し、上から包帯を巻きつける。
「よし、もういいぞ」彼は立ち上がって、軽く伸びをした。「あんたなら自分で抜糸できるだろ。一週間くらい経ったら、糸を抜いてくれ」
それからフロンメルトはナスターシャを一瞥した。
「ナスターシャ、あんた、ひどい怪我だな。これは驚いた」やや感心するような言い方をしながら、彼はナスターシャに近づく。「打撲痕ばかりで切り傷はなし、か……たぶん痕は残らないな。相手は警察だろ?刀を持ってなかったのか?」
「地下の廊下でやった」彼女はフロンメルトを片手で押し返しながら答える。
「ははあ……なるほどね、どうりで」
ナスターシャの一言で、フロンメルトは彼女に切り傷が無いことに納得したらしい。ヨハンはやや、理解しかねていたが質問をする空気でもなかった。
「さて」ナスターシャはクローゼットから黒いマントを取り出した。「早々に撤収しよう。と、その前に答えを聞いていなかった」
ナスターシャはヨハンの正面のソファに座り、うつむきがちな彼を見据える。
「ヨハン、私たちに力を貸してくれないか?ともに友愛党を打破して、人間性を取り戻そう」
「なんだ、まだそんなことで悩んでいるのか」彼女の後ろに立つフロンメルトが横やりを入れる。「警察がここに来たってことは、あんたがまだ生きているっていうことはとっくに向こうに知られているってことだ。党は狙った獲物は必ず殺す。おまけにあんたは警察まで殺したんだ、あんたを殺す正当な口実ができちまった」
「フロンメルト」ナスターシャが横目でにらむ。「脅すようなことは言うな。私は対等な関係をヨハンと結びたい」
フロンメルトは呆れたように首を横に振り、地下室へ下りて行った。視線を正面に戻したナスターシャは、言い含めるような優しい声色で言った。
「まだ決められないというなら、君が決められるまで待ちたい。さっき私は君を喪ったら二日間は何もできないだろうと言った。ヨハンが諸々のものを失ったことから回復するのに、どれくらいかかる?」
「いや」ヨハンはうつむいたまま首を横に振った。「もう、いい。あとには引き下がれない」
ナスターシャと、眼を合わせる。
「私も戦うよ、ナスターシャ。君について行こう」
「……ああ、ありがとう、ヨハン。君ならそう言ってくれると信じていた」
彼女は立ち上がる。「フロンメルト、ヨハンにもマントを渡してくれ」
「はいよ」
地下から戻って来たフロンメルトは、クローゼットから黒いマントを取り出して、ヨハンに投げた。これを羽織れば服についた血の跡も隠せる。今が寒い季節でつくづくよかったと思う。夏に外套を着て外を歩いていたら、不審に思われるだけだ。
「あと、これはあんたの荷物だ。無駄かもしれないけど、なるべく身元の特定につながるものは残したくないんでね」
そう言ってフロンメルトは、ヨハンに鞄を渡した。昨日、ここに持ち込んで、地下室にそのまま置いてあった彼の仕事用の鞄だ。
「それじゃあ、行こう」
ナスターシャがそう言って外へ出る。時計は七時半過ぎを示している。奇しくも仕事へ行くのに家を出る時間と同じだ。仕事の仲間はもうヨハンの死を知っただろうか?ヴェルナーは変わらず、昼食時に診察室を訪れるのだろうか?
もうこの家には戻らないだろう。地下の真ん中の部屋には、シャルロッテに頼まれたガレットとケーキがある。常温でおいてあったそれらはもう、痛んでしまっているはずだ。
「ああ、そう」家を出る時、フロンメルトがヨハンに右手を差し出した。「これにも名前が書いてあったから、持って来たよ」
その手に握られていたのは、昨夜ケーキ店でもらった、ヨハンとシャルロッテの名前が記された、結婚記念日を祝福するカードだった。
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