Historical Amnesia

青桐鳳梨

第一章 悲劇 1

「それじゃあ、行ってくる」ヨハン・ハーバートは灰色の外套に身を包み、片手に黒い革の鞄をぶら下げて、空いたもう一方の手で妻に向かって軽く手を振った。

「行ってらっしゃい」玄関口でシャルロッテは柔らかく微笑んだ。

 その顔にそって垂れるブロンドのサイドテールが揺れた。家々が密集して立ち並んでいるせいで午前七時半の朝の日差しは玄関先には差し込まない。光の関係からか、シャルロッテの顔はより一層ほっそりして見えた。眼の下はほんのり青くなっている。

「何か、必要なものはないか?食べたいものとか、欲しいものとか……手に入るかはわからないけど、帰りに探してくるよ」

「いいの?それじゃあね……」シャルロッテは口元に手を当てた。「チーズケーキとか、ガレットとか、あとは最近寒くなってきたから、ウイスキーとかちょっとだけ飲みたいかも」

 ヨハンは真剣な顔でため息をついた。「君、妊娠中だろう。酒は駄目だ。胎児だけでなく母体にも悪影響を及ぼす」

「わかっているわよ、そんなこと。冗談が通じないんだから。そんなに生真面目だと、生まれてくる赤ちゃんも笑うに笑えなくなっちゃうんじゃないかしら」

 シャルロッテの身体には目に見える変化は表れておらず、まだつわりも来ていない。何も無ければ、いや、順調に経過しても結局、妻には大変な負担を強いてしまうことにはなるのだが、約八か月後にこの家に家族が増えることを、ヨハンはうまく想像することができなかった。家族を養わなければいけない使命は確かに胸の裡にあるのだが、それ以上に、自分が父親になるという事実をうまく受け止めかねていた。

「また難しい顔、してる。そんなんじゃ患者さんも怯えちゃうんじゃない?」

「そんなことは」ないと思う、と言いかけたところでシャルロッテの両手が彼の顔を包み込んだ。陶器のような彼女の白い手の冷たさが首元まで伝わる。

「大丈夫よ。きっとあなたは立派な父親になれる。そんなに悩み詰めてる顔をしているんですもの、あなたが家族のことを思ってくれてることはきっと。私たちの子どもにも伝わっているわ」

 ね?と、彼女は柔らかく微笑んだ。

「……今日は早く帰って来てね?わかってるでしょ?」

「十月十二日。結婚記念日だ」

「ん、完璧」

 満足そうに頷いてから、シャルロッテは軽く背伸びをしてヨハンと唇を合わせた。

「あなたの好きなものをたくさん用意して待ってるからね」

「チーズケーキとガレット……ウイスキーはまあ、今日くらいは良いだろうか」

「駄目、本気にしないでよ。たとえ少しでも、身体に悪いものは摂るべきじゃないわ。あなたが飲みたいって言うなら止めないけど」

「君が飲まないのに、私が飲むわけにもいかない」

「ふふ、律儀ね」彼女の手がヨハンの顔から離れた。「気を付けて行ってらっしゃい」

「ああ、行ってきます」

 顔から失われていく彼女の体温に少しの名残惜しさを感じつつ、ヨハンは歩き始めた。

 大西洋に浮かぶ島国・アルガンティアの首都であるロジアルドの人々はすでに活動を開始していた。人が住む土地が足りなくなって、空いた土地に次から次へと住居を建設してできた家々の間を縫うように、人は仕事場へ向かう。秋が深まるにつれて短くなる日照時間に加え、郊外の工場から排出される灰色の煙のせいで街はよりいっそう薄暗く感じられた。

 街を少しでも彩ろうと、二階の窓から吊り下げられるようにして備え付けられたプランターには、冬枯れた花がそのままになっている。窓の一つから、少し薄くなった頭の男性が顔を出して、ヨハンに気が付くと、おはようございます、先生、と言った。

「もうじき選挙ですね」低い声で男性は言った。しわで落ちくぼんだ眼は無感動な光をたたえている。「前の選挙から三年になりますね。あの時は、義妹がお世話になりました」

「ああ……」ヨハンはこめかみを抑えて過去の記憶を引っ張り出す。「確かあの時は、肺炎を患ったのでしたね。その後はどうです。体力は戻りましたか?」

「おかげさまですっかり元気ですよ。前と変わらずに工場で働けているようです。前会った時には、今度、何とかっていう部署の主任を任せられるって言っていましてね。長年の貢献が認められたって、大喜びでした」

「それは良かったですね。おめでとうございます」ヨハンは頭を下げた。

「それで、先生。先生は今度の選挙はどこへ投票します?」

 歩き出そうとした矢先に、男性がそんなことを言った。時間が少しだけ気にはなったが、たとえ相手が誰であろうと、会話中に時計を見るような真似をヨハンは絶対にしなかった。

「……どこへ投票をしても同じでしょう。友愛党が勝ちます。どうしてそんな質問を?」

「いやただの世間話ですよ。いつも通り、友愛党が勝利する、しかも他党に圧倒的な差をつけて。私もそう思うのですが、少しだけ思うところがありましてね」

「思うところ?」きっと訊いてほしいのだろう。ヨハンは期待されるままに訊ねた。会話を促して相手の胸の裡を軽くすることも、町医の役目だ。

「つい最近、駅前で友愛党の街頭演説があったのです。買い物に行く人や労働帰りの人が足を止めて、そのスピーチを聞いていました。党員の名前は、なんて言ったかな……ちょっと思い出せませんが、とにかく彼は今抱えている問題について語っていました。労働者の健康問題とか、少子化とか、過密化とか。我々が今どのような問題に直面していて、それに立ち向かうには国民の皆様の協力が必要なんだと、まっすぐなまなざしで語っていました」

「普通の街頭演説ですね。その時の光景が目に浮かぶようだ」

「ええ、それだけなら普通の街頭演説なんです。夕食時にはもう、何を言っていたか忘れてしまうようなね。でも、ふと政治家の話が切れた時、乱入者が現れたのです」

「ほう、乱入者。それは穏やかではないですね」

「いえそれが、乱入者といっても暴力的な乱入ではありません。ただ少し、ヤジというか、質問を浴びせかけた若者がいたのです。質問を飛ばしたのは学生でした。私はいやに感動しましたよ。先生ならまだしも、街頭演説をしている政治家に向かって質問をぶつけるんですもの。その子は政治家に向かってこう訊ねたのです。あなたがた友愛党は前の選挙の時から、労働環境や少子化のことを問題視しておられるが、前の選挙から今までの三年間、一向にそれらが改善されているとは思えない。これはいったいどういうことなのか、とね」

「なるほど。若者らしい質問だ」

 無鉄砲というか無遠慮というか。勢いがあって実直な質問だ。内容の良し悪しはともかく、その正直さには好感が持てた。

「政治家はその質問をした学生を見て、答えました。それらの問題の解決には長い時間を要するが、我々は少しずつそれらの問題を改善している、とね。わずかに良くなり続けてはいるのだが、それらの変化はあまりに微細で感じ取ることは難しいし、加えて言えば人間、どうしても悪いところばかりに目がいってしまうものだ。皆様が変化に気が付けないのは我々の邁進が足りないのであって、国民の皆様に満足いただけるよう、より一層励まなければならない……そんなことを友愛党の人は滔々と語っていました」

 いかにも政治家らしい内容だと、ヨハンは思った。問題解決にどのような努力を払っているのか、具体的な取り組みは話さずに未来への展望を語る。話を聞く限り、質問をした学生のような素直さは党員には無いようだ。

「それからね、その政治家は質問者を褒めました。素晴らしい質問だとね。現代社会の問題を端的に表現して、的確に相手に問うた姿勢は称賛に値するとまで言いました。質問者はやや呆気にとられた様子でした。それもそうでしょう、批判をぶつけた相手から、まさか褒められるとは思っていなかったでしょうから」

「ほう、それは何というか、変わった政治家ですね。偏見かもしれませんが、政治家という人種はみな自身の考えに固執して、意見を否定されたら人間性まで否定されたと感じるものだと思っていました」

 話を促すために、ヨハンは大衆が考えているであろう政治家像を言った。当然、そんな人間ばかりではないはずだ。

「ええ、政治家というのは往々にしてそのような人間です。そのような人間にしか務まらない職業なのです」ヨハンの狙い通り、男性はスムーズな話の流れのままに語る。「しかしその人は違ったようです。彼はその後、観衆に向かって、質問や批判は大いに結構、むしろそれらを推奨していると言いました。注意深く投票先を吟味したうえで、ぜひ投票していただきたい、と。自分らが当選することは、このアルガンティアという国が良くなるための過程に過ぎない。国民の皆様が思い悩んで投票をした結果、友愛党が選ばれずにほかの党が当選して、国が良くなるのであれば、喜んで他党に席を譲ろう、とね」

 本人にはそのつもりが無いのかもしれないが、 男性の語り口は、まるでその友愛党の党員が乗り移っているかのように熱がこもっていた。道を通りすがる人は奇異の眼を投げかけていたが、彼は気にするそぶりを見せない。

「おかしいのはね、この国が良くなるのならほかの政党が当選してもかまわないというその態度ですよ。政党は、自分たちの掲げる政策が最も素晴らしいものだと主張してしかるべきだと思います。実際、友愛党以外の党はみんなそうしています。ほかの党の政策は駄目だ、実現性がないだの、税金を引き上げるつもりだの、自党の価値を上げて他党を貶めることに躍起になっています。それなのに、友愛党は自分たちのやり方がナンバーワンであるとか、他党は間違っているとは、そういったことは一切言いません」

 狭い道を行く人は一瞬だけ彼の顔を見上げては、何事もなかったかのように通り過ぎていく。立ち止まって話を聞いているのはヨハンただ一人だけだった。

「私はね、思うんですよ。そのような態度で国民を代表するのは誠実さに欠けるとね。自分たちが考え出す政策一つ一つが多くの人の動向を左右するというのに、批判を許しているその態度が気に入らない。代表者には、絶対的に正しくあってほしい……この気持ち、わかりますか?」

「ええ、わかります」簡単に、ヨハンは同意した。

「ただ有権者の多くはそう思わないようです。前に引き続き、今回も友愛党の一強でしょう」

 男性は窓枠から少しだけ身を乗り出した。その話しぶりにより一層の熱がこもる。

「彼らのやり方は実に寛容です。疑いを持つことを国民に許し、あまつさえ批判をも許している。でもね、その寛容さを引き換えにして、国民に支持を強要しているような気がするのですよ。『民衆の意見や批判は甘んじて受け入よう。国民の皆さんを深く愛している。皆さんが幸せならば、我々は当選しなくても一向にかまわない』。そういったメッセージの裏には『だから皆さんは、私たちに投票してくださいね』という含蓄があるような気がしてならないんですよ」

「わかるかもしれません。選択の余地を与えているように見せかけて、その実、都合の良いように相手を操作して答えを誘導するというのはよくある支配の手法です」

 と言いつつも、ヨハンは内心、男性の神経質ともいえる考え方に冷めた見方をしていた。考えすぎではないのか?一つ間違えば陰謀論に陥りかねない予感がする。

 しかしあえて、無理に異を唱えることはせずに男性に同調した。ここで少しでも反論するようなことを言えば、会話が引き延ばされることは目に見えていたし、何でもない日常会話で波風を立てることはしたくなかった。

「興味深い話をありがとうございました」ヨハンは深々と頭を下げる。「まだまだ話を聞いていたいのもやまやまなのですが、私には仕事があります。そろそろ失礼しなければなりません」

「ああ、そうでした。今はまだ、朝の通勤の真っ只中でしたな」てっきり夕食後かと思ったとでも言いたげな様子で、男性は笑った。「それでは先生、さらなる議論はまたの機会に」

 失礼します、と言ってヨハンは視線を前に向け歩き出した。広場に出る角を曲がったところで、腕時計を見る。家を早めに出たおかげで、始業の十分前には職場にたどり着けるだろう。トラブルを回避するのに最も役立つのは、時間的余裕だ。

 駅前は郊外にある工場へ勤務する人で混んでいた。彼らの黒く煤けた衣服は油のにおいが染みついていた。それとは対照的な格式ばった黒い制服の学生はすらすらと人の間を通り抜けていく。その冷ややかな眼は工場で機械的に働く人たちをどこか侮蔑し、自分はこのようにはなるまいと主張しているようにも見えた。若さゆえの痛々しさを彼らに覚えつつ、自分も学生の頃はあのように見えていたのだろうかという一抹の羞恥がヨハンの胸中をよぎった。

 駅の階段横では「労働党」と入った旗を掲げて、拡声器を持ってスピーチをする人たちがいる。彼らは労働者の、とりわけ工場で働く人たちの権利について声高に語っていた。勤労者が多くいる時間帯を狙ってスピーチを行う戦略は評価できるが、その戦略が功を奏しているとは言えず、立ち止まって話を聞いている人はほとんどいない。労働者たちが電車に遅れまいと急いでいるからだ。政治家のはきはきとした声は彼らには届かずに、寒空に吸い込まれていった。

 電車には乗らず、迷路のように入り組んだ道を抜けて小さな病院にたどり着いた。始業にはまだ余裕がある。男性との会話はルーティンを崩す事態には至らなかったようでほっとした。

 ヨハンは小さな診療所で内科医として勤めていた。大学の医学部を二十四歳で卒業をして以来、アルガンティアの各地の病院を転々とし、二十七歳の時に、今現在、勤務している首都・ロジアルドのこの病院に腰を落ち着けた。それを機に、高等学校からの同級生で大学時代から交際を続けていたシャルロッテと結婚をした。それから二年、小さな困難はいくつもあったが、それでも世間一般には成功していると言い切ることのできる、幸福に満ちた生活を送っていた。

 医療に携わる仕事も、自分自身に合っていると感じることができた。看護師やほかの医師はみんな生真面目で人当たりの良いヨハンのことを尊敬し、彼もまた仲間のことを信頼していた。様々な立場の患者と関わることで自分自身が社会の一員であることを実感できた。

「お疲れ様です。先生」午前の診療を終えた後の昼休憩中、看護師がヨハンの診療室に入ってきた。片手には青いバインダーを持っている。

「先生、警察の方がお見えになっています」看護師は薄く微笑んで言った。

「ああ……わかった、通してくれ」

 ため息交じりの声でそう返答する。承知しました、と言って廊下をぱたぱたと歩くスリッパの音が遠ざかった。やがて、黒い制服姿の男が顔を出した。

「やあ、ヨハン!昼飯を食べに来たよ」

 その黒髪の男は入ってくるなり、髪と同じくらい黒い革手袋をつけた手で帽子を取った。もう片方の手には近くの店で買って来たであろうサンドイッチが握られていた。

「……ヴェルナー。ここはレストランじゃないと何度も言っているが、まだ記憶できないのか?私の知っている限り、昔の君はもっと優秀な頭脳を持っていたはずだが」

「お前の言う通り」静止を受ける前に、彼は警察官の印である刀を壁に立てかけて患者用の椅子に腰を下ろす。「確かに僕の脳は優れているけど、主席だったお前に言われると腹が立つな」

 ヨハンはただただ良い成績を残すことに躍起になっていた、高等学校に在籍していた頃を想起した。成績を競う相手の一人に、いま目の前に座っているヴェルナー・マルクがいたのだが、この男との交流が大人になっても続いているとは思ってもいなかった。

 ヴェルナーとは幼少期からの友人だった。二人の父親の仲が良かったのだ。ヨハンの父は細菌学者で、ヴェルナーの父親は工学者だった。分野は違っていても、二人の学者は同じ大学の敷地で交流を保ち、その縁で子どもたちも仲を深めていった。

「奥さんの体調はどうかな?」

「まだ二か月だ。きっとこれからつらくなっていくだろう。シャルロッテには苦労をかけることになる」当然のように居座って手袋を外してサンドイッチを食べているヴェルナーを追い出すのを早々に諦め、ヨハンはシャルロッテに作ってもらった弁当を広げる。

「君のほうはどうなんだ、ヴェルナー。選挙が近いんだ、警察も繁忙期なんじゃないか」

「それは友愛党に害をなす反乱分子を、警察が消し去るという馬鹿みたいな流言のことを言っているのか?そんなことをしなくても友愛党は勝つだろう」

 友愛党は八十年以上にわたってこの国の政権を握っている。敵になりそうな勢力に対して妨害工作を施さなくてもヴェルナーの言うように友愛党は勝てるだろうし、むしろ下手な工作はイメージダウンにつながりかねない。

「公僕である僕には政治について言えることは何一つないが、今まで社会はうまく回ってきたのだ。このまま友愛党の仰せのままに生きていくのがいいんじゃないか?」

「うまく回ってきた、か。本気でそう思っているのか?私の眼にはいくつかのほころびが出ているように見えるが」

 工場労働者の労働問題がその顕著な例だ。国民のほとんどは国から官営工場勤務の仕事をもらって賃金を得て暮らしている。工場の労働環境は劣悪なもので、死者こそ出ないもの、呼吸器が悪くする人が毎年多く発生する。

「今日も喉が痛くて咳が止まらないと言う人が来た。喉の奥が赤黒くなっていた。その口で工場の愚痴を言うものだから困ったものだ。私はカウンセラーの資格まで取っていないんだがね」

「なに、労働者が現状に不満を持っているなら、今回選挙でそれがわかるさ。このままでは嫌だと思っている人が多いなら、友愛党は負けるし、そうでないなら変わらず友愛党が勝つ。民主主義というのはそういうものだろ」

 今朝の男性との会話を思い出す。彼は友愛党のやり口に奇妙なものを覚えながらも、友愛党が勝利することを確信していた。前回の選挙もそうだった。現状に対する不満は方々から聞こえていたのだが、勝利を収めたのはやはり友愛党だった。

「このままじゃ駄目だという思いが大衆にはあるのに、結局は友愛党が勝つのはどうしてなんだろうな」ヨハンはつぶやいた。明確な回答は求めていなかったが、ヴェルナーは悟ったような笑みで答える。

「対抗勢力に魅力がないのさ。連中、労働者の権利とか言いながら労働者そのものを見ようとしない。働いている人たちを哀れに思って見下しているんだよ。工場勤務者だって、そのほとんどが大学を出ていないからといって、別に馬鹿だというわけじゃあない。彼らはきっと自分たちが友愛党を引きずり下ろすための材料としか思われていないことに気が付いているのさ」

「……公僕は政治に意見をしないんじゃなかったのか」

「あ、いけね」ヴェルナーは口元に人差し指を立てた。「聞かなかったことにしてくれ」

 首を横に振ってため息をつくヨハン。ヴェルナーの背後にある廊下へと続く扉は閉まっていたが、路地に面している窓は開けたままになっていた。二階だから会話を聞かれることもないだろうが、念のために閉めておこうと思い、ヨハンは立ち上がって窓枠に手をかけた。

 ふと、下を見ると黒い服の男が歩いていてぎょっとする。帯刀はしていない。警察ではなく、ただの学生のようで胸をなでおろした。

「……どうして警察と学生は、こうも衣装が似通っているんだ。不親切じゃないのか」

 もともと座っていた椅子に腰を落ち着けながらヨハンが言う。ヴェルナーは無表情でその質問に答えた。

「昔は国立大学の学生団が警察組織の代わりを務めていたからだ」

「そんなことは知っている。私が言いたいのは、どうしてそれが今の今まで何の変更も改善もされずに残っているのだ、ということだ」

「ああー……」窓に目を向けるヴェルナー。「学生と警察を見間違えたのかい。確かに警察も学生も黒い帽子に開襟姿だからね。寒くなってきたから、マントやコートを上に羽織ればなおさら識別するのは難しい。お前も学生の頃、体格が良かったから警察に間違われていたっけ」

 高等学校時代を思い出すよ、と言ってヴェルナーは立ち、窓から外を見た。

「僕とお前、それからナスターシャ……いつも三人で一緒にいた。僕とナスターシャは勉強や運動でいつも競い合っていて、ヨハンはそれをいつも傍から眺めていた。勉強でも運動でも、僕らの中でいちばん優等生だったのはお前だった。僕とナスターシャが束になっても、お前にはかなわなかった」

「そんなことは……いや、どうだったかな。君はともかく、ナスターシャの成績はかなり良かったと記憶しているが。私たちの中では一番の読書家だったし、生徒会長も務めていた」

 彼女、ナスターシャ・オリヴァーのことはよく覚えている。凛としていて、炎のように力強い女性だった。会長としてほかの生徒や先生からの信頼も厚く、不思議なカリスマ性を身にまとっていた。彼女の父親も、ヨハンとヴェルナーの父親と同じく学者で、歴史を研究していた。高等学校の卒業を待たずしてナスターシャは父親の都合で引っ越してしまい、それ以来、一度も顔を合わせていない。

「もう十年も会っていない。ヨハンとシャルロッテさんの結婚式にも、ナスターシャは顔を出さなかった」

「住所がわからないから、招待状も送ることができなかったんだ」

 数秒の沈黙が診察室に流れる。ヴェルナーが窓に背を向け、ヨハンのほうを向いた。黒髪の間から警察特有の鋭い眼が覗く。

「実はね、僕はあの時、ナスターシャが好きだったんだ。聡明で強い彼女を愛していたんだよ」

「…………どうした急に。らしくない」ヨハンはヴェルナーと眼を合わせた。

「ああ、らしくないだろ?僕たち、いつも競い合っていたもんな。いま思えば、あの時の僕は彼女の気を引こうと躍起になっていたのかしれない。馬鹿だよなあ、気持ちは言葉にしなけりゃ伝わらないのにさ」

「らしくないと言ったのは」ヨハンはデスクに頬杖をつき、ヴェルナーを見据えた。「君がナスターシャを好きだったという事実に対して言ったのではない。唐突に、自分の胸の裡をさらけ出すようなことを言ったことに、らしくないと言ったんだ」

 もともと彼はよくしゃべる人間ではない。確かに口はそこそこ回る。しかし出るのは表層的なことばかりで、肝心なところでは薄く微笑んで暗い沈黙を守る、そんな奴だった。

「何か、思うところでもあるのか?先ほども言ったが、私は別にカウンセラーでもなければましてや聖職者でもない。懊悩の解決を求められたってできることはない」

「いやなに、そんなんじゃないよ。ただ、もうすぐ三十歳を迎えるってのにこのままでいいのかなって思っててさ」ヴェルナーはため息をついた。彼の顔だちは繊細な少年のように整っていて、もうすぐ三十を数える男の顔にはとても見えなかった。「ナスターシャが引っ越す少し前に、学校で長距離走の大会があったのを覚えているか?あの市民公園を二周させられるやつだ」

「ああ、覚えている。苦行みたいなものだからな、忘れるはずもない」

 秋口だっただろうか。イチョウが舞い散る肌寒い空気の中を二十キロほど走らされた。露に湿った落ち葉が地面に張り付いて滑りやすく、非常に走りにくかったことを覚えている。

「苦行?それにしてはお前、学年の中でも上位に入っていたじゃないか」

「よく順位まで覚えているものだ」

「そりゃ、忘れないよ。だって僕は、あの大会でお前に勝ったら、ナスターシャに告白しようと決めていたから」

 その発言に、ヨハンはどう返せばいいかわからなかった。学生時代だったら驚いたふりくらいはできたかもしれないが、あれから十年以上の歳月が経っている今、そのような真似をしても白々しいだった。

「お前は六位で、僕が十一位。百人以上参加する大会の中では、十分な成績だと言えるだろう。でもそれじゃ駄目だったんだ。必死で走っているのに、お前の背中が遠ざかっていく光景とその時の悔しさは今でも覚えている」

「なぜだ。君の恋愛感情は私には関係ないだろう。君が誰を好きになって、誰と結婚しようが、君の自由だ。私に勝ったら、なんて悠長なことを考えていないで、君はナスターシャに告白をするべきだったんだ」

「そうじゃあないんだ」ヴェルナーは首を横に振った。「あの時の僕は、ナスターシャにふさわしい男になるためには、ヨハン、お前に勝たなくちゃならないと思っていたんだ。ああ、勘違いしないでほしいのは、ナスターシャが君に惚れていたとか、そういうわけでは決してないぜ。あいつはどちらかと言えば、僕に気があったと思う」

 ヴェルナーは無表情でそう言った。それが冗談なのか本気なのか、はたまたただの願望なのかは読み取れない。

「僕はただ単純に、僕自身の目標として君を選んで勝負すると決めたんだ。勝って彼女にふさわしいということを、自分の中で証明したかった……結局、勝負には勝てずにナスターシャは離れていってしまったけどね。そしてお前のほうは、同級生のシャルロッテさんと結婚した」

 ヴェルナーは乾いた笑みを浮かべ、ため息をついた。「ナスターシャ、元気にやっているかな」

「まだ彼女のことが好きなのか」

 ゆるゆると首を横に振る。「まさか。ただね……」

 ヴェルナーは目線を逸らし、磁石が引き合うみたいに口を閉ざしてしまう。ヨハンは足を組み椅子を回転させてヴェルナーに向きあった。

「煮え切らない態度だな。やはり今日の君はどこかおかしい。今日は早めに上がらせてもらってゆっくり休養を取るべきだな。眠れていないなら、睡眠導入剤を処方してもいいが」

「いや、結構」ヴェルナーは手のひらをヨハンに向けた。それから真剣なまなざしを彼に向ける。「なあ、ナスターシャの引っ越しの理由を知っているか?」

「引っ越しの理由?父親の事情だと聞いていたが。それ以上のことは知らない」

「そうか……おかしいと思わないか?」

「何が?」やや、大きな声で問うた。「結論を先に言ってくれ」

「僕らの父親が事故で死んだ矢先に、同じ研究者のナスターシャの父が遠くへ行ったことだよ」

 ヴェルナーの顔は真剣そのものだった。ごまかしも疑いも、その表情には微塵も現れていなかった。

「僕らの父親……セシル・マルクとダドリー・ハーバートが十年前、列車の事故で亡くなった。ナスターシャの父親であるソビエスキ氏は遅刻癖があって、数本遅れた列車に乗っていたから事故に遭うことはなかったけど、彼も一つ間違えていたら死んでいたかもしれない……いや、この場合は遅刻せずに正しい行動を取っていたらのほうが合っているかな」

 十年前の列車事故。線路の切替機に不備があり、列車がスピードを落とさないまま積み上げてあった石に突っ込んだのだ。百名ほどの乗客が命を落とし、その三倍の数の人が重軽傷を負った。死亡の数年前からヨハンの父親は国中を飛び回っており、ほとんど家には帰らなかった。そのせいだろう、母親がひどく取り乱したのとは対照的に、ヨハンは新聞に掲載された被害者名簿の中に父親の名前を見つけても、どこか他人事のように感じていた。

「考えすぎだと思うが。私たちの父親は百人にも及ぶ被害者の内のたった二人に過ぎない。運が悪かったんだ。ナスターシャの父も、事故のショックで遠くへ療養しに行っただけなのかもしれない」

「ああ、うん……そうだな、きっとヨハンの言う通りなんだろう。お前の言うことはいつだって正しかった。僕はまだ彼女が去っていってしまった事実が受け入れられていないのかもしれない。僕にとって、ヨハンとナスターシャのグループは完成された楽園のようなものだった。それがバラバラになってしまったことがとても悲しかった。たぶん、父の死よりもね」

 ヨハンにとってもあのグループは心地の良い集団だった。父たちの死とその共同体の分離は同時期に起こった。ヴェルナーはその時の傷が十年以上たった今でも癒えていないのだろうか。

「……迎えが来る前に、仕事に戻ったほうがいいんじゃないか?」時刻はもうすぐ十三時を回ろうとしていた。「上官殿までこの病室に来るのは耐えられんぞ。病院というのは静謐で清潔でなければならない空間だ」

 アルガンティアの国民は出生時にトラッカーと呼ばれる小さな黒い直方体を左肩に埋め込まれる。それは小さいながらも半永久的に動き続ける通信装置で、政府に個人情報や位置情報を絶えず送信し続けると、ヨハンたちは学校で教わった。それを聞いた時、自分の左肩に他人の視線が内在されているような気がして、ヨハンは嫌悪感を催したが、この技術のおかげで福祉が行き届き、犯罪が激減することになったそうで、複雑な感情を抱いたのを覚えている。

「別にトラッカーの情報が無くたって、僕がここに来ていることを上官殿はご存じだよ。わざわざ報告してから来ているからね。そういう決まりなんだ」

 窓枠から離れて、ヴェルナーは机の上に置いてあったサンドイッチの空容器を部屋の隅にあったごみ箱に入れた。手袋をし、帽子をかぶる。暗い影が彼の眼もとに落ちて、剣呑な雰囲気が一瞬にして黒い衣服を包み込んだ。刀を腰に差すと、そこには過去の思い出に感傷的になっていた男の影はなく、職務に忠実な冷徹さを思わせる警察官が立っていた。

「それじゃあ、また来るよ」

「できるだけ来ないでくれ、患者が怯える」

 ヨハンは半ば本気でそう言った。ヴェルナーは真顔で二度瞬きをして、

「ああ、わかったわかった……もう二度と来ることはないよ」

 と軽い口調で返し、「じゃあねー」と間延びした声を残して病室を後にした。

 二度と来ないでくれ、と言うことは複数回あったが、ヴェルナーがそれに対して了解するようなことを言ったのはこれが初めてだった。

 わずかな違和感と喧騒の後みたいな奇妙な静寂を残していったヴェルナーの残り香を、ヨハンはため息で払拭して午後の業務に取り組み始めた。


 ヨハンは病院の内外の人間どちらからも良い評価を受ける医者だ。病院に勤務している仲間とは緊密なコミュニケーションを取り、カルテなどの書類も他人が見たときに何が書いてあるかを瞬時に理解できるよう明確に作成する。患者に対してはできるだけ柔らかく接し、病気による疲弊から生じる心細さや不安を緩和するよう、診察の際に気を付けていた。

 午後の診察の時間に、ある男性がやってきた。年齢は四十三歳で、独身。工場で働いており、今日は休暇を取ってここに来たという。

「働いていると、だんだんと喉が痛くなって、咳が止まらなくなっちまうんです。苦しくて、涙が出て……休憩をもらおうにも他人に迷惑はかけられないし……」

 診察を行って、ヨハンは職業性の喘息だと結論付ける。工場で発生する物質によってアレルギー反応が引き起こされ、呼吸困難や喘鳴などの症状が出る病気だ。

「炎症を抑える薬と、気管支を広げる薬を処方しておきましょう。受付で処方箋を受け取ってください」

 お大事にといって診察を終える。しかし男性は席を立とうとしなかった。

「どうかしましたか?」

「あの……先生、俺、このまま工場で働き続けていいんでしょうか?」

 ペンを動かす手を止めて、椅子を回転させて患者に向きなおる。「薬を使い続ければ喘息の症状は改善していきます。時間はかかると思いますが、いずれ苦にならなくなると思いますよ」

「はあ……そうなのでしょうか」

 ため息交じりの声で男は言った。何か聞いてもらいたいことがあるのだろう。落ち込んだ精神が肉体に悪影響を与える場合があることは、ヨハンのこれまでの経験でわかっていた。

「何か、悩みでもあるのですか?」患者の精神衛生を保つためにも、ヨハンは尋ねた。男性は視線を軽く左右させた後、ぽつりぽつりと語り始める。

「時々、自分がやっていることがわからなくなるんです。朝早くに起きて、列車に押し込まれて工場まで運ばれて、朝から晩まで無心で働いて、疲れて家に帰って、酒を飲んでベッドに倒れる……そんな毎日を送っています。他人との会話もほとんどありません。今日だって、しゃべったのは久しぶりです。俺の話し方、おかしくありませんか?」

 不安そうな目で、男性はヨハンを見た。ヨハンは首を横に振る。

「よ、よかった」男性の声はかすれていた。工場の空気のせいか、ふだん他人と会話を交わさないせいなのかはわからない。「工場で俺が何を作っているかもわかりません。ただベルトコンベアの上を左から流れて来た部品を組み合わせて次に流すだけなんです。俺が馬鹿なだけなのかもしれないけど、その行為にどんな意味があるのか、さっぱりわからないんです。俺が作ったものは何になるんでしょう?俺は社会の役に立っているのでしょうか?」

「あなたを必要としている人はきっといますよ」ヨハンは男性の眼をまっすぐに見て答えた。「あなたが作った部品も、次の人の手に渡りさらに複雑なものになって、何かの製品になって人々に役立っているはずです。それに、あなたは日用品や食べ物を買って日々を営んでいるでしょう。それはすなわち、経済を回すことに貢献しているということです。買い物をする店の人の役に立っていると思いますよ」

「でも、それって、俺じゃなくてもいいじゃないですか。俺の仕事は、ほかの誰でもできることで、買い物だって、別に俺一人が行こうが行かまいが、変わらないじゃないですか」

「それは私だって同じことです」ヨハンは柔らかい微笑みを浮かべる。「この病院に来院する患者さんにとって、私は代替可能な存在です。別に私がいなくても、ほかの医者が診察してくれるでしょう。私にとどまらず、代わりのいない人なんていません。欠員が生じたら、そこを埋める人員が補充されて、変わらず回り続ける。社会とはそういった機構を持ったものです」

 ヨハンはやや誇張したことを言った。全員が代替可能な存在だと言うのはマクロな視点から見たもので、ヨハン個人から見たら妻や友人など、代わりのいない存在は当然いる。

「こう考えてみたらどうでしょう。あなたは代わりの利く存在だ。だから突然、仕事をやめてもいいのだ、と」

「仕事を、やめてもいい?」

「ええ、そう考えると、気楽になった気がしませんか?生きがいは仕事のほかにもたくさんあります。仕事の人員は替えが利きますが、あなたの人生はあなただけのもので、替えが利きません。そういったかけがえのないものに目を向けてみてはいかがでしょうか」

 はじめは暗かった男性の顔も、笑みこそ浮かばないものの、ヨハンの言葉を聞いて徐々に生気が戻っていった。

「そんなこと、考えたことありませんでした。家に帰って、先生のおっしゃったことをもう一度考えてみたいと思います」

「ええ、何かあったらまたいらしてください」

「はい、話を聞いていただいてありがとうございます。心が軽くなったような気がします」

 卑屈なほど頭を深々と下げながら、患者は部屋から出て行った。

 工場で働く人は自己肯定感を欠くことがしばしばある。それが今まで診察してきた中で、ヨハンが工場勤務者に対して抱く感想だった。そのような自己肯定感を持つ人が工場の求人に集まるのか、それとも工場で働くうちにそうなってしまうのか、ヨハンは判断しかねていた。

 勤務が終わったのは十九時の少し前のことだった。最後の患者の診察を終え、諸々の雑務をこなした後、ヨハンは帰路についた。

 身を切る寒さの中をヨハンは歩いた。家々からは温かみのある黄色い光が漏れだし、夕餉のにおいが狭い路地の中に漂っていた。今頃はシャルロッテも夕食の準備をしているだろう。

 朝の家を出た時のシャルロッテとのやり取りを思い出す。チーズケーキとガレット。ウイスキーはさすがに彼女に飲ませることができないので、何か代わりになりそうなものを捜す。

 少し遠回りして大通りに向かい、普段は行かないような高級なパンを取り扱う店に入った。内装は普通のパン屋とはあまり変わらないが、照明の加減だろうか、ショーケースに陳列されたパンはいっそう光り輝いて見えた。提示されている値段も、さすがに目を細めるほど高い。

「チーズケーキとガレットを別に包んで一つずつください」

「かしこまりました。何用ですか?」店員の女性が訊いた。

「ああ、結婚記念日です」

「おめでとうございます」頭を下げる。「カードを入れておきます。名前はいかがなさいますか?」

 ヨハンは自分と妻の名前を言った。店員が自分たち夫婦の名前を淡い黄色のカードに記し、購入したものと一緒に紙袋に入れるのを、浮ついた心地で見守った。料金を払い、ヨハンは店から出た。店員は店先まで出て、ヨハンに向かって頭を下げた。ここまで行うホスピタリティが、この店が高級店であるゆえんなのかもしれないとヨハンは思った。

 続いてヨハンはデパートに入り、ウイスキーの代わりとしてチョコレートを購入した。先ほどのパン屋の店員とは違い、この店の店員は事務的に会計を済ませた。ヨハンとしてもこの対応のほうがありがたかった。

 荷物を両手に持ち、少し足早に帰路を進んだ。夜の空気は身を切るように冷たかったが、ヨハンの顔は全力疾走をした後のようなほてりを感じていた。

 シャルロッテはきっと喜んでくれるだろう。彼女の微笑みが目に浮かんだ。これからしばらくは祝い事も難しくなる。次、盛大に祝うべきなのは間違いなく子どもの誕生日だろう。来るべきその日に向かって、仕事にもいっそう身が入れなければいけない。

 大通りを抜けて喧騒が遠ざかった時、不意に甲高いサイレンの音が聞こえた。どこかで火事が起こっているのだろう。冬になると火事が増える。暖房で火を扱うことが増えることに加え、空気が乾燥することが原因だ。

 家に近づくにつれて、その音は大きくなった。狭い道を人々がひっきりなしに行き来して通りにくい。

 焦げ付くような不快なにおいが徐々に強くなっていく。空を見ると、黒い煙に赤色が反射しており、夜空を背景にしていても、その煙の輪郭は明瞭に見て取れた。

 胸騒ぎがした。

 少し歩く足を速めたが、人が多くて思うように進むことができない。カンカンカン、という突き刺すような鐘の音がヨハンを追い立てる。

 ようやく、ヨハンは自分の家のある通りへ出る。

 燃えているのは、自分の家だった。

 炎は彼の家を包み込むようにして暴れていた。窓、玄関、換気扇、家の穴という穴から、真っ赤な炎が勢いよく流れ出している。それに比べたら消防団の放つ水流など、貧弱な水鉄砲のようなものでしかなかった。

「………………」

 想像を絶する光景に、ヨハンは言葉を発せなかった。火の粉が不出来なイルミネーションのように目の前を踊っている。家が燃える音と、人々の声と、鐘の音が合わさって彼の耳の中に流れ込む。

 まるで悪い夢でも見ているような心地がした。

「シャ、シャルロッテ……」

 瞬間。家の中で何かがはじけたようにして、破裂音とともに炎が噴き出した。炎はいよいよ勢いを増して天まで焦がさんばかりに膨れ上がっている。

 火の粉が渦を巻くようにあたりへ飛び散っている。三十メートルほど離れているヨハンの顔にも、その熱気が十分すぎるほどに伝わっていた。

 シャルロッテはどうした、どこにいる?

 まさか、まだあの中に……。

 膝が震えだす。夜の寒気と炎の熱気とで身体が二つに分裂してしまいそうだった。

 両手で顔を叩き、嫌な考えを振り払おうとする。

 そうだ。聡明な彼女のことだ。こんな悲惨な事態になる前に、彼女はどこかへ逃げたに違いない。今頃、病院に駆け込んでいるのではないだろうか?

 ありそうなことだ。シャルロッテが行きそうな場所など、それくらいしかない。

 ヨハンは踵を返し、病院へ向かおうとする。一刻も早く、シャルロッテの顔を見たい、その声が聴きたい。彼の頭の中はそれだけで埋まっていた。

「おい」

 ヨハンは小走り気味に路地へ入った。鐘の音は離れた場所まで聞こえてきて、それがより彼を焦らせる。

「おいったら」

 暗い路地で、肩を掴まれる。

「何だ!」ヨハンは振り返り、立ち止まる。「急いでいるんだ!見てわからないのか?」

「それくらいわかるよ」男は真顔でヨハンの顔を見た。「あんた、あの燃えていた家の住人だろ?あんたのこと、見たことがあるぜ」

「それがどうした」ヨハンは苛立ちを隠さなかった。

「奥さんに合わせてやる」

 男は、低い声でそう言った。

「…………本当か」

「落ち着けって」男は右手を突き出して、飛びつかんばかりに興奮しているヨハンをなだめた。「あんたと奥さんを合わせる条件はただ一つ、落ち着くことだ。深呼吸をしろ、それから自分の名前と職業を言え」

 そんな悠長な真似をしている余裕はヨハンにはなかったが、「ほら、深呼吸」という男の声に従って、大きく息を吸って、吐いた。

「……名前はヨハン・ハーバート。医者だ」

「ヨハン・ハーバート。医者」男は繰り返した。「誕生日は?」

「誕生日?どうしてそんなことを訊くんだ」

「いいから」

「……二月十九日」

「二月十九日、良いだろう」男は何かに納得したように頷いた。「うん、さっきよりも多少マシな顔になったかな。相変わらず、眼は爛々としているが」

 頭に酸素が回って、多少、物事を考える余裕が出て来た。目の前に立っている男を観察する。

 火事現場の近くにいたからだろうか、男は顔の下半分を黒いマスクで覆っていた。露出した二つの眼は鈍く光り、感情が宿っていないように見えた。年齢は、ヨハンの眼からはよくわからなかった。十代のようにも見えたし、四十代のようにも見える。中肉中背。まるで個性のない体つきをしていた。

「ついてこいよ」男はヨハンの横を通り抜けて路地を進んだ。ヨハンは彼の後ろを三歩ほどの間を保ちながらついて行く。

 徐々に鐘の音が遠ざかっていく。次第に二人は通りから離れて人々の喧騒が届かない細い路地へ入り込んでいった。ヨハンの耳にはもう、火事と関係する音は何一つ聞こえなかったが、それでも耳の奥では耳を聾せんばかりの炎のうなり声がこだましていた。

「どこへ行くつもりだ」

 背後から男に声をかける。彼は立ち止まらずに答えた。「ああー……避難所みたいなものさ」

「避難所?」

「そう、避難所。突然、何らかの事件に巻き込まれることってよくあるだろ?そういった被害に遭った不幸で哀れな人間を一時的に住まわせる施設がこの街にはあるんだよ」

「そんな施設、聞いたことがない」

「それはあんたが無知なだけだ。ちゃんと公金だって使われている施設だよ。市の支出を見ればわかることさ」

 そんなことを言われたが、ヨハンは市の予算の支出金がどうなっているかなんて把握しておらず、また当然のことながら、今ここで支出を確認するすべも持たなかった。

「ではその……あなたは何者なんだ?市の職員か?」

「まあそんなところさ」

「それならどうして、そんなラフな格好をしている?あんたみたいな市職員は見たことがない」

 男は灰色のブルゾンをはおり、下は紺色のナイロンの長ズボンを着ていた。

「正確に言えば、市職員じゃねえんだ」相変わらず、男は振り向かずに応答する。「職員に雇われているんだよ。ほら、役所の清掃員みたいなもんだ。あいつらだって市職員の制服とか着てないだろ?俺も同じさ。一応、外部の人間なんだ。だから革靴とかネームプレートとかは支給されてないのさ」

「……あんた、名前は?」

「フロンメルト」男は即答した。「名刺なんて高尚なものはあいにく持ち合わせていないが、保険証なら持ってるぜ。見るか?」

 ヨハンが返答する前に、男は二つ折りの財布をズボンのポケットから出し、その中からカードを一枚引き出した。立ち止まって振り返り、保険証をヨハンに渡す。

 名前は、ザッカリー・フロンメルト。年齢は三十四歳。少し傾けると、透かしが入っているのが見て取れる。住所欄にも現実にある地名が書かれていた。偽造されたものではないらしい。

「良い名前だろう?」

 ヨハンの手から保険証を受け取る受け取るとき、フロンメルトはそんなことを言った。

「それよりも早く、妻に、シャルロッテに合わせてくれ」

「せっかちな奴だな。ま、仕事から帰ってきたら家があんな惨憺たる有様になっていたんだ。不安になる気持ちもわかるけどな」

 それから二人は黙って道を歩いた。ヨハンにとって、その時間はものすごく長大に感じられた。同じような景色の道を何度も折れ曲がることもヨハンを苛立たせた要因の一つだった。案内をするフロンメルトがわざと遠回りをしているのではないかという疑念が胸の中で沸き起こる。

「ついたぜ」

 細い路地に沿うようにして所狭しと並んだ一つの住宅の前で、ふいにフロンメルトは立ち止まる。施設というにはあまりに特徴のない、普通の住宅がそこにはあった。建物の前には避難所であることを示す看板も何も設置されていなかった。

「普通の家のように見えるが?」

「中にはいりゃわかるさ」

 フロンメルトはくすんだ金色のドアノッカーを四回鳴らし、少し間を開けてから二度鳴らした。硬質な音が路地に響く。ほどなくして鍵が開く音がし、扉が外側に動いた。

「おかえりなさい」

 扉を開けた女性は落ち着いたトーンでそう言った。フロンメルトはそれに対して軽く頭を下げて応えた。

 彼女はヨハンよりも身長が高かった。おそらく一八〇センチ以上の上背があるだろう。長い黒髪を後ろに束ねている。襟のある黒いジャケットにパンツスーツ、茶色のローファーという出で立ちで、フロンメルトよりかは比較的、公務員らしく見えた。

 フロンメルトは女性の左肩に手を置いて、「あとは頼んだ」と言った。女性は軽くうなずき、ヨハンを見る。

「シャルロッテ様は地下でお待ちです」

「本当か?早く、早く会わせてくれ!」

「こちらへどうぞ」

 急いた調子のヨハンとは対照的に、女性は落ち着いていた。その温度差にヨハンじれったく感じたが、それ以上にシャルロッテにようやく会えるという期待で頭がいっぱいになっていた。

 外見と同じように、建物の内装も避難所らしくなかった。落ち着いた色調の照明に、ノルディック柄のラグマットの上には黒いローテーブルが置いてあった。それを取り囲むようにしてワインレッドのソファが二つ配置されている。部屋の奥にある暖炉では炎が煌々と灯っていた。火には人間を落ち着かせる効果があるそうだが、ヨハンはもう火なんて見たくはなかった。

 右の壁にそって伸びている、二階へ上がる階段の真下に、地下へ降りるための階段があった。階段は途中で右に折れ曲がり、先が見えなくなっている。

 女性の後ろについて階下へ降りる。階段の先は細長い廊下になっており、行き止まりには花瓶が置いてある。廊下の右側の壁には三つ、木の扉が備え付けられていた。手紙等を入れるためだろうか、扉にはそれぞれ、中心に長方形の郵便受けのようなものが取り付けられている。

「中心の部屋にお入りください」

 女性は壁際によって、ヨハンに前に行くよう促した。

 ヨハンは大股で廊下を進み、三つあるうちの中心の扉のドアレバーに手をかけ、扉を内側に押した。

 部屋の中にはベッドや椅子、机などの家具が置いてあった。奥にはもう一枚、扉がある。

 シャルロッテは部屋のどこにもいなかった。

「おい、いな——」

 女性のいるほうを振り向こうとした瞬間、強烈な力がヨハンの背中に加わった。転がされるようにしてヨハンは部屋の中へ押し込まれる。

「おい、何だこれは!」

 上体を起こして扉のほうを見る。閉じていく扉の間に冷ややかに見下ろす女性の眼が見えた。

 扉が閉まり、ガチャリ、と無機質な音がする。

 捻った足首の痛みを忘れて、ヨハンは立ち上がり、扉へ駆け寄った。ドアレバーに手をかけたが、回らない。ドアレバーの周辺につまみのようなものはいっさい見当たらなかった。内側から鍵を開けるのは不可能であることを悟る。

 全体重をレバーにかけて扉を引いたが、扉は少しも動く気配を見せない。

「おい、どういうことだ!」

 腹の底からヨハンは叫んだ。返事は返ってこない。

「騙したのか!」扉を拳で殴打しながら叫ぶ。「おい、開けろ!開けてくれ!シャルロッテはどこだ!そこにいるんだろう、なあ!」

 返事はない。

「おい!せめてシャルロッテの安否だけでもいい!教えてくれ!彼女はどうなったんだ!頼む!頼むから、教えてくれ!」

 しかし返事は来なかった。彼の声は暗闇に吸い込まれるように、誰にも届かなかった。それでも彼はしばらくの間、ひたすらドアを殴り、妻の安否を無機質な扉に向かって尋ね続けた。

「……ちくしょう」

 やがて、彼は枯れた声で絞り出すようにそう言って、扉にすがるようにして膝から崩れ落ちた。何百回と扉を叩いたせいで両手とも皮が破れ、ドアにも赤い血がべっとりと付着している。

 彼の背後の床には、仕事用の鞄のほかに、結婚記念日を祝うために少し奮発をして買ったガレットとケーキ、チョコレートの袋が横たわっていた。

 部屋にある時計はやがて零時を指して、結婚記念日は祝われることなく、十月十三日が始まった。

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