健康への第3分の1歩

かさごさか

思い立ったが何とやら

 稲木也来いなきやらいは冷え性である。


 郊外に建つ立派な日本家屋。その庭で作務衣さむえを着た男が1人、腕を上げて体を伸ばしていた。

 ここは也来が母方の祖父から譲り受けた屋敷である。ちなみに祖父は今でも健在であり、故郷である海外の地で暮らしている。母は仕事柄、国内外を忙しなく移動しているため、この家に戻ってくることは滅多にない。父は縁を切ったので今どこで何をしているか全くわからないが、おそらく刑務所にでもいるのだろう。


 色素の薄い髪や日本人離れした碧眼が母方の遺伝子由来のものだと知った時には、也来は既に成人しており、それまでに受けた差別や軽視によって諦観が染み付いていた。

 もっと早くに知っていれば、と今でも思うことが無くなったわけでは無いが、歳を重ねる毎に過去に思考を割く時間が減ってきているのは確かであった。


 閑話休題。

 ストレッチを終えた也来は、それだけで息切れをしていた。自身を虚弱体質だとは思っていないが、30を越えて健康のためにと始めた運動、しかも準備段階で息切れを起こすとは予想外であった。


 子どもの頃から肉付きが悪く線の細い体であった。父と暮らしていた環境がそうさせていたのだが、まさかそのまま大人になるとは思っていなかった。太っているよりは良いだろう、と人は言うが也来なりに不便を感じているのであった。


 例えば骨が座面に当たるので座っているより、しゃがんでいるほうが楽であるだとか、薄着が似合わないだとか。特に体温が低い事に関しては長年に渡り今を悩ませていた。

 昨今の情勢もあり、店先で検温機にエラーを吐き出されると、こう、何か傷つくものがある。


 こうした小さな事が積もり積もって也来はある時、決心した。


 そうだ、筋肉をつけよう。


 インターネット上でも体温を上げるには鍛えるのが良いと書いてあった。今まで運動する習慣がなかった也来は、良い機会だと思い初心者向けのメニューを検索し始めた。

 長生きする予定は無いが、この屋敷での暮らしを今すぐ手放すつもりも無い。屋敷の管理や祖父が趣味で営んでいた古本屋をブックカフェに改装し運営するなど、也来が毎日すべき事はそれなりに積まれている。


 三十路に突入し、これまでとは勝手が違うのだ。人並みの健康を目指すのも悪くないだろう。


 そこまで考えたのは良かった。問題は考えが甘かったことだ。

 運動する習慣がなかった三十路が急に体を動かすと、どうなるのか、也来は今まさに実感していた。準備体操で息切れを起こし、手始めにスクワットを1回しただけで膝の裏が攣ってしまった。思わず縁側に倒れ込むように座る。

 いつもであれば染み付いた諦め癖が顔を覗かせるのだが、顔を顰め痛みが引くのを耐えきった也来は再び立ち上がり庭へ出た。そして、上半身を前に倒し柔軟ストレッチをし始めた。スクワットするのは諦めたようだ。

 そう、これは諦めでも逃げでもない。


 準備体操が足りなかっただけである。


 背中を曲げて反らしていた時、インターホンが鳴った。そこで也来の今日のトレーニングは終わりとなった。

 朝の外気でかじかんだ手を擦り合わせながら也来は玄関へと向かった。


 果たして、也来の平熱が36℃台になる日は来るのだろうか。


 庭で1人の男が動き回っている様子を見ていた雀はちゅん、と鳴いて飛び去って行った。

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健康への第3分の1歩 かさごさか @kasago210

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