夜の旋律

平山芙蓉

0

 コンポから流れるクラシックは、アスファルトを踏みしめながら止まる車のように、歪な軋みを上げて終わった。壊れてしまったのではないか、と心配になり、ソファから腰を浮かせたけれど、小さな液晶にリピート準備の表示が出たので、すぐに座り直す。身体はクッションに沈んでいく。自然と上を向いた視線の先には、薄暗い影に侵された天井があった。裸電球の恩恵をもっと受けられていれば、その白さを際立たせられたのに。そう思うと、何だか気の毒だ。


 オーケストラの織り成した時間が、あの軋みのせいで全て台無しになった。それはつまり、僕の意識も同様に、崩れてしまったということ。でも、僕はこのコンポがかなり年季の入ったモノで、こういった類の病を患っていると知っていた。収録された曲を流し終えたら、さっきの音でそれを知らせてくれる。ある意味では、便利と言えるかもしれない。


 ただ、彼がその病に罹っていることを、ついつい忘れてしまう。原因は分かっている。こんな夜中に、然して聴きたくもないのに、あの子の残していったCDを聴こうと、思い立ったからだ。


 これは僕の病。区分するのなら、精神病に近しいだろうか。陽が沈み、独りきりの夜になると時々、どうしようもない寂寞とした気持ちに苛まれてしまう。それはずっと同じ間隔で打ち寄せていたはずの波の合間に、一つ大きな波が紛れ込むことで姿を現す違和感に似ている。僕という確かでなければならない連続性が乱れ、時間が断続的に浮かんだり消えたりする。そいつは決まって、最初の方は気にならない。蠅が部屋を飛び回っているようなものだ。でも、段々と心の全体へと影響を及ぼし、正さなければならない、という強迫的な思考へと、僕を変えてしまう。


 そうして、僕はクラシックのCDをコンポにセットして、時間をやり過ごす。どうでも良いモノで時間を埋めてやると、全てを忘れられる。独りきりだという不安も、今までを築き上げてきた、自分の記憶さえも。


 首を横に傾けて窓を見遣る。枠に嵌められた硝子の向こうには、街の景色があった。ネオンの電光板や、ライトアップされた広告看板に彩られていて、部屋の調度品には似つかわしくない、騒々しくて汚らわしい景色だ。窓を開ければきっと、空気となって容赦なく入り込んでくるのだろう。


 街の真上に視線を持っていくと、見慣れた丸い月があった。満月かどうかは判別できない。昨日も同じような姿だった気がする。月齢なんて数えちゃいないし、月の変化を大事にしなければならない生活を、送っているわけでもない。正確に満月ではないと、学者に指摘されたとしても、僕にとっては満月に分類されるというだけの話だ。


 月光は窓際に置かれた花の花弁を、優しくその色で染めていた。白い花だった。その白さに薄っすらと黄色が混じっている。とても可愛らしい。でも、花弁がどれだけ綺麗な光を浴びていたとしても、茎や葉はネオンに曝されているから、中身は腐っているかもしれない。部屋の天井もそうだけど、白いものはどうしていつも、嫌な色を被されるのだろう。不思議に思った。けれど、その答えは生憎と、僕の周りに転がっていない。


 花は何日か前に通りかかった花屋で買った。理由は多分、単なる気紛れだ。ちゃんとした解答を求めるのなら、タイムマシンでも用意しなくちゃいけなくなる。ただ、これだけは確かなことだけど、僕に花を愛でる習慣なんてないし、植物の品種にも明るくない。道端に咲いている蒲公英の葉っぱと、大根の葉っぱだって、並べられたら区別が付かない。精々分かるのは、色味が違うとか、匂いが違うくらいだろう。そんな僕だから、買った花の名前でさえ、すっかり忘れてしまった。


 なのに……。


 どうして僕は、花を買うなんて気紛れを起こしたのだろう。


 きっと、あの花は、もっと愛情を注いでくれる人の元で、光を浴びたかっただろうに。


 ようやくリピートを始めたコンポから流れるクラシックに、耳を傾けながら思い出そうとしてみる。どこかから忍び込んできた風が、花の香を丁寧に運んできた。甘い匂い。錯覚かもしれない。でも、僕を再び不安な時間へと陥れるのに、その香は十分な効力を有していた。


 思い出す。


 僕の心の揺れた跡を。


 そう……。


 あの花は、いつも一緒にいたあの子が、好きだった花。可愛らしい花弁の形が好きで、この甘い香が好きで、何よりもその白さが好きだと言っていた。花屋の前を通りかかり、店先にそれを見つけると、彼女は僕との会話を投げ出してしまうことも、しばしばあった。そして、蜜を啜ろうとする蝶のように花の傍へと寄って、ぼうっとそれを眺めるのだ。そのくらい、あの子にとってこの花は特別な存在。


 だけど、僕たちが一緒にいる間に、その花を買ったことはなかった。僕が勧めても見ているだけで良い、と言って断られるのが常だった。彼女曰く、花を手許に置いておけば、いつかは枯れてしまうからという理由らしい。自分の好きなモノが、死んでいく様を見つめるのは辛いことだ、とも。


 もうそんなことを言っていたなんて、忘れかけていたのに。こうして思い出してしまったのは、思い出してしまうのは、何故だろう……。花屋の前を通りかかったから? それとも、忘れていたつもりになっていたのか? 僕の脳やら心やらといった、時間を司る器官の、こちら側からでは見えない部分には、しっかりと刻まれているとしたら……。


 深いところへと落ちていく僕を、チェロの音が連れ戻す。気付けば、窓の外にあった街灯りはいくつか消えていて、夜の色は濃さを増していた。ピアノの旋律が、続けて奔っていく。ボリュームの設定が狂っているせいか、部屋全体が楽団によって震えていた。


 あの子は、どうしているのだろうか。もうこの街にはいないことだけは知っている。それ以外のことは、何も知らない。突然、僕に別れを告げた理由も、この街を出ていくと決めた理由も。


 教えてほしい、と何度も尋ねた。僕が気に障るようなことをしたのか、それとも、意識しないうちにしてきたのか。それに、彼女は訳もなくそんなことを口にしない。自分の行為に対して、理屈や意味を付けて、言葉に起こしたがる性格だった。それは神経質に思えるくらい徹底されたモットーだったのだ。もちろん『そんなこと』に該当するケースと、その瞬間まで遭遇しなかっただけという可能性はある。


 だから、納得できるだけの返答が、あると信じていた。でも、返ってきたのは『ここに住み続けるあなたには理解できない』とだけだった。それが、はぐらかされているのだと、僕はすぐに確信した。そして僕は惨たらしい実験を受けた後の犬みたいに全てを諦めて、彼女の背中を呼び止めることもできないまま、部屋のドアが閉じるまでを見つめていた。


「教えてくれよ、いなくなった理由をさ」


 独り言ちた声が、ヴァイオリンの明るい音色に掻き消されていく。ソファから投げ出した左手を、温く柔らかい風が撫でた。肌は空気の微弱な揺れを捉えている。そこにある感触は、いつかの彼女の手の温もりを想起させて、心にしつこく付き纏う不安を灌いだ。窓硝子に映ったそんな僕の姿は、自分でも信じられないくらい情けない。


 旋律が止む。少ししてから、あの軋みが鳴り、鼓膜が破れてしまったかのような静寂が訪れた。コンポは先と同じく、リピートの準備に取り掛かり始める。


 空気が悪い。息の詰まりでそう判断した僕は、ソファから立ち上がり、換気のために窓辺へ行って、窓を開けた。硝子越しではない、本物の光が目を焼く。部屋に居座っていた微風とは違い、ハッキリとした強さを持つ風が入り込んできた。風のにおいは僕が考えているより悪くなかった。寧ろ、冷たさの方が気になるくらいだ。もちろん、都市部特有のドブ臭さは拭いきれないし、感触は生っぽくて不快だ。花はそんな風に抵抗することもなく、揺らされている。少し肌寒いから、早く閉めろ、と文句を言っているのかもしれないけれど。


 空を仰ぐと、月の輪郭もシャープになっていた。晴れているけど、月光に邪魔をされて、星はほとんど見えない。肉眼で確認できるのは、精々がでしゃばりな一等星くらいだった。


『ここに住み続けるあなたには理解できない』


 脳裏にふと、あの言葉が過る。


 僕はこの街で生まれ育った。それは彼女も同じ。僕たちはずっと、変わらない日々を二人で過ごしてきた。そして、何も変わらないまま、二人で死を待つだけと信じていた。でも、彼女は違う。少なくとも、僕のような想いを最初から抱いていなかったし、あるいはそう想っていたとしても、心境に変化があったということだ。


 僕は変わらない。生き方も、日常も。街だって変わらない。あのネオンはずっと同じ光を放ち続けているし、この臭いも昔から漂い続けている。ただ彼女というパーツが、時間からなくなっただけだ。つまり、何かが壊れたり、死んだりするのと同じこと。どこかで始まったモノには、必ず終わりが付きまとう。その瞬間に、何かしらの影響があったとしても、僕の望んだことじゃない。無理矢理に運ばれてきた荷物を、とりあえず受け取るようなものだ。時間が経てば、そんな荷物があったことでさえ忘れて、慣れ親しんだ日常が訪れる。


 不変であることは、そんなにも悪いことなのだろうか?


 メトロノームみたく、一定のテンポを正確に刻み続ける生き方は、幸せではないのだろうか?


 目を閉じると、彼女の後ろ姿が浮かんでくる。いや、それだけじゃない。彼女の長い髪も、あの花と同じくらい白い肌も、甘い香も、お気に入りだったワンピースも。気を抜けば幻だと分からなくなりそうなくらい、リアルな存在感を孕んでいる。だから、僕はその幻を引き留めようとしてみた。今なら、あの時の諦めが、なかったことになるような気がして。けれど彼女は、髪を靡かせながら遠く離れていった。まるで、僕のことなんてとっくに見えていないかのように。


 自分の生み出した幻にさえ、僕は手が届かない。


 そんな現実に蓋をするみたく、コンポからクラシックが流れ始めた。


 鼓膜が揺れて、


 彼女の姿も歪む。


 瞼を開くと、知らない間に溜まっていた涙が頬を滑り落ちていく。

 他人のような温さと、思い出のような味の液体だった。


 肌寒い。


 換気もできたところで、窓を閉める。


 その時、花の咲いた鉢に腕が辺り、床へとそれを落としてしまった。


 すぐさま、僕は屈んで見下ろす。


 高さはそんなになかったけれど、運が悪かったのか、鉢は粉々に砕けていた。


 そこにあった花はぐったりと床に横たわり、零れた土からは白い根がいくつか飛び出ている。


 甘い香は土の臭いに上書きされていた。


 どうみても、手遅れだ。


 汚れた白い花弁が、恨めしそうに僕を睨んでいた。


 どうすれば良い?

 片付けるにしても、どこから手を付けるべきか……。

 道具はどこにしまっていたっけ?

 こんな気分の時に、面倒だ。

 そもそも、どうすればこんなことにならなかった?


 花を見下ろしたまま、僕は考えた。


 外から差し込んできた光がちらついている。


 窓はちゃんと閉めきれなかったからか、唸るような隙間風の音が、低く鼓膜を震わせてくる。


 首を擡げた先にある天井に僕の影と、いつできたのかも分からない小さな染みを見つけた。高さがあるから、踏み台になるものを用意しなければならない。


 片付けるべきなのに、どうにもならない問題が次から次へとやってくる。


 問い続けてみてももちろん、独りきりの部屋では誰も答えてくれない。


 自分でさえ、答えてくれない。


 答えを誰かに、教えてほしい……。


 縋るような思いでコンポに目を遣る。


 そいつは素知らぬ振りで、クラシックを奏で続けるだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の旋律 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ