第15話 波は限りなく
先日、梅雨入り宣言したとテレビで言っていた目の前の空は、梅雨とは縁遠い青空に満ちていた。遠くには、空を滑るように飛んでいる白い鳥の姿が見えている。例え百年経とうと変わらないと思ってしまう景色が二人の前に広がっていた。
湾曲している海岸線の先には、夏を想像させる積乱雲が空の高みに立ち上がっていた。
相変わらず風は強く、太陽の光が水面をキラキラと揺らしている。眩しさに少し目を細めながら、僕たちはしばらく黙って海を眺めていた。
病院での入院生活は、少し長引いて3週間余りとなった。表立っての病名は、例の病気の特異的な二度目の感染ということになっていた。ハンターという組織の圧力で大きな騒ぎにせず、体裁を繕ってもらった形となった。そのかわりかどうかはわからないけれど、検査という名のデータ収集は過度に行われた。吸血鬼のように血液を採られ、体の隅々まで人々の目にさらされた。
美佳は、毎日のように病室を訪れて、花瓶に花を生け、果物をむき、洗濯物を片づけてくれた。美佳の笑顔と笑い声は、無機質な病室に癒やしをもたらした。重い荷物を下ろした僕にとって、深い眠りに誘うような出来事だった。横山のことは、美佳にも言わずにいた。自分でも整理がつきかねる事を、あえて彼女にまで追わせることはないと思ったからだ。
退院して1週間ほど自宅静養をした後、ほぼ1ヶ月ぶりに会社に復帰した。当たり前のように、そこに伸子の姿はなく所長までもが転勤で移動となっていた。伸子は転勤扱いとなっていたが、転勤先の営業所をすでに退職していた。調べてはみたが、伸子の消息はそこで途絶えていた。もう彼女は、僕の前に姿を現すこともないのだろうという、根拠のない考えが頭をよぎる。ハンターという彼女の監視の目から解放された安堵感と、先輩以上の彼女に対する想いが、僕の心に寂しさという感情を与えた。
「今日はいいお天気ですね。」
美佳は、目の前の青空を瞳に映しながら、ポツリとつぶやいた。
「ああ、そうだね。」
僕も、眺めていた海から空へと視線を変えて応えた。
「やっぱり、風は強いね。この前のように、飛ばされないでよ。もう、あのときのように助けてあげられないんだから。」
風に乱された、髪をかき上げながら、美佳の方へ向き直った。
「そんなことないと思います。橘さんは、必ず助けてくれると思っています。そんな橘さんだから好きなんですよ。」
美佳も、真っ直ぐにこちらを見ていった。
「先に、告白されちまったな。」
「えっ、なにいってんですか、もう。」
二人の小さな笑い声は、少し強く吹いてきた風に乗って、防波堤叩く波音を越えて海へ流れていった。
「もう少し、先の方まで行ってみようか。」
「はい。」
車椅子のリングに手をかけて、ゆっくりと前に進む。防波堤の上を、横に並んで岬の先へ向かった。風が背中を押して、いつもより体が軽くなったように思えた。
あの日、美佳と二人で夕陽を見た波打ち際が見えるところまでやってきた。僕たちは、お互い声を掛け合うでもなく静かに歩みを止めて、幾度となく繰り返され砂浜を洗う波を眺めていた。
「橘さん、今なにを考えてます?」
美佳は、視線を動かさず、隣の僕に声だけを伝えた。
「ここの風景は変わらないけれど、少しの間に僕はずいぶん変わってしまったなと思って。もう、君をあの波打ち際に立たせてあげることは出来なくなってしまったんだなぁ」
「なに言ってるんですか。橘さん、ちゃんと私の夢を覚えていてくれて、その夢を叶えてくれたじゃないですか。私はとてもうれしかったし、そのことは私にとって、とても大切な想い出になりました。橘さん、病気のことを言っているのかもしれませんけど、『歩ける』と言うことが、私たちにとって今どれだけの意味があるというのですか。あなたはあなたなのですから。」
一気に吹き出した美佳の想いは、僕の体に降り注ぎ、静かに染み込んでいった。少し紅潮した顔の美佳は、うつむき気味になって間近の砂浜を見つめていた。何か言わないといけない、そう思った僕は頭に浮かんだ想いを言葉にした。
「今度ここに来る時には、会社に置いてある試乗用の砂浜用車椅子を借りてこようか。僕たち二人で、四本線の足跡を波打つ際につけよう。」
僕の言葉を聞いた美佳は、こちらに視線を移し笑顔を見せた。
「そうしましょう。きっと、新しい想い出が出来ますよ。」
「新しい想い出か。」
「そうですよ。また今日から始まるんですから。」
僕は、防波堤の縁に置かれた美佳の手の上に、僕の手を重ねた。
今日は、夕陽で空も海も、そして僕たちの瞳がオレンジ色に輝くまで、ここにいようと思う。
繰り返される波の音と、潮の香りを運んできてくれる風と、僕たち二人を照らしてくれる光の中に。
「この物語を書くことにあたり、背中を押してくれた『あなた』に感謝します。」
ふたつの足跡 @Anthony-Blue
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