エピローグ――イシノ(ボクサー)
「2ラウンドまでは本気でやっていい。だけど、3ラウンド目からは手を抜くんだ。わかったな」
コーチはいった。
「俺に負けろっていうんですか、コーチ」
イシノはベンチに腰掛けたまま目を合わせた。
「ああ」コーチは口に咥えていた煙草にライターの火を近づけた。「そういうことだ。有り体にいうとな」
イシノは待った。
コーチは紫煙を汚れた天井に向けて吐き出した。
「上の方で新たなスターを探しているんだ。CMとか映画とかタレントとしても活動もできるようなスターをな。なんせ下火だろう、格闘技なんてのは。面白いやつがいないとな」
「俺じゃダメなんですかね」
「ハッ」コーチの顔は笑ったが目は笑ってなかった。「お前がいうかね。マネージャーが持ってきた仕事全部断ったじゃねえか。それにお前じゃダメだ。いい歳じゃねえか。
「違いねえ」
イシノは口角を上げた。
「で、どうなんだ。受けてくれるのか?」
「拒否権はねえんだろ」
「ねえわけじゃねえよ」コーチはいかにも『心外だ』と言いたげな顔つきをした。「チャンピオンの座を譲りたくないなら全力でボコってやればいいじゃねえか。お前なら勝てる相手だ。まあ、協会から目をつけられるのは間違いないだろうけどな」
コーチは一呼吸置いた。
「お前は勝ちすぎた。そろそろ負けるのも作戦のうちだぞ。客からしたら、片方が圧倒的に強い試合なんて見ても面白くねえんだよ。戦略的に負けるんだ。そう考えるとどうだ、お前にとってメリットしかないぜ」
「それ以外に俺の見返りは?」
コーチはジャージの懐から、封筒を一枚取り出した。イシノに突きつけた。
イシノが受け取ろうとすると、コーチは手で制した。
「この中には小切手が入ってる。受け取ったらそれは、やるってことになる」
イシノは封筒を受け取った。
ためらいはなかった。
中を確かめた。結構な額だ。車が一台買えるような。
「上の連中の考えてることはわからねえが、俺はメリットで動く」イシノは言った。「やってやるぜ。やつらの
イシノは背を向け、更衣室をあとにする。
が、途中でコーチを振り返った。
「このことは対戦者――トガワの野郎は知ってんのか?」
「分からん」
「そうか」
イシノは階段を登り、ビルを出て、夜の街に降り立った。
通りはまだにぎやかだ。道路をはさんで向かいのビルの壁面にはあしたの試合開催を告げる巨大なスクリーン広告が出ていた。
――世紀の決戦を見逃すな!
『小豆島の若獅子』トガワと『無敗の王者』イシノの対戦。
勝利の結末は神のみぞ知る――。
イシノは広告に背を向けて、夜の街を歩き出した。
―完―
ボクシング・タイトル 馬村 ありん @arinning
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