第三話 イノウエ(大学生)

「おらいけイシノ! そこだっ! やれえ!」


 トモノは広角泡を飛ばさんばかりの勢いで、ビッグスクリーンに向かって声を張り上げた。


 ラウンドが終了すると、トモノは、ビアグラスを空にした。店を走り回っているウェイターに追加注文した。


「挑戦者に押されてんじゃねえかよ。どうするんだよ」


 などといってワックスで固めた頭をかきむしる。


「このままじゃ先輩との賭けに負けんぞ。三万だぞ、三万。おい、聞いてんのかイノウエ」


 もちろん、上の空だった。


 仙台駅東口スポーツバーは今夜、盛況を迎えていた。世紀の大一番を見届けようと、大勢の人が詰めかけていた。


 どの人間もトモノと同じかそれ以上の熱気をもってスクリーンに向き合っていた。きょうこの場所でここまで沈んだ気分でいるのはイノウエぐらいだろう。


「さっきなんてボディがら空きになったのに、イシノ突っ込んで行かなかったじゃねえか。なにやってんだよ本当に」


「なんか気にかかることでもあったんじゃねえの」


「ハッ。もしそれならプロ失格ってもんだぜ。ボクサーならひたすら勝つことだけを考えなきゃ」


 首を巡らせて背後を見やった。ボックス席。アイハラミサキは男と一緒だった。どちらも言葉は交わしておらず、スマートフォンに夢中だ。


 さっきのアイハラの姿が頭に焼き付いて離れない。


 便所へ向かう途中の暗がりで、一組の男女が絡み合ってキスをしているのを目撃した。夜のバーでは珍しい光景ではない。だが、そのうちのひとりが自分の意中の女性であったとなれば話は別だ。


 二人は長いこと唇を交わし合っていた。ボクシングの喧騒などどこ吹く風で。キスが終わると、男はトイレに向かい、女はつまらなそうにため息一つすると、髪を直しながら客席の方に向かってきた。


「あら、イノウエくん」


 アイハラはイノウエに気づいたようだった。


「あなたも来てたのね。試合どうなってる?」


「今の人は?」


「今カレ。あれ、もしかして見ちゃってた?」


「うん」


 くすっと笑い、アイハラはミニスカートのレースをひらめかせながら通り過ぎていった。


 トイレから戻ると机に突っ伏した。


 イノウエの恋は終わったのだ。


 どうせ玉砕するなら、気持ちを伝えてから玉砕したかった。


 なんだよこの、宙にぶら下げられているような気持ちは。


 アイハラは同じ大学の同じ学部の同じ学年で、イノウエ好みのキリリ系の美人だったから入学した当初から知っていた。背が高く、きれいな長い髪を誇らしげにしていた。


 男の噂が絶えず、性格がいいという話も聞かない。でもイノウエは交通事故で死んだ野良猫を抱え、涙を流していたアイハラの姿を見ている。


 ある昼の学食、アイハラが友人とふたりでイノウエの向かいの席に着席した。そこでハンバーガーとポテトのランチを食べはじめた。


 降って湧いた幸運。


 彼女の美しさをとどめておきたいという悪巧みがイノウエの心に芽生えた。


 イノウエはスマートフォンを取り出し、自撮りすると見せかけて、アイハラを撮影した。


 撮れたとおもった瞬間、アイハラは猛然とイノウエの方に向かってきた。


「ちょっと、アンタ!」


 ――やべ、バレた。


「ナルミのこと撮ったでしょ! いくらナルミがアイドルやってるからって勝手に撮るのはプライバシー違反!」


 アイハラはイノウエのスマホに掴みかかり、画面をのぞきこんだ。


「あら」アイハラはぽかんと口を開け、その手を右手で覆った「そういうこと」


 アイハラはイノウエのスマホで自撮りすると、さらに自分の個人情報を入力し、イノウエに返してきた。


「盗撮とか姑息な真似はやめな。私は正面から向かってくるひとが好きだよ」と微笑みひとつ。


 スクリーンの中ではあらたなラウンドが始まっていた。


 トガワは闘志をみなぎらせ、イシノはどこか超越的な態度で相手を見据えていた。


「始まったぞ、おい、今度こそぶっ叩けよイシノ!」トモノは叫んだ。


 イノウエは漫然とスクリーンを見ながら、ビールを口に運んだ。


「ここ座ってもいい?」


 華やかな香水の匂いを引き連れ現れたのは、アイハラだった。


 返事を待たず、アイハラはイノウエのいる座席に腰をおろしてきた。イノウエは腰を動かしてアイハラの座れるスペースを作ってやる。ぴったりと密着するような格好だ。心拍数が上がる。


「アイハラさん? まじかよ、お前ら友達だったわけ?」


 トモノは尋ねた。


「そんなとこかな」


「どうして?」


 試合が佳境に入ってトモノの関心が画面に移った頃合いを見計らい、アイハラに話しかけた。


「私の今カレってさ」アイハラは言った。「イケメンなんだけど、ちょっと粗暴なところがあって。殴られたこともある。それにどうやら他の子と浮気したりしてるんだよね。私達ももう終わりかなと思ってるんだ」


 アイハラはイノウエの飲みかけのビールをすべて飲み干した。


「ねえ、イノウエくんはどっちが勝つと思う、挑戦者と防衛者?」


 挑むようなまなざしがイノウエに向けられた。


「俺は」


 スクリーンのなかで殴り合う男たち。挑戦者は優勢に思われる。だが、防衛者の眼光の鋭さはまだ闘志が消えていないことを物語っている。


「ねえ、アイハラさん」


「ミサキでいいよ」


「ミサキさん、もし挑戦者が勝ったら俺と付き合ってくれないか」


「なにそれ」ミサキはケラケラと笑った。「そういう告白の仕方ってアリ? 面白いね。いいよ。トガワが勝ったら私達付き合おう。でもイシノが勝ったら……?」


「トガワは負けない」


「へえ」


 イノウエはスクリーンに向き合った。


 席の向かいではイシノに三万円をかけた学友が声援を飛ばしていた。


「トガワ、頼んだぞ、勝ってくれ!」


 イノウエは祈った。

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