第二話 アサダ(会社員)

 レファリーが勝利者の片腕を持ち上げると、聴衆は総立ちになりスターの誕生を拍手と喝采で迎えた。


 客席にいたトクヒコとタイチもスタンディングして、顔を見合わせて叫び、ハイタッチした。


 トクヒコとタイチはお互いに興奮して、白熱した試合を夢中で振り返った。第二ラウンドまで圧倒していたイシノをトガワが追い返したこと、途中フックを放った後でトガワのボディががら空きになる危ない瞬間もあったが、イシノがふらついて打ち込めなかったラッキーな瞬間があったこと、そして最後の右ストレート……などなど。


 帰りはラーメン屋で遅い夕食を取り、バスに乗って帰宅の途についた。


 バスの中では打って変わって黙り込んでいたが、それはお互いに義務的な話をする必要を感じない、心地の良い沈黙だった。


 ――きょうは会場まで足を運んで本当によかった。


 トクヒコはしみじみ感じた。


 息子のタイチがボクシングに興味を持ち始めたのはつい二ヶ月ほど前のことだった。


 テレビで特集されたトガワに興味を持ち、CSのスポーツチャンネルで試合を追いかけていた。


 ロック歌手に憧れるように、タイチはトガワに憧れを抱くようになったのだ。


「Number」かなにかスポーツ雑誌のトガワ特集号を買って、そこに載っていたトレーニングメニューをこなそうと朝早く起きて河原までランニングしていた。不登校になってからは昼まで寝ているのが常だったのに。これにはトクヒコも妻も驚いた。


 憧れを持つことでタイチは一皮むけたのだ。


 弱い自分を捨てることができたのだ。


 トクヒコはトガワへの感謝がやまない。


 帰る道中、会場となった後楽園ホールに向かって「ありがとう、トガワ!」と叫んでいる大学生らしき集団がいたが、トクヒコも恥を偲んでそのなかに加わりたいと思ったぐらいだった。


 タイチを立ち上がらせたのがボクシングなら、その前にタイチをマットに沈めたのは何者であったか?


 一年前――タイチのバッグから友達の一万円相当の金券が出てきた。


 タイチは泥棒扱いされクラス中から糾弾されたが、潔白を主張し続けて苦しい立場に追い詰められた。


 状況証拠を考えると、タイチが犯人である可能性は濃厚だった。


 クラスメイトが金券を持っていることを知っていて、移動教室などでクラスがカラになっているときにタイチがひとりきりでそこにいたという状況が何度もあったからだ。

 

 そんな時、トクヒコは――。


『事実はどうでもいいから頭下げておけ』などと愚にもつかない処世術を叩き込もうとした。


『金で解決できるなら、してやる。でも学校だけは通え』などと相手を顧みない発言をした。


 自分の罪深さを知ったのは、タイチが不登校になってからだ。自分が追い込んだのだと思った。


「俺」ふとタイチが言った。「ボクサーになりたい。いいかな?」


 トクヒコはすぐには答えられなかった。バスの座席は心地よく揺れた。


 以前のトクヒコならば冷笑をひとつ向け、そんなんで食っていけるほど甘くねえぞとよく考えろ、などと説教を垂れていただろう。


「大きな夢だ。目指してみろ」とトクヒコ。


 タイチの顔に笑顔の花が広がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る