第一話 ミツムラ(BL作家)
ミツムラは便座に腰を下ろしていた。ため息が口をついて出た。いつまでこうしているんだろう。部屋に帰って最終話の続きを描かなきゃ。そう思うたび――。
『打ち切りが決まったわ。絵はいいんだけどね、肝心の人気がないんだよ』
スマホのスピーカー越しに聞こえた編集者の無慈悲な宣告が、頭の中に蘇って、ミツムラのやる気を奪うのだった。
「漫画が私の全てだったのに、そんなのないよ」ミツムラは両手で顔をおさえてつぶやいた。「私、世の中に必要とされていないのかな」
ようやくトイレを抜け出して洗面台で手を洗っていると、リビングから何か騒がしい音が聞こえてきた。リビングを覗けば、母がL字型のソファに座ってテレビを見ていた。手には食べかけの草加せんべい。
テレビはボクシングの中継を映していた。男同士が拳をぶつけ合っている。
「珍しいね、格闘技なんて」
「今いいところなのよ。トシエちゃん、一緒に見ましょう。このトガワって子がすごくイケメンなのよ」
「それでボクシングを?」
ミツムラもソファに座って、テーブルの上のみかんを手に取った。
ふーん、イケメンねえ。
このトガワって子、確かにかわいい顔している。戦士というよりは貴公子という感じ。対するイシノはゴツい顔つきのワイルド系だ。
職業柄、彼らの体つきだったり、表情だったりを観察してしまう。広い肩幅、発達した腹筋。うん、絵になる体をしている。今すぐ部屋に戻ってスケッチブックを取り出して模写しておきたいくらいだ。
ボクシングが題材の物語っていいのかもしれない。主人公はもちろんボクサー、恋の相手は対戦選手でもいいし、コーチ(もちろんイケメン)でもいい。
広がる想像力はしかし、すぐに消沈する。編集者の宣告がまた脳裏に蘇ってきて、泉のように溢れ出す想像力に蓋をするのだった。
テレビからはひときわ強い歓声が聞こえてきた。貴公子が野生人を打ち破って優勝を果たしたのだ。
フラッシュを浴び、自分の子供とトロフィーを抱えて画面に収まるトガワ。
――成功者か。
才能があって栄光に浴することができるトガワ。一方、SNSで『沼津の神絵師』などともてはやされてから十何年も芽の出ない私。
――いったい私とトガワの違いはなに?
――なぜ私は打ち切りで、トガワは優勝なの?
「この子ってね」母がいった。「画家もやっていたらしいわよ」
「はっ!? ボクサーが絵も!?」
頭がくらくらする。才能持ちは何でもできる。万能の人だ。レオナルド・ダ・ヴィンチだ。
「ふーん、ボクシングの片手間にやれちゃうんだね、画家って」
「そう腐らないの」母は諌めた。「ボクシングか絵か悩んでボクサーを選んだんですって」
「選択肢があっていいわね」
みかんの白いスジを丁寧にとりながら言った。
「でもね」母はいった。「絵は賞を穫る実力があったんだけど、ボクサーのほうは才能なしって言われてたみたい」
「才能ある方を選ばなかったの? なんで?」
「知らないけど」母は言った。「好きな方を選んだんじゃない?」
ミツムラは母の顔を見返し、それからテレビの中の元画家の男を見た。
「好きな方ねえ」
部屋に戻ると、ミツムラは床に投げ捨ててあったスケッチブックを手に取った。
真新しいページを開いて、ミツムラは絵を描いた。美麗なボクシング選手を。荒くれ者のボクシング選手を。彼らがキスする姿を。
好きだから漫画を書いてた。人からの評価を得るためだけじゃない。好きなことに関しては私だってトガワとやらに引けをとらない。
才能なしでもいい。もうちょっと頑張ってみたい。
とりあえず次回作のテーマは決まりだ。
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