美と陶酔【KAC20235 お題「筋肉」】

蓮乗十互

美と陶酔

「この、大胸筋から脇下にかかる窪みがさあ、なんというかこう……エロいよねえ」


 デッサン課題で示したフォーンのトルソ。女子部員が両手を輪郭に沿わせながらいうと、別の部員が「美をエロいとかゆーな」と笑った。性の芽生えから成熟の合間、短い思春期にある彼女たちの感性に触れて、松映まつばえ北高等学校美術部顧問の大庭おおば真弓は静かに微笑んだ。


 フォーンのトルソは、首から上、股間より下のない、胴体のみの男性像だ。胸筋の広がり、腹筋の構造、背筋の捻れ。主光源・反射光と生徒の位置関係によって万華鏡のように様相を変える。同じモチーフに対していても、生徒各自の「観る」経験は別物だ。自身の目で対象を克明に観察し、硬度濃度で鉛筆を使い分けながら、ケント紙の上に像を再構成する。それは「美のすべ」の基礎訓練。


 性的感覚と美的感覚は、同一ではないが、隔絶してもいない。真弓はそう思う。対象に心を奪われ没入する経験。性と美は不即不離のものとして人を陶酔に導く。それが新たな生命いのちを生み出す点も同じだ。


 十年前、夫と付き合い始めた頃。男性の筋肉は女性の肉付きと全く異なるものなのだと、目で、掌で、頬で、胸で、背中で、内腿で、識った。やがて新たな生命を授かった。そして喪った。


 あの子の短い生は、それでも幸福だった──そう思えるようになったのは、海辺の洞を夫と共に訪れてからだ。視界から次第に美術室が消え、あの巨大な岩窟の闇と光が蘇る。逆光を背に、明治の文豪に似た泥蓮洞でいれんどう主人が立っていた。

 

「内なる声に耳を澄ますのだ」


 子供を作ろう。その夜、夫の言葉を真弓は受け入れた。生命は陶酔の向こうにある。


 翌日、学校の麓にある作家の記念館を部員たちと訪れた。ギリシア人の母を持ち、イオニア海に浮かぶ生地の島をその名に留める文豪は、僅か一年だけこの松映にいた。展示品の鉄亜鈴は、彼がギリシア彫刻の美に憧れて鍛錬に励んだ証だ。

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美と陶酔【KAC20235 お題「筋肉」】 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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