君を抱きしめるための光

いいの すけこ

あたたかな手を繋ぐ

「黙っていなくなるなんて何考えてるのよ馬鹿っ!!」

 金もない仕事もない家族もいない。救いようのないアルの棲み家に、懐かしい声が響き渡った。

「私がどれだけ探したと思ってるのよ!」

「ヘレナ?!」

 玄関に荷物を投げ捨てて、散らかった床を踏み鳴らして。制止するのも聞かず、ヘレナはアルの元に詰め寄ってくる。

「ちょ、落ち着けって。どうしてここが」

「探し回ったからに決まってるでしょう!」

 入り口に放り投げられたヘレナのトランク。アルとヘレナが出逢った街から、遠く離れたこの土地へ。彼女は時間をかけて、労力を割いて、アルを尋ねて来たのだ。

 この国は、平穏とは程遠いというのに。

 二年ほど前、アルは行き先も教えず、別れの言葉のひとつも告げずヘレナの元を去った。

 ヘレナにぽつりぽつりと話したことのある故郷は、既に無くなっていて。どこに行くべきか途方に暮れた末、小さな労働街に流れ着いた。縁もゆかりも無い地だった。

 だからヘレナがここを探し当てるのだって、大変な思いをしただろう。

 自分のために、そんな苦労をしてほしくなかった。

「どうしていきなり消えるのよ、どうして私に一言もないのよ!」

 声を震わせながらのヘレナの言葉は、溢れ出るようだった。ベッドに座った状態で、頭上から切切と浴びせられる。それを受け止めるだけの余裕がない自分が情けない。

「一人でどうするの。部屋だってこんなにぐちゃぐちゃで、身だしなみだってこんなにだらしなくて、こんなに」

 だらりと垂れた右手を、ヘレナが握りしめる。

 それがあまりに、やるせなくて。


「右手が動かないんだから仕方ないだろうが!」

 多くのものを失った苛立ちを、全てぶつけてしまった。

 手を握ったまま、ヘレナは床にへたり込む。引っ張られた右手は一切の感覚がなく、筋力も失われてしまった。

 我ながら酷い態度をとったと、忸怩たる思いに駆られた。左手で促して、ヘレナを隣りに座らせる。

「……あなた、腕っ節なら誰にも負けなかったじゃない。うちの店のお客さんたち、どんな力自慢相手だって次々腕相撲で負かせたくせに」

 ヘレナは酒場で働く娘だった。荒くれ集う店でも堂々として、野郎共の喧嘩にも臆することなく仲裁に入る。そんな逞しさを見せつけながら、天真爛漫に笑う彼女はあまりに眩しかった。

「そりゃ、ヘレナが賭かってたからな」

 ある夜、一見の客が彼女にちょっかいをかけたのをきっかけに、ヘレナを賭けた腕相撲対決が始まったのである。

 いきなり現れた野郎に酒場の花を持っていかれてたまるかと、続々と名乗りをあげる常連たち。

 みんな律儀に抜け駆けを堪えてたんだなと呆れつつも、初来店の男は次々と挑戦を受けた。

「女のこと、勝手に賭けるなんて最低よ」

「それは悪かった」

「初めて店に来たくせに、一人勝ちしちゃうし」

「だからそれから通ったろ」

 彼女にちょっかいかけるべからず、の不文律を破った一見の客。それは他ならぬアルだった。

 腕相撲で勝ち抜いただけで初対面の男に靡くほど、ヘレナは簡単な女ではなかったけれど。店に通いつめるうちに惹かれあっていった二人は、涙を飲んだ常連たちにも祝福されるほどに、強い絆で結ばれていたのに。

「店のおなじみさん達も、アルのこと心配してたわよ。腕相撲だってあんなに強いんだから無事だろうって、私のことも励ましてくれたけど」


「……腕っ節だけじゃ鉛玉やら火薬にゃ、勝てねえよ」

 国の領土やら資源やら、威厳やらを賭けて始まった戦争は、泥沼化の一途を辿っていた。

 戦場に招集されたアルは一発の銃弾――か何かは、あまりの衝撃に確認できなかったが。戦闘時の負傷が原因で、アルの右腕はまったく動かなくなってしまった。

「何でアルが、こんな目に遭わなきゃならないの」

「呼ばれたら行くしかないだろ」

「ただの酔いどれ筋肉馬鹿のくせに、軍人なんて似合わないのよ」

 そりゃあただ飲んで、馬鹿騒ぎして、ヘレナと好きなだけ過ごしているだけの日々ならどんなに良かったか。

 アルはヘレナに握られた、もう動かない右手を見つめた。

 ヘレナの柔らかな手の感触も、温かさも、何も感じられなかった。

「弾の一発や二発食らっても、くたばらないくらいには頑丈だと思ってたけど。最近の兵器はエグいな。見たことない……っていうか、ありゃなんだったんだろう。手品か魔法かってくらいの……」

 アルのぼやきに、ヘレナが勢いよく顔を上げた。見上げてきた問うような瞳に、アルは戦場の光景を思い出す。

「銃弾やら砲弾やらと全然違う、光みたいな……ありゃ彗星みたいだったな。そういうのが空から降ってきたりとか。あと、隊列に獣の群れが突っ込んで来たこともあったか。軍馬とか軍用犬かと思ったけど、なんだか霧みたいに薄ぼんやりして、それでいて狼みたいに仲間を食いちぎっていった」

 思い出せば出すほど、奇妙な光景だった。兵器の進化は目覚しいから、敵国は良からぬ恐ろしいものを手に入れたのかもしれない。

「ああ……戦場に本気で魔術師を投入してきたんだわ。魔術は秘匿だっていうのに、愚かな連中」

「は……?」

 馴染みのない言葉が並ぶ。

「魔術って、伝承とか御伽噺に出てくる?」

「表の人間は知らないだけで、世界の裏側では魔術が暗躍してるのよ。戦の駒にだって、散々使われてるわ」

 大真面目に語るヘレナの横顔は、冗談を言っているとも思えない。

「それでも世間に魔術の存在が漏れないよう、目立たないように使うものだったけど。戦争が泥沼化してきて、敵もなりふり構ってられないのね」

「いや、その……ヘレナの言うことを疑うわけじゃないが。ちょっと、ついていけないというか」

 確かに不可思議な戦場だったけども。困惑するアルの顔色を伺う目つきのヘレナは、再び握ったままの右手に目線を落とした。


「その、気味悪がらないでもらえると、いいのだけど」

 ヘレナはアルの右腕の向きを変えて、手のひら側を上にした。握ると言うよりは、両手を優しくアルの右腕に添える。

 使わないまま筋肉がそげ落ちた腕。細くなったそれを、ヘレナは労わるように、慈しむように撫でた。手のひらの形を確かめるように、細い指先で揉みほぐす。

 その優しい感触を、全く感じないことが悲しかった。

「指圧とか按摩とかしても無駄だぞ。医者にも匙を投げられた」

 こんなにも懸命に手を当ててくれているヘレナに、投げやりな言葉をぶつける自分に腹が立つ。けれど、どうにもならないものに心血を注ごうとする姿は、見ていられなかった。

「……この傷、なに?」

 手のひらに残る傷跡に触れて、ヘレナは言った。まずいと思っても右腕を引っ込める力もなく、振り払うこともできない。

「……動かないことに苛立って、ナイフでぶっ刺した」

「馬鹿!!」

「どうせ痛くねえわ!」

 アルはまた大声を出してしまったと、我に返るが。

「馬鹿、ばか。ほんとに、ばか……」

 ぽたぽたと傷跡に落ちてくる涙に、自分もまた泣きたくなってしまった。

「……ごめんな。でも本当に痛くないし、動かないのは変わりゃしないから」

 手も、腕も痛くはない。

 心はずっと、痛いままだけど。

 何も感じずにいられるほど、鈍感にはなれないけれど。 

「動くわよ」

 泣きながらも、ヘレナは希望を口にする。

 そんな気休めは欲しくないと言って、突き放して。

 自分にはヘレナを幸せにすることなどできないからと、追い返して。

 面と向かって心にもないことを言う勇気も、手を離す覚悟もありはしなかった。


「私が、動くようにしてみせる」

 ヘレナはアルの腕を確かに掴んで、己の方に引き寄せた。今度は手の甲側を上にする。ヘレナはそのなめらかな額に、筋張った甲を押し当てた。祈るように。

 アルの右腕に、光が走る。

 まるで血の管を巡るように。枝分かれをして、右腕中に行き渡るように光は巡る。

 右腕が温かかった。

 温かい?

「右腕、動かしてみて」

 ヘレナの言葉を耳では聞き取っていても、体は理解していなかった。だって右腕は、ずっと動かしていないから。こんな血も凍りついたような、木偶の腕は何の役にも立たないと、切り落としてしまいたいほどだったから。

「ちょっとコツがいるかもしれないけど。今まで自然に動かしていたものを、具体的に頭に思い描かないとならないから」

 ヘレナの顔のそばで握られた、右手のひらに感じる柔らかさ。

 右手の指先を見つめる。五本の指の先、一本一本。力を込めて握り返したいものは。

「……ヘレナ」

 細くとも力強いヘレナの指先を、出せる限りの力で握り返す。

 血はずっと通っていた。人のぬくもりはそこにあった。


「魔術なんて、得体が知れなくて気色悪いかもしれないけど」

「この腕が動いてるのは、魔術の力なのか」

 医者にも軍の訓練士にも見放された腕が、再び動いた。

 それを奇跡と呼ぶのではなければ、また別の力によるものらしい。

「そう。……黙っていたけど、私、そういうものが使えるの。魔術師の家に生まれたけど、戦争に使われるなんてまっぴらだと思って、家を飛び出して。それで自分で稼いでいかなきゃだから、酒場で働いてね」

 訳ありも多く流れ着く盛り場で、ヘレナの生まれや背景を聞いたことはなかったけれど。思ってもいなかった出自に少しだけ驚く。

「アルの腕に魔力を注ぎ込んで、その力で動くようにしたの。だから治したというのとは、ちょっと違うけど……」

「いや、なんだっていい」

 こうしてまた、握った手の温かさを感じることができるのだから。

「本当に、ありがとう」

 まだ目元に残っていた涙を振り払って、ヘレナは笑った。

「回復訓練には、腕相撲も組み込みましょうね」

「へ? 魔力で動いてるなら、訓練なんていらないんじゃないのか」

「魔力で補填できたのは、右腕を動かす機能だけよ。神経を繋ぎ直しただけって感じかしら」

 ヘレナは玄関先の方を、すっと指さす。

「試しにあそこに放ってあるトランクでも、ここまで運んでみる? きっとすごく重いわよ。あなたの筋力、すっかり落ちちゃってるんだから」

 言われて、アルはヘレナの手をさらに強く握り返そうと試みる。けれど握力はすっかり落ちて、気持ちとは裏腹やんわりとしか掴めなかった。


「ずっと引きこもっていたんでしょう。右腕どころか体中が萎えちゃってるわよ。もう一度、筋肉を鍛え直さなきゃ」

 そう言って掴み返してきたヘレナの手の方が、よほど力強いかもしれない。

「筋肉は一日にしてならず、でしょ」

「誰だそんな頭まで筋肉でできてそうなこと言ったやつ」

「あなたでしょう?」

 そう言えば。腕相撲で一勝あげる度に言った気がする。

「アルなら乗り越えられるわよ」

 改めて右腕の動作を確認してみると、今までとずいぶん勝手が違いそうだった。

 動くようになっただけ、ありがたいとはいえ。

「しみったれた生活からは、しばらく抜け出せなさそうだな……」

 思わず肩を落とせば、力強い手がアルの背を叩く。

「はいはい、腐らない腐らない。大丈夫よ、私も一緒に頑張るから!」

 苦労など背負わせたくないと、思っていたのに。

「ああもう。どうして俺の右腕はまだこんなに、もどかしいのかね」

「だからこれから……」

 最後まで言わせずに、アルはヘレナを抱きしめた。

 右腕にもっともっと、力を込められれば良いのにと思う。

 もう二度と、離したりなどしないように。





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