筋肉をつけよう!

司弐紘

筋肉の名は?

 国道などと謳ってはいても、相変わらずの渋滞。しかも歩道を行き交う人々とは、今にも触れそうなるほど狭い。僕は愛車のアルフォードのハンドルを指先で叩いて、いらつきを抑えながら、傍らの妻に語りかける。

「見てごらんよ。あの上腕二頭筋。あれこそ理想だと思わないか?」

「そうかしら。私は肩周りの曲線こそがきれいだと思うけど」

 またこれだ。

 どうも最近は妻と話が合わないことが多い。

 これもまた「価値観の相違」ということになるのだろうか? こんなことで離婚なんて、それはどう考えてもみっともない事なんだけど。

 かといって、このまま妻に押されっぱなしでは困ったことになる。

 何しろ筋肉をつけるのは僕なんだから。

「それは上腕二頭筋をつければ、自動的に肩周りもきれいになるよ。筋肉は個別に手に入れられるものじゃないんだからね」

「…………」

 妻はまた、だんまりだ。

 ここ最近、妻はどうにも表情が乏しい。

 これでは先が思いやられる。

 そして僕たちの夫婦生活を揶揄するように、丁度のタイミングで信号が赤に変わった。なんとも腹立たしいが、僕は自力で信号を青に変えるための努力を怠るわけにはいかない。

「見てみなよ。横断歩道を渡る子供たち。可愛いと思わない?」

「思わないわね」

 僕の努力を言下に否定する妻。相変わらず表情は動かない。

 これは困ったぞ。腕の筋肉をつける前に、妻には表情筋をつけなくてはいけない。二の腕を触ったときの柔らかさを求める前に、妻の表情に柔らかさを求めなくては。

 僕はそう決意して、今までよりも熱心にフロントガラス越しに飛び込んでくる、女性たちを観察した。妻に相応しい表情筋の持ち主はどこにいるのだろう? と。

 やがて、僕たち夫婦は目的地に着いた。狭い駐車場だ。僕は助手席に左手を回して――昔の妻はこんな仕草が「好きだ」と言ってくれたのだが。

 だが今は、ガクガクと首を揺さぶるだけ。

 これは表情筋の前に、首回りの筋肉が必要だな。


 ――あれ? 首回りの筋肉ってなんて名前でしたっけ?

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