東日本大震災、小学生の自分が体験したこと

テラ生まれのT

3月11日の記憶

 この物語は作者の体験した記憶に基づいて構成されており、実際の記録と合致しないこともありえます。

 ここで登場する人名などは全て仮のものです。


 ─F県 某地区 X小学校


 当時の私は、小学生だった。

 あのとき、私は震災というものに対して子供ながら無邪気で、今思い返せばあまりに無垢で世間を知らなかった。楽天的に過ごす事が出来たとも言えるが、震災から10年以上経って、改めて当時のことを思い出していこうと思う。


 あの時のことはよく覚えている。あの日は金曜日で、私の学校では宿題として書写のダルいドリルを出されたのだ。


 あの時は放課後で小学校のグラウンドで仲間たちと遊んでいた。X小学校は学区の中でも比較的郊外にある学校だった。


「おう!じゃーな!」

 友達がまた1人帰っていく。どうやら親が迎えに来たらしい。私と同じように、家から学校までがそれなりに距離のある生徒はこうして放課後の待ち時間を遊びに使っているのだ。

「………」

 仲のいい友達はみんな帰ってしまった。

「うっ!…」


 ひとしきり遊んでアドレナリンが切れたのか、唐突に便意が腹を襲撃してきた。小学生において、学校で大の用を足すという行為はどこからかバレると同時に周囲の注目を浴びて嫌な思い出となる。そのジンクスはX小学校でも同様だった。

 しかし平時より人の少ない放課後というチャンスと、腹への波状攻撃がその迷いを無くさせた。


 私は急いで校内1Fの男子トイレへと駆け込み、個室に閉じこもって一息ついた。その時だった。


 ─ゴゴゴゴゴゴ─


 下の方からなにか唸るような音が聞こえる。そして思いっきり左右へと揺れ始めた。

 揺れは思った以上に大きく長く、立っていられない程だった。私は意図せず便器に腰をかけ、揺れが収まるのを待った。

 揺れは長かった。当時小学生の自分は「まるで地球ごと揺れている」と感じた。誰かが地球を掴み、手首のスナップを効かせながら激しく揺らしている。そんな感覚だった。


 無限にも思えた時が経ち、私は避難訓練で教えられたことを思い出し、来た道を通って外へ出た。下駄箱のある入口から外を見ると、正門までにいたる敷地に1人の先生と、何名かの生徒がしゃがんでいた。私はそこへ合流した。


 私がそこへ着くか着かないかのタイミングで、またしても横揺れがあった。その女の先生は皆を庇うように両手を広げて体勢を低くさせたのを覚えている。


「さあ!行こう!走って!」

 女の先生は皆を立たせて促した。ここから避難場所であるグラウンドまで向かうのだ。と言ってもそこまで距離がある訳でもない。そして走らせるという避難時に置いてタブーであるはずの行為を促した理由は、当然にしてあった。


 ─ガタガタガタッ!ガタガタガタガタ!


 そこからグラウンドへ向かうには体育館に至るまでの渡り廊下を横切る必要がある。その渡り廊下の上の部分についている雨よけの金属の鉄板が揺れによって大きな音を出していたのだ。これ以上待っていたらあの鉄板が崩落するかもしれない。今思い返すとそんな判断だったのかもしれない。


 グラウンドへ着くと、私は息を飲んだ。

 しゃがんだ何人かが1グループを形成し、それが幾つも集まってそれなりに広いグラウンドを目の細かい斑点のようにポツポツポツと埋めていた。


 私はその中から同級生のいる集団を探した。そして、見つけた。A君とK君、そしてK君の妹であるNちゃんだ。

「大丈夫?それより、揺れやべえよな」

 私は男ふたりにそんなことを話した記憶がある。そして呑気にも横揺れが起きている最中にジャンプをし、着地した地点がジャンプする前よりズレているのではないか、というもし当事者でなければあまりにも不謹慎な遊びをしていた。


「どうしたN?」

 K君が妹に聞いた。Nちゃんが寒そうにしている。

 当時は3月とはいえ寒く、私もジャンパーを羽織っていた。気づくと本当にまばらではあるが雪のようなものも降り出している。が、それはすぐ止んでしまった。後で親へ聞いたところ親もその雪を観測していた。


 その雪から少ししてだった。


 ─ダアアアン!!!─

 と、雷の落ちるような、何かが岩を穿つような音が東の方から轟いた。

(雪の次は雷かよ)

 と内心思っていたが、結局雷は鳴らずそれっきりだった。


 後でその話を親にしたところ、どうやらそれはだ、と言われた。子供ながらにして「それは無いだろ」と思っていたが、しかし当時の状況からして冗談を言うことはありえないし、何より自分が聞いた音の正体が分からなくなるため、ここでは親の言う説を出しておくこととする。


 グラウンドに車が何台も入ってくる。

 この大地震に対してX小学校は、迎えの来た生徒は担任が確認して家へ帰してよい、という方針を取ったようだった。


 私は母親の車が来たのを見つけると、当時の担任の先生(ジャニーズの嵐がやたら好きな人だった)のところへと向かい許可を貰って帰途についた。


 車の中ではどんな会話をしたか記憶がない。しかし車の中で流れているラジオかワンセグかが私の記憶を支配していた。

「K市への津波の到達時刻は─」

「地震情報です。M県を中心に震度6強…」

津波警報が発令されています」

 ともかく緊急性の高いニュースが、当時小学生の自分では完全には理解出来ない状態が続いていた。


 しかし、津波というものについて私はそこまで恐怖を抱いていなかった。

 と言うのも私が当時経験した地震の中では津波というものはせいぜい1mか、到達時刻には津波というものは海中は溶け消えている認識だった。


 車が数キロ走り家へ着いた。家は学校よりも西にあり、学校ですら津波が大丈夫だったのだから家ならばもっと大丈夫だろうという認識が私にはあった。


「なにしてんの?」

 家へ着いて車から降りると私と母は困惑した。

 玄関から庭先に、姉のものと思われるギターなどたくさんの荷物を出していた。私たちが玄関へ到達するタイミングで、姉と鉢合わせした。何故かその両手に消火器を持っていた。


 家に入ると、まず私は自分の部屋を確認した。本棚がめちゃくちゃに倒れており、自分は片付けを早々に諦めてリビングのテレビの電源をつけた。


「津波は現在M県に到達しており─」

「沿岸地域の方は避難を─」

「I県T市の様子です…」


 どの番組も画面の右下に日本地図が描かれ、太平洋側全体に大津波警報が発令されている赤色の線によって縁取られていた。


 小学生の私が見て印象的だったことは、ヘリからの映像で黒く濁った津波が、平野を駆け抜け、幹線道路と思わしき真っ直ぐ長い道路にぶつかって止まる様子だった。

 子供ながらに津波というものの怖さを知った瞬間だった。


 そのまま日が暮れ、来客がいた。それは母方の祖母と、母方の実家に住む叔父だった。

 母方の祖母は海に近い所に住んでおり、自分も夏休みの間預けられたことがあった。

 子供ながら、私は彼らになにが起きたのか察した。


 祖母の家は、津波に流されてしまったのだ。


 幸運にも、祖母とその一家は全員無事だった。祖母が言うには、自分の乗る原付も家族の車のすぐ後ろに津波が来ていたらしい。


 そして夜になり、大人たちは晩御飯を用意し始めた。しかし、水の勢いが徐々に弱くなっていく。断水しかけていたのだ。

 母は茶碗の底にラップを敷いていた。


 その後、みなこたつに入りながらテレビを見ていた。幸いにも停電はしていなかったのだ。

 東北各地の被災の様子が、真っ暗な夜のはずなのに文字通り火の海となっている光景を目の当たりにした。そしてしばらく同じようなニュースが続き、子供の自分は関心が薄れていった。


 翌日、気づけば私はこたつで寝てしまっていた。

(学校はさすがにないよな)

 と1番最初に考えた。

 そんな呑気な中、大人たちは依然としてしかめっ面で忙しそうにしていた。仕事、親族の安否、原因は様々だった。

 私は叔父と母親と共に車で街のガソリンスタンドへと向かった。田舎である以上車は必需品である。とりあえずガソリンを確保し、まず一番必要な水の確保が求められたのだ。

 父は役所で働く公務員だったため、朝イチで役所へ向かうと数日は帰ってこなかった。

 後で聞いた話だが、人手が足りず街に安置されている犠牲者の遺体を管理することもやってたという。


 私の方はというと、ガソリンを求め同じことを考えたのだろう人間は多かったようで、それらを確保するのには時間が掛かった。

 そしてそれが終わると、今度は海の方へと向かった。そこで私はなんとなくやりたいことが分かった。

 母親たちは流されてしまった実家を見ようとしたのだ。

 車で侵入可能な所まで来ると、そこからは降りて少し探索した。

 まるでかつての面影がない。ここに来るまでの道だけが、ここがかつて家のあった場所の地区だということを示していた。


 当時の私は親達の様子を伺うことはしなかった。というより、伺ったのかもしれないが、そこからどんな様子かを推し量ることは出来なかったのだろう。

 なるべく歩き回らないよう注意され、私は親たちに着いていった。そして色々な物があった。

 崩壊した家屋、裂けた木材、漁で使われているような機械と網、そして、人間。


 それはもはやヒトとは呼べなかった。瓦礫に埋もれ、形容し難い形になってしまったそれは、もはや原型を留めてはいなかった。私は咄嗟に目を逸らしたが、今でも脳に焼き付いている。


 どうやら父も同じような体験をしたようで、津波の犠牲になった人はみな恐怖の表情で、体の方も損傷や変形が激しかったという。戸籍上男性であるはずなのに性器がなく、よくよく調べると性器が身体に呑み込まれ、腹の中にあったというケースも目の当たりにしたらしい。


 そうして私は、震災翌日をどうにか無事に過ごした。

 だが、数日後、原発事故という大きな災害に直面することとなるのだが、避難地域に指定された訳でもなく避難するアテもなかったため、私は実家でずっと過ごしていた。

 外出にはマスクをつけ、雨には当たらないように気をつけていた。どうしても原爆投下後の黒い雨を思い出してしまったのだ。

「どうしよう、雨に当たっちゃったよ」

 私が叔父にそう言うと、

「まあ大丈夫だろ(笑)」

 と返されてしまったのが印象的だった。


 そこからはしばらく自宅で過ごし、少し早い春休み気分だった。学校が始まったのは、それからしばらくしてからだった。

 学校が始まると何か機会の入ったネックレスのようなものを渡され、これで放射線量を測って被爆の具合を調べると言われた。

 それから徐々に日常に戻っていき、募金や物資などが届いて私たちの手元にも文房具などが配布された。


 いつしか仮設住宅ができ、祖母たちはそこへと移っていった。


 あれから10年以上が経って、震災の復興という言葉も聞かなくなってきた。かつて子供だった私も大人になり、大人になるまでに新型コロナウイルスが流行し、現在もそれと戦っている。

 今後私が生きていく中で予想も出来ない災害に遭遇するだろう。しかし、幼少期に経験したこの災害が糧となり、自分を助けるはずだ。

 そう信じるしかない。

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