君のヒラメ筋をきたえたい

隠井 迅

第1話 君の力になりたくて

 中学二年生の軽山稼頭央(かるやま・かずお)は、今日もまた、放課後の教室の窓から、グランドの陸上部の練習を見学していた。


 稼頭央は身体が弱く、医者から運動を止められている。

 そんな彼にとって、走ったり、跳んだり、投げたりして、己の身体能力のみを使って競い合う〈陸上〉という競技は、身体を全力で動かせないが故にかえってますます、稼頭央にとって羨望のスポーツであった。


 だが今や、それは真っ赤な嘘である。


 たしかに、稼頭央の趣味は、筋肉トレーニング理論の研究で、グランドの陸上部の練習を眺めながら、自分だったらこうするのに、といった独自の練習メニューを考案したりもしていたのだが、だがしかし、ここ最近、稼頭央の眼差しがずっと追い駆け続けているのは、陸上競技部全体の練習ではなく、ただ一人のアスリートの走り、ショートカットでやや浅黒い肌をした、司喜子(つかさ・きこ)の一挙手一投足だけだったのだ。

 練習を見ているうちにいつしか、同級生の喜子の、カモシカを想起させる長い手足が見せる躍動感ある動き、否、司喜子という存在それ自体に、稼頭央は猛烈に恋い焦がれてしまっていたのである。


 喜子はハードラーで、地区大会を突破し、県大会に出場できるレヴェルの選手であった。

 だが、そこから先のステージ、県大会では準決勝止まりで、どうしても決勝には残れないでいた。

 

 毎日ずっと喜子の動きだけを見続けている稼頭央の目から見て、彼女の弱点は明らかであった。

 ハムストリングの強さに対して、ヒラメ筋が圧倒的に弱いのだ。

 簡単に言うと、ハムストリングとは太腿、ヒラメ筋とはふくらはぎの筋肉の事である。 

 喜子は、このふくらはぎの筋肉の弱さのせいで、強く脚を蹴り出して、身体を前に運ぶ事ができず、それゆえに、スタート・ダッシュが苦手で、さらに、ハードルにも突っ込め切れていないように稼頭央には思えていたのであった。


 稼頭央と喜子が通う中学の陸上部のコーチは、そもそも長距離が専門だったので、短距離やハードルの練習に関しては。よく言えば、選手たちの自主性に任せ、悪く言えば、放置していた。

 だからこそ、稼頭央は毎日思っているのだ。

 自分がコーチだったら、キコちゃんにヒラメ筋を鍛えさせるのに、と。


 夕陽が沈みかけ、全校生徒帰宅時刻が近付いてきて、グランドでの陸上部の練習も終わりを迎えつつあった。そして、教室に独り残って、自習しているポーズをとっていた稼頭央もまた、校舎に残る生徒に声を掛け回っている当番教師の指示によって、教室を後にする事になった。

 二階の教室から下校口に向かいながら、稼頭央はずっと考え続けていた。


 やっぱ、ヒラメ筋なんだよ、キコちゃんは、ふくらはぎを鍛えなくちゃなんだよ。

 よし、今日こそ、その事をキコちゃんに伝えよう。


 今からなら、練習を終えたばかりの喜子を校内で捕まえる事ができるかもしれない。

 そう思って、稼頭央は駆け出した。

 そして、階段の一番上のステップに足を置いたまさにその瞬間、普段、まったく使っていないふくらはぎが、突如、こむら返りを起こしたのだ。痙攣した両脚は身体を支え切れなくなって、稼頭央は足を滑らせ、階段から転げ落ちてしまったのである。


               *


 意識を取り戻した時、稼頭央は、自分が、恋い焦がれている司喜子のヒラメ筋になっている事に気が付いた。


 階段から落ちた稼頭央は、好きな人の筋肉に生まれ変わってしまっていたのだ。

 だがしかし、稼頭央の脳内では、自分が転生してしまった事実に対する驚愕よりも、これで、直接的に好きな子の役に立てる、という思いが優勢になっていた。

 そして、愛し君のふくらはぎとなった稼頭央は、朝から晩まで、喜子が眠っている間さえも、ヒラメ筋となった己を、ただひたすらに鍛え捲ったのである。


 やがて月日は流れ、秋の新人戦の県大会当日を迎えた。

 この大会で遂に、喜子は、念願の県大会の決勝に進出したのである。


 わたし、ここ最近ずっと、ふくらはぎに違和感を覚えているのよね。

 喜子は頭を何度か左右に振った。

 でも、これがシーズン最後のレース、今は、集中、集中、ここは夢にまでみた県大会決勝の舞台なのだから。


 オン・ユア・マークス・セット

 バン


 スタートのピストルが鳴った直後、喜子は、スターティング・ブロックを強く蹴り出し、絶妙なスタート・ダッシュを切る事ができた。

 以前ならば、ヒラメ筋が弱くて、こんなに上手くスタートする事は出来なかった。


 一緒にゆこう、キコちゃん。

 最近、突如、筋肉が付いてきたふくらはぎが、そう話し掛けてきた気さえする。

 喜子は、全力で一台目のハードルに突っ込んだ。

 しかし、ジャンプした瞬間、ふくらはぎが攣って、喜子は一台目のハードルに脚を引っ掛け、転倒してしまったのだ。


              *


 大会後に訪れたスポーツ整形外科の医者は、喜子にこう言った。

「オーバーワークですね。わたしもこんな症例を見たのは初めてなのですが、ヒラメ筋だけが何故か異常に肥大化し、あり得ない程の炎症を起こしています」

 そう指摘されて、ヒラメ筋となった稼頭央は、自分がさらに熱く真っ赤になったのを覚えた。

「ごめん、キコちゃん、自分、調子に乗って、筋トレをやり過ぎたみたい」


                〈了〉

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君のヒラメ筋をきたえたい 隠井 迅 @kraijean

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