そうして筋肉の王子様と駆け落ちした

葛鷲つるぎ

第1話


 わたくし、八爪やつめと言います。

 筋肉がつかないと悩んで早10年が経ちました。

 原因は単純です。

 筋トレが続かないのであります。


 はい、普段どんな様子か、ですか?

 まあ普通に、会社行って帰って寝るだけの毎日ですね。


 ……会社から帰って、ちょっとでも筋トレですか?

 ちょっと残業明けには堪えますね。


 なら、会社行く前に筋トレ、ですか?

 起床時間が出発時間ギリギリなので難しいんですよ。会社には、電車遅延も鑑みて出なければ怒られてしまいますから。


 私が遅れたせいで検査結果の提出が遅れてしまったとあっては、取り返しがつきません。

 人様のお命を預かっていますので、致し方ありません。

 


 え? そもそも、なぜ筋トレをするのか、ですか?

 それはですね、筋トレすると集中力が増し生産効率が上がると聞いたからです。

 寝付きも良くなり、睡眠不足に悩まされることはないと。


 通勤は車で、眠れる余地なんてないですし、本当に自由にできる時間がないんですよ。

 あ、勉強は疎かにしてませんよ。資料を録音して、車の中で流してますから!


 他の職員もそうなのか、ですか?

 ……さあ、……他部署のことは……。あ、でも最近……。

 え、私のところは、ですか?


 ああ、居ませんよ?

 みんな辞めちゃったんで、ぜんぶ私一人で回さないといけないんです。

 だから、本当はここでこうしている時間はないんですけど……。


 ……そういえば、ここ、どこですか?





「八爪さん!」

「……根生こんじょうさん?」


 八爪は瞬いた。ぼんやりしている頭がだんだんと冴えてくる。


「ああ、良かった。目を覚まして……!」


 そう言って根生は、おおげさに息を吐き出す。彼は八爪が唯一知っている他部署の人だった。


「あの、えっと……私……」

「救護室ですよ。八爪さん、倒れたんですよ?」

「まあ……」


 救護室で寝かせられながら、あまり実感が湧かなくて他人事のような声が出る。


「早く救急車をって上司に言ったんですが、寝不足なだけだと言って……。本当はもうすぐ電話をかけるつもりだったんです」


 八爪はちらりと彼の手元を見た。本人の言う通り、その手にはスマートフォンが握られている。


「なるほど」


 八爪はうなずいた。


「根生さん」

「や、八爪さん!?」

「私、筋トレしたかったんてすよね」


 八爪は天啓だと思って、彼の手を握った。


「服の上からでも分かるその筋肉……教えてもらえませんか?」

「…………」


 根生の目を、真剣に見つめる。

 彼は、頷いてくれた。そして、握り返してくる。


「分かりました。なら、ここを辞めましょうか。まずは、あなたが健康になってからです」


 ぱちくりと瞬く。


!」


 先ほどの臨死体験を思い出し。

 八爪は、大きく返事を返した。

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そうして筋肉の王子様と駆け落ちした 葛鷲つるぎ @aves_kudzu

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