深夜、私の特等席で。

縁代まと

深夜、私の特等席で。

 親の夫婦喧嘩に巻き込まれたくなくて、私はカバンだけ持って家の外に出た。


 時刻は十二時を過ぎている。コンビニで時間を潰すつもりだったが、なんとなく気が変わっていちごミルクと駄菓子をいくつか買って近所の神社に向かった。

 そこは私が生まれるずっと前からある小さい神社で、石階段を上っている間ずっと左右の林を野良猫か何かが走り回っている音がしていた。この話を友達にしたら怖くないのかと問われただろうが――家に居る方がよっぽど怖い。


 境内の端には休憩用のベンチが設置されている。

 ペンキが剥げていて木も腐りかけ、しかもしょっちゅう落ち葉まで積もっているが、神社の敷地内を見回せるので私は好きだった。


 ここは夜の散歩コースの中でも特にお気に入りの場所だ。

 両親の仲が悪くなってからよく足を運んでいる。静かでいいし、こんな時間に来る人間もほとんどいない。

 この後は適当にその辺をぶらついてこっそりと帰ろうかな、と考えていると境内に人影があることに気がついてびっくりした。ついさっきまで居なかったのに。


 もしかして幽霊だろうか。生身の不審者よりはいいけど出会いたいってわけじゃない。

 そう身構えているとその人物も私に気づいたようで、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてきた。


 ――着物姿の楚々としたおばあさんだ。

 恐怖心が和らいだのは柔和な表情のせいだろうか。

 おばあさんは私の前まで来ると申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさいね、ここってどこだかわかるかしら?」

「え、っと……」

 徘徊老人という文字が脳裏をよぎったが、こんなにもしっかりとしているものなのか疑問が湧く。いや、でもしっかりして見えるからこそ大変なのかも。

 はっとした私はとりあえず問いに答えることにした。神社そのものの住所はわからないので、近所の住所と最寄駅、そして神社の名前を伝える。

 するとおばあさんは途端に笑顔になった。


「よかった、知ってる場所だわ。ならちょっとゆっくりしていこうかしら」


 隣に座ってもいい? と問われ、私は思わず頷いてしまった。

 ……能天気なおばあさんだ。

 私もこうなってみたいが、考えることが山ほどありすぎて難しそうだった。どれだけ考えても答えの出ない悩みが湧いてくるのだ。


 だから逃げた。

 今夜もそうだ。


「ここってあなたの特等席?」


 そう問い掛けられ、この場所を気に入っていると言い当てられた気がして口籠る。しかしおばあさんは私の返事がなくとも「そう、特等席なのね」と微笑んだ。

「でも辛そうね、何かあったの?」

「いや、あはは……まぁちょっとね。でも大丈夫」

「ふふ、大丈夫になるにはまだ早いでしょう」

 おばあさんは優しい手つきで背中をぽんぽんと撫でた。大人の人にこうされたのはいつぶりだろう。

「私は夜にたまたま出会った名前も知らないおばあちゃん。何かを話すにはうってつけだと思わない?」

「……」

 愚痴を聞いてくれる、ということだろうか。

 私は断ろうとした。さすがに初対面の人間に話すのは憚られる。

 しかしここまで親身になってくれる人は誰も居なかった。友達は笑って流すし、両親に直接言えるはずもないし、先生たちは他にも沢山居る『私より大変な人』にかかりきりだ。


 初めて真っ直ぐに私を心配された気がして、いつの間にか今まであったことをぽつぽつと話していた。


 両親の不仲のこと。

 家に居場所がないこと。

 離婚するんじゃないかと不安なこと。

 それが気になって授業に集中出来ず、成績が下がったことと、部活でも不注意で怪我をしたこと。

 それが原因で更に両親が喧嘩をし――気づいてしまったこと。


「ママもパパも喧嘩の理由にする時しか私のことを見ないのよ」


 いつからか両親は互いの揚げ足取りをするための道具としてしか私を見なくなった気がする。それだけでこの世から消えてしまいたくなった。

「そう、辛かったわね……」

「辛かったよ、友達は気にしすぎとか親離れしろとか言ってくるし、それで喧嘩しちゃったし」

 四面楚歌っていうのはこういうことを言うのかも。

 そう思うといつの間にか鼻水と一緒に涙が流れ出ていた。かっこわるい。しかしこのおばあさんなら許してくれる気がした。


「私さ、おばあさんみたいにいつも笑顔でいてさ、誰かに優しくできる人間になりたかったんだ。ちっさい頃死んじゃったおばあちゃんがそうだったから」

「あら、なればいいじゃない。良い夢よ」

「でもだめなの、もうなれないの。だってこんな奴になっちゃったんだもん」


 泣きながらそう言うとおばあさんはそっと立ち上がり、私の両手を引く。

「少し散歩しましょうか。歩きながらもう少し話を聞かせてくれる?」

 断る気がせず、私は頷いて立ち上がる。

 おばあさんは境内を私と二人で歩きながら愚痴に耳を傾け、その都度相槌を打ってくれた。話を聞いてもらえているんだと実感するたび心が落ち着いてくる。

 ようやく涙が止まったところで、今度は私からおばあさんに問い掛けた。


「おばあさんはどうしてここに?」

「さあ、いつの間にかここに居たのよ。けれどラッキーって思っちゃったわ」

「ラッキー?」

「私もここがお気に入りの場所だったの。随分前に引っ越してしまって来れていなかったのだけれど……こんな不思議なこともあるのね」


 無自覚に徘徊していたとして、こう考えて幸せでいられるなら悪いことではない気がした。

 でもこの後で警察まで付き添ってから帰ろう、と考えているとおばあさんが「そうだわ!」と手を叩いて小さな手提げかばんの中から何かを取り出す。

 それはよもぎ饅頭だった。コンビニなどで売られているものだ。

「これ、もしよかったらどうぞ。私の好物なの」

「えっ、私に?」

「泣いたらお腹が空くでしょう。あら、けれどこんな時間じゃ太っちゃうかしら……?」

 それはいちごミルクを飲んで駄菓子を食べる気満々だった私にとって大した問題ではなかった。

 しかし貰うだけでは悪い。

「……もしよかったらこれと交換ってことにできない?」

「これは……まぁ、懐かしいお菓子!」

 駄菓子の中から麩菓子を取り出して手渡す。これならおばあさんでも食べやすいはず。

 おばあさんは喜んで受け取ってくれた。笑顔を見ているとこちらまで嬉しくなってくる。


 さくさくと落ち葉を踏んで歩きながら他愛もない話をし、貰ったよもぎ饅頭を齧ってみた。

 よもぎ饅頭なんて好んで食べたことはないけど随分と美味しく感じられる。自分の新たな好みを発見した気がした。――これみたいに、自分が知らないことはこの世にはまだ沢山あるのかもしれない。

「……ママのこともパパのことも知らないことがいっぱいある。おばあさん、私明日になったら二人に本音を伝えて、そして二人の話を沢山聞いてみる」

「偉いわ、一人で決めたのね」

「おばあさんのおかげだよ」

 そう笑いかけると、一緒の歩幅で歩いていたおばあさんが足を止めた。


「私、そろそろ帰らなきゃ」

「あっ、帰るなら送って行――」

「あなたの未来、そう悪いものではないって私が保証するわ」


 突然そう言われ、後方に行ってしまったおばあさんを振り返る。

 おばあさんはこちらに背中を向けていた。首筋に傷跡がちらりと見える。

 そっと振り返ったおばあさんは温かな笑みを浮かべ――


「頑張って、きっと良い結果になる。応援してるわね」


 ――そう言って、忽然と消えてしまった。

 何が起こったのかわからず固まっていた私は冷たい風が吹いて我に返る。周囲を見回してみたが誰もいない。ベンチに置いてきたいちごミルクだけが存在感を放っていた。

 ただ、不思議と恐怖感はない。

「あの傷跡……」

 私はそっと自分の首筋に指を這わせた。幼い頃に遊具から落ちて付いたものだ。それはおばあさんと同じ位置にあった。


 あれは私だったの?


 いやいやまさか、と思うが否定しきれない。口の中にはまだよもぎ饅頭の味が残っていたし、麩菓子はなくなっていた。

「……」

 この怪我を負った時、両親はとても心配してくれた。もちろん本心から。

 そんな記憶が鮮明に蘇り、あの頃みたいになりたい、と気持ちがはっきりした。はっきりした気持ちは私のやるべきことを示してくれる。

「――おばあさんを嘘つきにしないようにしなきゃ」

 私は自分の両頬を叩き、気合いを入れてからゴミを纏めて足早に家へと帰った。


 きっと良い結果になる。

 そんな優しげな声を思い返しながら。


     ***


 ――後日、真剣に話をすると両親はちゃんと耳を傾けてくれた。


 二人にはまだ溝がある。けれど私のパパとママは二人だけだし、これからも家族として暮らしていきたいことを伝えた。

 我儘かもしれないけれど、ここで伝えなければ一生後悔するとわかっていることだ。

 まだすぐには答えを出せないし変わっていくことも出来ないけれど、パパもママも前向きに考えてくれることになり……私はまた少し泣いてしまった。


 友達にも謝り、あの時どういう風に感じていたか正直に伝えた。

 どうやら私が悩んでいることは知っていたが、そこまで深刻だとは思っていなかったらしい。だから茶化して雰囲気を軽くしようと思ったそうだ。

 私は今後もずっと友達でいたいことを伝え、今度は友達の方が少し泣いた。

 この子もそんなにも喧嘩した状態が辛かったんだ、とそこで初めて気がつく。人の辛さに気づくのは難しいことなんだ。


 そう理解して、私は悩んでいる人がいたら自分から声をかけに行くようになった。

 先生にも親にも友達にも相談出来ずに悩んでいるあぶれ者は必ず居る。だって私がそうだった。偽善者かもしれないけれど、そんな子に寄り添いたいと思ったのだ。

 あのおばあさんのように。



 深夜に散歩に出ることはなくなったけれど、あの神社には今でも時々足を運んでいる。あれからおばあさんには会っていないが、あそこへ行くといつでも応援してくれている気がした。

 少しでも追いつけるように頑張らなきゃ。


 そう思いながら、私は今日も道すがらよもぎ饅頭を買った。

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深夜、私の特等席で。 縁代まと @enishiromato

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