第6話 髭面オネエと悩める青年
菅谷ちゃんが不思議そうに見つめるその先に立つ由利ちゃんと目が合って、あたしは思わず後ずさりした。
「あら、何してんのかしらねえ? じゃあ、あたしは休憩行ってきまーす」
棒読み気味に愛想笑いでそう言い残してさっさと奥へ引っ込む。関わらないのが吉よ。
あ、でも由利ちゃんもスタッフだから裏から入ってこられちゃうじゃない。どうしようかしら。
考えながら男性用ロッカールームへ駈け込むと、暢気にお腹がぐうっと鳴る。
その音に気が抜けた思いでため息。いやだわ。キッチンから賄いをもらってくるの忘れてた。
キッチンに取りに戻ろうかしら。でも万が一廊下なんかで由利ちゃんと鉢合わせするのも気まずいわ……。
もちろんいつまでもロッカールームに篭っているわけにはいかないけれど、避けられるものは避けたいわよね。
考えているとロッカールームのドアが静かにノックされ、あたしは思わず悲鳴を上げそうになる。
誰かしら。まさか、由利ちゃん……?
瞬きも忘れてドアに釘付けになる。
どう返事をしようか逡巡していると、ドアの向こうから「禅さん開けていいっすか?」と予想よりも太い声。
「あ、ああ、犬養くん? どうぞ?」
ゆっくりと開け放たれたドアの向こうに、キッチンスタッフの犬養くんの姿。
「休憩前にちゃんと賄い取りに来てくださいよ。せっかく作ったのに冷めちゃうじゃないっすか」
お皿を片手に、やれやれといった風情の彼は、キッチンスタッフの証である首元のスカーフをもう一方の手で緩めながらロッカールームへと入ってきた。
「あら、ありがとう。ごめんなさいね、わざわざ」
朝から彼には変なところばかり見られている。恥ずかしいわ。
ロッカールームに備え付けられたテーブルにお皿を置いた犬養くんは、そのまま自分のロッカーを開け放った。
「今日はもう上がりなの?」
なんの躊躇いもなく上着を脱いだ彼から目をそらしてテーブルにつく。目の前で湯気を立てるパスタは、以前あたしが大絶賛した犬養くんオリジナル賄いメニューだ。
「午後から講義なんすよ」
学生は大変ね。授業にテストに課題にバイトに友達付き合い。しばらくすれば就活も待っている。
犬養くんはいわゆる苦学生。奨学金とバイト代で調理師学校の学費と生活費を捻出している、今どき珍しいほどの努力家だ。
「偉いわね。あたしが学生の頃なんて友達に代返ばっかりしてもらってたわ」
しかも犬養くんは若くしてやりたいことを見つけ、そのために専門的な学校に通っている。あたしの学生の頃とは雲泥の差。比べちゃ失礼よね。
「本当にすごいわ、犬養くん。昔のあたしに犬養くんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい」
あたしも夢中になれる何かを学生の時に見つけられていたら何か違ったのかしら。
パスタを一口含むとブラックペッパーがピリリと舌を痺れさせる。
「そっすか? 俺は禅さんの方がすごいと思いますけど」
彼の言葉に驚いて振り向くと、上半身裸の彼もちらりとこちらを振り向いた。
おっと、別に着替えを見たいわけじゃないのよ。
誤解されないように慌てて目線を元に戻して誤魔化すように「ええ?」とおどけた声を出す。
「あたしのどこが? 大学卒業しても真面目に就職せずにいい年してしがないフリーター生活よ。すごいとこなんて何もないわよ」
卑下したいわけじゃないけれど、やっぱり世間から見るとずれているあたし。こんな風に年下の同性から褒められることなんてほとんどないから、たとえただのお世辞だったとしても照れてしまう。
「フリーターだってしっかり真面目に仕事して税金納めて暮らしてるじゃないっすか。それに禅さんみたいに自由に生きるって、人と違うことするってことっすよね。それってかなり覚悟と信念が必要だと思うんすよ」
ばたんとロッカーを閉めた犬養くんが、少しためらったようにつぶやく。
「世間から爪弾きにされないように必死な俺にはできそうにないっす」
今度こそしっかりと犬養くんの方を振り向くと、私服に着替え終わった彼が少しだけ気まずそうに目をそらす。
何かの拍子に、家が貧しくて小学生の頃に同級生から少し意地悪をされていたという経験を話してくれたことのある犬養くん。それ以来、周りから浮かないようなるべく「普通」でいられるよう努力してきた彼。
「人と違うことをするのも人と同じでいるのも、能動的にするならどちらも覚悟と信念が必要よ。だからあたしは犬養くんの生き方を尊敬するわ」
生き方がどうあれ必死に生きているのはお互い一緒だもの。どちらにより多くの自分にとっての幸せが待っているのか。それを見極めようとみんな必死なだけ。
「そういうとこっすよね……」
口の中で小さく発されたその言葉に「え?」と聞き返すと、犬養くんは頭を軽く振った。
「じゃ、お疲れ様っす。お先失礼します」
さっぱりと言い放ってロッカールームを出ていく彼の背中を見送って、あたしはパスタをもう一口ほおばる。
少し冷めてしまったけれどやっぱり美味しいわ。あなた、いいシェフになるわよ。シェフ志望かどうかは知らないけれど。
思春期は過ぎているとはいえまだ若い彼。人生に思い悩むこともいろいろよね。あたしだって未だに悩んでるくらいなんだもの。
はあっとため息をつくのと同時に、ポケットに入れていた携帯がブルルと震える。振動が一回。メッセージの着信ね。
ディスプレイに映った差出人の名前に、あたしは今朝の夢を思い出して頬が引きつった。
『早瀬さん。片田です。昨日はありがとうございました。早速ですが例の件、今夜いかがでしょうか? できれば実際にお見せいただければありがたいのですが。ご都合をお聞かせください』
業務的なメッセージだけれど、なんだか勇んだ勢いを感じるのはあたしの考えすぎかしら?
なんと返信しようか考えながら指を動かし、急にやる気を失って携帯を放り出す。
ああ、いまさらだけど何であたしはこんなこと引き受けたの。昨夜の自分を殴ってやりたい。
昨日のお隣さんのあの目。前髪の奥のあの目に見つめられるとなんだか吸い込まれそうになる。どうしちゃったのかしら、あたし。
彼女の目を思い出しながら、もう一度携帯を見やる。
今夜は特に予定があるわけでもない。バーも定休日。都合が悪いことがないことが逆に都合が悪い。
頭をぽりぽりとかきながら、あら、そういえば由利ちゃんって結局どうしたのかしらと思い出して、意味もなくきょろきょろとあたりを見回す。
まさかあたしの上がりまで待ってる気じゃないわよね……?
ぞっとするような思い付きに肩を抱いていると突然ロッカールームのドアが開いた。
「ぎゃあ!」
「うわあ!」
思わず飛び出たあたしの悲鳴に扉を開いた午後からのキッチンスタッフも悲鳴を上げる。
「なんですか? 何かあったんですか? Gですか? Gが出ましたか?」
蒼白になったあたしの顔を見て同じように青くなった彼は、一歩下がると廊下からロッカールームの中を見回した。
「ご、ごめんなさい。いきなり扉が開いたからびっくりして……」
「あ、そうですか。すみません」
もう、なんでこんなことで一日に何度もどきどきしなきゃいけないのかしら。心労で倒れそうだわ。
お互いにきまり悪く会釈しあって、微妙な空気の中で残りのパスタを口にかきこむ。
その流れで携帯を手に取りお隣さんに素早く返信すると、あたしは勢いよく立ち上がった。
ハナフルソラ 伊月千種 @nakamura_aoi
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