第5話 髭面オネエと不穏な微笑
あたしを見つめる真剣な眼差しが、あたしの体の向こうまで見透かそうとするかのように鈍く輝く。
あたしはその目に少しドギマギしながら、それでも彼女から目が離せない。
目を離せないまま座卓の上に乗るマグカップを握りしめてゆっくりと口を開くと、あたしの答えを待っていた彼女が座卓に乗り出すように前のめりになる。
「わかったわ。そこまで言うなら協力するわ」
唾を一つ飲み込んだ後そう答えると、彼女の顔がぱっと輝いた。
「本当ですか? ありがとうございます!」
膝立ちになって座卓に押し付けるように頭を下げた彼女は、勢いよく頭を上げると「じゃあさっそく……」とあたしのズボンに手を伸ばす。
「え、え、ちょ、ちょっと待って!」
「いいって言ったじゃないですか! 約束破る気ですか?」
別にそういうわけじゃないけれど!
瞠目しながら彼女の手を振り払おうとするも、彼女はその小柄な体からは考えられないほどの力でぐいぐいと引っ張る。
「いや! でも! そんな! 急に!」
ギラギラした彼女の目が怖いわ。これってやっぱり仕事とか関係なくこの子の趣味なんじゃないの?
頭の中に浮かんだ懸念に焦りながら彼女を引きはがそうと必死に抵抗するけれど、いまや彼女はあたしのベルトに手をかけている。
ま、待って! せめて、せめて……。
「せめてシャワーだけでも浴びさせて!」
大声で叫んでハッと目を開く。
肩で息をして周囲を見回し、自分が部屋のベッドに横たわっていることに気づいてあたしは身を起こした。
「なんだ、夢か……」
安堵のため息とともに疲れが肩にどっしりと圧しかかる。時計を見ると、まだ出勤までには時間がある。
なんだかしっかり寝た気はしないけれど二度寝して夢の続きを見たら嫌だわ。疲れのとれない体を叱咤して、のそのそとベッドから這い出す。
昨夜お隣さんからのお願いを了承した後、夜も遅いので詳しいことは改めてということで、連絡先だけ交換することになった。だから今の夢のようなことは実際には起きなかったのだけれど……。
何かの暗示かしら?
その思い付きにぞっとして、あたしはそれを振り切ろうと窓にかかったカーテンを開けた。途端に眩しい日の光が部屋に差し込む。
ああ、いいお天気。洗濯物が早く乾きそうだわ。せっかく早起きしたんだし、ちょっと大物をお洗濯してから出勤しようかしら。
寝間着姿のまま窓の外を眺めていると、マンション下の通りを行く人影。
地味なネイビーのスーツに身を包んだ小柄な女性。お隣さんだわ。
彼女がいそいそと駅の方へ歩いていくのをあたしは眉を上げて黙ったまま見送る。
典型的な仕事人間。こんなに朝早くに出勤したり、昨夜の彼女の部屋を見ても分かるように、彼女の今の人生は仕事で埋め尽くされているようね。
別にそれが悪いとは思わない。仕事が趣味ならば人生は充実しているのでしょう。
けれどあの姿はあたしが大学生のころ、周りが就活に勤しむ時期に手放した姿。
別に働きたくなくて就活をやめたわけでも、引きこもって自堕落な生活をしているわけでもない。ちゃんと自立して貯金もしているのだから人様に恥じるようなことは何もない。
それでもフリーターであると告げるたびに向けられる冷たい視線には辟易していて、最近は学生時代の友人たちとは疎遠になっている。
きっと世間ではああいうのが正しい姿なのよね。
少し遠くなった彼女の小さな背中があたしには大きく見える。
その背中を見つめて、それにしても、とあたしは目を細める。
下着とはいえ服飾系のお仕事なのに彼女は自分の格好にはあんまり興味がないようね。昨日から髪型も服装も地味そのもので、あたしが働くカフェやバーで見かける若い女性たちのような華々しさがまったくない。
別に格好なんて本人の自由だけれど、見た目の明るさは仕事上の人間関係を円滑にするのにも一役買うはずなのに……。
服装はともかく、伸ばしっぱなしの前髪の向こうに見えた彼女の目。前髪を切ってあの目を出せばもっと明るく魅力的になるんじゃないかしら?
考えながら昨夜の彼女の目を思い出した瞬間、何かが背中を這い上がったように感じてあたしは肩を揺らした。
ああ、もう。余計な事考えるのはやめやめ!
彼女の姿が見えなくなった窓を一度だけ振り返ると、あたしは身支度を整えるべく窓を離れた。
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ああ、そういえば問題は他にもあったのよね。
昼間のバイト先であるカフェへと向かいながら、ふと昨夜あったもう一つの小さな事件を思い出す。
お隣さんの一件ですっかり記憶の彼方だったけれど、薄気味悪さで言えばこちらの方が上よね。
昨夜の由利ちゃんの目を思い出し、あたしはぶるりと身を震わせた。
オープン前のカフェの裏口からそっと中を覗き見る。と、ちょうど男性用のロッカールームから出てきたキッチンスタッフの一人とばっちり目が合った。
「何してんすか?」
目の合った彼が気味悪そうにあたしを見る。
「あ、いいえ。ごめんなさい。今日誰が入ってるのかなーと思って」
バツ悪く頭を掻きながら中に入ると、彼が呆れたように制服の帽子を被りなおした。
「フロアは禅さんと菅谷さんっすよ」
あ、良かった。由利ちゃんじゃないのね。
ほっと一息、彼に愛想笑いをしてロッカールームに入り制服に着替える。
いつも通り白いカッターシャツと黒いベストに腕を通すとあたしはしゃっきりと背筋を伸ばしてロッカーの内側についた小さな鏡に笑顔を向ける。
プライベートで何があろうと仕事場ではあたしはプロ。
目の前の自分に言い聞かせてロッカーを閉めると、あたしは笑顔を張り付けたままロッカールームを後にする。
「いらっしゃいませー」
オープンするなりぞくぞくと入ってくるお客さんにいつも通りのご機嫌なあたしを演出。
「禅ちゃーん、また来ちゃった」
いつでも来ていいのよ。
「昨日は禅さんいなくて寂しかった」
あら、可愛いこと言うじゃない。
「最近シフトの数減らしてる? 禅ちゃんになかなか会えなくてさびしー」
ごめんなさいね。いろいろ忙しくて。あたしもさびしいわ。
次々に現れる常連のお客さんに愛想を振りまいていると、いったい自分がどこで働いているのかわからなくなる時がある。
昔からバイトは接客系ばかりをやってきたけど、同じバイトを長く続けているとあたし目当ての女性客がそれなりに増えてしまう。
あたしみたいなオネエキャラって女性に一定の需要があるのね。短い接客時間の中で恋愛相談や人生相談をされることもざら。
適度に男らしい外見で適度に男を感じさせないのが相手を安心させるみたい。常連さんだから無下にもできず、それなりに聞いてそれなりにアドバイスをしているとたまに惚れられてしまったり。
常連さんではないけれど由利ちゃんも完全にそのパターンね。やっぱりこれってあたしが思わせぶりなのかしら?
お客さんが途切れた時間帯にフロアの掃除をしながらふと考える。
『禅ちゃんってあれよね。厳しいこと言うときもあるけど基本的にフェミニスト!』
以前、真奈に言われた言葉を思い出す。
別にそんなの意識したこともなかったけれど、言われてみればそうなのかしら。
女の子には優しくしなさいって言われて育ってきたんだもの。それが染みついていて今さら女性への態度を変えられない。
箒の柄に顎を乗せ、綺麗に掃き清められたフロアを見回す。
「お先に休憩失礼しました。禅さんもどうぞ」
もう一人のフロアスタッフの菅谷ちゃんが裏から出てきたのに手を振って、休憩前にやるべきことはないかと確認。
今日は店長も休み。平和だわ。
掃除道具を持って裏へ下がろうとしたところで菅谷ちゃんが背後で「あれ?」と声を出した。
「あそこにいるの、由利さんじゃないですか?」
その言葉にぎくりと身を強張らせ、あたしはゆっくりと菅谷ちゃんが指さす方向を振り返る。
ガラス窓の向こう。カフェから通りを挟んで建つブティックの前で微笑む由利ちゃんにつられたように、あたしは苦く口の端を上げた。
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