舞姫はうつくしい脚で
二枚貝
舞姫は美しいまま
春告げる風が国中に吹き荒れたあとの、奇妙にあたたかい夜であった。
ほのじろく輝く月明かりのした、踊るような足運びで、ひとつの影が歩んでいた。女だ。寝衣のような白いころもの裾から、しなやかな二本の脚をのぞかせて、長い闇色のつややかな髪を背に波打たせ、その足取りは歌うよりも雄弁に。ちいさくひそめた声で歌さえくちずさんで、見るからに楽しそうな、秘密の夜の散歩といった風情だった。
そんな彼女の背後から、無粋な誰何の声がかかる。
「お前、何者だ。ここは王家の方々しか入れぬ奥庭だぞ」
「…………いやぁねえ、あたしのことを知らないの?」
振り向いた女は、少女めいた顔立ちのなかに隠しようもない婀娜っぽさをひらめかせて、笑う。波打つ髪をかき上げて、白い二の腕を惜しげもなく月光のしたにさらしながら。
「あたしは舞姫、カトリェンカ。今は王妃様に招かれて王宮に滞在中。どう、納得したかしら、兵隊さん?」
「こんな時間になぜ出歩く」
「あら、だって、あたしは舞姫だもの。お日様のしたは歩けないわ、しみができるから」
「なら日傘をさせばいい。――王宮の女官たちから苦情が来ている。幽霊が出るだの、いないはずの人間がうろついているだの」
「そりゃあ幽霊くらい出るでしょう。ここは王宮よ、無念のうちに死んだ人間の宝庫だもの。――って、ちょっと待って。まさかあたしのことを、幽霊だと間違えたの?!」
兵士は何も言わなかったが、その沈黙ほど雄弁な「是」はなかった。
「こんな服を着ているからね。それにしても単純、女官たちって昔からそう。すこしくらい自分の頭ってものを持てばいいのに」
女は白いころもの裾を摘み、そのままくるりと回ってみせた。体の軸がまったくぶれない、見事な姿勢の良さだった。
「ご覧なさい、この脚線美。こんなに美しい脚を持つ幽霊が、どこにいて?」
わざとらしく高貴な女性を真似した口調で女は言った。だがその姿勢の良さ、堂々とした様子はある種の優雅さと権威にも似た力強さを感じさせた。ただ立っているだけなのに、どうしてか視線が吸い寄せられてしまうほど、女には存在感があった。
兵士の男は感嘆のため息を漏らす。彼も王宮勤めは長かったから、当然、伝説とうたわれた舞姫カトリェンカの名は知っていた。だが、深夜に城の奥庭をうろつくという不審者の存在がカトリェンカであるとは信じられずにいたのだ――こうして、実物を目にするまでは。
「――大変失礼いたしました、カトリェンカ殿」
「わかれば結構よ」
顎を引くようにかすかにうなずいた舞姫に、兵士はうやうやしく告げた。
「どうか、お気をつけて。夜の散策、どうぞお楽しみください」
「ありがと」
舞姫はひらめくような笑みを見せ、去っていった。
見回りを終えて詰め所に戻った兵士を、まだ若い、青年と呼んでもいいような男が出迎えた。彼を見つけた兵士は、中尉、と驚いたように洩らして、慌てて上官に対する礼を取る。
「どうだい、会ったんだろ、舞姫カトリェンカに」
いたずらっぽい笑みをたたえて、中尉は自らの部下にたずねた。
「どうだった。噂の“幽霊”は」
「は。なんとも……印象的な、女性で」
「だろうねえ、まさかこんなところでお目にかかろうとは誰も思わない。3代前の国王の、寵姫と」
「あれは……あの方は、幽霊なのですか」
「いや。生きている。本物だよ」
「ですが……だとしたら。舞姫カトリェンカは3代前の国王陛下に気に入られ、城へ上がったと聞いています。今から四十年も昔の話です」
「だから、女官たちが幽霊と間違えたんだ。無理もない、五十歳をとうに過ぎた女性が、あんな姿を保てるなんて誰も思わないさ」
「自分も、まだ信じられません。幽霊と言われた方が、まだ信じられます。あれは、一体……」
「狂ったせいだ、と女官長は言っていた。奥に連れてこられてから、みるみる精神の均衡を失ったと。――王の手がついた女は死ぬまで王宮を出られないことに絶望したという説と、脚の痛みを抑えるためにつかった異国渡りの薬に溺れるようになったという説があるらしい」
そうなのですか、と兵士はつぶやく。彼が見たカトリェンカは、悲しみや失望、諦め、そういった湿っぽい感情とはおおよそ無縁そうに見えたのだが。
そんな彼の考えを察したか、中尉は気配だけで薄く笑ってみせた。
「カトリェンカは自分の一番美しい時に時間を止めた。女官長はそうも言っていたよ。憎らしいほど羨ましいとも、ね――」
舞姫はうつくしい脚で 二枚貝 @ShijimiH
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