狼男と満月の夜

棚霧書生

狼男と満月の夜

 成人女性が山の中で野犬に襲われて死んでしまった。この日本で今日そんなことが起こるのかとニュース番組は連日この事件を取りあげている。そして、彼女の恋人だった僕のもとにも取材と称して面の皮の厚い記者たちが殺到していた。僕がそこそこ名の売れたミュージシャンだったことと、僕の一番のヒット曲のコーラスに彼女の声を使っていたことも手伝って、彼女の身に起きた不幸は、ただの不運な事故から、悲劇的で刺激のあるエンタメ物語として世間に広められてしまった。

 僕は現在、世間から疑われている。本当は彼女を殺したのは野犬などではなくお前なのではないかと。事件性がないから警察は僕を捕まえていないのに、無責任で疑り深い人々は調査の不備や不正があるんじゃないかと軽々しく口にしている。身を隠すために取ったビジネスホテルの部屋は簡素な机とベッド以外に余計なものが置いていなくて、スマホの電源も切っている今、思考が深く沈んでいくのは当然だった。

 僕はあの日、彼女に請われて夜中にもかかわらず近くの山まで車を出した。山というよりは丘という方がぴったりくるそこは休日の昼間ならば親子連れがピクニックにくるような場所だった。だから、あんな恐ろしいことが起こるなんて夢にも思っていなかったのだ。

「今夜は満月。それに加えて、いつもより近い距離に月がくるからとても大きく見える特別な日なんですって。ねえ、満月の日の深夜のお散歩ってとても素敵じゃないかしら」

 そう言って彼女は僕を誘った。僕は月にはあまり興味がなかった。それどころか妖しい光を携えて真っ暗な夜空に女王のように君臨する姿はちょっと怖いなとさえ感じていた。でも、まさか月が怖いなんて恋人に言えはしない。僕は彼女の頼みを断るいい言い訳も思いつかず、結局山まで月見をしに行ったのだ。

「この間、Kの昇天を読んだの」

 車の中で彼女が突然つぶやいた。一瞬なんの話だろうかと思ったが、月が印象的な梶井基次郎の小説のことだと気づく。

「なら、海に行こうか?」

 あの小説に出てくるKは月の出る夜中に海辺を歩いていた。僕は気を利かせたつもりで彼女に問いかける。

「月に連れて行ってほしいわけじゃないからいい」

 彼女の返事はそっけなかった。あの小説の最後を彼女はあんまりよく思っていないのかなと思った。

「私はね、最後は食べられたいの」

 最後とは人生が終わるときのことだろう。日本で生まれ育ったのに最後は食べられたいとは彼女はちょっと変わっている。

「……ちなみに誰に?」

 彼女は僕を見て、ふふふと笑うだけだった。窓から射し込んだ月の光が彼女の頬を青白く照らしていた。僕の頭には、その夜、車内でかわした会話と彼女がそのとき着ていた白いワンピースがやけにまぶしく焼きついている。

 山に着いてからは、彼女と一緒にしばらく月を見ていた。僕は段々と月に気圧されるような感じがしてきて、自分の不安をごまかすために彼女の手を握った。手をつないだ理由がちっともロマンチックなものじゃないことを申し訳なく思ったけれど、彼女が嬉しそうに微笑んだので僕の罪悪感は薄れた。恋人との特別な時間に心臓が高鳴っていた。

 そこから後のことは僕にもわからない。気がついたら、山の中で血まみれの彼女を抱えていた。混乱しながらも救急車を呼んで彼女を助けようとした。彼女の体は噛み傷だらけだった。皮膚が裂けてあちこちから血を流し、白いワンピースは紅く染まっていた。そして、あとから警察に聞いた話だと彼女を抱えていた僕も彼女の血で血まみれの姿になっていたらしい。

 僕は彼女の死の瞬間を見ていない。記憶がないのだ。あんなにそばにいて手までつないでいたのに、彼女の身に本当のところ何が起こったのかわからないままでいる。検死の結果は大型の犬か何かに噛みつかれたことによる出血死だ。僕が気を失っている間に野犬がやってきて彼女を噛み殺したのか、それとも僕の脳みそが野犬に襲われたことをストレスとして処理し記憶から消してしまったのか。どちらにせよ、彼女の命を奪ったのは明らかに人間ではないとのことだ。だから、僕は犯人ではない。警察もそれを認めているから、僕は今だって自由の身なのだ。僕が彼女を殺すわけがない。彼女が亡くなって世界で一番悲しんでいるのは僕だ。彼女を噛み殺したのは僕じゃない、絶対に僕じゃないんだ。

 彼女を噛み殺した野犬はいまだ見つかっていない。

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狼男と満月の夜 棚霧書生 @katagiri_8

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