咲くや白猫 月夜にアイス
伊崎 夕風
咲くや白猫 月夜にアイス
窓の外に灯りがついた事に気がついて瞼を上げた。浅い所を行ったり来たりして眠れずにいた航也は、ベッドの上で寝返りを打った。
枕元に置いたスマホが震え、眩しさに渋い顔をしながら画面を開き、思わず苦笑いした。起き上がってベッド脇のカーテンを開けると、隣の家の窓が開いていて、梓がこっちに向かって両手を合わせている。ため息をついてお互いの家の前の道を指さすと、梓はパッと顔を輝かせて頷いた。
「こんな夜中にアイス食うとか……」
航也が言うと、前を嬉しそうに歩く女子高生、梓がくるっと体の向きを変えてふふっと笑う。
どうしてもアイスを食べたくなってしまったが、夜中だからコンビニまで着いてきて欲しいと、梓はメールしてきたのだ。ダメ元だった願いを航也に聞き入れて貰えたことが、彼女は嬉しくて仕方ないように見える。
「女子高生と深夜に散歩できるなんて役得でしょ?」
「もう卒業しただろ?」
「月末までは在籍してます〜。それとも女子大生の方がいい?」
「はいはい、どっちでもいいよ、光栄です」
「よろしい」
先日高校を卒業した後、バッサリと顎のラインで切ったばかりの梓の髪を月明かりがほんのりと艶めかせた。
「いつ?引越し」
「明後日」
「もう荷物纏めたの?」
「まあね」
梓は、航也の住み込みで働く工務店の隣の家の娘だ。彼女の母親が、女手のない工務店の賄いと事務を請け負ってるおかげで、梓も飯の支度だなんだと母親を手伝いにきていたので、航也があの店に雇われた時からの付き合いだ。春から大学生。進学先は隣の県の大学なので下宿するために引越しする事になっている。
「もう4年か」
「うん?ああ、航ちゃんがここに来てからよね?私が中2だったから」
梓は道の脇の縁石にひょいと乗って、少し腕を広げ気味にその上を歩く。暗いから危ない、と航也が言ってすぐに足を踏み外した彼女を、反射的に支えた。梓が小さく息を飲んだ気配を感じて掴んだ二の腕離す。
「ほら、危ないだろ?暗くて見えにくいんだから、平らなとこ歩け」
努めていつものように言うと、
「ごめんなさーい」
同じく返した梓の声に、やはり少し緊張を感じた。10近く歳下の梓から伝わってくる好意に気がついて、受け流してきてもう何年になるだろう。
だからと言う訳では無いが、ここから去って行く前にちょっとぐらいわがまま聞いてやろうかな、という気になったのだ。夜中の散歩くらいなら、と。それ以上の気持ちは無い。妹のように思ってきた子だ。もし想いを告げられても、応えるつもりは無い。自分には応えられない。
それにどうせ目の前から去っていくのだ。新しい環境で航也からも離れて親しくなった同じ大学生の男と恋をして、きっと自分は思い出に変わっていくだろう、そう航也は思う。
その一方で、前に進めていないと内心自嘲する。ふわりと白い頬の面影が脳裏をよぎる。いい加減、忘れないといけないとは思うのだけど。
「うわ、マジで?」
目の前で梓が足を止めた。街中の角を曲がってすぐだった。いつもなら角を曲がれば煌々とコンビニの電飾で明るいはずの通りだが、今夜は辺りは電柱の街頭の光のみで、ひっそりとしていた。
コンビニの前には改装中と看板が立てかけてあった。
「改装中なら仕方ねーな。自販機でジュース買ってやるから、アイスは諦めろ」
「ヤダ、絶対アイス食べるの」
梓はムッとした顔で道の先を指さした。もう1つ遠いコンビニへ行くという意味だ。その目に、真剣さを見つけてしまい、航也は反論できなくなった。それはある種の抗えない意志の強さだ。乗りかかった船だ。仕方ないから付き合ってやろうか。多分、最後なんだから。
「目当てのがなくても、そこまでだぞ?」
「わかってる」
同意を得て口元がほころんだ梓と、今度は隣合って歩いた。
背が伸びた。初めて会った時は成長期に入る少し前で、女の子にしては二次性徴が遅かったのか、まだほんの子供のような体格だった。会う度に背が伸びるのが見ていて面白いほどだった。他の職員にも可愛がられてる梓を、航也はまるで妹を見るような目で見てきた。
二人は別のコンビニに着くと、あれこれと菓子とアイスを選んだ梓に、航也はレジでサッとスマホのバーコードを差し出した。旅立ちの餞別のつもりだった。梓は目を丸くしたあと、嬉しそうに半歩下がって店員に空のトートバッグを渡した。
「背、伸びたな」
店を出てしばらく沈黙が続いた後、航也は唐突に言った。隣を歩きながら見上げてくる梓は、髪を切ったせいか余計に背が高く見えた。
「そろそろ止まって欲しいんだけどね」
「何センチあんの?」
「167cm」
「俺と10cmしか変わんないよ。人間ってそんなに伸びるんだな」
ふと、昔こうやって夜道を散歩した事を思い出す。隣を歩いていたのは梓とは違って小柄でとても色白な女だった。
航也にとっては忘れられない恋人だった。
『約束は絶対守るよ』
ふんわりとした白い肌。ぽっちゃりして見えるから嫌だと言っていたが、触れたら溶けそうなその肌は柔らかくて温かくて、初めて触れた時、とても緊張した事をよく覚えている。
彼女はあの時の約束を、言葉と裏腹に果たすことなく逝ってしまった。
ちょうど梓程の年齢の頃、航也は色々あって荒れていた。自暴自棄になって吹っ掛けられた喧嘩をかって、ボロ布みたいに道端に倒れていた。小柄な雪見だいふくのような頬をした女に拾われた。抵抗もせずに家へ連れ帰られた。何もかもどうでも良くなっていたのだ。傷の手当をして、航也が自力で起き上がれるまで食べさせてくれた。高校はとおに辞めた後だったし、母と二人暮らしで、自分のことを母は半分諦められていたため、干渉もされずただ意味もなく街をぶらついて喧嘩をかった。航也は腕っ節が良かったが、その日は相手が五人。瞬く間に袋叩きにされた。
『親が生きてるだけいいよ。ちゃんと真っ当に働いて安心させてあげなよ』
航也を連れ帰ったその女は、
咲良に絆された事もあって、考えを改めた航也は、通信制高校に編入した。手続きや、働き口を探す手伝いをしてくれた咲良に何かお礼ができないかと聞いた時、彼女はこういう言った。
『私早くに親を亡くして親孝行出来なかったんだ。だから航也が航也のお母さんに代わりにやってよ』
『後はねー……』
白い腕を額に当てて、ベッドの上で狭いアパートの天井を見上げて二つのことを約束させられた。もち肌だとは知っていたが、彼女の腕の内側は光ってるのかと思うほど白かった。
『あとさ、お花見行きたいな』
『花見?』
『母親が花見が嫌いでね、行ったことないの』
そんなことならお易い御用だと柔らかな白い身体を抱き寄せた。年上で自分を甘やかしてくれる彼女に、何かをねだられて。庇護欲とはこういうものかと実感した。思えばあの時が1番幸せだったかもしれない。
出張で一週間出掛けるから、その間は家に戻りなさいと言われ、航也は渋った。咲良と離れがたかった。まるで母親から離れたくない小さな子供のようだと自分でも思った。咲良は苦笑いしながら、ちょうどこんな風な春先の夜中に航也を散歩に誘った。
『ねえ、隣町の空き地の裏に大きな桜の木があるの知ってる?』
夜道を歩く咲良は言った。首を横に振ると、出張から帰ったら観にいこうよ、ちょうど咲いてる時期だよ、と珍しくウキウキとした様子で言った。
なんでそんなに楽しそうなの?と聞くと、咲良はなんだか泣きそうな潤んだ目で航也を見上げて言った。
『その桜の木を教えてあげるのはあなたが最初』
『大切にしたいって思った人に教えてあげたかったんだ。とっても綺麗なの。そこで一緒にお花見したくて』
その時、なんだか柄にもなく切なくなって咲良を抱きしめた。
『約束な、帰ったら絶対観に行こ?』
『うん』
『約束破るなよ?』
残業が多くて、何度か約束を破った事のある咲良に、航也は念を押した。
『約束。絶対守るよ』
だが彼女は帰って来なかった。高速バスの事故に巻き込まれて亡くなった事を航也が知ったのは、彼女の遠縁の親戚が部屋を片付けに来ていた時だった。すっかり葉桜の季節になっていた。
(約束、やっぱり破りやがった)
この季節が近づく度、痛みと共に思い出す。
「きゃあ!」
梓の叫び声に、過去に彷徨い出た思考を引っ張り戻された。隣の梓は驚いた拍子に足元にトートバッグを落としている。コンビニで買ったアイスとペットボトル少しのお菓子が路上に散らかった。
その時、航也の視界に飛び込んできたのは真っ白な猫だった。白猫はトートバッグから飛び出した梓の小銭入れを口に咥えると、そこからダッシュした。
「え?うそ!」
梓が荷物を集めたトートバッグを持って、猫を追いかけて走り出した。
「ちょっと!待って!」
航也も虚をつかれて出遅れたが、梓に続く。
猫は、何故か時々振り返りながら、夜道を走っていく。夜中の住宅地を猫を追いかけて走る女子高生と若い男。下手したら梓を追いかける変質者だと思われないかと、思い至ると走りながら少し笑えてきた。
梓が公園と空き地の間の里道を通り抜ける。雲が晴れて月明かりが差した。暗がりに慣れた目に、塗装されていない道が割とよく見えるので、走る速度を落とさずに済んだ。
「うわ!」
梓が足を止めた。急に空き地の裏へ出て視界が晴れた。そこは少し小高い丘の上になっているらしく、ところどころ灯りが点っている夜の住宅地が、眼下に広がっていた。
「見て、航ちゃん」
梓は言った。航也が梓の視線を辿ると、それはあった。
満開の白い桜が咲いていた。
にゃあ、という声に足元を見ると、先程の白猫が足元に小銭入れを置いて、お行儀よく座ってこちらを見上げてくる。ぽっちゃりした丸い顔の白い猫。
「もう、イタズラしちゃダメだよー」
梓は屈んで小銭入れを拾うと、その猫に触れようとした。だが、その手をすいっとかわした白猫は、航也の足元に身体を何度か擦り寄せて、やがて木の方へたたっと走っていく。
「おーい、どこいくの?」
梓は白猫を追いかけた。
その時、風が吹いて、木から少しの花びらが散った。その1枚が航也の足元に落ちる。それを拾いあげると、にゃあ、ともう一度鳴いた白猫を凝視した。
『約束はぜったい守るよ』
白猫がこちらをじっと見つめている。まるで咲良がそこで笑ってるように見えた。
航也がそこから目を逸らせないでいると、白い猫は木の向こうにスイっと姿を消した。ハッとした航也が追いかけようとしたが、足が動かなかった。
「いなくなっちゃった」
木の裏側を見た梓は、残念そうにこちらへ戻ってきた。どうかしてる、と航也は軽く目を閉じため息をつく。
「こんなところがあったんだね、知らなかったなぁ」
気を取り直した梓のつぶやきに、その
花木を見やる。
「桜、もう咲いてたのか」
不思議な出来事に、半信半疑ではあるが、多分、隣町の空き地の裏にある桜の木だから、これが咲良の言ったそれだろう。
「ていうかさ」
梓が隣に立って満開の花を見上げた。
「これ、桜じゃなくない?」
そう言ってスマホで何かを検索した。
「ほら、やっぱり、これ杏だよ。桜に似てるけど花の咲く時期が早いって書いてある」
梓のスマホを覗き込むと、たしかにそんな事が書いてあった。
「勘違いだったか」
くくっと笑いが込み上げてきた。
──約束は一応守ったよ、だから航也も約束守ってね──
破った約束の埋め合わせをする度に彼女はそう言った。
彼女とした約束。親孝行。それともうひとつ。
廃材の土管の上に並んで座り、航也はパックのオレンジジュース、梓は少し熔けたモナカのアイスを食べながら、花見をした。
「お前、下宿どこなの?」
「下宿って?」
「引越し先」
「うん?裏のアパートだよ?」
「は?」
「あれ?言ってなかった?進学は本命の方やめて近くの大学通うって」
「え?なんで引越し?」
「家のリフォームだよ、昨日打ち合わせしてたじゃない!それまで裏のアパートに住むの」
「え?あの図面お前ん家なの?」
面食らった。
「なんで本命辞めたんだよ、家出たがってただろ?」
「……」
梓はじっと航也を見つめて、ふと目を逸らした。
「新しい事務の人、多分……」
事務?2月から工務店に入ってきた事務員の女子社員だ。航也より少し歳上で、小綺麗なので、従業員の野郎共は最近浮き足立ってる。
「うん?」
「……なるから」
「うん?」
「私も、もう数年したら、あの人よりもっといい女になるから、だから航ちゃんの彼女にしてよ」
航也の目が丸くなった。梓は目に涙を浮かべたまま、真っ直ぐな視線を逸らさない。
「梓……」
「返事はすぐにしないで、もうちょっと考えてからにして」
梓は持ち歩いてるゴミ用の袋にアイスのパッケージを入れ、航也が手にしていたジュースのパックを入れろと袋を目の前に突き出す。
「サンキュ」
ゴミを捨てさせてもらって、航也は立ち上がった。梓に向き合って見下ろすと、薄暗がりでも梓の顔が真っ赤なのが分かる。
「ゆっくり考えさせてもらう。だけど考えてるうちに、こんなおっさんやっぱりヤダって言うなよ?」
笑いながら言うと、梓がやっと笑った。
『女の子を笑顔に出来る、いい男になってよ』
咲良との2つ目の約束は、なかなか難しい。だが、自分がそうありたいと、梓の笑顔を見て思った。
「寒っ」
梓が手の甲をさすった。
「春先の夜中にアイスなんか寒いに決まってるだろ」
忍び笑いしつつ、手を差し出してやると、赤い顔をしておずおずと細い手を滑り込ませてきた。
「おー、冷えてるな〜」
細い手がそっと航也の手を握り返してきた。
春の夜道、女子高生を連れて歩く。
後ろを振り返ると、さっきの白猫が1度こちらを振り返って駆け去って行った。
咲くや白猫 月夜にアイス 伊崎 夕風 @kanoko_yi
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