お嬢と夜鷹蕎麦

カフェ千世子

第1話

 お勢は困っていた。お勢はある商家の一人娘であった。婿を取って夫に家業を継いでもらったのだが、その夫は思いのほか商売が下手だった。

 商いを失敗して家を傾けた夫は気に病んでしまい、そこから体を壊してあっという間に亡くなってしまった。

 お勢に残されたのは、多額の借金と元からあった家。


「夜のお仕事をしなければ返せるものも返せませんなあ」

 借金取りに言われて、お勢は目をぱちぱちと瞬かせた。


 ――私、夜に出歩いたことないわ。


 お勢は何不自由なく育ってきたお嬢様で、箱入り娘であった。


 ――ちょっと、夜の街を歩いてみようかしら。


 夜の世界をまったく知らない彼女はそんなことを思ってしまった。


 なるべく地味な着物を着て、手拭いを頭に巻いて顔を少し隠す。お勢が知らないなりに考えだしたお忍び衣装である。

 その格好で夜も更けた頃、こそりと家を出る。



「おーい。そこの女!」

 こそこそと人目を忍んで歩いているつもりが、さっそく誰かに呼び止められる。

 ――こんなふうに知らない人が声をかけてくるものなのね。

 お勢はドキドキしながら、振り返る。

「私ですか」

「うおっ! かわいいじゃねえか。そうだよ。夜鷹だろ? 相手を……」

「ちょっと、ショバを荒らしてんじゃないよ」

 割って入ってきたのは、女の声だ。声の主を見れば、黒っぽい着物に手拭いを頭に巻いた艶めいた女だ。年の頃はよくわからない。そんなに若いわけではないだろうが、年を食っているようにも見えない。


「堅いこと言うなよ。別にいいだろ。今回だけでも見逃してくれよ」

「その一回を許せば、ずるずるとキリがないんだよ」

「チッ。興ざめだ」

「ほら、あんた。こっち来な」

 お勢は女に引っ張られて歩かされた。



「ほら、お食べ」

「え。はあ。いいんですか」

 連れてこられたのは蕎麦の屋台だった。目の前に出された温かい蕎麦をお勢はぽかんと見つめる。

「伸びるよ」

「はい。いただきます」

 こんな遅い時間に食事をするのは初めてだと思いながら、お勢は蕎麦をすすった。

「わあ。美味しいです」

「良かったね」

 お勢の感想に女は呆れたように答える。店主は薄っすら笑っている。


「あんた随分と身なりがよさそうだけど、どこぞのいいとこのお嬢さんじゃないのかい。家が没落したのかい」

「ええと、没落したと言えば、そうなりますかね。今日は借金取りの人が家に来たんですけど、夜の仕事でもしないと返せるものも返せないと言われたんですね。それで、私は夜の街を歩いたこともなかったもんですから、今夜外に出てみたのです」

「……呆れた。じゃあ、思い詰めて夜鷹に身をやつしたわけでもなかったわけだ」

「はあ。あの、夜鷹ってなんですか」

 お勢は己の世間知らずを自覚しつつ、分からないことを正直に尋ねた。



 女はふうーと息を吐いてから、口を開いた。

「夜鷹ってのは、遊女の一種。遊女の中でも下の下、一回の相手で稼げるのはこの蕎麦一杯分くらい。食べていこうと思ったら、夜通し仕事をしなきゃいけないのさ」

「まあ……」

 お勢は慌てて懐を探る。

「お蕎麦のお代金を払いますわ」

「ああ。いいからいいから」

 女は首を振って、受け取ってくれなかった。


「あの、どうして声をかけてくださったんですか」

 女は口調こそきついものの、考えてみればお勢を助けてくれたのだ。

「夜鷹はね。最下層の遊女だから、相手も舐め腐ってる。隙あらば代金を踏み倒そうとする男がいるんだ。そういうのを防ぐために、妓夫ぎゅうって言う用心棒を連れているんだ」

 女が指さした先。暗い道端に生える木にもたれて男が立っている。

「あんたにはそういうのがついていなかった。ふらふら女一人で出歩いて、危なっかしいったらない」

「……お気遣いありがとうございます」

 お勢は深々と女に頭を下げた。


「家を手放すのが惜しいかい」

 女に言われて、お勢は少し考える。

「親から貰った家ですけど。全然、そんなことないですねえ」

 お勢はあっけらかんと答える。家業に関しても、手伝おうとしても余計なことをしなくていいと遠ざけられてしまっていた。そのため、立ちいかなくなっても、じゃあしょうがないなと諦める気持ちしか起きないのだ。


「あんた。今までどういう生活をしてたか知らないが、これからは贅沢しないで身の丈に合った生活をしなよ。住むとこも貧乏長屋とかでいいじゃないか。それで、誰か信頼できる人に相談して奉公先でも探してもらいな。それをやった上でどうにもならなくなってから、身を売ることを考えな」

「はい。そうですね」

「何も恥ずかしいことじゃない。今どういうことで困ってるのかを、正直に人に話すんだ。変に驕ったりしなければ、案外助けがあるもんだ」

「はい。ありがとうございます」

 お勢は素直にうなずいた。



 女はお勢を家まで送った。

「随分、親切にしてやったじゃないか」

 後ろから妓夫役の男が声をかける。女はふんと鼻で息を吐く。

「あんな世間知らずがふらふらしてたら、すぐさま身ぐるみはがされて川に捨てられるのがオチだ。これから仕事しようって時にそんな死体を転がされてたら、気分が悪くてしょうがない」

 女の言い分に男はくっくっと笑っている。そんな男を女は小突く。


 女はくのいちである。ある商家の怪しい動きを探るために、その商家の奉公人から探りを入れるべく夜鷹に変装していたのだ。

 その商家から人が出てくるのを待っていた矢先、ふらふらしているお勢を見つけたのだった。


「ほら。仕事に戻るよ」

「はいよ」

 女と男は夜の闇に消えていった。




 お勢は、父が親しくしていた商家を頼ることにした。どこか奉公先を紹介してくれと言えば、ならばうちで働きなさいと言ってもらえた。

 お勢は乳母のばあやに頼んで炊事洗濯掃除を教えてもらった。身の回りのことを自分でできるようにして、働きに出た。

 家は手放した。借金取りは仕事を紹介すると言ってきたが、お勢は笑顔で断った。

 お勢にも借金取りが紹介する仕事が女郎か何かだということは予想がついたのだった。


 その後、お勢はその商家で奉公に勤めた。

 その商家の娘が花嫁修業として大奥に見習い奉公に出ることになった。お勢は、元がいい家の娘だったので、お目付け役に選ばれた。娘とともに大奥に勤めに出ることになった。


 商家の娘が大奥から家に下がる頃、お勢も同じく下がる気でいた。だが、勤めぶりを評価され、請われて大奥に残ることになった。

 そして、お勢は大奥で長く勤めを果たした。

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お嬢と夜鷹蕎麦 カフェ千世子 @chocolantan

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