淡い光の彼

九十九

淡い光の彼

 男が夜の散歩に出たのは唯の気まぐれだった。偶々、夜、目が覚めたから。偶々、満月が出ていたから。偶々、夢で誰かに呼ばれた様な気がしたから。そんな理由で、男は深夜、誰もが寝静まる時間に靴を履いて外に出た。

 行く宛は無かった。気まぐれで始めた散歩は行き先も気まぐれだった。昼とは様子の違う道を宛も無く歩く。暗闇の中、満月が煌々と道を照らし、風が木々を揺らす音が響いていた。

 気まぐれに歩いていたけれど、何時の間にか夢で呼ばれた場所へと足が向かって居たらしい。ふと気がつくと男は、今はもう誰も住んでいない古びた屋敷の前に居た。

 小さな山の奥に存在している日本家屋の屋敷は大きく、そうして寂れている。男の家から、そう時間も労力も掛からぬこの場所は、小さな山の奥とは言えなだらかな道が繋がっていた。

 時折、屋敷には子供の姿がある。何処の家の子なのかも知れないその子供達は、屋敷の庭でよく遊んでいるが、夜になれば誰も居ない。屋敷の中はしん、と静まり返り、昼の景色とは姿を変えている。

 男は玄関前で足を止め、屋敷を見上げた。夢の中では屋敷の中、誰かが男を呼んでいた。幼い子供の頃、数度入ったきりの屋敷の中は記憶では朧げだったのに、夢ではいやにはっきりと景色が映った。

 暫く考えを巡らせた男は、玄関に手を掛けると、横に引く。鍵が開いていた。突っかかる事も無く開いた玄関に男は首を傾げる。

 屋敷の中は満月によって仄かに明るく光を灯していた。そこでふと違和感を感じる。雨戸も開いている。先程、屋敷の前を通った時は閉まっている様な気がしたが、今までが閉まっていたから閉まっているものだと思い込んでいたのだろうか。

 誰が鍵と雨戸を開けたのだろうかと男は扉を見た。壊されているような様子は無い。もしかして新しい住人が屋敷に入ったのだろうか、と考えて、そんな話は聞いていないと首を振る。屋敷に手を入れているのは男の家と他数家だ。人が入ったなら男の耳にも話が届く筈だ。

 何故開いているのか分からないまま、男は屋敷の奥を見た。明かりが灯っている。屋敷の奥、月明かりが届かないそこに柔らかい光が灯っていた。それは例えば金色の火が灯っているような、そんな光が屋敷の奥で灯っている。

 男は靴を脱いで屋敷へと上がった。床がきしきし鳴るのを聞きながら、光の灯る方へと足を進める。

 屋敷の奥、奥まった部屋から光が漏れていた。僅かに開いた扉の隙間からきらきらと光の粒が溢れている。夜に慣れた目が光を受けて眩む。

 漏れ出る光をぼんやりと眺めていた男は、ふと呼ばれた様な気がして、部屋を見た。夢の中の声と同じ声に、こちらにおいでと呼ばれた様な気がした。

 男はそっと襖へと手を掛ける。息を潜めれば襖を隔てた向こう側、部屋の中に何かの気配を感じた。


 襖を横に引けば、するすると襖は開いた。眩いばかりの黄金の光が目を刺す。明かりにようやく慣れて来た目が眩み、視界が一瞬白く爆ぜた。

 白い視界を混ぜるように何度か瞬きを繰り返していれば、灯りの中でも目が動くようになってくる。

 光の中には、淡い光の何かが居た。何かは滑るように男の前まで歩み寄る。

「よく来たね」

 声、と呼ぶには人間のそれよりも響いていた。鐘が鳴るように幾重にも響く声が淡い光の何かから落ちる。

 男の身体よりも大きな何かを男は見上げた。夢の中では姿が見えなかったそれは、白い布を頭から被った人型の光の形をしている。

「待っていたよ」

 何故、と男が問うと、何かは、君が持っているからだ、と答える。

「君に預けてそのままだ」

 淡く光る何かは男に手を差し伸べると頬に触れ、男の瞳の中を覗き込んだ。男の目がちかちかと眩む。

「ああ、入っている」

 目の縁を優しく撫ぜながら何かは言った。何が入っているのか、男は何かを見つめる。

「おや、覚えていない?」

 不思議そうに首を傾げる何かに、男もまた首を傾げる。覚えていない、とはどういう事だろうか、と記憶の中を探ってみても思い当たる節はない。

「君がまだ幼体の頃に私は、私の大事なものを君に預けたんだが」

 何かは考えるそぶりをしてから、何かを思いついたように人差し指を挙げた。

「ああ、そう言えば少し記憶を弄ったのだったっけ」

 何かの挙がっていた人差し指がそのまま男の額を突く。男の意識が歪み一瞬遠のくと、次には古い記憶が溢れ出した。

 昔の話だ。そう幼い子供の頃、まだこの屋敷に遊びに来ていた頃の話。この部屋で男は確かに会ったのだ。人では無い彼に。

 淡く光る彼は、男が屋敷に訪れる度に遊んでくれた。男は彼が人では無いことにあまり頓着をしていなかった。遊んでくれるかどうか、幼かった男にとってそれが全てだった。男と彼は仲良くなり、来る日も来る日も雨戸の閉まった屋敷の中で遊んだ。

 それから最後に屋敷に訪れた日に、男は何かを彼から預かった。目の中に入った光が何だったのかは男には分からなかったけれど、その時まで預かって欲しいと言われて確かに男は受け取ったのだ。

「思い出したかい?」

 うん、と男が頷くと、淡い光の彼が笑った気配がした。

「君が成体に隠し事を見抜かれると言っていたから記憶を弄ってしまったんだが、それなら今日はよく来てくれたね。私が呼んでも分からなかっただろう?」

 確かに今日の散歩は気まぐれだった。夢で呼ばれていても、最初から分かっていてここに来ていたわけでは無い。それでも何と無く、男はここに来ていたような気がする。

「それで、取っても良いかな?」

 男は頷いて、彼へと身体を差し出す。彼は再び男に手を差し伸べると、目の縁に手を添えた。

 彼の指が近づくと、男の目の中で光がちかちかと拡散する。目が眩み、視界が真っ白になると、中から光が出ていく感覚がする。それらが全て外に出ると、男の視界はゆっくりと元に戻っていく。

「うん、無事に取れたよ。有り難う」

 光の粒を彼が握ると、それは彼の体の中に入っていった。

「さて、どうだろう、昔みたいに遊ぶかい?」

 顔があったら茶目っ気たっぷりに笑っているような口ぶりでそう言う彼に、男は数度目を瞬かせた後、大きく頷いた。


 気が付けば遠くの空が白み始めていた。もう直ぐ朝がやって来る。男と彼は遊ぶのを止めて互いを見た。もう深夜の散歩から随分と時間が過ぎていた。

 彼が空中で手を翳すと、開いていた雨戸が閉められていく。もう楽しかった時間はお終いなのだと、男は寂しい気持ちで雨戸が閉められていく様を眺めた。こんなに子供のように遊んだのは久しぶりで、つい時間を忘れて遊び続けてしまった。

「さて、そろそろ帰ろうか。君も眠いだろう?」

 言われて後から眠気が襲ってくる。こんな夜更かしをしたのは初めてだった。

「何かな?」

 物言いたげな目で彼を見上げる男に、彼は首を傾げる。男は一度口を開いて閉じてから、もう会えないのか、と彼へと尋ねた。もしもこの先会えないというのなら、折角会えた昔の友人と今このまま別れてしまうのは惜しい気がした。

「ふむ、そうだね。それじゃあ時折ここを訪れよう。私もやる事が丁度終わった所で暇してたんだ。この屋敷がある間ではあるが、それでどうだろう?」

 彼はそう言うと小指を差し出した。幼い頃に男が彼に教えた約束の仕草だ。

 男は彼の小指にそっと指を絡め、幼い時にそうしたように、小指を揺らす。そう言えば最後にここに訪れた時、暫くお別れだと言われて泣きじゃくる男に、彼は小指を絡めて約束をしてくれたのだっけ、と思い出す。 

 男と彼は昔の様に互いに笑い合うと、指切った。

 

 男は時折深夜の散歩に出かける。夢に呼ばれて男は屋敷へと足を向ける。寂れた屋敷の中で待っている古い友との約束はずっと続いている。

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