迷宮散歩

永庵呂季

迷宮散歩

 頬に触れていく夜風が気持ちいい。


 夜空に浮かぶ大小様々な三つの月も、魔法石を動力として静かに進んでいく空飛ぶ巨大な船も、すっかり見慣れた光景になった。


 広大な海に面した斜面を削るようにして造られている城塞都市。

 この世界に転生してきて、はじめて訪れる、文明を感じさせる大きな都市だった。


 宿屋の女将さんに聞いたところによれば、度重なる魔物たちとの小競り合いで、都市はいびつに増改築を繰り返し、土地の傾斜と相まって複雑な迷路と化してしまったそうだ。


 おかげで道に迷ってしまった……。


 昼間であれば通りすがりの住民に道を尋ねることもできたのだが、時刻は真夜中を過ぎている。薄暗い路地を通りかかる者は誰もいなかった。


 ……さすがにシンジュクやシブヤのようにはいかないわね。


 遅い夕食を食べ、散歩がてらに街を散歩しようと思ったのが間違いだった。

 夜なお賑わいをみせる繁華街から少し離れて歩いた途端、もう元の道へ戻る道筋が分からなくなってしまった。


 おかしい。繁華街からちょっと外れただけなのに……こんなに道に迷うことになるなんて……。


 日が暮れてから街に着き、門の周囲にたむろしていていた宿屋の客引きから紹介を受け、そのままチェックインしたまではよかったが、あまりの空腹から宿屋の看板を見る暇さえも惜しんで食堂ビストロへ駆け込んでしまったのがよくない。


 この世界のお店は、どんな職種であれ閉店時間に決まりなどない。食材が無くなった、客足が途絶えた、あるいは単に疲れた……そんな理由でいきなり店が閉まる。


 なので日暮れ後の食事はなによりも優先すべき事項となる。コンビニもスーパーもないのだ。一旦店が閉まったら、朝まで井戸水しか口にできない。


 ……なんて宿屋だっけなあ……。なんとかの、かんとか……だったよなあ。


 この世界の宿屋は無駄に詩的な名前を付ける。『海原のうみねこ』とか『夜明けの大山脈』だとか、いちいち格好いい感じの名前を付ける。『スーパー・イン』とか『ルート・ホテル』とか、覚えやすい名前の宿がない。


 繁華街へ戻る方向のはずが、どんどん喧騒が遠ざかっていく。宿屋はおろか、もう二度と、美味しいパエリアを出してくれたさっきの食堂ビストロにさえ辿り着けない気がした。


 小さな用水路に架かる橋を渡り、角がすり減って丸い石のようになった石畳の通路を進み、魔法の力で灯っている弱々しい街灯を頼りに、迷宮のような都市の中をひたすら歩いた。


 迷宮のように複雑なこの町は、まるで生き物のように息づいていた。脈打ち、うねり、刻々と姿を変える不定形な町。そんな錯覚に陥るほどに、路地は入り組んでいた。


 上り坂を、息を荒げながら上がっていく。こんな坂あったかしら? などと思ったが、まったく覚えていないのだからしょうがない。


 坂を登りきると、ちょっとした広場のような空間になっていた。斜面に突き出した格好で、昼間であれば露天商が品物を広げ、近所のジジババたちがベンチでお喋りに興じるような、そんな平和的な広場だ。


 真夜中の広場には、誰もいない。愛を囁きあう恋人も、禁断の恋に身を焦がす愛人も、失恋のショックで酔いつぶれている貴族も、誰もいなかった。


 私は黒光りする鉄柵にもたれ掛かって、眼下に広がる街並みを眺める。夜空で青白く輝く月や星とは違い、微かに灯るオレンジ色の光の数々。見ているだけで、人の生活を支えているそれらの灯火ともしびは、心を落ち着かせる暖かさを感じさせた。


 この世界に転生して、どれくらいが経っただろう。

 最初の半年は、なんとなく数えていた日数も、今ではすっかりどうでもよくなって辞めてしまった。


 驚くほどホームシックにならないわね、と思った。


 そりゃ、親とか、数は少ないが確かに気の合う友達とか、告るというよりは眺めるだけで満足だった好きな人とか、もう少しハードな妄想の対象としていた推しメンとか、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない人たちはいっぱいいるし、それはそれで残念だとは思うけど……。


 戻りたいか? と聞かれれば、はっきりと「いいえ」と言える自分がいる。


 空腹が続いたり、一週間以上お風呂に入れなかったり、心細い夜もたくさんあった。

 だが、なにより自由を感じられる今の生活が、自分の性に合っているんだ。


 とある町の長老から借りパクしたままの魔法の剣と、覚えたてのささやかな魔術。

 それを頼りに、なんとか生きている。何度か死にかけ、その度に文句を言ったりもするが、それでも元の世界で退屈しているよりはずっといい。


 ……ここが本当に自分の居場所なの? と教室の窓から過ぎゆく雲を眺め、鬱屈した日常を垂れ流しにしていたあの頃に比べれば、百倍マシだわ。


 それが、嘘偽りない、今の自分の気持ちだった。


「居場所としては、上出来よ」と私は眼下の街並みを眺めながら言った。


「本当にそうですか?」


 背後で男の声。

 どきりと心臓が跳ね上がる。


 慌てて後ろを振り向く。抜きこそしないが、いつでも抜刀できるよう、剣の柄を握りしめる。

 背後には、シブヤの路地にでもいそうな占い師が座っていた。簡易的な台に水晶玉を置いた、いかにもな占い師だ。

 目深にかぶったフードのせいで、顔はまったく見えない。


「……うそ……確かに誰もいなかったし、人の気配もなかった。ましてや、そんな椅子とテーブルはなかったはず」


「いいえ。ずっと居ましたよ」と占い師風の男は言った。「貴方の意識が知覚しなかった、というだけで私の存在を疑わないでください」


 ……本当だろうか?


 これまでに何度か死線を潜り抜けてきた。

 こう見えて自称……いや他薦もされた『英雄』候補。それなりに生き物の気配には敏感である。


「真夜中、世界が暗く神秘的になる刻限」と占い師は水晶玉に手をかざして言った。「迷宮は人間存在の複雑さを象徴する場所となります。それが都市であったとしても、迷宮としての条件を揃えてしまった以上は同じこと。自分自身の居場所を特定することが難しいように、私たちは迷子になって迷い込んでしまう場所となりうるのです」


?」と私は首を傾げる。「アナタも迷子ってわけ?」


「そうですね。居場所を見つける……という意味合いにおいて、私もまた迷宮に迷い込んだひとりの旅人でしょう」


「なんだかキザな言い方ね」


「貴方は知っているはずですよ。この世界へ来る前に、貴方はその迷宮へいざなわれ、そして抜け出すことに成功している」


「それって――」

 脳裏をよぎる記憶。もう、はるか昔の出来事のように感じられる不思議な体験。

 自分がこの世界へ転生する前に迷い込んだ場所。ぬいぐるみのネロが喋る、過去と未来が交差する世界。


「そうです。『意識の迷宮』ですよ、上城かみしろユカ」

 占い師は面白そうに声の調子を上げて言った。


「……意味がわからない」

 私は占い師がおかしな挙動をしないか警戒しつつ、周囲を確認する。

? アナタは何者? 私に何の用?」


「質問が多いですね」と占い師が言う。「貴方の悪い癖ですよ。恐怖を感じると片っ端から疑問を相手にぶつける」


「恐怖? 私が怖がっているとでも?」


「少なくとも、混乱はしている」

 占い師が水晶玉を撫でる。そこに青白い光が灯る。


 ……悔しいけど、正解。


「質問にお答えしましょう」と占い師は水晶玉の光を両手で包み込むようにしながら言った。「まず、は世界と意識の狭間です。そして私は『意識の世界』の住人。貴方に私の居場所について教えてもらいたくて、こうして待ち伏せしていました」


「やっぱり意味がわからない」と私は柄を握る手に力を込める。「ここは街の中。私は意識だけの存在ではないし、貴方の居場所なんて知らない」


「居場所の感覚を理解するのは難しい問題です」

 占い師は両手を広げる。

「たとえばこの広場。昼間は様々な人間が、様々な理由をもって集う場所となります」


 私は占い師の言葉の続きを無言で待つ。


「なぜ、彼らはこの場所に集うのか? ここが居場所だと確信している条件とはなにか?」


「日当たり良くて、風通しもいいからじゃない?」と私は不敵に笑う。


「それもまた真理でしょう」と占い師は動じる様子もなく続ける。「ではなぜ日当たりが良くて、風通しがよい場所に集まるのでしょう。その条件がなければ人はここに居場所を造らないのでしょうか?」


「そりゃ、だって……気持ちがいいじゃない」


「それは経験から得られた感覚ですか? それとも集合的無意識とでも呼ぶべき人の想念が、この広場に集まっている、ということですか?」


 ……なにコイツ、まじで面倒くさい。


 私は柄を握りしめていた手の緊張を解く。この手の輩は、とりあえず自分の議論がはっきりしないうちは行動してこない。そんな気がする。


 ……もし敵なら、こんな面倒くさい議論をふっかけてまで振り向かせずに、後ろから刺せばよかったんだし、とりあえずは敵じゃなさそうね。


「教えてください、英雄ユカよ。居場所とは、無意識の中に見出すものですか? それともおのが考えることによって得られる知見なのでしょうか?」


 占い師は両手の指を絡ませて、テーブルに肘を付く。


「その質問に答える必要があるのかしら?」


「そうですね」と占い師はつぶやく。「もし貴方が再び、この城塞都市の宿屋へ戻ってぐっすり眠りたいと望んでいるのならば、お答えいただきたい。でなければ私が同期させた『都市迷宮』と『意識の迷宮』は貴方を飲み込んで、こちら側に引き寄せてしまうでしょう」


 ……なるほど。道理でいくら歩いても元の道に戻れなかったわけだ。


 私は肩をすくめる。この世界は危険がいっぱい。それが堅固な城塞の内側であっても。


「さあユカ! 私に居場所を! 貴方は本当に居場所を見つけたのですか?」


「そんなの迷宮と同じじゃない」と私は言った。


「ほう……興味深い」と占い師が身を乗り出す。


「私は今ここにいる。ここを居場所だと思っている。でもそれは、私がそう考えているからであって、アナタが思っているわけではない」


「それで?」


「つまり居場所なんてものは最初から誰にもない」


 占い師はうつむいた――ように見えた。フードの中の表情までは見えなかったが。


「それは人が、それぞれに思っていることであって居場所としての居場所なんてものはないんじゃないかしら。それは言葉遊びにしかなっていない気がするわ。『意識の迷宮』で、私はぬいぐるみに教わったことがある。意識っていうのは可能性の世界だってことを。……アナタ、自分の可能性を信じたことはあるの?」


「可能性……ですか」


「そう。居場所を見つけるんじゃない。居場所だと感じられる世界を、アナタの理想の世界を、ちゃんと、本気で、思い描くという努力はしたのかって訊いてるのよ」


「なるほど……」と占い師は急に考え込むようにして呟きはじめる。「……世界とは、真の迷宮とは、私たちの外ではなく、内側にあるということなのですね。つまり合理的かつ論理的なアプローチと、より直感的で内省的なアプローチ……その両方の視点を考慮することによって、私たちは人間存在の複雑な本質や私たちが居場所を見つけるための探求について、より繊細で包括的な理解を得ることができる……と、そういうことなのですね」


「……え? あ、うん。そうそう、それだようん。きっとそう」


 ……まじ面倒くさい奴だ、と思った。後半は聞き流していたので何を言ってるのかよくわからなかったが、そもそも理解しようとも思わなかった。


 夜風が頬に当たる。気持ちの良い風だ。


 その風の心地よさで、占い師の結界のような呪縛が消え失せたことを確信した。


「ありがとうございます。上城ユカ」


「気が済んだ?」と私は凝り固まった肩をほぐすようにストレッチする。「小難しいこと考えるより、少しは行動してみなよ。その方が早いって。コンビニでバイトするときだって、いちいち考え込んでると店長に怒られるし」


「まさにそうですね。コンビニというのが何なのか存じ上げませんが、もう少し、自分の中の可能性を模索すべきなのでしょう」


「占い師って、自分を占うことをしないよね。なんでなの?」


「たぶん……怖いからでしょう」


 占い師はそう言うと、ある一点を指し示すように人差し指を突き出した。


「貴方の宿屋はこの階段を降りていった突き当りを右に曲がったところにあります」


「これでやっと寝れるってわけね」と私は吐息混じりに言う。「真夜中の散歩はほどほどにするわ」


「さようならユカ。貴方の旅に幸あらんことを」


「さようなら、変な占い師さん。アナタに素敵な居場所が見つかりますように」


 私は階段の手摺を掴む。

 振り向くと、占い師の姿は消え失せていた。


 三つの月が山陰に入ろうとしている。

 水平線の彼方。いつのまにか真夜中の刻限は過ぎ去り、静かな夜の間に秘められた、世界の美しさが少しずつ現れてくる。海は闇色から群青へと変わり、空は濃紺から薄紅色へと移り変わる。

 夜が明けるにつれ、儚く幻想的な美しさが増していく世界。


 この美しい世界こそ、まさしく私の居場所だ。


 私は眠気を忘れて、時が止まったかのように、ただただこの神秘的な夜明けの光景に魅了されていた。

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