この飛空艇の命あるもの

管野月子

最後の満月

 するり、と闇が、空飛ぶ船の通路に忍び込んで来た。


 音もなく気配もなく。ただの時間にはない、わずかな水気を含んだ硬質な匂いは滑るように、冷たいセラミックスの通路を満たしていく。

 雲の欠片でも取り込んでしまっただろうか。

 雨の気配をも感じさせる。

 俺の、明るいオレンジ色に染まったトラ縞の背や長く伸びたヒゲに、何か予感めいたものを伝えてくる。こんなオレのことを猫だというヤツもいるが、断じて違う。船の大きさに合わせて体を小さくさせているだけだ。


 今、この飛行艇にいる命あるものは、船長であるオレと副船長となる青年だけだ。彼は十五年ほど前に小舟に乗ったまま、一人雲海を漂っていた。


 どこから来たのか自分が誰なのか記憶はない。

 当時まだ、副船長として船に居た壮年のイフサンと共に彼を拾い、夜明けの頃に出会った者として「タネル」と名付けた。黒髪と麦藁むぎわら色の肌。夜空の一部を結晶化させたような紫の瞳の彼は、イフサンやオレから船で生きていく術を学び、字を覚えて船の書物を読み、健やかに成長していった。

 イフサンが船を下りた後は代替わりとなり、今は立派に副船長を務めている。


 今日も熱心に船の手入れや本棚の整理をしていたタネルは、夜の気配を感じ取ると風を通す為に開けていた窓を閉めて回り、夕食の準備を始める。

 食事はとても質素だが、彼がそのことで不満を漏らしたことは無い。

 船には豪華な料理を載せた本も多くあったが、口にしたことの無い物にはあまり興味が向かないのだろう。どちらにしろ、本と交換して手に入れた食材で作るものには限度がある。

 かつてこの世界に大地とやらが存在していた頃には、食いきれないほどの食べ物もあったと聞いているが……。


 食後、簡単に汗を流したタネルは、膨大な書物の中から一冊を手に取りページをめくる。簡素なベッドに足を投げ出し、淡いランプの明りを頼りに文字を追う。

 ぱらり。ぱらり。

 乾いた紙がめくられる音を聞きながら、腹を満たした俺はベッドの隅に寝転がりながら手のひらを舐める。長いトラ縞の尾を揺らす。


 穏やかな空だ。

 星は瞬き、生まれたての子猫を思わせる柔らかな雲海が、世界の果てまで続いている。それでも今夜は満月――芋虫月ワームムーンだ。

 別名を、死月デスムーンとも呼ぶ。

 ただ静かなだけでは終わらないだろう。


 ぱらり、ぱらり。

 乾いた紙が捲られる音の間隔が長くなる。俺は瞼を閉じて、息を潜める。

 やがて……ぱらり、ぱたり……、と。

 音が消え、ややしてオレは静かに片目を開けた。


 ベッドの上に横たわり、背ばかりが伸びた肩が静かに上下している。そのまだ無邪気さを残した寝顔にオレは軽く笑い、毛布を咥えて引っ張り上げてからベッドを下りた。

 時間は深夜、零時を少しばかり過ぎたところ。

 きっとまた朝は寝坊するだろう。


「まぁ……それも、今夜はいいさ」


 オレは呟き散歩に出た。


 本能の赴くまま、足音を立てずに通路を行く。

 耳が痛いほどに静まり返った船内の、明かり取りの細い窓からは、淡いオレンジ色の月光が降り注ぐ。本に囲まれた床は発光板でも埋めたかの如く点々と、船の先まで明かりが続く。

 夜空は晴れ渡っているというのに、微かな水の匂いが消えていない。

 月明かりに狂わされた古い本から物の怪でも這い出して来ただろうか。それとも、遥か昔に地の果てに沈んでいったという、大地とともに消えたものたちが大気にとけ、窓やドア、排管の隙間から忍び込んできただろうか。


「どちらだろうと、オレ様の相手ではないな」


 したり、と足を止め、俺は三角の耳を立てた。ゆっくりと腰を下ろす。

 音は無い。

 だが、隠しきれていない気配を感じる。

 月明かりの影から、動くものの影も。

 夜目の効くオレ様の目はごまかせない。


「出て来いよ。それとも噛み付かれ、引きずりだされたいか?」


 頭と尾も低くして、一歩、また一歩と近づいていく。

 船長であるオレの断りも無く、この船に無断で乗り込もうなどとは生意気じゃないか。本から具現した物の怪なら、噛み付き押し戻してやる。


「それとも臆病風に吹かれたか? 相手はオレ様だけだぞ」

「ふふ……」


 女の声だ。

 それも若い、艶のあるもの。嫌な予感がするが、ここで引っ込むわけにはいかない。オレは更にもう一歩足を進める。

 気配が笑う。


「おぉ……こわい、こわい」

「どこから入り込んだ」

「さて、どこであろうな……」


 ゆらりと形になった影が、艶やかな衣装をまとった女の姿になる。

 瞳は紅の色。肌は雪のように白く、唇は青い。黒く長い髪は滝のように流れ、床の夜にとけていた。異国の古い晴れ衣装か、黒地に瞳と同じあかい花が、大きく染め抜かれている。


芋虫ワームか、地の底から湧き出てきたか?」 

「これは酷い。この私を芋虫と」

「本から這い出たのだとしても、ここに死者はいらねぇ……かえれ」

「てぶらでは、ねぇ」


 くすり、と女が笑う。


ひとり、黄泉路を行くのは寂しゅうて。赤き血が流れる若者の、あたたかき指と指を絡め、辿りたく思うての」

「生者はやらねぇ」

「猫には過分な獲物であろう」


 ピシリ、と空気が割れた。


「女、口はわざわいのもとと知らねぇか?」


 じり、じり、とにじり寄る。

 オレの動きに合わせ、女の髪がゆらりと揺れる。


「さて……私は正直者でな。かつては虎であったと言われたとて、力を失いし今は可愛らしい小猫であろうに」


 三日月に唇を歪め女は笑う。


「果てなき空に昇り、記憶や魂の欠片を文字に変え載せた船で彷徨さまようても、供養にならぬぞ。……すべては、共に闇の中でゆるりと眠るがよろしい。大地は滅び、人の時代は終わったのだからの」

「終わってねぇ!」


 間合いを詰め、ここ、という一点で飛びついた。

 ばさり、と艶やかな衣装が舞い上がる。

 狙うは首筋。一撃必殺。だが女の闇は広がり、絡めとられそうになる。身を捩じり、かわし、闇から逃れる。本棚を蹴り、床を踏むと同時に再度、狙うは首!

 だが……。


「無駄よ」


 闇に阻まれる。

 夜を友とするオレの爪が、牙が、届かない。


「気づいておらぬようで」


 ゆらり、と立ち上がる女が嗤う。


ぬしは空に永く居過ぎた。その、陽に傾き過ぎておるわ。身を覆うだいだいの色がその証。私を蕩かすならば――」

「……アスラン?」


 不意に聞こえた声で、俺は跳ねるように振り向いた。

 寝ぼけ顔で目を擦り、裸足で歩いてきたのはベッドで丸まっているだろうタネルだ。朝まで目を覚まさないだろうと思っていたのに!


「なに、真夜中に暴れているんだよ」

「タネル……こっちには……」

「何かあったの?」


 擦る目から手を離し、オレたちの方に顔を向けた。

 刹那せつな

 女の気配が霧散していく。消えていく。声にもならない叫びの気配だけを残し、物の怪は、最初から何もなかったかのように闇へととけた。


 呆気に取られて、オレは声を失う。


 その体を、タネルはひょいと抱え上げた。


「何だよ、深夜のお散歩か?」

「タネルお前……気づかなかったのか?」

「何が? 何かいたの? 虫?」


 きょろきょろと周囲を見渡すが、しん、とした夜の通路で、オレたち以外に動くものの姿は無い。

 オレは首を傾げるタネルを見上げ、紫色の瞳を覗き込んでハタと思い出した。


 そうだ、紫は宇宙そらの色。古来より高貴とされ、邪気を遠ざけ清め、浄化する力をも持つ。

 あの女が幽霊だったのか、それともオレが感じた通りの物の怪だったのかは分からない。だがオレの牙が届かない奴も、不浄なものを祓うタネルの前には手も足も出なかったという訳だ。

 こいつに、こんな力があったとは。


「ははは! あはははは!」

「えっ!? 何? アスラン?」

「いやぁ、ちょっとばかり寝ぼけていたみたいだ。そうだ散歩だ、月夜の散歩をしていたんだ」


 あえて何があったかは言うまい。この船は守られたのだから。

 そしてオレとタネルは、窓の外に視線を向ける。


「すごい綺麗な月だね」

「満月だ」

「あぁ……そうか、純潔月チェイストムーンだっけ?」


 タネルの言葉にオレは目を瞬かせる。


「冬の最後の満月。一年の終わり、新たな春を迎える月のことでしょう? 本で読んだよ。綺麗だねぇ」


 えへへ、と無邪気に笑う。

 この笑顔を持つ者がいる限り、人の世は終わらない。


「ああ、本当に綺麗だ」

「なんか目が覚めちゃったから、このまま展望室まで散歩しようか」

「いいな」


 したり、とオレはタネルの腕から飛び降りる。

 柔らかな月明かりが、俺たちの行く末を照らす。







© 2023 Tsukiko Kanno.

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この飛空艇の命あるもの 管野月子 @tsukiko528

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