ある老夫婦の旅行

タカテン

今、話題の奈良へ

 そうだ、奈良へ行こう。

 

 遊びに来ていた孫たちが帰った次の日、私は妻を誘って奈良へと旅行に出かけた。

 二人揃っての旅行なんていつ以来だろう。もしかしたら新婚旅行以来かもしれない。

 私たちは共働きだったので、なかなかふたりして同時期に休みを取るのが難しかった。が、お互いに仕事を引退し、子供たちもとっくに独り立ちして自由になったにも関わらず、こんなことがないと揃っての旅行を考えなかったあたり、私はやっぱり夫として失格なのだろう。

 

「あ、富士山ですよ」


 新幹線の車内、隣の席に座る妻が窓の外を指差す。

 

「綺麗ですねぇ」

「ああ、そうですね」


 嬉しそうな表情を浮かべる彼女に、私は気の利いた言葉ひとつ返してやれない。

 

「奈良、楽しみですねぇ」


 それでも彼女はとくに気にした様子もなく、暖かいハチミツのようないつもの笑顔で私に微笑んでくれた。

 

 

 

 奈良と言えば東大寺の大仏、そして鹿だ。

 初めて見た大仏はそのスケールで私たちを圧倒し、市内に放し飼いにされている鹿たちは妻をメロメロにさせた。

 お互いにお辞儀してせんべいをやり取りする妻と鹿の姿はとても微笑ましく、奈良へ来た甲斐がそれだけでもあったと言える。

 

 しかし、私の真の目的は夜の奈良にあった。

 

「うーん、これが孫たちの言っていた夜の鹿か……」


 奈良公園の茂みに、はたまた歩道に、中には車道の中央分離帯に横たわる鹿たちの姿を見て、私は唸る。

 

「可愛いと言えば可愛いですけど、私は昼間の鹿さんたちの方が好きですねぇ」


 妻が実直な感想を述べる。

 私も同感だ。

 夜なのだから鹿たちが眠るのは当たり前として、問題はその寝相である。孫たちがしきりに「いい」と言っていたので期待していたのだが、私の見た限りではそれほどのものとは思えなかった。これならば妻の言うように、お辞儀してせんべいを食べる昼間の鹿の方が数倍良い。

 

「これをどうしてかくも褒めたたえるのか。やっぱり若い子たちの感性はよく分からないな」

「夜の鹿……あの子たちはヨルシカと呼んでましたっけ」

「む、もしかしたら鹿は鹿でもヨルシカと呼ばれる特別な個体がいるのか?」

「あ、そうかもしれせんねぇ」


 ならばそれを見つけなければなるまい。

 今度孫たちが帰省した時に「じぃじたちもヨルシカ見たよ」と言えるためにも!

 

「長旅で疲れているところを申し訳ありませんが、もう少し付き合ってもらえますか?」

「勿論ですとも」

「悪いですね」

「いえいえ。それに素敵じゃないですか。こんな普段ならもう眠っている真夜中に、あなたと一緒にデートだなんて」


 デート……その言葉に私の心がちくりと痛んだ。

 何故なら私はそう言われるまでこれをデートだとは思っていなかったからだ。孫たちと円滑なコミュニケーションをする為に必要なミッション、そんなふうに思っていた。

 

 やはり長年連れ添って生きてきたものの、私は彼女への情が薄いのかもしれない。

 そもそもは世間体を気にしてのお見合い結婚だった。

 告白しよう。私はゲイだ。女性よりも男性に心惹かれる人間だ。

 今でこそそれなりに理解はされているものの、私が若い頃はそうと知られたら社会的な身の破滅は免れなかった。だから偽装する為に彼女と結婚したのだ。

 

 そのことを私は妻にずっと隠し続けて生きてきたし、これからもそのつもりでいる。

 が、本当にそれでいいのだろうか。私はもっとちゃんと彼女に向き合って――。

 

「大変です!」


 と、不意に彼女が悲鳴をあげた。

 一体何事かと彼女が見つめる先に視線を送ると、逞しい身体つきの複数の若い男たちが眠っている鹿を足蹴にしている。

 

「む、なんてことを!」


 非道な行いに私はついカッとなった。

 せっかく良い躰をしているのになんてことをしているのか! 鹿ではなく私のケツを蹴ればいいのに!

 そう、私はゲイであると同時にドMでもあった。

 

「あなたたち、鹿さんに酷いことをするのを今すぐ止めなさい!」


 妻が私に先立って男たちへぺたぺたと歩を進める。

 普段は優しい妻だが、怒ると怖いのは若い頃から何も変わらない。ただ、昔はカツカツとヒールの音を立てて威圧感を出していたのが、今は歩きやすさ優先のウォーキングシューズを履いていて、その音は実に年相応なものだった。

 

「無茶だ!」


 慌てて私も彼女の後を追う。が、急に動いた反動が腰にきた。

 ぐっと顔を顰め、一瞬身体が止まる。恐る恐る身体を再起動させると幸いなことに痛みは走らなかったが、なんとも情けない気持ちになった。

 

「あ、なんだ、このババァ!?」

「ババァとは何ですか、ババァとは。おばあちゃんと呼んでくださいっ!」


 そうこうしているうちに妻が男たちと戦闘態勢に入っている。


「うっせぇ! ひっこんでろ、このクソババア!!」


 男が拳を振り上げると同時に、私は老体に鞭打って地面を蹴り上げた。

 かつてほどの俊敏さはない。が、それでもなんとかその拳が振り下ろされる前に妻の身体を抱きかかえると、彼女の身体を庇うように男へ背を向け、そして――。

 

「うがっ!?!?」


 つい昔のクセで放った後ろ回し蹴りが、殴りかかろうとして前がかかりになっていた男の顎へ見事にクリーンヒットした。

 

「えっ!? うげっ!?」


 続けてもう一人の男の悲鳴が聞こえてきた。

 妻だ。

 ダッシュしてきた私に突然抱きかかえられてグルリと身体を反転させた妻が、私の後ろ回し蹴りの勢いも利用してさらに半回転。私の手を離れて空を舞い、思わぬ展開に呆然とする男の顔面へ強かにドロップキックをかましたのだ。

 

「無茶はやめてください。もう若くはないのですから」

「ふふ、そういうあなたこそ。腰は大丈夫ですか?」


 すたっと地面に着地し、向かい合った妻を嗜める。

 だけど妻はぺろっと舌を出して楽しそうに微笑んだ。ダメだ、全然反省していない。

 

「こ、こいつら! ケンちゃんたちになんてことをしやがるんだっ!」

「ええい、老人だからって容赦しねぇ! てめぇらやっちまえ!」


 そして男たちもまた反省していなかった。

 まったく困った奴らだな。はてさてどうしたものか……。

 

「ねぇ、あなた。一緒に踊りませんか?」

「え?」


 驚く私に妻がぴたりとその身体を寄せてきた。

 

「それともわたしより若い男の子のほうがいいですか?」

「なっ!?」

「ふふふ。知ってましたよ、あなたの隠し事は。でも、それを言ったらわたしも一緒。わたしだってあなたより若い女の子と踊りたいですもの」

「ええっ!?」

「でも、男の人と踊るのならあなたが一番。だってあなたはわたしの良き旦那様なのですから」

「わ、私は……」

「あら、もしかしてわたし以外の女の子と踊りたいのですか?」

「そんなことはない! 私だって女性なら君が一番だ」


 なんせ君は私の良き妻なのだから!

 

「だったらいいじゃないですか。踊りましょうよ、あなた。久しぶりに本気で」

「ふっ。君には負けたよ。分かった、踊りますか。この夜に。本気で」

「「夜の本気ダンスを!」」


 ふたりの声が重なり、身体が重なり、心が重なった。

 私が回る。

 彼女も回る。

 その動きは長年連れ添った夫婦らしく息がぴったりで、私たちが回るたびに男たちはひとり、またひとりと地面を舐めた。


 それもそのはず、私たちはかつてこの国の闇に関する仕事に就いていたのだ。

 詳しくは話せないが、私たちはその道でまさに一流だった。だからいくら年老いていても身に染みついた動きは決して忘れられることなく、その手の現役相手ならばともかく、所詮はガタイがいいだけの男たちなど私たちにとっては赤子の手を捻るようなものだったYOASOBIだった

 

「あははは。楽しいですねっ! あなた!」

「はっはっは! でもこんな無茶をして明日、無事に帰れるかな?」

「明日のことなんて考えちゃダメですよ! 今を楽しみましょう!」

「ああ、そうですね」


 私たちは踊った。踊りまくった。男たちはもうとっくに全員地面へ這いつくばっているのに、私たちは踊るのをやめなかった。

 なんだか身体が若い頃に戻ったかのように軽やかだった。

 ずっとこの真夜中が続けばいいのに、と私たちは願わずにはいられなかった。


「あ、そうですそうです、大事なことを忘れてました」


 と、不意に私の胸に顔を埋まらせていた妻が私を見上げてきた。


「なんですか?」

「ほら、わたしたちが奈良へ来た目的ですよ!」

「ああ! そうだった!」


 私たちは踊りながら、きょとんとしている鹿へ話しかける。

 

「ヨルシカは今どちらに?」

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