きままにそぞろ歩き、心のままに遊ぶ

はに丸

きままにそぞろ歩き、心のままに遊ぶ

 昼、短針と長針が合わさる時刻、が最も高い時刻を正午しょうごという。翻って、夜は正子しょうしといい、真夜中も意味する。


 十一時五十九分は、前日であり、〇時一分は翌日であろう。端数切り捨ては勘弁いただきたい。


 そのようなわけで、〇時ちょうどというのは、暦の合間、境界の時空であり、あやふやな空間である。そのような時に、荘周そうしゅうという小役人はふらふらと外に出て歩きだした。


 散歩である。


 明確な目的があるようで、無い。紀元前四世紀ごろである。星明かりと月明かり以外に光はなく、闇に溶けた夜の中を荘周は飄々と歩く。しょせん、うるし畑を管理するだけの小者である、毎日の道は体が覚えていた。


逍遥しょうようはいいなあ。こう、きままに世界をたゆたう、まさに無の境地。きままにそぞろ歩き、心のままに遊ぶ」


 逍遥とは散歩の別名であるが、すこしおおげさでもある。この荘周、極端に大きなホラばかり言う男で、友人も呆れ返るほどである。


 月は動かず星は流れず、正子せいしは固定されて、荘周は完全なる真夜中を楽しく歩いていた。


 通りすがりに顔に何も無い男に、善意で穴をあける人々を見かけた。目を二つ、耳二つ、鼻の穴二つに口。顔にある四つの機能がないからこその知恵者は、おせっかいな友人たちにより、殺されてしまった。


「ううーん。まあ、渾沌こんとんを理解できない友がバカなのか、友を受け入れた渾沌がバカなのか! どちらにせよ自分の価値観を善意で押し付けてくる人は厄介!」


 荘周は異形どもが友の死を悲しんでいる姿を横目で見ながら謳うように言う。あれは道――世界の真理を一部示しているけど、答えではない。


 荘周は暗闇の中、地面を少しずつ踏みしめながら、癖で常に通う道から外れた。ず、と粘土のような泥土のような感覚と共に、荘周はすっ転びそうになる。が、なんとか踏みとどまった。たいして運動神経のない小役人の割にがんばったであろう。代わりにに手をついてしまいます、べっとりと土に汚れたが、気にはしない。粗末な服にこすりつけて拭った。


 すみかの集落にはありえない、広大に広がる湖があった。否、黄河こうがか、それとも噂に聞く「海」という地の果てか。


 ぱしゃり、と水音が鳴った。魚が泳ぎ、その尾びれを跳ねさせたものであった。ず、お、という圧とともに暗闇の中、さざなみが大きな波音となる。


 ざあ、と水が跳ね上げられ、荘周へ雨のように強く降ってきた。


 大きさなど、手で図りようもない、人の目では鱗を見るのが精一杯の、大魚という概念さえ超えた怪魚、こんが水中から跳ね上がり、その姿を見せた。夜闇の中だと言うのに、鱗一つ一つが星の銀を映して輝いており、水面は月の金を映してその飛沫、さざなみが鯤を際立たせている。


 鯤は水中に戻ることなく、その鱗をを伸ばして羽毛を生やし、ヒレは盛り上がり風をくるくると呼び込んで、大きな翼を持つに至る。


 ほうである。


 なんと、巨魚は巨鳥となった。荘周の住む集落ごときに接するには大きすぎる魚、集落どころか周辺の山さえも軽く覆うような鳥である。


 鵬は、嵐のような風を立てながら飛び立った。魚が南にいるとなれば、鳥は北へと旅立っている。


「道はひとつの流れじゃないのかねえ、これは順逆じゃないかい? 人の魂は鳥に宿り、遠くへ飛び続け、魚になって果てにある海に流れるんじゃあ、なかったのかい」


 しかし、鵬は人の言葉など解さないため、荘周ののんびりとした問いに答えることなく、去っていった。


 荘周はもはや、おのが集落なのか、別の世界なのか、わからないまま、それなりに散歩を楽しんだ。


 逍遥遊。のんびりと、せせこましい知を忘れ、自然にまかせ、理の強い陽ではなく、虚無を含む陰の世界で自由をとりとめなく感じながら、足任せ。


 国も政治も家族も何も背負っていない、小役人の特権である。狭い世界が闇のおかげで大きく広がり、空も無限の星で永遠さえ見える。


 それでも、散歩は漂泊の旅ではない。ほんの少しの時間で帰るものである。


 長く歩いたように見えるのに、荘周は正子のうちに帰り着いた。異形の神も神獣も一秒もなく見かけたことになる。


 家の前には、親友がいた。


「やあ恵施けいし。来てくれて嬉しいよ。君は国に仕えてるからなかなか会えない。」


 漆畑の小役人のくせに、色んな国で活躍する学者兼政治家が親友である。親友の恵施は、己の成功をかさに来た言い方もするが、荘周のような思想オタクと楽しくつきあう良いヤツである。


「君はそりゃあ有能で努力家、勤勉でもあるけど、心の自由を封じてしまった。それを癒やすからとたまに僕の家で休むくらいなら、僕の家でずっとのんびり暮らしておくれよ恵施」


「荘周。君の織り成す言葉を、僕は愚かな思想だと思ってるけど、それでもまあ、認めてるんだ。でもこれは悪手、愚人の行い、順逆。何より君の『道』に反している」


 会いたかったと駆け寄る荘周に、さわるな、と恵施が制したあと、一瞬で溶けた。カラン、と冠の落ちる音が、深夜の空に響いた。正子せいしという此岸しがん彼岸ひがんが混ざった時間は、あっという間だった。


「渾沌は必要のない顔を作られて死んだ。鵬から鯤に変わって世界の果てに行くはずが逆だった。そうやって、道から外れたものがあったのだ、君が天地陰陽から離れて生き返ってもよいと思うんだよね」


 荘周は悲しみよりがっかりした心地でつぶやきながら、冠や、小さな骨を拾った。


 ――深夜の散歩で、僕は友人と再会した。彼がおらねば僕の主張する無為自然や一切斉同を誰が理解してくれるのか。逍遥遊という言葉にこめられた真意を、誰が理解してくれるのか。ゆえに、再会を願い、言葉をかわし。


 見事、振られた――。


 恵施が死んで、荘周は半分を失った。己を知るものこそのため、人は生きている。


 それでも、荘周は真夜中に沈んだ世の中を、散歩するがのごとく見てふらつき、『道』を、世界の真理を探す散策に出ねばならぬ。この世界を覆う、深夜でしかない戦乱の中、思考の散歩で起きた出来事を記し続けることが、もう生きることなのだった。



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